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リーンハルトの喪期②

 ざあっと風が吹いて、木々の葉が揺れる。


 目の前には、すたすたと振り返ることなく歩き続ける彼女がいた。


 これは夢だ。


 僕は昔から夢を夢だと自覚したまま、夢を見る。逆に、僕には夢だと気が付かない状態で夢を見るという一般的な感覚が分からない。今までそのことで特段困ることはなかったが、今だけは、一般的な感覚が欲しいと思った。


 夢を見ているときくらい、夢を見させてくれてもいいだろうに。


『······ペトラ』


 名前を呼ぶ。彼女が生きているときには、決して呼ばなかった名前を。


 彼女は振り返らない。


『ペトラ!』


 彼女は振り返らない。すたすたと歩いて遠くに行ってしまう。


『待ってくれ!』


 彼女は振り返らない。

 艶やかな黒髪が風にたなびく。


 頼むから、行かないでくれ。

 僕を、置いていかないで――。




『っ、はぁ』


 目を覚ます。

 見慣れた天井。ガンガンと痛む頭。――僕の隣に、ペトラがいなくなってから、一体どれ程の年月が過ぎただろう。


『クソッ』


 嫌な夢だ。本当に。

 けれど、この現実よりは幾分かマシだっただろう。


 彼女がいない、こんな世界よりは。


 のろのろと身体を動かす。

 仕事を、しなくては。


 どれだけ苦しくても、自棄になってはいけない。僕のせいで、誰かの生活が壊れることを彼女は望まないだろうから。




 ペトラが死んでからしばらくは彼女について調べる日々を過ごした。


 きっかけは、彼女の墓前の前に花を手向けようとしたときだった。彼女の好きな花を思い出そうとして、思い出せなかったのだ。

 確か、青い花だったことは覚えている。いつだったか彼女が花を花瓶に飾っていたのを見たことがあった。微笑みと共に花の名前を教えて貰ったはずなのに、思い出せない。

 とりあえず青い花を一通り探したが、どれも違うような気がした。


 愛した女に、花一つ満足に渡せないなんて、僕は本当に駄目な夫だな、とまた自分自身に失望した。そして、彼女の好きな花を知らなくてはならないと思った。


 もう何もかも手遅れだけれど、今更そんなことを知ってもどうにもならないけれど、知らないことを自覚して、知らないままでもいいとは思いたくなかった。


 それから、彼女について調べ始めたのだ。

 何が好きで、何が嫌いか。僕と結婚する前、どんな生活を過ごしてきたのか。

 全部知りたいと思った。

 もう、本人から聞くことは叶わないから。


 それは現実逃避、あるいは自己満足に近いものだったのだと思う。ペトラの死を受け入れたようで受け入れていなかった僕は、もうこの世にはいない彼女の残滓(ざんし)をかき集めることで、彼女の存在を確かめようとしていたような気がする。そして、()()()()()()()()()()()()()()()必死で探していた。


 ペトラが死んでしまってから――正確に言えば、()()()()()()()()()()()と自覚したときから、ずっとそればかり考えていた。


 後を追うにしても、ペトラから赦されなければ、ペトラには会えないから。


 ペトラは善良で、正義感が強い女だった。僕みたいなのが死んだところで、同じ場所には行けないだろう。


 ペトラのいない世界に、僕が生き続ける意味を見つけられなかった。むしろ、最愛の妻を追い詰め、死に追いやった僕なんか、今すぐにでも死んでしまった方がいいように思える。


 でも、僕が自害したところで、僕が地獄に堕ちるだけだ。そしたら、天国にいるであろう彼女には永遠に逢えなくなってしまう。


 だから、彼女に償わなければならない。彼女から、赦して貰えなければ、僕は彼女には逢えない。


 後を追うのは、贖罪を終えてからだ。


 そう考えた僕はがむしゃらになって、彼女について調べた。彼女と繋がりのあった人物とは貴賤を問わず話を聞いた。結局、彼女の好きな花は分からなかったけれど、彼女の食べ物やドレスの好みなどについて知り――また、僕が知らなかった彼女の過去について知ることができた。


 ペトラは、実家から虐待を受けて育っていたらしい。


 ペトラの母親は政略結婚でペトラの父親と結婚したが、そこに愛はなく、ペトラの父親はペトラの母親の死後すぐに再婚した。母親譲りの黒髪を持って生まれたペトラは、祖母以外の家族から疎まれ、蔑まれる日々を送り、唯一の味方であるペトラの祖母が亡くなってからは、使用人同然の扱いを受けていた。

 バルバト領の領地経営が悪化し、少なくない数の使用人を手放すことになったため、バルバト家当主は目障りな娘を使用人の身に落としたそうだ。

 それから、ペトラの異母妹がアドリクスに捨てられ、修道院に行ったことで持参金の出費により更に苦しい状況になっていたところに、僕からの結婚の申し出があり、喜んで娘をバルバト家への支援金と引き換えに売ったそうだ。


 胸糞が悪くなる話だと思った。ペトラの身の上に起こったことであるからなおさら。


 僕でさえ――庶子であった僕でさえ、こんな扱いは受けてない。本邸に引き取られる前は実母になじられ、使用人から白い目で見られることはあっても、それでも大貴族の息子としての体裁を整えられていた。

 清潔な服に、温かい食事、教育の機会を与えられ、それらが自分に与えられないことを想像したこともなかった。


 それが、彼女には与えられなかった、と。

 ただ、前妻の子だったからという理由で。


 あまりにも理不尽だった。そして憐れだった。ペトラは何も悪くはないのに、彼女の周りが醜悪過ぎたために不幸な目に遭い続けた。


 産まれてからずっと、軽んじられ、虐げられ、売り飛ばされるように嫁がされた挙げ句、夫の言葉に殺された。


 そんな彼女の人生に、幸せはあったのだろうか。

 そう思わずにはいられなかった。


 僕の人生にとって、幸福とはペトラの存在そのものだった。


 学園に入学してから、アドリクスが廃嫡されるまで、王太子の側近、また、公爵家の後継者であることを振りかざして、享楽に耽っていた十年間よりも、ペトラとの一年と半年の結婚生活の方が、鮮やかに、そして重苦しく僕の中に残っている。


 ペトラは、初夜に無礼を働いた僕を身限ることなく、僕に尽くしてくれた。

 金や悦楽では得られない、誰かから大切に想われ、誰かを深く愛するという本当の幸福を、教えて貰った。

 

 そして、彼女との愛しい思い出を振り替える度に、鮮明に思い出すのが、彼女の目だ。


 ペトラはいつも、まっすぐに僕を見つめたのだ。


 そこには、軽蔑も、嫌悪も、憎悪も、劣情も、打算もなくて。

 彼女はいつだって、まっさらな目で僕を見ていた。

 それがどれ程、僕にとっての救いだったか、彼女は知らないだろう。


 今思えば、僕は初めて彼女の目を見た瞬間から、彼女に惚れていた。

 そうでなければ、前の妻二人のように、彼女を無視してあしらったはずである。彼女の存在を無視することができない時点で、僕は彼女の想いを自覚するべきだった。自覚して――その想いを認めるべきだった。


 そうすれば、もっと彼女に優しくすることができたはずだし、大切にすることができたはずだし――彼女を幸せにすることができたはずだ。


 家族に疎まれるペトラを幸せにすることができる人間がいたとしたら、それは、ペトラの夫である僕でしかなかったのに、僕は彼女から幸福を与えられるばかりで、彼女を幸せにしようとはしなかった。悪態や皮肉ばかり言って、感謝や愛の言葉一つも贈れなかった。


 きっと、ペトラを殺してしまったのは、僕のあの言葉だけではない。

 あの日までの、彼女に対する積み重ねがあって、彼女は死んでしまったのだ。


 それまで受けてきた冷遇が、ペトラに自身のことを死んでしまっても良い人間だと思わせてしまったに違いない。誰も自分を理解し、尊重してくれない人生に生きる希望はないと思わせてしまったに違いないのだ。


 僕がきちんと彼女はを大切にして、幸せにしていれば、防げた事態だった。


 彼女の人生に、幸せはあったか。

 断言する。なかった。そんなものあるはずがなかった。


 結婚するまでは家族から、結婚してからは僕から搾取され続けた彼女の人生に、幸せなんてなかった。


 それでも、もし、もしも彼女に幸福があったとしたら、きっとそれは僕たちの子供だった。彼女は、懐妊が明らかになったとき、泣いて喜んだのだから。何度も何度も愛おしげに腹を撫で、「母親にしてくれてありがとう」と僕に言ったくらいだから。


 それを奪われた悲しみと絶望は、凄まじいものだっただろう。


 そこまで思案して、僕は、もう本当にどうすることもできないのだと悟った。

 勿論僕が何をどうしたって、ペトラは生き返らないし、罪滅ぼしなんて彼女がいない今、ただの自己満足に過ぎないということは分かっていたはずなのだけれど、それでも、彼女の過去を知るまでは、彼女に赦されるだけの何かをすれば、赦されると希望を持っていた。


 でも、これは駄目だ。これはどうしようもない。


 だって、ペトラの人生にとって、幸福とは子供の存在そのものだったのだろうから。


 たった一つの愛しい存在に生きる意味と幸福を見いだす気持ちと、それを失う痛みは、良く分かる。


 ――だから、これは赦されない。


 彼女から生きる希望を奪っておいて、彼女から赦されるなんてあり得ない。


 そんなことに、今更気が付いた。

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