リーンハルトの喪期①
想起 過去のことを思い出すこと。
喪期 喪服の期間。
彼女の部屋から逃げた僕は、自室に戻り、酒を飲んで時間を潰した。
何も考えたくなかった。
絶対に今日は眠れないと思っていたのに、浴びる程酒を飲んでいるうちに、僕はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
そして、ある侍女の甲高い悲鳴で僕は飛び起きた。
嫌な、予感がした。
部屋のドアを開け、廊下に出ると、一人の侍女と目が合った。悲鳴を上げたのはこの侍女のようだった。
『旦那様······奥様が······』
震える指で、侍女は僕の隣の部屋――ペトラの寝室の奥を指した。
『何が――』
その後の言葉は続かなかった。開け放たれたドアの向こうを覗き込んだ僕は、全身が凍りついた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、シンプルな夜着の裾から顕になっていた白い足だった。
その次に見えたのは、細い首を締め上げている華奢で頼りない両手。
最後に、鬱血した彼女の顔を捉えた。
は、は、と浅い息が口から零れる。実際に鼓動の音が体外に漏れ出ているのではないかと錯覚する程に、どくどくと心臓がうるさい。
何だこれは。見れば分かる。死んでいるのだ。誰が?彼女が。彼女が死んでいる。
自分で自分の首を締めて死んでいる。
『――――は······?』
訳が、分からなかった。
死んでいる。彼女が死んでいる。
何故?どうして?
『ペトラ······?』
声が、震える。声だけではない、手足も震えていた。冬でもないのに鳥肌が立ち、悪寒に苛まれる。
それでも、手足の震えと悪寒を押し殺して、彼女の側に近づいた。
どうか、どうかこれが何かの間違いであってくれと願いながら。
『······冗談だろう?』
一歩ずつ、歩みを進める。
こんなことがあっていいはずがない。だから何かの間違いだ。間違いでなければならない。
よく見たら、違うはずだ。違う、はずだ。
そんなことを自分に言い聞かせながらも、本当は、この時点で僕は理解していた。彼女はもう手の施しようがないと――もうどうしようもないのだと分かっていた。
そうでなかったのなら――彼女がまだ助かる状態であったのなら、僕はなりふり構わず彼女の側に駆け寄って、医者を呼ぶことを指示し、必死で蘇生をしていたはずだ。
僕は、このとき、そうしなかったのだ。
僕の足は鉛のように重かった。
認めたくない。信じたくない。これは何かの間違いだと、その思いから必死で足を動かそうとする。そして同時に、残酷な現実から逃れることはできないという確信が僕の足の動きを阻んだ。
『······なあ』
彼女が自分の首を締め上げている。
『······起きろって』
彼女の呼吸が聞こえない。
『······ペトラ、』
目が合った。
いつも僕のことをまっすぐに見つめていた目は、もう何も映していない。
生命力に溢れ、生き生きと輝いていたあの目に、もう光は灯らない。
どんぐりのように丸くて明るい茶色の目。明るい光の元では、蜂蜜色にも見えたそれは、昏く濁っている。
その目は、僕の中にあった淡い期待を打ち砕いた。
は、は、は、は。
さっきから呼吸の音がうるさい。
自分のことなのに、他人事のようにそんなことを考えた瞬間、ぐにゃりと視界が歪んで、僕は気を失った。
それから、何があって何をしていたのか、まるで思い出せない。
気がつくと僕は喪服を着て、彼女の葬式に列席していた。
黒い棺を眺めながら、一体誰がこの葬儀の準備をしたのだろうと考えた。執事だろうか。それとも、覚えていないだけで自分がしたのだろうか。
棺はずっと閉じられていた。彼女の最期の表情がとても穏やかなものだとは言えないものだったから、配慮がされたのだ。
『う゛、』
最期の彼女の姿を思い出した瞬間、腹から何かが逆流しそうになった。
手で口を抑えて必死で不快感を圧し殺す。
彼女の最期はあまりにも惨たらしかった。
細い首に食い込んだ爪に、鬱血して変色した顔。そして、苦痛に歪むその表情は、筆舌に尽くしがたい程、凄惨なものだった。
どうして、彼女はあんな風になってしまったんだろう。
たとえば、毒を仰ぐとか、短剣で胸を突き刺すとか、高所から飛び降りるとか、そういったやり方なら聞いたことがあるし、知っている。
だが、こんな風にも人は死ねるのだということを、僕は彼女の最期を見るまで知らなかった。
その表情から察するに、楽な死に方ではなかっただろう。むしろ苦しくて苦しくて堪らなかったはずだ。それこそ、自分と彼女との子供を殺したあの女よりも悲惨な最期だったことだろう。
自分で自分の首を締めるなんて、生半可な覚悟でできることではない。
それでも、それだけの覚悟をさせてしまう程、彼女がこの世界に絶望してしまったことが悲しかった。
『ペトラ······』
渇いた口で、彼女の名前を呼ぶ。当然、返事はない。
『返事くらいしろよ······僕が呼んでるんだぞ······ペトラ······』
ぐしゃりと前髪をかきむしりながら顔を手で覆う。
夢なら覚めて欲しかった。心にぽっかり穴が空いてしまった、なんてものじゃない。心そのものがなくなってしまった気がする。泣き叫ぶ気力すらなかった。
彼女の存在が、ここまで自分にとって大きなものだったとは、思っていなかった。
『全く、どこまでも祟る女だ』
また、記憶が飛んでいた。いつの間にか彼女の棺は墓標の下にもう埋められていた。僕はそれを眺めながら呆然と立ち尽くしていたらしい。
『結婚してやった恩を忘れて、ディルガー家の伝統を壊した挙げ句、世継ぎを産むこともできんとは』
いつからそこにいたんだろう。僕と同じ淡い緑色の目を持つ老人が、僕の隣で口を動かしている。
『だが死んでくれてよかった。これでまた結婚できる』
『――は?』
この男は、何を言っているんだ?
死んでくれてよかったって?
『妻なんて、また適当に貰ってくればいい』
呼吸が、止まった。
『代わりなんていくらでもいる』
その言葉で頭が白くなった。
代わり?代わりだって?
彼女の代わりだって?
そんなの――いる訳がない。いる訳がないだろう。あんな、気が強くて、破天荒で、生意気で······まっすぐで、優しくて、誠実で、高潔で、美しい、女なんか。
『もうこの際、下級貴族でも構わん。お前もこれで目が覚めただろう?今度こそ従順な女を――』
ゴンっと鈍い音がするのと、老人が倒れるのは同時だった。
視界に映る鼻血を垂らして尻もちをつく老人と、鈍く痛む手の感覚から、僕がこいつを殴ったのだと分かった。
『······帰れ。次、僕の前に姿を現してみろ、殺してやる』
『ひぃっ』
這うように逃げる老いぼれには、気品らしさの欠片もない。
僕の父親らしい姿だと思った。
だけど、そんなことはすぐにどうでもよくなった。
皮肉なことに、無神経で品性のない言葉を投げかけられたことで、ようやく僕は自分の過ちに気が付いたのだ。
子供を失い、悲しみにくれる彼女に、僕は、あのとき、何と言った?
『子供なんて、また産めばいい』
············ああ、そうか、そうか。そうだよな。
僕から、あんな言葉を投げかけられたら、それは死にたくもなるよな。
僕にとって、どんな女も彼女の代わりにはならないように、彼女にとってもあの子の代わりなんているはずがなかった。
どうして、今になって、自分の言葉の残酷さに気が付くのだろう。
言う前に、気付いていれば、あんなことは言わなかった。
彼女が絶望したのは残酷なこの世界じゃない。
彼女が絶望したのは残酷なこの僕だ。
彼女を殺したのは、僕だ。
そう自覚した瞬間、足から力が抜けて地面に膝をついた。
立って、いられなかった。
『ペトラ······』
彼女の名を呼ぶ。彼女の名前を僕は密かに気に入っていた。響きが良くて。
そう言えば、彼女の生前、僕は彼女の名前を呼んだことがあっただろうか。「おい」とか「お前」ばかりで、ちゃんと名前を呼んだことがなかった気がする。
僕は酷い夫だ。彼女は――ペトラは僕の名前を呼んでくれるようになっていたのに。
ちゃんと、名前を呼ぶべきだった。それだけじゃない、もっと優しくするべきだった。もっと大切にするべきだった。もっと――「愛している」って、言うべきだったのに。
『っは、はは······』
自然に出た自分の考えに、思わず、自嘲の声が溢れた。「愛している」だなんて。そんなこと、一度も言わなかった癖に。ペトラが生きているときには、一度も。
だって、そんな言葉を言うような関係じゃないと思っていた。ペトラは、他の女と違ったから。
でも、違った。違ったんだ。
僕はペトラを愛していた。誰よりも――否、この世界で唯一愛していた。
愛していたのに、殺してしまった。
『あ、あぁ······』
もっと早く、自分の気持ちに気が付くべきだった。ちっぽけなプライドなんか捨てて、彼女に素直になるべきだった。あのとき、あんな言葉を言うべきじゃなかった。あのとき、一人にさせるんじゃなかった。
どれ程軽蔑されても、嫌われても、それでも、ペトラから逃げるべきではなかった。
そうすれば、きっと、彼女は死ななかったのに。
『あ゛ああああ!!!!』
慟哭が曇天をつんざく。
喉が枯れるまで、僕は哭き続けた。
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