リーンハルトの想起⑦
残酷なシーンがあります。
妊婦への暴行表現苦手な方はお気をつけください。
彼女が「一生側にいる」と言って以来、僕らの関係はより穏やかなものになった。
軽口の応酬は依然としてあったが、僕が彼女に怒鳴り付けることはしなくなったし、彼女も僕に対しての当たりがだいぶ柔らかくなった。
僕が彼女に矯正されたのと、彼女が僕に絆された結果だ。
そして、お互いに、側にいる理由を考えなくなる程、時間を共に過ごすのが自然になった頃、僕らは本当の意味で夫婦になった。それから間も無くして彼女の妊娠が発覚した。
幸せだった。
僕は、自分たちの明るい未来を信じて疑わなかった。
僕と、彼女と、いずれ産まれてくる子供とで、満ち足りた生活を送るのだと確信していた。
本当に、幸せだった。
一人の侍女が、彼女を階段から突き落とし、彼女を流産させるまでは。
そのとき、僕は外出していて、その知らせを聞いたときには、もう、僕の知らぬ所で全てが終わってしまっていた。
僕は、何もできなかったのだ。
『何故、こんなことをした』
僕は、剣を抜き、後ろ手に縛られ膝をつき、うなだれている女に尋ねた。
剣を握る手に、力がこもる。
貴族による平民への私刑はいずれは禁止されるだろうが、今はまだ合法だ。それに、たとえ禁止されていたとしても、僕は同じことをしただろう。
この女は、僕の手で殺さなくてはならない。
僕の妻を殺しかけ、僕らの子供を殺したのだから。
『答えろ』
剣を女の顔の横で止めながら言う。
自分でも、どうして自分が冷静にこの女に話しかけているのか分からないくらいには、激しい怒りと憎悪が自分の中で煮えたぎっていた。
頭の奥から「こいつを殺せ!早く殺せ!」と声がする。その激情を押し止めているのはどうしてこんなことになってしまったのかを知りたいという思いだった。
『何故、こんなことをしたんだ······!』
何故、僕らの子供は産まれる前に殺されなくてはならなかったのか。
何故、彼女が侍女に傷つけられなければならなかったのか。
何故、僕はそのとき彼女の側にいなかったのか。
何故、間に合わなかったのか。
いくつもの「何故」が自分の中でぐるぐると回る。
勿論、どのような理由があろうと、この女に情けをかけるつもりはない。
貴族の、それも妊婦への殺人未遂は重罪だ。しかもそれで実際に子が流れているのだから、法的に裁かれても死罪だ。情けをかける余地などない。
ただ、このままでは納得できなかった。
自分の子供が殺されたのだ。自分の妻が死にかけたのだ。
そんな理不尽を、とても許容できるはずがなかった。
その理由を――たとえそれがどのようなものであっても――聞かずには、いられなかったのだ。
『······エリカ・クラヴィ。この名前に聞き覚えは?』
僕の質問には答えず、女が俯きながらそう言った。
僕は少し記憶を探ったが、思い出せなかった。
『知らん。誰だそれは』
『っ、じゃあ、この顔に、身に覚えは?』
女が顔を上げる。
拘束された際に殴られたのだろう、頬は赤く腫れ上がり、鼻血を流した跡が残っていた。
明るい茶髪に、水色の瞳。殴られる前の顔立ちは平均よりもやや上の方だろうか。
でも、それだけだ。別に大して特徴的でもない、それだけの顔。
正直、昔の僕に会ったことがあったとしても思い出せそうにない。
僕が無言でいるのを見て、そんな僕の心情を察したのだろう。
女は狂ったように笑いだした。
『は、あは、あははは!』
『何がおかしい!!』
『ここまで私の顔を見てもまだ思い出せない?本当に覚えてないんだね――この、人でなし』
『何を言っている』
人でなしはお前だ。
何の罪もない妻と子供に手をかけた。
『エリカ・クラヴィは、私の双子の姉だ。あんたに、手酷く捨てられた女の一人だ』
どくん。と心臓が大きな音を立てたのが分かった。
『純粋な人だった。純粋過ぎたのかもしれない。あんたみたいな男に本気になるなんて。でも、あんたもあんただ。どうして、姉を捨てたんだ、弄んだんだ。本気じゃないなら、本気にさせるな』
『······そんなことで』
『子供がいたんだよ、姉の胎にも』
息が、止まった。
僕の中で溶岩のように熱く蠢いていた感情が一気に冷えていく。
『あんたに捨てられた後に気がついて、誰にも相談できなかったそうだよ』
僕との子供ができた、と関係を持った女から言われることは何度かあった。しかし、調べてみてそれが事実であったことは一度もなかった。当然だ。僕は必ず情事の後には避妊薬を飲ませていた。
だが、もし、万が一、その薬が効かない体質の女が、かつて僕と関係を持った女の中にいたとしたら?
別れた女がその後どうなったかなんて、気にしたこともなかった。
『あんたは、覚えて、ないんだろう?』
覚えてない。そんな、女のことなんか。
『姉は、川に身を投げた』
知らない。そんなの。
『お前のせいだ』
······それは。
『······そうだな』
僕を睨み付ける女の顔を見下ろす。
よくよく見ても、僕がかつて手酷く捨てたという彼女の姉のことは思い出せなかった。昔の僕にとって、そんな存在は掃いて捨てる程いたから。
我ながら薄情だと思う。下道だと思う。確かに、この女からしてみれば、自分は殺してやりたい程憎い男だろう。
でも、それでも――傷つけられたのは彼女なのだ。
『······お前が突き飛ばしたのは僕の妻だ』
剣を女の首筋に当てる。薄皮が切られ、血が僅かに流れた。
『僕を憎んでいるなら、何故、僕ではなく、彼女を狙ったんだ』
『そんなの、そっちの方があんたが傷つくからに決まってる』
女は顔色一つ変えずに言った。
それを見て、僕の中で冷めていた怒りが再熱した。
そんなの、彼女にとってはとばっちりじゃないか。
彼女は何も、悪くなかったのに、僕の妻で僕の子を孕んだというだけの理由で、殺されかけたのか。子を奪われたのか。
この女は彼女から信用されていたはずだ。真面目で優秀だから、と結婚してすぐに彼女から直々に指名されて彼女の専属侍女になり、常に彼女に侍っていた。
だから、見ていたはずだ。
彼女が使用人の境遇を改善し、屋敷の雰囲気を変えていった所を見ていたはずだ。
彼女がどれ程優しく、誠実な人間な人柄なのか見ていたはずだ。
彼女が嬉しそうに子供の性別を想像し、名前を考えていたのを、見ていたはずだ。
それなのに、突き飛ばしたのか。
彼女からの信頼を裏切ったのか。
彼女は、何も悪くなかったのに。
『あの人も殺せたらもっと良かったけど、まあ、子供を殺せたからよしとするか』
その言葉を契機に、僕は剣を振り上げた。もう、この女の顔を見ていたくなかったし、何も聞きたくなかった。
『ざまあみろ』
それがその女の最後の言葉だった。
女は、首を落とされる最後の瞬間まで、勝ち誇ったように笑っていた。
この女の復讐に、正当性なんてない。
僕が憎いなら、僕を殺さなければならなかったのに、あいつは、何の罪もない彼女を襲ったのだ。
その方がより確実で、僕を苦しめられるから。そんな理由で、凶行に走った。何の罪もない彼女と、産まれる前の子供を殺した。
だから、剣を振り下ろすことに、躊躇いはなかった。赦せなかったからだ。僕の妻と子供を殺そうとしたこの女が赦せなかった。
そして、赦せなかったのは、この女も同じだ。
何も悪くない姉が、悪い男に騙され、弄ばれ、捨てられて、死に追いやられたことが赦せなかったのだろう。
この女は罪人だ。だが、この惨状を引き起こしたのは僕だ。
床に転がった首を見下ろす。
亡き子供の仇をとっても、気分は少しも晴れなかった。不快で、憎くて、腹立たしくて、惨めな気持ちでいっぱいだった。
この女を殺しても、僕の過去は変えられないし、僕の子供は生き返らない。
僕は、「ざまあみろ」と笑えなかった。
女を処理した後、僕は彼女の元に行った。
ベッドの上で横になり、嗚咽を溢す彼女の姿は痛ましかった。
『ごめんなさい······』
涙が両頬をつたって、落ちる。
『ごめんなさい·········』
何故、謝るのだろう。お前は何も悪くないのに。
『貴方の、子供、守れなかった······』
違う。そんなはずない。お前のせいじゃない。僕が、お前を、お前たちを守れなかったんだ。
謝らないでくれ。
泣かないでくれ。
自分を責めないでくれ。
だって、お前は何も悪くないんだから。
全部、全部、僕のせいなんだから。
お前を殺しかけたのは、僕たちの子供を奪ったのは、僕だ。
そう、思っているのに、言葉が出ない。
彼女のことを思うなら、僕は彼女に跪き頭を垂れて、彼女に一切の非がないことと、この惨劇の原因は僕であることを説明し、彼女に赦しを乞うべきなのだとは分かっている。
だが、僕のプライドと、彼女に嫌われたくないという思いが、それを阻んだ。
矯正されてだいぶマシになったとは言え、僕の中から完全に自己中心的な思考回路がなくなった訳ではない。僕のせいだと理解しながらも、知らなかったんだから僕にはどうしようもなかったんだと、言い訳のような考えも確かにあった。また、間接的にとは言え、僕が自分の子供を殺したのだと彼女に知られたくなかった。
彼女がどれだけ子供の誕生を待ち望み、愛おしげにお腹を撫でていたのかを、僕は知っているのだ。
それを、僕が奪ったと知ったら、いくら彼女が愛情深く、慈悲深いからといって、僕を赦しはしないだろう。
そう思うと、僕は何も言えなかった。
彼女から嫌われてしまうのが怖かった。憎悪の炎を宿した目で睨まれ、罵声を浴びせられるのが怖かった。
世界中の全てから蔑まれ、否定されようと、彼女からだけは軽蔑されたくなかった。
彼女に、捨てられたくなかった。
彼女の涙は止まらない。
自分自身を責める言葉と、謝罪が繰り返される。
何とかしなければ、と思った。
もうこれ以上、彼女に傷ついて欲しくなかった。
『大丈夫だ』
慰める、つもりだった。
『子供なんて、また産めばいい』
彼女の嗚咽が止まる。
間違えた。
彼女の表情を見て、僕はそれを悟った。
彼女は、泣き止んだのではなく、凍りついたのだ。
間違えた。
瞬間的に悟ったが、何をどう間違えたのかが分からない。
彼女の顔は感情を削ぎ落とされてしまったかのような無表情になり、ついさっきまで涙を流していた目からは完全に光が失われていた。
『っ、······今は、ゆっくり休んでくれ』
そう言い残して僕は彼女の部屋から出た。僕は逃げたのだ。
あれ程、温度を感じられない視線を彼女から向けられたのは初めてで、そして、そんな風にしてしまったのは自分の言葉で、そう考えたら、どうしたらいいのか分からなくなってしまったのだ。
あのままあそこにいたら、彼女の口から失望と怨嗟の言葉を浴びせられると思った。
そうなったら、耐えられないから、逃げた。
言い訳だとは分かっている。だが、僕はそれまで、誰かを慰めたことなんてなかったのだ。
大切な人が泣いているとき、どうやって泣き止ませたらいいのか、分からなかったのだ。
悪気はなかった。子供の命を軽んじているつもりもなかった。
僕はただ、「これ以上悲しまないでくれ。絶望しないでくれ。もう、こんなことは起こさせない。僕が守る」と伝えたかっただけなのだ。
その思いをそのまま言えることができたなら、あるいは、僕が彼女を一人にしなければ、きっとその後の展開は変わっていただろう。
だが、僕には、多少彼女に矯正されただけで、依然人でなしだった僕には、それができなかったのだ。
そして、僕は思い知る。
自分が彼女に、どれ程残酷な言葉を放ったのかを。
ここはまだ地獄ではなかったことを。
誤字脱字報告、感想、評価等気軽にしてくださると嬉しいです。
遅くなってすみません。完結まで後もう少しですので、お付き合いください。




