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リーンハルトの想起⑥

 今回も長めです······一話三千字くらいにおさめようとは思っているんですけどね······。

 それからしばらく僕は忙しくなった。実際調べてみて代官が横領をしていたことと、領民が出稼ぎのために王都や他の町に流出していることが判明したからだ。

 税率を引き下げ、安値で診察を受けられる診療所を建設するなどして、領民の境遇を改善し、領民のこれ以上の流出を防ぎ、代官が横領した分の収入を取り返すことに奔走した。

 途中、分家の者や隠居した父親が従来のやり方を変えることに文句を言いに来たが、僕は意思を変えなかった。

 正直、僕としては彼らの言い分に共感しないでもないのだが、実際に自分で調べてみた所、このままでは僕の代で領地経営は破綻すると分かったので、嫌でも面倒でも改革するしかなかったのだ。

 貴族の面子やらプライドやらで、家を没落させては本末転倒である。ここは感情よりも実利を取るべきだ。


 資料を提示して今までの領地経営のやり方がいかに杜撰で、無駄が多く、平民を蔑ろにするものであり、エーファ殿下による治世となったときにどれ程彼女からの不興を買うものなのか説明したのだが、『貴族の誇りを捨てたのか!平民風情のご機嫌取りなんて恥を知れ!』とまるで話にならない。


 一番うるさかったのは僕の父親である先代公爵だ。僕の説明に録に耳を傾けようとせず、しわくちゃの顔を真っ赤にさせて杖を振り回しながら『庶子風情に爵位なんてやるんじゃなかった!お前は勘当だ!』と叫んだ。


 それを言われた瞬間、僕は全身から血の気が引いた。

 貴族でなくなる。

 僕にとってこれ程恐ろしいことはない。

 僕の価値は、それしかないのだから。

 貴族でなければ、僕は、ただの、汚らわしい不義の子。軽蔑され、嘲笑され、罵られるだけの存在。


 頭が真っ白になって動けなくなった僕を覚醒させたのは、ペトラの怒鳴り声だった。


『もうてめえには何の権限もねぇんだよ糞ジジイ!!老害にしかならないてめえはさっさと出ていけ!!そしてくたばれ!!棺にはゴキブリを入れてやる!!』


 その声は、先代よりも遥かに大きく、屋敷中どころか、領土中に響き渡ってもおかしくないくらいだった。


 そして、彼女はそのまま先代を無理やり屋敷から閉め出してしまったのである。


 僕はぽかん、と間抜けに口を開けてその様を眺めていた。


 僕の妻である彼女が、僕の父親に逆らうなんて·········いや、そもそも僕に対しても最初から反抗的だったな。彼女らしいと言えば彼女らしい。


『どうかしましたか?』


 そんなことをしでかしておきながら平然としている彼女を見ていると、何だかおかしくなって笑いが込み上げてきた。


『ふふ、ふ、お、お前、結構口が悪いんだな······本当に貴族令嬢か?』

『今は夫人です。口が悪いのはたまにです』

『ふふ、あははは!肝が据わり過ぎだろ!お前!先代公爵だぞ!?相手は!!それを、あ、あんな風に追い出すなんて······』

()()でしょう?何を恐れるのです?』


 彼女はきょとん、とした表情を浮かべる。

 ああそうか。今の公爵は僕だ。何を恐れていたんだろう。

 先代公爵は、権力を既に手放し、衰え、醜く弱い老人に過ぎなかった。


 幼い頃の記憶にあった、執務室の椅子に深く腰掛け、悠然と僕を見下す男はもういない。


 そう考えると自分の中で重くのしかかっていた何かがなくなり、すっと心が軽くなった気がした。



 

『ところで、ゴキブリって何だ?』

『ここより南方の国で見かける黒くて平べったい虫です。気持ち悪くて汚い虫です。本っ当に気持ち悪くて汚い虫です』

『二回も言うことか?』

『大事なことなので二回言いました。アレに触れるくらいなら私は死を選びます』

『それでどうやってあいつの棺に入れるんだ』

『ハシ······えっと、木の棒か何かで挟んで摘まめば何とか······』

『想像するだけで面白い光景だな』




 ようやく一段落して、生活が落ち着いた頃、僕は熱を出した。医者から薬を貰い、数日安静にしてれば治ると言われたのでしばらく休むことにした。


 そして、寝込んでいた僕は何かが動く気配に気が付いて、目を開けた。

 瞬間、明るい茶色の目が僕の視界に飛び込んできた。


『······何してる』

『看病、ですかね?』

『······』


 どうして疑問系なんだと言いたくなったが、全身がだるく熱っぽいせいで、そんなことを言う気力も起きなかった。この女が変なことを言うのはいつものことだ。一々気にしていてはとても持たない。


『最近忙しかったから疲れが溜まっていたんでしょう』


 そんなことを言いながら彼女は僕の額の上に手を置く。


『う~ん。まだ熱いですね』

『······違う。お前が、冷たいんだ』


 彼女の手はひんやりとしていて気持ちいい。

 熱を出している僕にはありがたいことだったが、同時にこんなに冷たくて大丈夫なのだろうかと心配になった。


『······お前は、身体を、温めた方がいい。女なんだから、身体を冷やしては駄目だ』

『······お気遣いありがとうございます。でも平気ですよ、私は。昔から末端冷え症なんです』

『そうなのか』

『はい。あ、そう言えば『手が冷たい人は心が温かい』なんて話は聞いたことありますか?その理屈で言えば私は心が温かい人間なんですよ!』

『······そうだな』

『······冗談です。······これは重症ですね。いつものツッコミがない』


 頭がぼうっとしていたのと、後半が早口だったので聞き取れなかったが、彼女が僕の言葉を真に受けていないのは分かった。


 僕は本気で、彼女のことを心が温かい人だと思っているのに。


 彼女は色々と突拍子もないことをやってのける人物だが、僕のことを出自で貶すことは一度もしなかった。金遣いが荒い訳でも、病弱でもない、使用人たちをよくまとめ上げている。彼女を口うるさいと思ったこともあったが、結果的に屋敷の雰囲気は明るくなったし、危うかった領地経営も立ち直った。

 だから彼女は良い妻なのだと思う。


 だが、ただ一つ、僕は彼女に不満があった。


『食欲はありますか?玉子スープなら出せますが』


 彼女は額に手を置いたまま、僕の顔色を窺う。心配そうに僕を見つめている彼女の顔を見るのは気分がいい。


『······お前、いつも、そのくらい素直でいればいいのに』

『はい?』

『いつも······素っ気ないじゃないか、お前は。······お前は、僕のことが好きなのに』


 丸い茶色の目がますます丸くなった。僕は構わず続ける。


『お前は······僕に冷た過ぎる。もっと、素直に僕を心配して、僕に優しくすればいいのに。僕のことが好きなんだから』


 今まで、自分を叱ってくれた人間なんてまともにいなかった。全くいなかった訳ではないが、僕の態度や素行に呆れるか腹を立てて距離を置くばかりだった。でも彼女は根気強く僕に粘って道徳を説き、人道に導いた。僕は何度も彼女を罵倒し、嘲笑したのに、彼女は僕の出自を貶さなかった。僕の言動に問題があり、僕の存在が間違いなのではない、と繰り返した。


 自分がどれだけ付き合いにくい人間だったのか多少は自覚し始めたからこそ思う。こんなこと、普通はやってられないだろう、と。

 だからこそ、一人目の妻は出ていったのだろうし。


 しかも、彼女は僕に対して、倫理的でない振る舞いを窘めることはあれど、僕のことを支配しようとも、自分の欲のために僕を利用することもしなかった。彼女は僕が娼館へ通っても、眉をひそめることはなかったし、贅沢をすることもしなかった。確かに、彼女は確かに嫁いでからあれこれと口を出し、色々なことをしていたが、それは屋敷内の使用人や領民のためであり、ひいては僕の名誉や利益のためだった。彼女が彼女のためにしたことは一つもないのである。


 何かにつけて高いドレスや装飾品をねだり、自分は好き放題に遊んでいる癖に、僕の女遊びを絶対に許容しなかった二人目の妻とは正反対である。

 今考えれば僕も悪かったが、僕に貞操を求める癖に自分は好き放題しても構わないと思っているのはどうかと思う。

 次の結婚の予定はないが、もし、万が一また再婚することになったら彼女のような女性だけはやめておこうと決めている。


 まあ、そんなことは絶対にないだろうが。

 ぽかんとしている彼女を見つめながら、そう思う。

 これだけ僕に献身的になれる程、僕に惚れている妻がいるのだ。彼女が僕と離縁するはめになるはずがない。


『······逆じゃないですか?』

『は?』

『私が貴方を、じゃなくて、貴方が私を好きなんですよ』


 今度は僕が呆気にとられる番だった。

 ()()()()()


『······あり得ない』

『でも、だって、貴方······えぇ······自覚なし?』

『何を言ってる?』


 彼女は「えぇ······嘘でしょ」とか何とか小声でぶつぶつ呟いていたが、やがて、「ん、ん゛ん 」と咳払いをして、口を開いた。


『貴方、いつだったか愛人を連れて帰って来て『どうして嫉妬しないんだ!?』とか言って怒りましたよね』

『あれは平然と愛人をもてなしたお前も悪いと思う······』


 まだ彼女への反発心が強かった頃、彼女を懲らしめてやろうと思って娼館から懇意にしている娼婦を借りて屋敷に連れ帰ったことがある。すました彼女の、嫉妬か屈辱に歪んだ顔が見られたらどれ程気分がいいだろうと思って。

 結果は惨敗だった。最初は喧嘩腰だった娼婦も、いつの間にか彼女と意気投合してすっかり仲良くなり、僕は愛人を妻に取られるという世にも珍しい体験をするはめになった。あの敗北感と虚無感は忘れられない。


『それから、派手なドレスや豪奢な装飾品を私にくれたこともありましたよね』

『思い出させるな。あれは失敗だった』


 仮にも公爵夫人の身なりがみすぼらしくてはいけないと、急いで既製品のドレスや装飾品を買い占めたことがあった。

 だが、ごちゃごちゃとした装飾がついた派手な色のドレスは彼女に一つも似合わなかったので、結局仕立て屋を呼んでドレスを作らせることになったのだ。最初から彼女に合わせたものを作らせておけばよかったのに、とにかく急いで用意しようと思ったのがいけなかった。


 彼女は、僕の失態を笑うことも、怒ることもしなかった。

 ただ、自分に似合わないドレスの山を見て、悲しそうな表情を浮かべたのが、忘れられない。

 あれは本当に失敗だった。そんな顔をさせるつもりはなかったのに。


『他にも、私が男の人と話してたら怒るし、女の人と話しても睨んでくるし······』

『当たり前だ。お前は僕の妻なんだぞ』


 こいつは社交界歴が浅いから隙がありすぎるのだ。いくら人妻だからと言って、不用意に異性と関わるものではない。男なんて、自分の欲を発散させることしか考えていないんだから。責任を取らなくてもいい分、既婚者の方が遊びやすいと言う奴もいる。僕が言うんだから間違いない。女だって油断できない。あいつらは婉曲な表現で皮肉を吐き、陰口を言うことしか能がないんだから。気は強いが貴族的な立ち回りに不慣れな彼女を放っておいたら、たちまちのうちに彼女は悪意の餌食となってしまう。

 それに、僕にはあまり笑いかけない癖に、表面上のものとは言え、笑顔で人の対応をしている彼女を見るのは、何だか腹が立つのだ。

 

『ここまで言っても分かりません?貴方が私を好きなんですよ』

『······違う』

『強情ですね。諦めて『好きだ』とでも『愛している』とでも言えばいいのに』

『だって、お前は、違うじゃないか』

『?』

『お前は、他の女とは、違うんだ』


 僕の恋愛遍歴を舐めないで貰いたい。僕と寝ていない娼婦は王都にはいない、とまで噂された僕だぞ?(流石にこの噂は誇張だ)

 それこそ「好き」だの「愛している」だのは飽きる程言ってきたし、恋の駆け引きを楽しんだこともある。


 でも、彼女とそういう対象にするのは、違うと思ったのだ。彼女に性的な魅力を感じない訳ではない。むしろ、彼女の白くてきめ細かい肌や細い手足や腰を見ていると抱き締めたくなるくらいである。

 しかし、自分が彼女に感じている魅力はそういった肉欲に関することだけではないのだ。僕は彼女のことを性欲の対象として見ているのではなく、性欲が含まれてはいるものの、それが最重要ではない、もっと大きな感情の対象として見ているのだ。


『他の女とは、違うんだから、他の女に言ってきた言葉を、言うのは、違う』

『······呆れたらいいのか、喜べばいいのか分かりませんね』

『お前は、僕のことが、好きじゃないのか』

『それは······』

『ここまで僕に献身的に尽くしておいて、僕のことが好きじゃないのか』


 自分で聞いておきながら、ズキンと僕の胸が痛んだ。

 彼女が僕を好きじゃない。それは、とても悲しいことに思えた。

 余程僕は情けない表情をしていたのだろう。彼女は少し呆れたように、でも、どこか明るい口調で言った。


『······そうですね。一生側にいてもいいと思えるくらいには絆されてますかね』

『一生側にいるのか?』

『はい』

『本当に?』

『はい。でも浮気は駄目ですよ』

『最近はしてない······』

『これからはずっとしちゃ駄目です』

『分かった······』

『眠いですか?寝ていいですよ?』

『······僕が、起きるまで······いや、ずっとだ。ずっと、僕の側にいろ······』

『分かりました。お休みなさい、リーンハルト』

『······"様"を付けろ······』

『絆されはしましたけど尊敬はしてないので呼び捨てです』


 生意気な女め。

 そう言ってやりたいのに、意識が朦朧としてきた。重くなる瞼に逆らうのも限界だ。


 まだ彼女と話をしていたい。そんな思いがあったが、また起きたときでもいいか、と思い直した。彼女が一生僕の側にいる、と言ったのだ。なら、時間は沢山ある。なんせ一生だ。

 僕はこれまでの人生で感じたことがない程の幸福感に包まれて、意識を手放した。

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