リーンハルトの想起⑤
今回少し長めです。
結婚から数ヶ月経っても、彼女の僕に対する慇懃無礼な態度は変わらなかった。
それでいて、僕のやることなすことにあれこれと口を出すのだから鬱陶しい限りだ。
やれ、使用人に暴言を吐くなだの、女性を軽視する発言をするなだの、酒の飲み過ぎは健康に悪いから程々にした方がいいだの、煩わしいったらない。
僕はその度に反発したが、彼女は頑固だった。お互いに一歩も譲らず、睨み合い――最後にはいつも僕が「もういい!!」と捨て台詞を吐いて逃走した。
これは負けではない。話の通じない奴に意固地になっても時間の無駄だからだ――そんな風に自分に言い聞かせたが、本当は彼女に反論できる程の正義が自分にはないことを認めたくないだけと心のどこかで分かっていた。
それに、彼女の目は僕の心をざわつかせるのだ。
どんぐりのような丸くて、生命力に溢れた目に見つめらる度に、僕は落ち着かない気分になった。もっと彼女に見て貰いたいと思うと同時に、同じくらい見て貰いたくないという思いが沸き上がって、どうにも奇妙な気持ちになるのだ。
こんな感覚は生まれて初めてで、自分が自分でなくなるような気がしてならなかった。
どうしたらいいのかさっぱり分からず、結局、僕は彼女の前から敗走するしかなかったのだ。
そんな生活が続いたある日、愛息子のやらかしによりすっかり消沈してしまった国王に代わり、国政を担っているエーファ王太女がいくつか大胆な政策を発表した。平民への境遇改善を目的とするものがほとんどだったが、僕の関心はそこにはなかった。代わりに僕の関心を集めたのは、貴族の免税特権を廃止するという政策だった。
つまり、平民と同じように貴族と聖職者にも納税の義務を科すということだ。
『あの女、ふざけている!!』
『そんなことはないと思いますけど』
僕の怒鳴り声に、驚くでも萎縮するでもなく、淡々と落ち着いた様子で彼女は言葉を返した。
僕がどんなに怒っても、彼女は全く気にも留めない。その態度がますます僕を苛立たせるのだが、彼女はそんな高慢な態度を改めることはなかった。
この女は、夫を何だと思っているんだ。使用人から好かれて調子に乗っているのだろうが、それだって、僕の妻と言う立場があってできることだ。こいつはもっと僕に感謝して僕に媚びるべきなのに、これっぽっちも僕を尊重しない。
『お前はいつも僕のことを否定するな!?』
『貴方が人の道理から外れた言動ばかりするからでしょう』
『少しは僕を尊重しろよ!!』
『貴方の横暴を見逃すのはジンケンシンガイに加担するみたいで嫌なんですよね』
『ジン······なんて?』
『何でもないです。それで?何がそんなに嫌なんですか?』
何か誤魔化されたような気がするが、まあいいかと思い、流した。
『何がって······貴族に税金を払えと言っているんだぞ!!こんなのは横暴だ!!』
『徴収した税金は教育機関や医療研究、交通整備に充てられると書いているじゃないですか。そこまで悪い話ではないと思いますけど?』
新聞記事を指で指しながら彼女は反論する。
全くもって呆れる。これだから脳内お花畑のお嬢様は。
『そんなもの嘘に決まっているだろう。今まで放置してきた癖に、今更本当に国が金を出すと思っているのか?』
『あり得ない話ではないのでは?エーファ殿下はご自身の領地で既にいくつもの施策を打ち出し、領地を豊かにさせているそうですし』
言葉に詰まる。
確かに、アドリクスならばともかく、エーファ殿下は昔から優秀で慈悲深かった。その人柄を踏まえると、この話は本気なのかもしれない。
だとしても、だ。
『免税特権を失えば、貴族の権威が下がる』
『むしろ、そのためにするのでは?』
『何?』
『エーファ殿下は正当な国王陛下の後継者ですが、多くの保守的な貴族から女性であることを理由に反発されています。そのような貴族の勢力を削ぎつつ、国民のほとんどを占める平民からの支持を得ようとしているのでしょう』
彼女の意見に、なるほど、と素直に感心した。
保守的な貴族であればあるほど、労働や金儲けと言ったことに抵抗が大きく、領地経営に無関心であることが多い。災害や人口流出によって領地経営が傾いても対策を立てることなく、放置する者もいる。当然そうなれば収入が減る訳で、隠れて借金をして生活する貴族もいるらしい。借金は返さなければならないが、金貸しは平民であるから、貴族に強く出られず金を貸すしかない。そんな風に、今までは録に経営能力のない貴族が平気でのさばっていたのだ。
『経営破綻している荘園は国が買い取って国営化するらしいですよ。それに、借金を返済できない貴族には借金を国が肩代わりする代わりに、爵位と領地を返上して貰うって。王女殿下は無能な貴族を切り捨てるおつもりですね』
『······恐ろしい話だな』
貴族の納税義務化。それが実現すればきちんと領地経営ができている貴族とそうでない貴族をふるいにかけることになる。
だが、貴族なんていかに遊んで暮らすかを競っているような生き物だ。
一体どれ程の貴族が生き残れるだろうか。
『もしかして、うちの領地経営も危ないんですか?』
『大丈夫だ。······多分』
『多分って······貴方の領地でしょう?』
『普段は代官に任せてる』
『それでも、確認とかしなきゃいけないことがあるのでは?』
『あるにはあるが······年に数回、サインをする程度だぞ?』
『······それで大丈夫なんですか?』
彼女は不安そうな顔を浮かべる。
『これまでこのやり方で問題は起きてない』
『問題が明らかになってないだけでは?代官が横領してたり、領民への税が高過ぎたり、あるいは低過ぎたりなんてことが起こっている可能性は?』
『······』
反論できなかった。
僕の仕事なんて、代官から送られる収入確定書にサインをすることくらいだ。代官が不正をしている可能性や、領民への税が適切かなんて考えたこともなかった。
僕が沈黙しているのを見て、彼女の顔がさあっと青ざめた。彼女がこの数ヶ月の結婚生活の中で一番動揺している表情を見せたことで、僕も事態の深刻さに気が付く。
『もしかして、これはまずいのか?』
『もしかしなくてもまずいです。自分の領地の経営状態も録に分からないのは大問題ですよ!』
『他の貴族もこんなものだと思うが』
『よそはよそ!うちはうち!』
ぴしゃり、と彼女は僕の言い分をはねのける。
あまりの剣幕に僕は少したじろいだ。彼女が僕に反論するのはいつものことだが、基本的に淡々とした態度で感情的になることがなかったからだ。
『今すぐ領地経営の状態を確認しましょう。このままでは私たち、没落するかもしれません』
『······大袈裟な』
『まさか。これっぽっちも大袈裟ではありませんよ。平民に負担を強いるようなやり方がエーファ殿下の治世では通用しなくなる。つまり、今は問題なく見えているやり方でも、十年後には破綻しているかもしれない、ということです。そうなったら、私たちは貴族でなくなりますよ』
そうだ。エーファ殿下は平民に対する貴族の横暴を許さない。
今のディルガー領の税は適切か?適切でないとしたら、そう遠くない内にエーファ殿下が打ち出す法によって禁じられる。平民に負担を押し付けて今のディルガー領の収入が成り立っていたのなら、平民に負担を押し付けられなくなった時点で破綻する。
そうなったら、僕は貴族ではなくなってしまう。ただの賤しい、庶子に逆戻りだ。
そこまで考えて、馬鹿馬鹿しい、と僕は首を振った。
『考え過ぎだ。こんな政策、貴族が反発するに決まってる。通る訳がない』
『通りますよ、次期女王である彼女がそう決めたのなら。それに、たとえこの政策が立ち消えてしまったとしても、貴方はご自身の領地に関心を持つべきだと思います』
『はっ、何を偉そうに』
運良く僕の妻になれただけの、世間知らずの小娘の癖に。
『僕は寛大だが、そろそろいい加減にしろ。いつまでも僕がお前を甘やかすと思ったら大間違いだ。······これ以上僕に指図するな』
うっかり流されそうになってしまった自分に苛立ちながらも、僕は冷たく彼女にそう言い放つ。
そうだ、最近どうも調子が狂ってしまっていたが、僕はディルガー公爵なのだ。この国で五本の指に入る程の大貴族なのだ。
こんな、地味で貧相な、頼れる実家もない小娘に振り回されてはいけない。そんなこと、あってはならないのだ。
『僕を支配しようとするな。不快だ』
『······貴方を、支配しようなどとは思っていません。貴方のためを思っての忠告です』
僕がいつも以上に怒っていることに気が付いたのだろう。彼女は慎重に言葉を紡いだ。
『どうだかな。お前は僕が嫌いなんだろう?僕のため?笑わせる。そんなこと思ってないだろう』
彼女を嘲笑いながら、そう告げると、何故だか少し、胸が痛くなった。
『嫌いではありません』
『······は?』
『私は貴方を嫌っていませんよ』
『嘘だ』
『本当です』
『じゃあどうして僕を否定する!?どうして僕を拒絶するんだ!?』
『貴方のことは嫌いでなくとも、貴方のすることが間違いだと判断したら、口を出しますよ』
『······僕のすることが気に入らないなら、それは僕のことが嫌いなんだろう』
『いいえ』
彼女は首を振ると、真正面から僕に向き合った。
彼女の目が、僕を見つめる。
――ああ。まただ。また、この目だ。
ありふれた茶色の目が、どうしてこんなにも自分を惑わせるのだろう。
『行動と人格は密接に結び付くものですが、同一のものではありません。私は、貴方の言動を好ましく思っていませんが、貴方のことは嫌いじゃありませんよ』
意味が分からない。彼女の僕への態度を振り替えれば、僕のことを嫌っているとしか考えられないのだが。
『私はこの屋敷に来てから色々と好き勝手をしましたでしょう?』
『自覚あったんだな』
『はい。でも、貴方は私に怒鳴りこそすれ、手を上げることはしませんでした』
思わずぎょっとしてしまう。まさか僕は女に暴力を振るう男だと思われていたのか!?
『そんなことする訳ないだろう!』
『はい。貴方はそんなことしませんでした。それだけではありません。貴方は女主人の権限を無理やり奪うこともできましたのに、そうすることはありませんでしたし、私の食事やドレスに泥をぶちまけることもしませんでした』
『······』
無理やり女主人の権限を奪うとかできたのか、僕。このディルガー家には長らく女主人がいなかったから、そんなこと思いつきもしなかった。だが、考えてみれば当たり前だ。公爵であるのはこの僕。使用人を雇う金も僕から出しているのだから。
そして食事やドレスに泥をぶちまけるとは何だ?そんなことをすると思われていたのか?されたことがあるのか?
僕の困惑と疑問を置いてきぼりにしたまま、彼女は言葉を続ける。
『貴方は、屑だけど、下衆ではないと思うんですよ』
それは僕を持ち上げているつもりなのだろうか?
『本当にどうしようもない人は、人の話を聞こうともしないんですよ。でも、貴方は私の話を聞いてくれるでしょう?』
話を聞いているという認識でいいのだろうか、あれは。
僕は今までの彼女との会話を振り返りながらそう思った。
僕が怒鳴って、彼女が言い返して、僕が反論できずに逃げる。そんなものばかりだったような気がするが。
『貴方はどうにかなる人です――だから私、貴方の将来が悪いようにならないで欲しいんですよ』
何だそれは。
そう言おうと思ったのだが、何も言えなかった。
僕はこの女に嫌われていない。そう思うと、彼女の揚げ足を取るような気分になれなかったのだ。
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