リーンハルトの想起④
『修道院に行くのに持参金がいるなんて知りませんでした······』
清貧を謳い、弱者救済を掲げる宗教こそ金がかかるということを、世間知らずの彼女は知らなかったらしい。かく言う僕自身も、一人目の妻が結婚のために用意した持参金を使って修道院に逃げ込むまでは知らなかったのだが。
無一文の女を受け入れてくれる場所なんて、この世のどこにもない。つまり、今現在無一文で僕の元に嫁がされた彼女には、僕の妻として僕に従順でいるしか道がないのだ。
しかし、納得できないのか、ううん、と僕の妻になったばかりの女は唸る。
『つまり、私が離縁するにはお金を稼がなくてはならない、と』
『離縁前提で話を進めるな。僕の妻になるのがそんなに嫌か』
『性病を移されたくないので······』
『僕は至って健康だ』
『自覚症状がないだけとは限らないじゃないですか』
なんて失礼な女だ。
僕はガンッと思い切り壁に拳を打ち付けた。
『自分の立場が分かっているのか!!お前は僕の妻なんだぞ!!僕の言うことに従え!!』
脅しつけたつもりだった。ここまですればもう彼女は僕に逆らえないだろうと思った。
『嫌です』
しかし、彼女は眉一つ動かさずに淡々と告げた。
『私は、もう二度と、自分を軽んじる方に黙って従うことはしないと決めています』
茶色の目がまっすぐ僕を見つめる。僕は何だか落ち着かない気分になった。僕は夫で、こいつは僕の所有物なのに、何だか立場が逆転しているみたいだ。
『······後悔するぞ』
僕はそれだけ言って寝室から出た。
初夜に夫から放置された妻として、屋敷中の使用人から馬鹿にされてしまえばいい、と思って。
そうすれば、流石に懲りて僕に非礼を詫びるだろうと。
だが、その思惑は外れた。僕の知らない間に彼女は使用人たちと打ち解け、圧倒的な支持を得ていたのだ。誰もが彼女を女主人として認め、彼女を軽んじる僕を敵視するようになった。僕が酒や香水の匂いを纏って朝帰りしようものなら、雇い主であるにも関わらず、白い目で見られる有り様だった。
『最近、使用人たちの態度が目に余るのだが』
『今頃気が付いたんですか。結構前からあんな感じでしたよ』
『ふざけてる······この屋敷の主人が誰か分かっているのか!?あいつらは!!』
『女主人は私ですよ。屋敷内のことは女主人が管理するものですし』
『妻の義務も果たさないで何が女主人だ!!』
『子作り以外の義務は果たしますよ。自分有責でない状態で離縁したいですし』
『閨を拒むのはお前有責だろ!!』
『それで今貴方困ってます?毎日朝帰りしている癖に』
『······毎日ではない!!』
『苦しい言い訳ですね』
『~~~っ、だとしても!!あいつらの態度はおかしいだろ!!僕のことを虫けらのような目で見てくるんだぞ!!』
『それは······流石に問題ですね。注意しておきます。誰がそんなことを?』
『全員だ』
『······いくら何でも人望がなさ過ぎやしませんか?』
『うるさい!!』
憐れみの眼差しと口調が、余計に腹立たしい。
『だいたい、お前はどうしてあんなにあいつらから好かれているんだ』
こんな、生意気で、美しくもない女に。僕の妻でしかないのに。僕よりも、この女を敬うのか。
こいつが、僕とは違う――本物の貴族だからか。
『金です』
『·········は?』
『金の力です。私が彼らの支持を得たのは私が彼らにお給料をきちんと支払っているからです』
ぽかん、とした。金。血筋ではなく、金。そんな、俗物的なもので。
『お前にも人望ないじゃないか!!』
『当たり前です。病弱で社交界からも忘れられていた私に誰が好感を持つと?それも初夜に夫を怒らせて寝室から追い出した女に。だから金で釣りました』
『な、』
なんて開き直りだ。僕は絶句した。
『この屋敷、無駄に使用人の数が多かったので、サボり癖のある者や手抜き仕事をする者、盗みの常習犯はクビにしました。少人数でも、能力人格共に問題のない者たちばかりなら業務に支障は出ません。また、今まできちんと支払われていなかったお給料と週に一日の休暇を書類で約束し、施すようにしました。私がしたことはそれだけです』
『······何でそんなことを』
『は?』
『執事のような上級使用人でもない奴に何故金を支払う必要がある?それに休暇?働かせてやっているのにそこまでする必要があるのか?』
本気で意味が分からなかった。
僕にとって使用人とは、家畜と同類のような認識だったからだ。あいつらの多くは平民。平民でない者も零細貴族の出身で、口減らしのために家から追い出された後継以外の子である。
『そいつらにご機嫌取りする意味が分からない。衣食住を提供してやっているだけで十分だろ』
『ご機嫌取りではなく、彼らの正当な権利です』
『正当な権利?金と休暇が?』
『当然です。······貴方、そんな認識でいるから今の今まで彼らの態度に気が付かないんですよ』
『······使用人の目を気にする貴族がどこにいる』
昔の僕じゃあるまいし。
本当の貴族は、使用人のことなんか気にしない。使用人に軽んじられる存在ではなく、使用人を軽んじる存在なのだから。
そう考えたら腹が立ってきた。どうして僕があいつらのご機嫌取りをしなくてはいけないんだ。僕は公爵なのだ。あいつらなんかどうとでもできる。
『主人に対する忠誠を忘れるような使用人なぞいらん。あいつらなんか、全員クビにしてやる』
『そのようなことをしたら、この家の評判が下がりますよ』
『はっ』
これだから世間知らずの箱入り娘は。この世の中のことを何も分かっちゃいない。
『使用人風情をどう扱おうが僕の勝手だ。それに、そんなことを一体誰が気にするんだ』
『人の口に戸は立てられません。不当に解雇させられた者は貴方への恨み言をあちこちに吹聴するでしょうし、その噂を聞いた人々は貴方のことを嫌悪するでしょう』
『だが、僕は公爵だ。誰も刃向かうことなどできない』
『······しかし、その地位を失いそうになったときに、誰も助けてはくれないし、地位を失ったら誰も見向きもしない』
『······何?』
『アドリクス廃太子のことをお忘れで?』
アドリクス・ゼノウィリアス。元王太子。僕とは学園の学生であった頃からの仲であったが、別に強い信頼や友情で結ばれていた訳ではなかった。
元々あの男のことは馬鹿なくせに自尊心が強すぎて面倒な奴だと思っていたのだ。それでも王太子だからと後々の利益を考えて、付き合いをしていただけ。王太子でなくなったあの男には何の価値もなくなった。その時間と労力を返して欲しいくらいだ。
『私はあの人のことを存じ上げませんが、彼が廃嫡されるのに、反対した人は一人もいなかったと聞いています』
『······それで?何が言いたい?』
この女は僕を責めているのだろうか。あいつの取り巻きの一人でありながら、あいつを早々に見限った僕を。
しかし、そうではなかった。
『どうしたって自分の敵は現れてしまうものです。しかし、自分の敵をわざわざ増やすような真似はしない方がよろしい』
彼女はただ、僕の振る舞いを諌めただけだった。
『馬鹿馬鹿しい。使用人ごときが敵になるものか』
『······なりますよ』
そう言った彼女の表情に陰が差したような気がしたが、ほんの一瞬のことだったので、僕はその違和感をすぐに忘れた。
『······正直に言うと、この屋敷の使用人のレベルは低いです。彼らの本来の雇用主である貴方から疎まれている私に、こんなにも簡単に懐柔されてしまうのですから。······以前の労働環境が劣悪だったのもありますが、これは貴方のことを真に思っている使用人がいないことを意味します』
『そんな奴ら辞めさせろ!』
『仕方のないことですよ。誰だって自分のことが一番可愛いんです。自分に何も与えてくれない者に、与えようとする人なんていません』
明るい茶色の目がまっすぐ僕を見つめる。
『彼らからの信頼と忠誠を得たいのならば、まず、貴方が彼らに与えなければ』
与える?僕が、あいつらに?
馬鹿馬鹿しい。与えたら、返してくれるなんて本気で思っているのか。それならば、あの元王太子は僕の期待を裏切らなかったはずだ。
『本気で言っているのなら、お前は随分おめでたい頭をしているのだな』
僕はそう言って、まだ何か言いたそうにしている彼女に背を向けた。
かつての僕は、ひどく傲慢で愚かだった。今なら、彼女が正しかったのだと分かる。僕がアドリクスが廃嫡された瞬間に彼との縁を切ったように、僕自身も無条件に誰かから敬われる存在ではないのだと、気が付いていなかった。
それに、アドリクスが廃嫡されたことに対して、裏切られたと思うのは被害妄想に等しい。僕は、あの男に何もしなかった。ただ賭博や女遊びのためにつるんでいただけだ。彼を諌める臣下でもなく、彼を案じる友でもなかった僕が、どんな恩恵を将来、彼から得られたと言うのだろう。
何も与えていない癖に、見返りを求めるなんて救いようがない程の愚か者だと、今なら分かるのだがその当時の僕は自分が愚かであると微塵も思っていなかった。
そして、他者を軽んじるということが、どんな結末を招くのかも。
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