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狂気

 ゾッと背筋に悪寒が走る。

 この女は危険だ。本能がそう叫んでいた。


 間抜けと言われるかもしれないが、私は彼女の存在を今の今まですっかり忘れていた。だってあの夜会以降彼女に会うことはなかったし、あの夜会でだって遠目で一瞬見ただけだ。リーンハルト様に懸想して私を不躾にジロジロ見てくる貴族なんて大勢いたし、そんなのいちいち覚えちゃいない。


 そんな言い訳のようなことばかり考えてしまうのは、明らかにヤバいこの状況からの現実逃避だ。


 彼女はすっと立ち上がり、口の端を上げた。

 それは、私への嘲笑か、自嘲の笑みか。


「私のこと、笑いにきたんでしょ。そうでしょ?楽しい?······どこまで私を惨めにさせたら気が済むの?」


 そんな事実はない。私が貴女に声をかけたのはただの親切心で、私がここにいるのもただの偶然だ。馬鹿にするも何も、私は貴女のことを知らないし、興味もない。


 そう言えたらどれだけよかったか。

 頭の中ではつらつらと反論することができるのに、彼女の鬼気迫る形相にあてられて、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまっていた。


「私の方がリーンハルトに相応しいのに」


 ここから早く逃げた方がいい。


 そう思っているのに、足が思うように動かない。

 憎悪を燃やした水色の双眼から目が離せない。


 怖い。怖い。怖い。怖い。


 ばくばくと激しい心臓の音が内側から響く。


 落ち着け、ペトラ。こんなのは、こんなのはよくある――よくあったことじゃないか。


 理不尽な悪意に晒されるのは、初めてじゃない。

 罵倒されたことも、手を上げられたこともある。


 だから、こんなことは平気だ。平気でいられるはずだ。なのに――どうしてこんなに怖いんだろう。


 ······いや、思い返せば、平気ではなかった。


 昔の私は、擦りきれて麻痺していただけだ。


 お婆様から愛されているとは自覚しつつも、貴族令嬢としての教育は厳しく辛いもので、私の孤独感を埋めるものではなかった。両親から愛され、いつも楽しそうに遊んでいる妹や弟が羨ましかった。お婆様の死後は屋敷での居場所をなくし、ぞんざいに扱われ、なけなしの自尊心を磨り減らし続けるだけの日々だった。


 前世の記憶と同時に多少は自己肯定感を取り戻したが、それでも、自分は周りから軽んじられる存在だと思い込んでいたあたり、前世の私も大概だったと今なら思える。


 親を早くに亡くし、仕事に忙殺され、友人とも疎遠になり、すっかり荒んでしまっていた前世の私。パワハラやセクハラに屈することはなかったと言えば聞こえはいいが、実際は、意地になって強気な態度で仕事にしがみついていただけだ。法的に訴えることも、転職することもやろうと思えばできたはずなのに、結局しなかった。できなかった。そこまでの勇気はなかったのだ。きっとその時点で本当は私は負けていた。自分が大切にされない存在だと私は無意識に受け入れていたのだ。


 傷つかなかったんじゃない。平気だったんじゃない。


 ただ、自分の傷から目を背けていただけ。今まで、ずっと。


 そうだ。そうだった。


 私はリーンハルト様に出会うまでの私は、もう既につけられた傷でぼろぼろで、新しくつけられる傷に気が付く余裕がなかっただけ。


 だけど、リーンハルト様が私に優しくしてくれたから、大切にして、愛してくれたから、長年の傷が癒え、擦りきれていた神経が正常に戻ったのだ。


 だが、それならば心身共に傷に鈍いままでいた方が良かったのだろうか。正常になった結果、今の自分は理不尽な悪意に物凄く弱くなってしまったような気がする。結婚してから嫌なことが一つもなかったとは言えないが、そのときは側にリーンハルト様がいて私を守ってくれた。


 一体どうして数ヵ月前までの自分は、一人で悪意をやり過ごすことができたのだろう。


 そんなことを考えながら、私はなるべく相手を刺激しないようにこっそりと後ろに下がるが、相手はそれに気が付いた。

 私が一歩下がれば、彼女は一歩前に進む。間合いをはかろうとするかのように、お互いに一定の距離を保った。


(わきま)えなさいよ。あんたみたいなドブ色髪の女なんか、飽きられて捨てられるに決まってる。一体どうやって結婚まで漕ぎ着けたのかは知らないけど、リーンハルトはあんたのこと、これっぽっちも愛してないわよ。あんたは騙されてるの」


 プツン、とした。

 さっきから黙って聞いていれば、調子に乗ってベラベラと。

 さっきまで心を支配していた恐怖が消え失せ、燃えるような怒りが込み上げてくる。


 お前がリーンハルト様を語るな。


「リーンハルトは、私のものなのよ、あんたじゃなくて!!」

「違います」


 思わず、反論してしまった。こんなのは火に油を注ぐことにしかならない。でも、言わずにはいられなかったのだ。


 ふざけるな。

 誰が誰のものだって?


「は?」

「リーンハルト様は、私を愛してくれていますし、私も――リーンハルト様を愛しています」


 私の言葉に女の頬にカッと朱がさす。

 憎悪なんて言葉ですら生温い――明確な殺意を籠めた眼差しを向けられる。もしも視線で人を殺せるなら、私は既に死んでいるだろう。だが、そんな彼女の様子を見ても、恐怖よりも怒りが勝っている今の私の口は止まらなかった。




「――だからリーンハルト様は貴女のものじゃない。これまでも、これからも。リーンハルトの髪の毛一本、爪の一欠片だって貴女のものじゃない。リーンハルト様は――私の夫だ」




「馬鹿にしやがってえぇぇぇ!!!!」


 ばっと女が般若の形相で私に襲いかかる。振り上げられた右手には、ナイフが握られている。マントの下に隠し持っていたのだろう。


 私は必死で振り下ろされるナイフをかわした。そして、素早くがしっと彼女の両腕を掴んで拘束する。


「離しなさいよ!!!!」


 女は激しく身をよじりながら私の拘束を逃れようとする。私は獣のように暴れる彼女を必死で取り押さえた。自分よりも小柄な女性がここまで力が強いなんて。


「誰かたすっ!?」


 周囲に助けを求めようと声を張り上げた瞬間、ゴン、と顎に大きな衝撃を受けて言葉が途切れる。思わず手の力が弛み、女が私の拘束を振り切る。

 頭突きされたのだ、と理解するのと私がよろけて地面に尻もちをつくのは同時だった。


「~~っ」


 じんじんと鈍く痛む顎とお尻に構う暇はなかった。

 殺気を滲ませた双眼が自分を見下ろしていたから。


「死ね」


 シンプルな言葉だ。その言葉を契機に、私の世界から音が消えた。異常に気が付いて悲鳴を上げていた女性の声も、誰かが流していたリュートの音も聞こえなくない。

 そして、無音の世界の中でスローモーションのようにゆっくりとナイフが自分に再度振り下ろされるのが見えた。死の危機に瀕したとき、自分以外のものがゆっくりと見えるのは本当なのだな、と私は呑気に感心した。




『僕はお前を愛している』


『ただ······僕のそばにいてくれ······ペトラ』




 振り下ろされるナイフと、初夜のときの情景が重なる。

 悪くない、走馬灯だった。




「ペトラ!!!!」




 その声を聞いた瞬間、私の聴覚と時間感覚は正常を取り戻す。


「な、」


 彼の声に驚いた女が固まったのは一瞬だった。その一瞬で、彼女はペトラの前から消える。


 彼が、鞘に納められた状態の剣でフルスイングし、女をすっ飛ばしたのだ。女は鈍器をぶつけられた腹部を押さえながら、地面に転がる。

 

「か、はっ、く······」

「言ったはずだ······次はないと」


 彼は私を庇うように私の前に立っている。そのため、彼の顔は窺えないが、その低く冷たい声から彼の怒りの程は簡単に想像できた。


「リーンハルト様······」


 助けに、来てくれたのだ。


 そうしている内に憲兵たちが駆けつけ、女を取り押さえ、ナイフを回収する。女は私への暴言や恨み言を吐きながら、憲兵に引きずられていった。

 騒然としていた通りは、すぐに元の陽気さと平穏さを取り戻す。


 彼女の姿が完全に見えなくなってから、私は、はぁー、と大きく息を吐き出した。


 助かった。生きている。その実感を噛み締めた。


 女が憲兵に引きずられていくのを確認したリーンハルト様は私に駆け寄り、私を立ち上がらせる。


「······ペトラ。怪我は、ないか?」

「······ないです」

「痛むところは?」

「······特に何も」


 本当は顎とお尻が痛かったが、大したことではないので言わないことにした。だが、私の返答はリーンハルト様を安心させるものではなかったらしい。彼はひどく思い詰めた表情を浮かべている。


「······念のため、医者に診せよう」

「大丈夫ですよ」

「大丈夫じゃない!!」


 大声にビクッと身体がすくんだ。


「僕は······お前に、何かあったら·········生きていけない」


 彼は顔をくしゃりと歪めて、震えた声でそう告げた。

 その表情を見てしまったら、大袈裟な、と言って茶化すことはできなかった。


 ぎゅうっと強く抱き締められる。まるで初夜のときみたいだ。


「リーンハルト様、助けてくれてありがとうございます」


 そんな彼が危うく思えて、私は彼を安心させるように腕を彼の背に回しながら、そう言った。


「リーンハルト様が助けてくれたから、私は無事だったんですよ」


 だからそんなに自分を責めないで。




「······違う」

「リーンハルト様?」


 すっと、彼の腕から力が抜ける。

 困惑する私の肩に優しく手を置いて、彼は言った。


「僕がお前を危険に晒したんだ。······いつもそうだ。分かっていたのに、分からないふりをしていた。認めたくなかったんだ。······でも、もう、分かった」


 リーンハルト様は、自嘲するように、そしてどこか吹っ切れてしまったような笑みを浮かべる。


「リーンハルト様?」

「もう大丈夫だ。ペトラ。もう、こんな目には遭わせないから」


 口調と言葉は穏やかなのに、どうしてだか安心できない。

 嫌な、予感がする。




 そして、その予感が気のせいではなかったことを、私はその会話の数時間後に知ることになるのだ。

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