聖国
「······そろそろ、部屋に戻ろう、ペトラ。寒くなってきたことだし」
「そうですね――あ!あれ、見てください!」
空を灰色の雲が覆い始め、一層冷たい風がビュウッと私たちの肌を突き刺し始めたので、船内の部屋に戻ろうかとしたそのときだった。
水平線の向こうに、鋭く尖った屋根の先が見えた。船が島に近づくにつれて少しずつその尖塔を持つ建物の全体像が明らかになる。
今世で見る建物の中で最も高い建物だ。真っ白な壁は、今のままでも十分美しいが、天気が良ければ太陽の光を反射して、より輝いていただろう。遠目でも、その見る者全てを圧巻させる、華美ではないが洗練されたデザインと巨大さを窺うことができる、とても存在感のある建物だった。
「あれが、アーヴェン大聖堂」
ほう、とため息をつくように思わずそんな言葉が零れた。
「この世界で最も大きく、美しいとされる聖堂······話には聞いたことがありましたが、これ程大きな建物だとは思いませんでした」
「そうだな。恐らく、アリステラ宮殿よりも大きいだろう」
「そんなに······」
一国の君主が住まう宮殿よりも、宗教施設の方が巨大だなんて。この世界の宗教の権威は王権よりも強いのだろうか。
「一体どれ程の年月とお金を使って、あんなにも大きな建物を造り上げたんでしょう?」
きっと前世の技術があったとしても、あれ程の建造物を建築するには莫大な資金と数年、下手したら十数年単位の時間を有するだろう。
文明レベルが前世と比べて劣る、この世界では一体誰がどうやってあの大聖堂を造り上げたのだろうか。
「さあ?どれ程金をかけたのかは知らないが、設計から完成までに百年近くかかったと聞くぞ」
「百年!!」
「建築途中に異民族が攻めてきたり、大規模な飢饉が発生して他国からの寄付が打ち止めになったりしたらしい」
「大変だったんですね······」
「それでも完成させたのだから、聖職者の執念は侮れないな」
リーンハルト様は、少し小馬鹿にしたかのように笑った。
無能な貴族が嫌いなのは知っていたが、もしかして聖職者も嫌いなのだろうか。
「······執念、と言うよりは信仰、ではないですか?」
「どうだか。貧民救済を謳っておきながら寄付を自身の懐に入れる聖職者なぞ珍しくもないし、貞潔を説きながら娼婦を買う聖職者もまあまあいる」
「聖職者ですよね?」
「聖職者だからだ。俗世から離れている分、狭い社会で生きるしかないから腐敗が進んでいる」
「えぇ······それじゃ貴族と変わらないじゃないですか······」
「家督を継げない貴族の次男三男が押し込められる場所でもあるからな、聖堂は。真に信仰に生きる気もないのに聖職者になる貴族が聖職者になれば、腐敗もする」
そうなのか。なんだかちょっと残念だ。だけれど、聖職者だって人間だから、どうしたって社会という構造を作り、そこから権力やら金やらの繋がりで腐敗してしまうものなのかもしれない。
「そう考えると、あれは、神の権威を示すものではなく、聖職者たちの顕示欲の象徴なのでしょうか······」
「まあ、聖職者に限らず、貴族や王族の浅ましさの結果とも言えるか」
「どういうことですか?」
「貴族が教会に寄付をするのは、死後に天国へ行く為だ。人を騙し、踏みにじり、嘲笑っておきながら、それでも地獄に堕ちたくはないと金で罪を赦されようとする。······あの聖堂は罪深い貴族や王族の下心による寄付金で完成させられた」
リーンハルト様は、そこまで言うと嘲笑を顔から消した。
「罪が、赦されるはずがないだろうに」
憂いを帯びた顔で、呟く。
何故だかは分からないけれど、説得力のある言葉だと思った。
この人は、赦されない罪があるのだと、知っているのだ。
それが一体どんなものかは、分からないけれど。
気になったが、深く、追及することはできなかった。
その表情からして、恐らく、彼の傷に触れることになると思ったからだ。
彼の隠そうとしている傷を暴くのは、私が彼に想いを告げて、彼がそれを信じられるようになってからでもいい。
そう、自分に対して言い訳をして、誤魔化した。
それから程なくして、船が港に停められる。私は船員の誘導とリーンハルト様のエスコートに従い、私たちが今まで乗っていた船――キャスリーン号から降りると、足元がふわふわしているかのような錯覚に陥った。
キャスリーン号は、この世界の貴族専用豪華客船らしく、船内の内装は華やかで、船内でも大きな揺れを感じることなく快適に過ごしていたが、こうして陸の上に立つと、自分が今までいかに不安定な場所に足をつけていたのか理解させられる。
眼前に広がるのは、白い壁、白い屋根の建物と綺麗に整備された街道、色鮮やかな服を身に纏った貴族、商人たち。
本来、聖夜祭とは年の最後の日に催される祭りであるが、聖地であるこの島では年の終わりの三日間を通して祭りが行われる。その為、既に街は人や屋台で溢れかえっていた。
アーヴェン大聖堂がそびえ立つこの島は、リアス王国領ではない。聖国と知られる巨大都市国家だ。この島はどの国、どの王族からも支配されない絶対不可侵領域にして、聖地。王族貴族ではなく、大司教が頂点に立つ国だ。この島の住民は、聖職者と商人がそのほとんどを占める。聖職者は寄付で得られない物は商人に用意して貰い、商人は巡礼者を相手にする商売で生計を立てている。一見相反する二者だが、上手く共存しているのだ。
王都にあるディルガー公爵家の本邸から、王家直轄地の港町まで馬車で一日、そこからキャスリーン号に乗り二日。
存外短い旅路だった。リアス王国と聖国が特別近い場所にある、という訳ではない。飛行機や高速道路といったものが存在しないこの世界において、船は長距離の移動に最も優れている。天候が荒れていればもう少し時間がかかっただろうが、無事に予定通り到着できた。
「ペトラ、馬車が来たぞ」
「え!?」
リーンハルト様の声が聞こえた方向に目をやると、貴族用の馬車がいつの間にかリーンハルト様の側にあった。
「いつの間に馬車を用意したんですか?」
「キャスリーン号のサービスだ。あの乗船券には宿代や移動経費も含まれている」
前世での、ツアー旅行みたいだな、と思った。ここまで至れり尽くせりとは。この世界のサービス業も捨てたものではない。
しかし、豪華客船の旅ですらかなりの贅沢なのに、ここまでしてくれるなんて、この旅行もしかしなくても物凄くお金がかかっているのでは?
この乗船券はカスパル様から頂いたもので、元を辿ればエーファ様が夜会でのエスコートを頼む見返りとしてカスパル様に与えたものだ。
頂いたときは特に考えていなかったけれど、いくらエーファ様が王女だからと言って、たかが夜会のパートナー役の見返りとしては気前が良すぎるように思える。
つまり、あの乗船券はカスパル様とエーファ様が結託して私たちのために用意した、結婚祝い。
······なるほど。それは豪勢にもなるものだ。
私はひどく納得して、リーンハルト様の手を取り、馬車に乗り込んだ。
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