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リーンハルトの想起②

「私はリーンハルト様一筋なので!!」


 一瞬、彼女が何と言ったのか、理解できなかった。その言葉は、あまりにも、()()()()()()()言葉だったから。


 そして、言葉を理解した直後に、僕の胸は歓喜と、彼女への愛しさで溢れた。


 そんな言葉、()は言われなかった。


 今までも、彼女は繰り返し、僕に尊敬や感謝の思いを伝え、僕を気遣ってくれていたが、ここまで明確に好意を示してくれたのはこれが初めてだ。


 衝動のまま、この愛しい存在を一目も憚らず抱き締めてしまおうかと思って――――。




『――この、人でなし』




――――過去の記憶の姿をした幻覚にそれを阻まれた。


 頭に冷水をかけられた心地がした。

 呼吸が止まり、浮かれていた気持ちが一気に冷める。


 そうだ、何を勘違いしていた、僕は。

 僕は、人でなしだ。

 ペトラと結婚したのは彼女を僕の全てを懸けて幸せにするためで、僕を幸せにして欲しいからでも、僕を愛して欲しいからでもない。


 最近、あまりにも彼女が僕の側にいる幸せが心地よくて、彼女が僕に歩み寄ろうとしてくれているという状況が甘美で、肝心の目的を忘れかけていた。


 彼女が僕にくれた分の幸福を返す。


 そう決意して、僕は彼女と結婚したのに、また、彼女の優しさに甘えてしまう所だった。


 ······彼女の優しさに甘えた結果、()()()()()になってしまったのに。

 いけない。このままでは。僕が彼女から与えられるのではなく、僕が彼女に与えなければ、同じことの繰り返しになる。


 僕が自省していると、不意に視界に揺れ動くものが飛び込んできた。それが、ペトラの華奢で白い手だと気が付いた瞬間、意識が現実に返ってくる。


「······すまない、動揺した」

「顔色が悪いですよ、リーンハルト様」


 ペトラが心配そうに僕の顔を見上げた。彼女は女にしては背が高い方だが、それでも「女にしては」と注釈がつくもので、男の中でも長身に入る僕には及ばない。

 それに、背が高くても、彼女の腕や足は強く掴んだら折れてしまいそうな程細く、頼り無い。




 こんなにも、か弱い身体で、彼女は――――。




 僕は深みに嵌まる前に、沸き上がり続ける忌々しい記憶を振り払った。

 それを忘れたことは()()()から一瞬だってないつもりだが、それはそれとして、今は、目の前にいる彼女に意識を集中させなければ。


「······お前が浮気する姿を想像してしまって······」


 なんて酷い言い訳なんだと、内心自嘲した。一体どの口がそれを言うのかと。さっきはうっかり「浮気は駄目だ」なんて口走ってしまったけれど、僕にそんなことを言う資格は、はなから無いのに。

 それに、彼女は不貞をするような人ではない。僕はそれを()()()()()


 ······そうだ、そうだったよな、お前は。

 お前は、僕を裏切ったりはしなかった。

 裏切ったのは――僕だ。いつだって僕だった。


 思い上がるな。リーンハルト・ディルガー。彼女を裏切り、傷つけ、壊した僕が、たとえ彼女が覚えていなくとも、赦されない罪を背負った僕が、彼女からの愛を乞うなどおこがましい。




 その後、「風に当たってくる」と適当なことを言ってその場から離れた。


 誰もいないバルコニーの上で、フゥー、と手すりにもたれかかりながら、大きく息を吐く。


 久しぶりに幻覚を見て、少し気力が削がれたのだ。ペトラと結婚してから、悪夢を見ることも、幻覚を見ることも無かったのに、どうして、今になって突然······いや、だからか。

忘れるな、と取り返しのつかなくなった過去の僕が警告しているのだろう。




『ごめんなさい······』


 留めなく零れる涙を拭うこともせず、彼女はそう言った。


『ごめんなさい·········』


 彼女は、何も、悪くなかったのに。悪いのは、僕だったのに。

 なのに、僕は、そんな彼女に――――。




「っ、」


 咄嗟に口を手で覆い、込み上げてきた吐き気を堪える。


 十年以上経っても、あのトラウマは薄れたりしない。


 苦しみながらも、僕はその苦しみに安堵していた。


 ああ、良かった。僕は、あの絶望を忘れていない。


 自分の過去を忘れ、自分の罪を忘れ、何も知らない彼女に、何も明かさず、彼女から愛されることを望むようになってしまったら、僕は、それこそ本物の人でなしになる。


 しばらく夜風に当たり、手すりにもたれかかっていたら、吐き気が治まり、多少楽になった。


 長居し過ぎたような気がする。そろそろ戻ろう。カスパルやエーファ殿下がいらっしゃるとは言え、ペトラが他人の粗をつつくくらいしか能のない貴族にでも絡まれているかもしれない。


「ごきげんよう、リーンハルト様」

「······」


 そのとき、わざとらしい声で、声をかけられた。

 僕は口も利きたくないので、黙って睨み付けるが、バルコニーの入り口の前でたたずむ女は気にする素振りもなく、にっこりと微笑んだ。鈍感もここまでくると憐れだ。いや、こいつはいつだって自分の都合のいいようにしか考えられないだけか。


「お会いしたかっ」

「どけ」


 強引にどかしてもいいが、暴行されたと騒がれても迷惑だ。男ならば多少手荒なことをしても問題にはならないだろうが、女ならばそうはいかない。


「な、何でそんなことをおっしゃるの?私が会いに来たのよ」

「お前も僕も既婚者だろう。それに僕は妻以外に興味はない」


 僕の拒絶を聞いても信じられない、という顔を浮かべるそれに、ますます苛立ちがつのった。全ての男が自分を好きになるとでも思っているのか。


「あと、僕のことを名前で呼ぶな。不愉快だ」

「でも、私、ずっと貴方のことを愛してるのよ!!知っているでしょう!?」

「は、」


 僕は鼻で嗤った。


「学生時代、僕に振られた腹いせに、『不能だ男色家だ』と騒ぎ立てた癖によく言う」


 そういうと、それは、さあっと顔を青ざめる。

 まさか、本気で気が付いていないとでも思っていたのだろうか。


 この女は、僕を愛しているのではない。と言うより、誰のことも愛していない。複数の恋人を同時に持ったり、婚約者がいる男を誘惑した癖に、結局弄んだだけで捨てたりするなど、学生時代から奔放だった。


 愛していない癖に、愛されたいと望み、思い通りにならない男がいたら、逆恨みして、貶める。


 本当に、浅ましくて、醜悪だ。それでいて、自分が相手を貶めたことも忘れて、相手が自分を受け入れてくれると当然のように考えている所も気色悪い。


 昔の僕みたいで。


「僕がお前を処分しなかったのは、お前なんかと関わりたくもなかったからだ」


 本当はそれだけが理由ではないが、伝える意味もないので言わない。それに、一刻も早くこの場から離れたかった。


「あ、あんな醜女のどこがいいのよ!!」


 カッと頭が白くなった。

 ドン、と手すりに拳を思い切りぶつけると、それはビクッと、体を震わせる。


「あ、······」

「黙れ。僕ならともかく、妻を貶めるなら、容赦はしない」


 本当なら顔面に拳を叩き込んでやりたかったが、必死で堪えた。

 ここで感情的になるのは悪手だ。

 

「どけ。次はない」


 僕の殺気にすっかり萎縮したそれは、すごすごとドアの前から退く。


 僕は脇目も振らず、足早にその場から立ち去った。


 消えかけていた不快感とはまたべつの不快感が、またぶり返してくる。


 ペトラの元に戻ろう、と思った。

 この不快感から逃れるためには、彼女の側にいるしかない。




 その一心で後ろを振り返りもしなかった僕は、後ろで、それがどんな顔をしていたのか、気が付きもしなかった。

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