アドリクス・ゼノウィリアス
私は実家で冷遇されていた。お婆様が亡くなってから、私は屋敷中の人間から軽んじられ、義母や妹の機嫌が悪いときには暴言や暴力の捌け口となり、父や弟からは徹底的に無視される、そんな惨めな生活が五年も続いた。とは言ってもまあ、今から思えば、飢えることも、凍えることもなかったのだから、ドアマットヒロインにしてはかなりマシな扱いだったのかもしれない。
だからと言って、実家連中を許す気はさらさらないけれど。
前世の記憶を思い出したからと言って、十八年間生きてきたペトラの記憶や感覚が全て消えてしまった訳ではない。むしろ、前世の記憶を取り戻してから、私の中に数年間溜まり続けた痛みや悲しみは、より鮮やかになり、強い怒りや憎しみに変化した。
ペトラ・バルバトは、普通の家庭なんて知らなかった。頼れる親族や親しい友人もなく、自分の境遇を誰かに相談したり、助けを求めることもできなかった。故に、自分が家族に愛されていないことを嘆けど、それがどれ程の不幸なのか本当の意味で理解していなかった。
でも、今の私は知っている。普通の家庭は食事のときは一緒に食べるし、服だって買ってもらえる。睨んだと突然言いがかりをつけられて頬を打たれることもなく、理由もなく外出を禁じられることもない。
私は奪われたのだ。父親と、義母と、弟妹たちに。
楽しく食事をしたり、可愛らしい服を買ったり、友達を作ったり、安心して家で過ごしたりすると言う、当たり前の権利を奪われたのだ。
前世の私は、両親を早くに事故で亡くし、社会に出てから沢山の理不尽に揉まれたが、それでも、子供の頃は家族に愛され、守られ、友達を作って何不自由なく、幸福に過ごした。
親や友達に大切にされ、彼らを大切にした子供の頃の思い出が、どんな理不尽にも折れなかった大人の私を作ったとも言える。
だから、罵られ、なぶられて、世間から切り離されて育ったペトラ・バルバトが、諦観と厭世観に沈み、反抗しようとする考えすら持てなく育ったのは当然なのだ。
本当に傷ついた人間は、自分を傷つけた人間にやり返すこともできず、むしろ自分を傷つける。
そして、真っ当な親と真っ当な環境に恵まれて育った人間は、本当の意味で誰かに傷つけられることなどないのだ。
お婆様も頑張って私を守ろうとはしてくれていたけれど、お婆様は残り少ない時間で私に貴族としての教育を施すのに手一杯で、幼少期のペトラの孤独を完全に埋めることができなかった。
恨んではいないし、むしろ感謝しているけれど、それでも、幼少期のペトラには祖母だけの愛情では足りなかったのだ。祖母のように、早いうちから父親と義母がまともではないと気が付いて、諦めてしまえばよかったのだけれど、幼少期のペトラにはそれを理解することができなかった。
いつか、愛される日が来るのではないか、という期待を捨てきれずに、彼らの方に問題があるのだとは考えもせずに、彼らの言う通りに息を殺し、従順になり、気が付けば自身を擦り減らすだけの日々を過ごしていた。
そんな理不尽な環境を身勝手な理由で強いた今世の家族を私は絶対に許さない。
もう彼らの言うことなんか聞かないし、彼らの幸福を祈ることもしない。もう実家から出た身のため、わざわざ出向いて彼らを不幸にしようとは思わないが、助けを求められても助けないくらいには恨んでいる。
······だが、私以上にリーンハルト様がビオラを敵対視しているのは何故?
私はリーンハルト様に家族のことを話していない。夜会の前にマナー講師をつけてもらうことをお願いしたときも「病弱で長い間静養しており、録な社交経験がないから」と言う表向きの理由で頼んだ。何となく、自分が虐待を受けてきたとは、リーンハルト様には言えなかったのだ。
児童虐待なんて、醜聞以外の何物でもないし、家の恥だ。べつに実家連中が冷たい目で見られても心は痛まないが、お婆様の生家の名誉を貶めたくはなかった。それに、まだ、過去を誰かに話せる程、自分の過去を昇華しきれていない。
もう、自分が悪かったとは思っていないが、それでも、自分が誰かに傷つけられたと話すのは、自分の弱さを晒すようで嫌だった。
リーンハルト様は私が妹と仲良く話しているのが気に食わないなんてつまらない嫉妬で嫌がらせをする人ではない。·········はず。カスパル様に対してアレコレ言ったのは軽口の延長線上のはずだし······。
ならば、リーンハルト様がビオラにこのような挑発的な発言を繰り返すのは、私がビオラに向ける苦手意識や怒りを知ってのこと?さっきの短いやり取りで私たちの関係を察したと言うのか?
それとも、リーンハルト様は、私の過去を知っている······?
「随分楽しそうに話しているじゃないか」
若い男性の声が突然耳に飛び込んできた。私は考え事に集中していた意識を現実に向ける。
金髪に、水色の瞳を持った青年が私たちに近づく。リーンハルト様はスッとお辞儀をし、私も合わせてカーテシーをとった。
「遅れてすまない。美しい人」
「殿下······」
青年がビオラの手を取り、軽く口づけると、ビオラは銀色の目をうっとりとさせて青年を見つめる。
ああ、この人が。
アドリクス・ゼノウィリアス王太子殿下。
「お久しぶりでございます。王太子殿下」
「久しぶりだな、ディルガー卿。して、その方がお前の妻か?」
「はい」
「お初にお目にかかります、王太子殿下。ペトラ・ディルガーと申します」
国王夫妻に挨拶したときのようにカーテシーで挨拶をする。
王太子殿下はじっくりと舐め回すように私を見た後、ビオラの方を見て、ふっと微笑んだ。
「夫人はビオラ嬢とはあまり似ていないのだな」
「······母親が違いますので」
馬鹿にしてる?確かに私はビオラみたいな美人じゃないけどさ。
「黒髪とは珍しい。異国の血が入っているのか?」
「母方の祖母がタリア帝国の出身だと聞きました」
タリア帝国とはこの国よりはるか南方に位置する国。別の大陸との交易が盛んに行われている多民族、多文化、多宗教の国だとか。
「あそこか。確かにあそこは黒髪が多いと聞くな」
殿下はとりあえず聞いてみただけで、それほど興味がないようだった。いや、興味を持たれても困るな。
直感だけど、この人とはあんまり関わってはいけないような気がする。
「あのディルガー卿が結婚したと聞いて驚いたが、このような女性だったとはな。なるほど確かに、他の令嬢には目もくれない訳だ」
それは、私みたいに背の高くて髪の黒い、地味な令嬢などいないと言う意味でしょうか。
さっきまで含みも持たせた言葉ばかり聞いていたから、悪意のあるように考えてしまう。考え過ぎか?いや、多分合ってる。
だって、この人の目、あいつらにそっくりだ。
私を蔑み、馬鹿にしている目。
「ええ。本当に、他の令嬢とは比べ物にならない程の、素晴らしい妻を得ました」
「!」
リーンハルト様は淡々と、しかしはっきりと殿下に言い返す。
「そういう女性が好みなのか?」
「彼女だから好きになったのです」
殿下は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。リーンハルト様の女の趣味が悪いとでも思っているのだろうか。
「質実剛健なディルガーにお似合いだ」
殿下はそう締め括って、ビオラを連れて離れていった。
ビオラが一瞬振り返り、勝ち誇った笑みを浮かべる。
あの発言は、華やかさのない地味な私に対する嫌みだろうか。
「そっちこそ、華美柔弱な者同士お似合いですね」
イラッときた私は、小さくなる彼らの背中に向かってボソッと呟いた。
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