千社札
千社札がびっしりと貼ってある神社の写真を見かけた。
一枚の写真の中に、何百何千の千社札。一枚一枚に目を凝らす。探してしまう。「○てつ」さんの札を。
見つめること数分、どうやらこの写真には写っていないようだ、と思う。地元からだいぶ遠い神社だから、行っていないのかもしれない。
「○てつ」さんは、全く知らない人だ。
何も知らない。「○てつ」と書かれた千社札を貼りながら、色んな神社を回った人だということしか知らない。どこに住むどんな人なのか、何歳なのか、生きているのか死んでいるのか。
「○てつ」さんのことを見つけたのは、何軒目かの東北地方の小さな神社だった。その頃、私は姉の卒研の材料集めのため、一緒に神社巡りをしていた。特に仲の良いわけでもない姉との旅はとてもたいくつでつまらなかった。でも神社は良かった。どんな小さな神社でも、意匠をこらした梁や扉、長い風雨の果てに色が枯れた床や柱はとても美しいと思った。そしてやがて、それらを彩る千社札に目が留まった。
大小のさまざまな名前が書かれた札。一枚一枚に個性がある。苗字のもの、名前のもの。家紋のような紋様が入ったもの、朱がさしてあるもの。かすれたもの、破れたもの、剥がれたもの。
そんな千社札の中に、見覚えのあるものがあった。さっき回った神社にも同じ札が貼られていた。何の変哲もない、白地に黒文字で「○てつ」とだけ書かれた札だが、なんとなく印象に残っていた。
次の神社に行った。目が自然に千社札に行く。また「○てつ」の札を見つける。凄い。このあたりの神社を巡った人なのだな、きっと。結局、この時立ち寄った全ての神社で「○てつ」さんはお札を貼っていた。
姉のお供が終わっても、神社に行くたびに千社札を眺めた。たいてい、ちゃんと「○てつ」さんはお札を貼っていた。私はその札を見つけると、なんとなく昔からの友達に会ったような、懐かしい場所に立ち寄ったような安心感を感じるようになった。「千社札禁止」のところにだけはなかった。また、あまり真新しい札を見つけることもなかった。そのお札は、少し黄ばんで汚れていることが多かったが、掠れて字が読めなくなったり、茶色くなるほどに変色したものも見たことがない。「○てつ」さんはどのくらい前に訪れたのか。何歳くらいで訪れたのか。
そうして、長い月日が流れた。自分にも伴侶ができ、子供が生まれた。そして、ある神社に家族で立ち寄った。大きな古い神社だった。
私は相変わらず、「○てつ」さんの札を探して歩いた。たいてい本堂にある。そうでなければ手水の屋根にある。なかなか見つからない。立派な神社だったので、東屋があった。家族でその東屋に腰を下ろしてふと、梁を見上げた。
視線の先に、「○てつ」の札があった。そして、その札は一枚ではなかった。その札にぴったりとならべて、「○子」「み○る」「な○み」「し○」と四枚の千社札が貼られていた。
ああ、良かったなぁ。
私は「○てつ」さんのことを何も知らない。何歳の人なのか。何を目的に神社を回っていたのか。どんな人なのか。でもその五枚並んだ札を見て、「良かったな」とそれだけ思った。「○てつ」さんは幸せになったんだな、と。
それからも、神社に行くたびに梁を見上げている。