魔王と聖女・7
ラネが予想していたように、リィネは憤った。
アレクが勇者として選ばれ、魔王討伐のために旅立った経緯を知っているだけに、その怒りはラネ以上かもしれない。
「ルーカット王国の聖女は、兄さんにそんなことを言ったの?」
今まで王太子妃としてふさわしいようにと、努力を続けていたリィネの口調が、もとに戻っている。
それほどの衝撃だったのだろう。
「間違いだった、なんて。どうして、そんなことを言われなきゃいけないの?」
「リィネ」
アレクが、妹を落ち着かせるように静かに名前を呼んだが、あまり効果はない様子だった。
「兄さんは、そんなことを言われて黙って聞いていたの?」
「少し落ち着け。口調がもとに戻っているぞ」
「いいのよ、そんなことは。ここには身内しかいないんだから。それよりも、「その聖女は、偽物だったんでしょう? だから、そんなことを言ったのよね?」
そう言うと、縋るような視線をアレクに向ける。不安そうなのは、ルーカット王国に旅立つ前に、アレクが言っていたことを思い出したからだろう。
聖女は、アキの力を受け継いだラネだけ。
でも、そのルーカット王国の聖女にも、何かありそうだと語っていた。
その『何か』が聖女の記憶ならば。
嘘を見抜く力のある勇者アレクが、嘘ではないと感じたのなら、魔王討伐は間違っていたというエマの言葉が、真実味を帯びてしまう。
「俺には、嘘をついているようには、見えなかった」
リィネの泣き出しそうな顔を見ても、アレクは静かにそう言った。
「そんな……」
「リィネ、聞いて」
そんなリィネの肩を抱いて、ラネは言う。
「アレクはそう言うけれど、私には、真実だとは思えなかったの。魔王は憑依体であり、倒してもまた蘇る。彼女はそう言ったけれど、私は魔王の消滅を確信しているわ」
きっぱりとそう言ったラネに、リィネも少し落ち着きを取り戻したようだ。
「ラネがそう言うなら、信じる。だってラネは本物の『聖女』だもの。兄さんよりも信用できるわ」
妹の言葉に、アレクは少し困ったように笑っている。
彼だって、リィネを悲しませたいわけではない。
「きっと、その『聖女の記憶』を使って兄さんを騙しているのよ。そして自分の思い通りにしようとしているんだわ」
そう言われて、その可能性もあるかもしれない、とラネも考える。
歴代の聖女は、勇者の魂を使って魔王を封印してきた。
聖女のほうが勇者よりも力が上だと考えれば、嘘を誤魔化すことだってできそうだ。
「その『聖女の記憶』は、本当のことかもしれない。見た目は7歳の子どもなのに、話す言葉は村の長老のような感じだった。声も、年老いた女性のもので……」
エマのことを詳しく話すと、リィネは難しい顔をする。
しかも彼女の望みは、アレクが倒した魔王をもう一度蘇らせ、封印することなのだ。
「どうして、その『歴代の聖女の記憶』を持つ彼女が、兄さんを騙してまで魔王を復活させようとしているの?」
「わからない。もしかしたら、ルーカット王国が魔王を討伐した名誉を欲しているのかもしれないとも思った。でも、向こうでは国王陛下にも会っていないの」
向こうの王城に到着してすぐに、案内されて向かった場所に、エマがいた。
王城は静寂に包まれていて、まるで彼女が主のようだったと、リィネに告げる。
「彼女の本当の狙いは、私にはわからない。でも、ルーカット王国が彼女の支配下にあるかもしれないと思ったら、怖くなってしまって」
体調不良を理由にして、急いで戻ってきたのだと、説明した。
「それが正しかったと思うわ。あの国にいたら、兄さんもラネも危なかったかもしれない」
エマは勇者としてのアレクと、ラネの中に宿る聖女の力を欲している。
アキのときのように、ラネが死ねば、その力は今度こそエマに戻るかもしれないのだ。
「でも私が正しい行いをしている限り、聖女の力を失うことはない。エマはそう言っていた。だから、私のしたことは間違っていないと思うの」
もしラネが、自己中心的な理由で魔王との戦いを拒んだのだとしたら、聖女の力はすぐにでも失われていたはずだ。
「そうね。ラネは聖女だもの。ラネは間違っていない。そして兄さんだって、間違ったことはしていない。でもそれをあの場で言えなかったのは、国同士の関わりになると思ったから?」
「ええ」
ラネは頷いた。
クラレンスを信じていないわけではないが、まずリィネに話を聞いてほしかったのだ。
「もしこの話を聞いたクラレンスが、ルーカット王国を敵に回すことを恐れてラネを守ってくれないようなら、私は兄さんとラネを連れて、この国を出るわ」
「リィネ?」
彼女は王太子妃だ。
しかもクラレンスとは、互いに想い合っている。
それなのに、この国を出ることさえ覚悟した言葉に、ラネは慌てる。
「リィネがそんなことをする必要はないわ。私とアレクだけでも……」
ラネも、考えていたことではあった。
もしこの国が、再びアレクを戦わせるようなことをするなら、彼と一緒にこの国を出る。
養女にしてくれたファウルズ公爵とノアには申し訳ないと思うが、ラネにとってはアレクのほうが大切だった。
「ふたりとも、少し落ち着いてくれ」
今まで見守っていたアレクが静かにそう言って、リィネとラネの肩に手を置く。
「兄さん……」
「アレク……」
リィネはとても感情豊かだが、アレクはいつも落ち着いていて、冷静だ。
今回も、アレクを思うばかりに暴走しそうなリィネとラネを、宥めてくれた。
「クラレンスが、国益のみを重視して動けるような男ならば、あれほど苦労はしていない」
違うか? と優しく問われて、リィネは俯いていた。
貴族の養女になったばかりのラネはともかく、もう一年も王太子妃として傍にいたリィネが、彼を疑ってはいけない。
静かにそう諭されて、リィネはこくりと頷いた。
「うん。兄さんの言う通りだわ。まず私が、クラレンスを信じなくてはならなかったのに」
そう言うリィネの頭を、アレクは優しく撫でる。
「ごめんなさい。私が……」
クラレンスを信じなかったからだと、ラネは言おうとしたが、リィネは首を横に振る。
「ラネは、兄さんのことを一番に考えてくれた。私が悪いの。動揺しないで、ちゃんとクラレンスは大丈夫だからって、ラネを安心させなきゃいけなかったのに」
互いに謝罪し合う様子を見ていたアレクは、そんなふたりを見て笑う。
「この件は明日、クラレンスに報告しよう。今日はもう休んだほうがいい」
そう言いながら、リィネとラネを順番に抱きしめる。
「うん。ラネを守るためにも、今日は私が一緒にいるから」
ここはもうギリータ王国の王城である。危険はないのではないかと思うが、リィネはラネから離れようとしなかったので、今日は一緒に休むことにした。
ギリータ王国の王城で、ふたりが眠った頃。
静まりかえったルーカット王国の王城で、聖女エマがひとりで城内を歩いていた。
真夜中とはいえ、王城だというのに、周囲には警備兵の姿もない。
明かりもなく、暗闇に包まれた廊下を、エマはまったく迷うことなく進んでいく。
見上げるほど大きな扉を開き、入って行ったのは、謁見の間である。
ここもまた、明かりが灯されていなかったが、床が淡く光り、エマの姿を照らしている。
光の正体は、床一面に描かれた魔法陣だった。
「聖女の力が使えれば、こんな手間を掛けることもなかったのだが」
エマは溜息を付くと、しゃがみ込み、床に手を付く。
彼女が手を置いた場所から、床はさらに光り輝き、部屋全体を照らすまでになった。
まだ子どものエマでは、魔法さえも自由には使えない。
だから聖女の記憶を遡り、今はもう使われていない魔法陣を描いて、足りない魔力を補っていた。
必要なのは、器。
魔王を復活させるために、新しい器を用意しなくてはならない。
目星はもう付けていた。
勇者アレク。
聖女ラネ。
そして、かつての聖女アキ。
その三人に深く関わりがあり、今はすべてを失って虚ろのようになっている、ひとりの男がいる。
「ちょうど良い器が近くにあって、よかった」
エマは子どものように無邪気に笑うと、長い呪文を唱えて魔法を使う。
やがて暗闇よりもさらに黒い闇が、魔法陣の中心に現れた。