独立国KAGAWA
この物語はフィクションです、真に受けないでください。
某年、日本のある県にて一つの条例が県議会を通過した。その名を"ネット・ゲーム依存症対策条例"と言い、俗にゲーム規制条例と呼ばれるものだ。これは十八歳未満の子供の一日のインターネットやゲームを利用できる時間を一時間までと定めたものであり、発案当初から県の内外から喧々諤々の批難に晒されていた。
だがゲームが子供を駄目にする、子供は外で元気に遊ぶべきだと信じて疑わない規制推進派は、その狡猾な手段により巧みに反対派を抑え込み条例を通してしまったのだ。その裏ではゲーム依存症を研究する者らとの癒着や保健機関などとの献金。百万近くの県民の内の僅か数千人からのみ投票を募り、その九割が賛成したと強弁したりもして、誰が喜ぶのか全く分からないその条例は可決してしまったのだ。
そして条例は潜在的に子供のゲーム依存を心配する大人達の"暗黙の了解"により、いつの間にか県内での守るべきルールと化していった。条例を違反した子供やその保護者は「非県民」とか「うどんを食う資格は無い」などと罵倒される事さえあった。
学校の話題からゲームが消え、インターネットが消えた。条例が浸透した頃、子供たちは遊び場を外に求めた。久々に握る野球ボールとバットを持ちながら、しかし子供たちが公園で見たのは"球技禁止"の文字とゲートボールに興じる老人たち。立て看板に踊るのは「野球やサッカーなどの危ない球技はやめましょう」という白々しい言葉。
条例施行から一年後には、子連れの家庭を中心に県を離れる人が相次いだ。県議会が味を占め、自分や支援者達に都合のいい法案を次々と可決させ始めたからだ。
このままここにいても未来は無い、なら他のもっと自由な場所に移住して子供と一緒にのびのび暮らしたい。それは子を持つ常識的な親としてはあたりまえだろう。
だが県はそれに対して強硬手段に出た。県外に出る道や鉄道に検問所を設け、高速道路や空港、港を閉鎖した。事実上日本から独立したようなものだ。流石に異常だと思った頃には時すでに遅し、県民は自由に県外に出る事もままならなくなってしまったのだ。
*
それから三年が経った。ここは県の東部に位置する港町に面したとある駅、二つの線路に二つのプラットホーム、簡単な駅舎。簡素な駅舎には水色のJRの文字と"相生"という駅名が書いてある。その前に二文字分不自然に白い箇所があったが、そこに何の文字があったかまでは読み取れない。
そんなローカル駅に一本の列車が到着する、銀色のボディに赤と黄緑のラインの特急列車だ。
駅に到着すると待ち構えていた警官のような男達がどっと乗り込む。
「出県検査だ、有効な切符と許可証を準備するように」
いまや県を出るにもこの騒ぎだ。人口の県外流出を懸念した県議会は、県警察に働きかけて外部に検問管理署なる組織を作り上げた。そしてそこから派遣された検問官が、こうした鉄道駅や主要道路を封鎖し県外に出る者へのチェックを行っているのだ。
その列車のトイレで、屋島という少年が震えながら検問が終わるのを今か今かと待っていた。
屋島は密出県を企てていた。両親は県の方針に染め上げられ、屋島自身もゲームやインターネットは一日一時間を上限にして暮らしてきた。県の方針により根強く叫ばれる条例反対を叫ぶサイトにはアクセスできないようになっていたが、そんな事を知る由も無い。
だがその限られた時間の中で屋島は外の世界に友人を作り、その友人を介して自由に一日十時間でもゲームができる世界を知ってしまった。だからこそその自由を求めて、捕まれば医療刑務所で一生うどん作りに従事させられると知っていながら密出県を決意したのだ。
故郷であるオリーブの島から県都までの船は県内路線なので検問無し。港から列車に乗り込んでからが勝負である。
しかしそれを許すほど県議会も甘くない。
こうした県を跨ぐ列車については乗客の数が正確に調べられ、一人でも足りなければ大騒ぎとなる。
「足りない…!一人いないぞ!調べろ!」
検問官のヒステリックな叫びが車内に響いた。検問官が一斉に各号車へと散っていく。
「やばい…こうなれば、ままよ!」
トイレのドア越しにその騒ぎを聞いていた屋島は、トイレから飛び出し鉢合わせた検問官を突き飛ばすと、車両のドアの横にある赤いレバーを強く引いた。
エアーの音がしたのと同時に、ドアを手で開けて外に躍り出る。この列車の非常用ドアコックの存在を教えてくれたのも、外の世界の友人だ。
駅舎の外に出て、辺りを見回す。右を見やれば聳え立つ山々が見えた。
「あれが大坂峠…あそこを越えれば自由だ!」
そう呟いて国道をひた走る。財布だけポケットに突っ込んで、後は何も持っていない。まさに自由への逃避行だ。
国道は必ず検問が張られている。そう確信して旧道を行く事にした。一気呵成に走って、途中に見えた祠の裏で小休止を取る。予想に反して検問官は追って来ない、どうせ捕まると高を括っているのだろうか。
近くを鉄道のジョイント音が聞こえた。そっと覗いてみると、先程乗ってきた車両とは違う白いボディに水色のラインを巻いた古めかしい車両だ。
「あれは阿波の国からの…もう少しだ、頑張れオレ!」
そう言って頬を叩くと、再び峠道を駆け上がる。
うねうねとしたカーブの続く道を走り走り、ある曲道を曲がった直後、目の前に信じられない光景が飛び込んできた。
「通報のあった密出県者だ!捕らえよ!」
腕に"大坂峠検問隊"と書かれた腕章を巻いた検問官がそこに待ち構えていた。やはり列車の検問官から何かしらの通報があったのだ。
そして何より屋島を絶望させたのはその先の道が土砂で塞がれ、とても越えられそうになかったことだ。
「チクショウ!ここまで来て…!」
だが屋島は捕まりたくない一心で、今来た道を駆け下りていく。計画性など皆無だったが、どこか森の中に紛れてやり過ごそうと考えたのだ。
しかしその目論見もすぐに潰える。坂の下からも検問官が上がってきたのだ。
挟撃されては勝ち目は無い。諦めて投降しようとしたその時、坂の下から来た検問官が突然その場に倒れた。
「何事だ!?」
上から追いかけてきた方が叫んだが、そちらもすぐに飛んできた白い塊によって倒された。
「無事か!」
森の中から迷彩服を着た男が出てきた。
「え?はい、大丈夫です。あなたは…」
「自己紹介は後だ、さっさと逃げるぞ」
そう言いながら男は森の中へと入っていく。屋島も慌てて後を追った。
*
「ここまで来ればとりあえずは大丈夫だ。さて、俺の名前は長尾。抗香レジスタンスってやつだ」
長尾と名乗った男はそう言って、木の幹にどっかりと腰を落とす。
抗香レジスタンス、それは根も葉も無い噂程度には屋島も聞いたことがあった。年々横暴さを増し強権的になっていく県議会に対して、一部の民衆が反旗を翻したとかいうやつだ。
だがそれはあくまで与太話の域を過ぎず、居酒屋やうどん屋の会話のネタになる程度。しかし目の前の男はそのレジスタンスだと言う。
「俺達はお前みたいな密出県者を助けたいが為にこういう所にいるんだ。この大坂峠だったり、後は南の相栗峠だったり北の櫃石島にもいるな」
長尾の出した名前には聞き覚えがある。どこも県境の場所であり、県から脱出する際に候補にも挙がった場所だ。
「本当にいたんですね、抗香レジスタンスって…」
「ああ、こうして日々県議会の圧政に耐えながら抗う日々さ。それで、お前は峠の向こう側に行きたいんだろう?」
屋島は頷く。そう、あくまでこの県から抜け出し自由を掴み取らなければならないのだ。
「なら付いて来い。いつまでもここで休憩ってわけにもいかないしな」
「あ、あの。さっきの人達は…」
いくら自分を助けてくれるとわかっていても、やはりこの国の中で先ほどの様に人を倒すというのは強烈な嫌悪感を伴う。なので思わず屋島はそう尋ねた。
「検問官か?それなら大丈夫だ」
そう言って長尾は懐から白い塊を出す。
「それは?」
「これは小麦粉の塊だ。さっきはこれを相手の頭めがけてぶん投げただけよ。奴らはある意味で狂信的だからな、目覚めてもそこに小麦粉の塊があったらさっさと帰ってうどんでも作るだろうさ」
*
小休止の後、屋島と長尾は森の中を進んでいた。尾根伝いにある県境には鉄条網が張られ、常時見回りが来るために使えない。なので尾根から十分に下がった場所を草を掻き分け移動していた。
そうして少し進むと、唐突に目の前が開けた。
「これは?」
「高松自動車道、つまりは高速道路だ。閉鎖されてるって事になってるがな」
言葉とは裏腹に、目の前の道は時折トラックが音を立てて通っていた。
「高速道路は県外に出るものは閉鎖されてるはずじゃ…」
「表向きはな。だがいくらこの県がおかしかろうと、外界との接触を一切断っては成り立たない。だから県議会の厳重な指導と監視の下で、ここだけはこっそり使われているのさ」
屋島が感心しきりと言った様子でその道路を見渡すと、トンネルへと続く高架橋の隣に建設途中で放棄されたような橋を見つけた。
「あの橋は何ですか」
「良いところに目を付けた。この道がちゃんと使われていた頃は、ここだけ片側二車線になって渋滞の名所だったらしい。だからそれを片側四車線にして工事をしてたらしいんだが、結局ゲーム規制条例が通って何もかもおかしくなっちまって、この工事も凍結したままさ。
だがトンネルは貫通している、俺達はそこを通って向こう側に抜けるのさ」
説明を終えると、長尾はすぐに斜面を下っていく。屋島も後を追った。
「しかしあそこをどうやって…」
見ればトンネルの前には通る車の監視の為と思われる検問官が数名立っていた。時折車を止めて検査もしている。
「俺の仲間に連絡しておいた。そろそろ来るはずだが…」
やがて道路の彼方から一台のトラックが走ってきた。地元でも時々見る全国規模の運送会社のものだ。
するとおもむろに長尾はスマフォを取り出し、どこかに電話しだした。
「板野か、打ち合わせ通りにやってくれ。…ああ、二十分ぐらいは粘ってほしい。頼む」
「…今の電話の人は?」
「ん、板野か?ま、あそこのトンネルで一悶着起こしてくれるように頼んだあるんだ」
言葉の意味を掴み切れずにいると、トラックは検問に止められて道路脇に寄った。
しばらく経ったがそのトラックは動かなかった、遠目にも運転手と検問官が何か言い合いしているのが見える。
「上手くいった、行くぞ屋島クン」
「え?は、はい」
長尾に連れられ廃トンネルの近くまで降りてくると、何かを認めた長尾が小さく舌打ちをした。
「やっぱり前に開けた穴が塞がれてるな」
トンネルの入り口は金網で塞がれているだけの簡易的なものであったが、それでも無理に突破しようとすれば大きな音がする。長尾も諦めたのか、いつの間にか手にしていたニッパーで金網を切り始めた。
トンネルは廃トンネルのほうが使われているトンネルよりもわずかに奥まったところにある。その為、トンネルの入り口で検問をしている検問官からはこちらの方は見えない。
金網を切るのはそこそこ大きい音がするので、何か他の音がした時に同時に切る他無い。
あんまり長い時間ここにいるのも危険なのではないかと屋島が気をもみ始めた頃、長尾が小さくガッツポーズを決めた。
「よし!何とかお前さんぐらいなら通れる穴は開いた。あとはここを通って…」
その時、長尾の胸元のスマフォが小さく鳴った。
「まずい…!板野のやつ!」
「どうしたんですか?」
「検問が終わったらしい、すぐに見回りが来る。お前は早く行け!」
確かに重量のある車がトンネルを通ったような音がする、それと同時に検問をしているトンネルの方から誰かの話し声が聞こえてきた。
「で、でも長尾さんは!?」
「俺はいい!ああ、そうだ。トンネルを抜けた先にはこのトンネルを作るための建設用の道がある。その道を降りて小川を渡った先に大きい"十楽寺"っていう寺があるから、まずはそこに駆け込め。俺の名前を出せば色々助けてくれる手筈になってる」
長尾はそれだけ言うと、屋島を無理やりトンネルの中に押し込んだ。
「長尾さん!」
「行け!そしてこの県の窮状を国中に訴えろ!」
「長尾さん!ありがとうございます!」
「行けぇぇ!!」
屋島は真っ暗で先も見えないトンネルをひたすらに走った。あれだけ大きな声を上げたのだから当然検問官にも見つかったのだろう、言い合いやら取っ組み合いの音こそ最初は聞こえたが、右に緩やかにカーブしている廃トンネルをひたすら走るうちにその音は聞こえなくなっていった。
やがて視線の先に出口が見えてきた。暗さに慣れた目だからか、あるいはそれが自由に繋がる光だと直感的に理解していたからか、屋島はその光の中に身を躍らせていった。
*
一週間後、屋島は船上の人となっていた。行先は本州、姫路だ。事実上使えなくなってしまった瀬戸大橋を迂回するルートとして開設された、徳島港と姫路港を結ぶフェリーである。そしてその傍らにはインターネットを通して知り合った友人も一緒にいた。
「それでさアイツ、結局寝るのも忘れて一晩中ゲームしてたんだとよ」
友人がインターネット上と変わらないノリで話しかけてくる。屋島は不意に意地悪な事を言ってみたくなって、船から見える陸地を指さした。
「お前、それあそこでも言えるの?」
そう言って屋島は棄てた故郷の県を見やる。気まずくなって黙ってしまった友人に「冗談だよ」と背中を叩いて、しかしなお頭の中では故郷の友達や長尾という男の事を思い出していた。
密出県したいという友達は他にもいた。皆は無事に脱出できただろうか、自分と同じように抗香レジスタンスに助けて貰ったりしたのだろうか。
長尾という男は大丈夫なのだろうか、故郷が再びまともになったら是が非でも会いに行かねばならない…
*
その後屋島は長尾に言われた十楽寺という寺で教えてもらった情報を頼りに脱出県人会に接触し、その伝手で職や住まいを確保することができた。
そして働きながら脱出県人会を通して抗香レジスタンスにわずかながらの資金援助をしつつ、インターネットを通して故郷の狂った現状を国内外に訴え続けた。
屋島の活動で窮状を知った県外からのあまりに大量の抗議の声と、県民による大規模ストライキによって"ネット・ゲーム依存症対策条例"が撤廃されたのは、それからまた二年後のことだった。