お母さんがこわれた
星屑による、星屑みたいな童話です。読んでいただけたらうれしいです。
ひだまり童話館 第15回企画「くるくるな話」参加作品。
学校から帰って来て「ただいま」と声を出してみたけれど、なにも声がしない。
ちょっと気になったけどとりあえず2階の自分の部屋に行き、ランドセルを置いて1階の居間へとやって来る。
――なあんだ。お母さん、ちゃんといるじゃんか。
台所の方で、お母さんが夕飯の支度をしているのが見えた。
テレビもつけずに静まり返った中、たんたんたんたん、まな板で野菜を切る音だけが部屋にひびいている。
――変な心配して、損したな。
そう思ってソファーに座り、テーブルの上にあるリモコンでテレビのスイッチを入れたときだった。
とつぜん――そう、まったくとつぜんに、お母さんがこわれたんだ。
「アンタ、生肉食べや!」
モコモコの白い服に赤いかんざし、まるでペンギンのようなとがった口をしてお母さんがそう言った。
――どういうこと?
ぜんぜん、意味が分からない。
気がつけばいつもとちがう変なかっこうのお母さんに、何を答えたらいいのか分からないボク。そんなボクに向かって、お母さんはその後も“うわごと”のように同じ言葉をくりかえした。
お母さんが怒るたび、フリルのエプロンがゆらゆらと揺れた。
――これじゃあ、ヒツジの皮を被った狼みたいなペンギンのお母さんだよ。ボクのお母さんじゃない!
そう思った、とたん。
口から泡を吹きながらくるくると眼を回したお母さんが、バタンキューとたおれてしまった。
「お母さん、お母さん!」
そんなボクの呼びかけに、お母さんは床の上に寝そべったまま、何も答えない。
あわてたボクは、2階の奥の部屋にいるおばあちゃんを呼びに行った。
※
それから10日ほどたった、今日。
お父さんの運転する車で、お母さんのいる病院へお父さんとお見舞いに行くことになった。お父さんが言うには、救急車で病院に運ばれたお母さんはあれからこんこんと眠り続け、目を覚ましたのはつい一昨日のことだったらしい。
――でも、良かった。お母さんが無事で!
もしかしたらもう母さんに会えなくなっちゃうのかな、と毎日心配でたまらなかったボクはいつもはお母さんが座る助手席に座りながら、ほっと胸をなでおろしていた。
お父さんもきっとほっとしてるよね――と、運転席のお父さんの横顔をのぞいてみる。けれどもなぜか、お父さんの顔色は晴れなかった。
会話もほとんどないままに時間が過ぎていく。
そんな重苦しい空気の中車を走らせるお父さんが、深いため息をついてぽそりと言った。
「政彦。お母さん、命は無事なんだけど……。実は、ちょっとむずかしい病気になっちゃったみたいなんだよ」
「むずかしい病気? ……どういうこと?」
「うん……。簡単にいうとな、子どもに戻っちゃう病気なんだ。退行っていうらしいけど」
「たいこう? ぜんぜん、分かんないよ!」
そんなこといきなり言われても、小学5年生のボクの中ですべてが消化できるわけじゃない。
――子どもに戻ったって……? そんなの、ボクのお母さんじゃない!
胸の中のもやもやは、ふくれあがるばかりだった。
それとは逆に、お母さんに会いたい気持ちがぐんぐんしぼんでいく。
「お父さんもお母さんと昨日話したばかりで、よく分からないんだけど……。お母さん、お父さんのことを忘れちゃってた」
つらそうに、そして声をしぼり出すようにして、お父さんが言った。
「え!? じゃあ、もしかしてボクの事も忘れちゃってるの?」
「ああ……そうみたいだ。でもお医者さんが言うには、もしかしたら“政彦”の姿を見ることでお母さんが“お母さん”であることを思い出すかもしれない、っていうことなんだよ。だから、お前につらい思いをさせてしまうかもしれないけど、お母さんに会ってもらいたい」
「……なんだよ、それ」
「すまんな、政彦」
そんな会話が終わり、しばらくたったころ。
街外れの、どちらかといえば小さめの病院に車が到着した。
駐車場のはしっこに車を残し、無言のまま、つんと鼻をつく匂いのつまった建物の中へとボクたちは進んでいく。
受付をすまして、お母さんのいるところへと向かう。
看護師のお姉さんの後ろにつくようにしてお父さんと並んで歩いていると、お母さんの名前が書かれた扉のある部屋の前で、看護師さんが立ちどまった。
こちらを振り向いた看護師さん。
一度大きくうなずいたあと、病室の扉をがちゃりと開けた。
「奈美子さん、旦那さんと息子さんがいらっしゃいましたよ」
看護師さんの明るい声が、思ったより広い病室に鳴りひびく。
そこにいたのは、お母さん――見た目はまぎれもないボクのお母さん――が、たったひとりだった。
でもお母さんは、ボクらの顔を見てもポカンとした顔をするばかり。
いつものピンク色のパジャマ姿で足を投げ出すようにしてベッドに横たわり、まっ白い壁に囲まれた部屋の中で見覚えのある茶色いウサギのぬいぐるみを大事そうにだっこして、こちらをにらんでいた。
「あ、それはボクの“うさたん”!」
「うさたん? ちがうわ、この子は“まさひこ”よ」
お母さんは、まるで小さな女の子が出すような、舌足らずの声でそう言った。
“うさたん”は、まだボクが赤ちゃんだったころにお母さんがボクに買ってくれたものだけど、お母さんはそれすらも忘れてしまったらしい。
お父さんが、「お母さんが欲しがったので、昨日渡したんだよ」とボクの耳元でささやいた。
「政彦はボクだよ。お母さん、何を言っているの?」
「あら……そう。あなた、この子と同じ名前なのね。じゃあ、この子と仲よくしてあげて。それから、あたしの名前は“おかあさん”じゃないわ。“なみこ”っていうの。3才よ」
「ちがう、お母さんはお母さんだよ。3才の子どもじゃない!」
ついつい大声を張り上げてしまった、ボク。
すると、急におびえたような顔をしたお母さんが白い毛布をすっぽりとかぶって、姿をかくしてしまった。
「なによ、この子! こわい……」
毛布の中から、ふるえる声が聞こえた。
すると今までだまっていたお父さんが毛布のかたまりになったお母さんにすがりつき、こうさけんだ。
「すまん、奈美子。俺が悪かった。お願いだから、元に戻ってくれ!」
「……」
お父さんが何をあやまっているのか、ボクには分からない。
ただ、その声が毎晩遅くに帰って来てはやたらと威張り散らしていた以前のお父さんの声とは明らかにちがう、ということだけは分かった。
でも毛布をかぶったままのお母さんは、じっとして動こうとはしない。
たまりかねたように、看護師さんが口をはさんだ。
「ここは病院です。もう少し、声をおさえてください」
「あ、すみません……」
背中が縮こまったお父さんが、今度は看護師さんにあやまった。
そのとき看護師さんの方向に振り向こうとしたボクは、いきおい余って、ベッドの鉄の骨組み部分に肩をぶつけてしまった。
「イタッ」
それから1秒もかからなかった。
ボクの声を聞いたお母さんがかぶっていた毛布をかなぐり捨て、こちらにすり寄って来た。
「政彦、危ないでしょ。気をつけなさいね」
その目はまさしく、ボクの知っているお母さんの目だった。
でもそれも束の間。
すぐに元の子どもの目に戻るとこちらに背を向け、ウサギの“まさひこ”とままごと遊びを始めてしまった。
そのあとボクとお父さんはお母さんに何回か声をかけてみたけれど、お母さんがちょっとでも本当の“お母さん”に戻ることはなかった。
お医者さんの期待どおりにはならず、ボクはお母さんを元に戻すことはできなかったようだ。
「……また来るよ、奈美子」
さびしげにお父さんがそう告げると、お母さんはちょっとうれしそうな、ほっとしたような、そんな顔をした。
「あら、そうなの。バイバイ」
お母さんは“うさたん”の右耳を持つと、それを左右に振ってバイバイのあいさつをした。
部屋を出て長い長い病院の廊下を歩き、ようやく駐車場にたどりつく。
「政彦、帰ろうか」
「……うん」
帰りの車の中で、ずっとだまりこくっていたお父さんとボク。
でもあるとき、勇気をふりしぼってボクは言った。
「お父さん、さっき言ってたことだけど……」
「うん? 何のことだ?」
「お父さん、“自分が悪かった”って言ってたよね。あれ、どういうことなの?」
「ああ、あれか……」
お父さんが、ハンドルを握る手にぎゅっと力を込めた。
「正直、どうしてお母さんがああなってしまったのか、本当のところは分からない。でも、ひとつだけは言える。お父さんの、お母さんを思う気持ちが足りなかったっていうことだけはな」
「……。それはもしかしたら、ボクも同じかもしれない」
また、車の中が静かになった。
「でもさ……」
ボクは更なる勇気をもって言った。
「お母さんの、あのときの目……。ほんの少しの間だったけど、お母さん、お母さんに戻ってたよね」
「ああ、父さんもそう思ったよ」
「きっと、いつかは元に戻るよね、お母さん」
「ああ、戻るとも。きっとだ」
ボクの目の前は、急にどしゃぶりになった。
そのとき、お父さんがちょっとしわがれた声で言った。
「ごめん、政彦。そこのコンビニに寄って飲み物を買っていいかな?」
どうやら、お父さんもボクと同じようなことになったらしい。
ボクはだまって、うなずいた。
―おわり―
お読みいただき、ありがとうございました!
なお挿絵は、私が出した「ヒツジの皮を被った狼的ペンギンのお母さん」というお題に「よん」画伯が果敢にもお応えくださった、頂き物です。
こちらのイラストから想像を膨らませて書かせていただきました。
Special Thanks to YON !!!