旦那様視点 妻へ、愛を込めて
朝。すやすやと何の憂いもなく眠る妻は実に愛らしく、いつまでも見つめていたいが、そうもいかない。まして今日は本人から起こすようにとしつこく念を押されている。
つらいことだが、そっと揺り起こす。
「ん、うう。眠いよぉ」
「お前が絶対に起こせと言ったんだろうが」
「わかってるぅ。ん。おはよー、旦那様」
「ああ、おはよう」
寝起きの柔らかな声に、それだけで甘やかさを感じてにやけそうだ。可愛すぎる。何とか目を開けた妻はふんわり微笑むと、そっと目を閉じた。
それに可能な限り優しく口づけた。この部屋を出る前に妻に口づけることは、ひそかな俺の楽しみであったが、しかし本人の希望の元、目覚めている妻に軽く口づけるというのもまた、たまらない。穏やかな時間の中でする口付けは、静かに打ち寄せる幸福の波のようだ。
口付けを終えて目を開けると、はにかむ愛らしい妻の顔がすぐそばにあり、にやけた顔を見られた、と少し気恥ずかしくなる。しかし、相手は妻なのだ。ほかならぬこいつになら、どんな顔を見られても、恥じることはない。俺はそっと妻の頭を一撫でして離れる。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい、旦那様」
こうして見送られるだけで、頑張ろうと思えた。なんて、幸福か。シャーリーは、神が俺に与えた幸福そのものに間違いない。
そうして仕事をしていると、夕方ごろ、また妻の侍女がやってきた。本日はアンジェリカ嬢にプレゼントの為、花屋に向かったというのは当然把握しているが、何か問題でもあったのか。
館内ならともかく、外から帰ってきてすぐにとなると、不安になる。すぐに部屋に入れて話を聞く。
「シャーリー様が、明日、私室でのお茶会を希望されています」
何だ。そんなことか。急な話だし、これが外の人間に言っているならとんでもない失礼さだが、身内に言うならなんてことはない。そしてどうやら、押し花にするには非常識な量を購入したらしい。その意図はよくわからないが、特に問題はない。
夜、これから妻に会える幸福に気分もよく部屋に戻る。にこにこと機嫌のよい妻の笑顔に迎えられた。
「おかえりなさーい。ささ、今日も疲れたでしょ。肩もんであげるね」
よくわからないまま肩をもまれた。妻が積極的に俺に触れている時点でわるくないのだが、按摩の腕前はなかなかだ。明日、お茶を共にするのが嬉しいらしい。ふん。そのくらいのことなら、いつでもしてやるというのに、可愛い奴め。今度は俺から言い出してやろうかとも思ったが、そこまでしては、俺が妻にべったりだと思われてしまう。当主として威厳ある態度を示さねばならない。許せ。
シャーリーが入浴の用意をして俺に手渡し、にっこりほほ笑む。
「いってらっしゃい。あ、あと明日クッキー作るし、今日はなしね」
「……そうか」
なしか。ううむ。まぁ、俺の為にクッキーをつくるのだと言われては、仕方ないな。
「旦那様、ちゃんと起きてるし、手を繋いでお休みのキスして寝ようね」
「……ああ」
なしと言いながら、そんなにも甘い笑顔で可愛いことを言うとは、全く自分のことが分かっていないのだから。
と憤慨しつつも入浴して頭を冷やして戻る。シャーリーはベッドの上でごろごろしながら迎えてくれた。無防備に寝転がって、けしからん。
と思っているとふいに立ちあがり俺に近寄り、ベッドの上で立ち上がったと思ったら俺に抱き着いた。当然、位置関係から俺の顔は妻の胸元へと向かう。
わかっている。妻のことだ。他意はないのだろう。またぞろ、妙な考えの元、このような奇行をしているだけだ。わかっているが、もう少しほどほどにしてほしい。これでもう少し服をはだけて、もう少し強く押し付けられていたら危なかった。
「じゃあ、おやすみなさい、旦那様」
「ああ、お休み」
挨拶をして口づける。思わず舌がのびたが、生意気にも歯で防いできた。この借りは明日返してやろう。
○
翌日の昼下がり、俺は妻の待つ自室へと向かう。少しばかり早足になってしまったので、扉の前で一度足を止め、落ち着いてノックした。中に入り侍女が出て、扉も閉じたことを確認してから席に着く。
「旦那様、今日もお疲れ様。まだこれからも頑張れるようにサービスしてあげるね。はい、あーん」
「……ふん」
この妻ときたら、早々にそんな愛らしいことを言って、俺にたおやかな手で口元にクッキーを差し出してくる。ついつい指までくわえて、抱き寄せたくなるのをこらえ、望まれるまま応えてやる。
「んー。美味しい」
そして交互に食べさせあう。俺の妻ときたら、甘えん坊で困ったものだ。もちろんそれがいいわけだが。
そうして心地よい時間を過ごしていると、ふいにシャーリーは立ち上がった。本題にはいるなどと言う大げさな前置きをして、ベッド脇から大きな何かを持ち上げる。
部屋に入った時から、何かがあるのはわかったし、花なのはわかっていた。しかしそうでなくてもすぐにわかる。なんせ本人は背中に隠しているつもりだろうが、細く可憐な妻の背中からははみ出て丸見えなのだから。不釣り合いに大きな花束を持っているらしい。
その隠したつもりのまま、俺の前にやってくるシャーリーは、照れたように微笑みながら口を開く。
「あのね、旦那様。昨日、アンジェリカに押し花をつくるために花屋に行ったんだ」
「そうらしいな」
「うん。それでね、はいっ!」
はい、と元気に言いながら花束を前に出そうとして、ベッドにひっかけてよろめきいた。思わず声を出しながらシャーリーを支えた。妻は照れたようだが、微笑んだまま体勢を戻し、何とか俺に差し出した。
「どうぞ、旦那様」
「花束、か。どうしたんだ?」
花を持っているのはわかった。しかし、それを俺に渡してどうしろと言うんだ? これをそのままアンジェリカ嬢に送ってほしいということか?
それは確かに、大変だ。押し花ならともかく、切り花など、移動に耐えられないだろう。しかし、ここまでお膳立てしてお願いされたのだから、少しくらいは応えなければ。
手っ取り早いのは、向こうの街で注文することだ。どれもそう珍しいものではないし、気候の似ている向こうでも同じ花は手にはいる。しかしそれでは、届けたいというシャーリーの意向とは異なるだろう。なら鉢植えに植えられている状態で購入し直して送り、向こうで花束として完成させるか。うむ。それでいいか。
俺は頭の中でさっさと言われるだろう内容を精査して結論を出しながら、妻の返答を待つ。シャーリーはえへへと微笑んで口を開く。
「知らないの? 花束と言えば、愛をつたえるためのマストアイテムだよ。これだけたくさん愛してますってことなんだ」
「あ、愛か」
「うん。花屋にいて、思いついたんだ。旦那様に送ったら、喜ぶかなって思って」
何故愛? と思ってから、続けられた言葉に驚く。
この花を、俺に? アンジェリカ嬢にプレゼントの為に花屋に行ったんだろう? まして男である俺に花を送るなんて、どうしてそんな発想になるんだ?
驚く俺に、シャーリーははにかんで視線をわずかに泳がせて、花束も揺らすようにもじもじしてから、俺を真っすぐに見た。かすかに赤く染まった顔は、何にも代えがたいほど、可愛い。
「だから、その……旦那様、愛してます。私の気持ちを、受け取ってください」
その言葉に、胸が熱くなる。大好き、愛してると、妻は軽く言ってくれる。それはもちろん、嬉しいが、単純な妻なので、嬉しいことがあればそれですぐにその気になって言っているのだ。そう、思っていた。もちろん好かれてきている自信はあった。
それでも、元々強引に婚姻したのだ。例えシャーリーが嫌がろうと、俺を嫌いだと言おうと、手放す気はなかった。俺のそばに置いて、無理やりでも俺しか見えなくさせるつもりだった。そのつもりで、あらゆる手をうった。どんなに嫌がっても、他の道を失くし、抵抗できなく外堀から全て埋めた。妻はもはや、俺の作った檻の中に閉じ込められているのだ。
そうでないと、妻が自発的に俺を選んでくれるはずがない。無理やりにでも環境を整えれば単純な妻は適応してそれなりに馴染んでくれるという算段はあった。
だけど、そんな見苦しいほど妻を閉じ込めることしか能がない俺に、シャーリーは言ったのだ。愛していると。
全然関係がない。何でもない日だ。俺がいないところで、俺に似ているなんて理由も、俺を連想するものも何もない、ただの花屋に別の要件で行って、それで、俺のことを考えたというのだ。
それは、愛ではなくて、なんなのか。始まりは俺だっただろう。だけど今、シャーリーは間違いなく、自分から俺のことを、無意識に考え意識して思ってくれているのだ。
俺のこの喜びを、シャーリーは全く分かっていないのだろう。だけど、だからこそ、俺は嬉しいのだ。これ以上の幸福があるか。意識していないからこそ、シャーリーが俺を心から愛してくれていると言う、何よりの証明なのだ。
その結果が、この花束なのだ。
俺はそっと花束を受け取った。少し手が震えた。体中が、感動と幸福で、興奮して、言葉がうまくでない。だけど、ちゃんと、伝えなくてはいけない。
シャーリーが俺を本気で心から愛してくれているなら、俺もまた、伝えなくてはいけない。ありのまま、思いを伝えなくてはいけない。それが、俺を思って、そして伝えようとしてくれたシャーリーへの、せめてもの誠意だ。
「シャーリー、その、ありがとうな」
「あ、ど、どういたしまして。きょ、今日は素直だね、どうしたの?」
シャーリーは戸惑ったようで、そんなことを聞いてくる。なるほど、確かに普段の俺なら、礼を言うことさえ、まっすぐに言えなかった。だけど今、シャーリーがここまでしてくれて、これほどの感動を胸の内にしまっておくことなんてできるはずもない。
「ああ……嬉しいからな。お前はいつも、まっすぐだ。眩しいくらいに。だから、俺はそんなお前が愛おしい」
「!」
だから伝えよう。俺の謝意を、今までの思いを、俺がしてしまったことの全てを。俺の、愛を。全て伝えよう。大丈夫だ。シャーリーなら、そんな俺も、受け入れてくれるだろう。
俺はいつもなら絶対に言えないことも、何もかも、全て穏やかな気持ちで伝えた。
「ありがとう、シャーリー。俺を愛してくれて、ありがとう。どれだけ感謝しても、足りないくらいだ」
「ど、どういたしまして」
シャーリーは真っ赤になって、いつも以上に照れていて、もじもじとして、言葉少なになっている。
俺の愛を、全て伝えて、それでもこんな風に微笑んで、喜んでくれている。大丈夫だと確信してからでしか言えなかった、勇気のない俺だが、それでも、シャーリーはこんなに喜んでくれた。
もっと、早く言うべきだった。いやそもそも、こんな強引な手を使うべきではなかった。ちゃんと、手順を踏めば、もっともっと早く、分かり合えたのだ。
だけど、まだ遅くはない。手遅れではないはずだ。シャーリーでなければ、きっと誰も受け入れてくれないだろう。だがシャーリーだからこそ、俺の愛を、今からでも受け入れてくれるはずだ。
俺はにやける顔を隠さずに、花束はいったん机に置いて、跪いてシャーリーの手をとった。
「ああ。愛している、シャーリー。今更だが、今後もずっと、俺と夫婦でいてくれるか? 俺のずっと側にいて、俺をずっと見ていてほしい。俺と一緒に、幸せになってくれ」
遅すぎるだろう。プロポーズもなく、命令して、好きだとも言わずに婚姻させた。本人が誤解しているのはわかったが、それでもサインしたのだからと話を進めた。
今更だ。だけど今、言おう。遅すぎるけれど、それでも、言わないまま進めるよりずっといい。シャーリーと、これからもずっと、共に居たい。それを、本人の意思で。
俺が決めて、俺がさせるんじゃない。シャーリーの意思で一緒にいてほしい。シャーリーが望んだ結果、俺だけを見てほしい。
もう、俺だけの我儘で、無理やりでは、満ち足りない。シャーリーが自ら望んで、俺といてほしい。俺の妻でいてほしい。
「……は、はい! ずっと、幸せでいます! 旦那様と、幸せになります!」
シャーリーは驚いたようだったが、すぐに笑顔になって俺の手を両手で握って、そう答えた。
わかっていた。そうだと自信をもった。そうなってからじゃないと言えない俺の、なんと情けないことか。だけどシャーリーはそれをわかっているのかはともかく、今ありのままの俺を受け入れて、愛してくれているのだ。
もう、これ以上言葉がでない。胸の奥から溢れた愛で、その熱量で、体が溶けてしまいそうだ。
立ち上がると、シャーリーは赤い顔のままそっと俺に身を寄せ、俺もまた顔を寄せ、口づけた。
シャーリーを手に入れて、ずっと、幸せだった。シャーリーが俺の妻になり、誰にも手出しできなくなり、これ以上の幸せはないと思っていた。神に感謝していた。
だけど、そうではなかった。シャーリーが自分の意思で、心から俺を愛し、共に居てくれる。それがはっきりしただけで、とてつもなく、幸せだ。今後の人生、俺はずっと、シャーリーに感謝を捧げよう。こいつを、ずっと愛そう。
シャーリーを大切にしよう。俺自身を、もっと愛されるように、神がくれた宝物を、いや、もはやおれにとって幸福の神そのものであるシャーリーを、この上なく大事にしよう。そう決めた。
そして、幸せでいよう。シャーリーを幸せにして、俺も、幸せでいよう。それがただしい、シャーリーの望む夫婦のあり方だろうから。
キスを終えて、シャーリーは可憐な花びらのような唇を動かして、可愛らしい声を出す。
「旦那様、愛してる」
その響きに、何度感じても色あせない感動に、たまらずもう一度口付けてから、俺も思いを伝えた。
「俺もだ。愛している」
シャーリーが俺を愛してくれているなら、愛される俺として、愛されるよう、愛を持って、この世界の全てを、シャーリーに捧げよう。
○
そして、まだ昼間だったので、そのまま共に過ごすなど許されるはずもなく、無慈悲にも二人の時間には邪魔が入った。しかし分かり合った以上、もはや遠慮することはない。シャーリーの思いを、微塵も疑うことはない。
「旦那様、大好き!」
前よりもっと、無邪気にそう伝えてくるシャーリーは、俺の天使だ。だが、さすがに、人前では少し、俺もそのまま返すわけにはいかない。
「ふん、当たり前のことを、わざわざ大きな声で言うな」
もちろんそんなシャーリーを愛しているので仕方ないが、できればもっと声を潜めて、俺の耳元で行ってくれれば、キスの一つくらいしてやってもいいというのに。食堂でこんなに離れて言われては、人の耳もあるので、つい以前と同じぶっきらぼうな返事になってしまう。
だけどそんな俺に、シャーリーは全くへこたれない。むしろ嬉しそうにして、いつでも元気に、俺への愛を伝えてくれる。
「旦那様、愛してる!」
「ふん……俺もだ」
だから俺も、人目が少なく、距離が近い時は、そっと愛を伝えることができるようになった。シャーリーが言ってくれなければ、愛を伝えてくれなくては、きっと俺はずっと臆病なままだっただろう。
だけどもう違う。堂々と、伝えよう。
俺はシャーリーを、愛している。




