7 賈詡、騎馬民族匈奴を語る (番外編①補足説明)
馬蹄が響く。数多の男が馬に跨り草原を駆け抜ける。
彼らは一体どんな思いを胸に中華の北に広がる砂漠で己の力を誇示せんと馬に跨るのであろうか。
私が話したいことは中華の平野を越え、また大小様々な山々や其れに囲まれた盆地の先に広がる有史以来、漢民族が己の意思を持ってほとんど足を踏み入れたことのない謎多き蒙古と呼ばれる平原に住む騎馬民族匈奴のことである。
そもそもいつから、匈奴等の漢民族の住む中華の外に住む異民族が騎馬隊を持って略奪をほしいままにするようになったかと言えば紀元前5世紀から紀元前4世紀辺りからである。
なぜ前文で「くらい」と表現したか。それは正確な時期までは解かっていないためのである。
では、なぜ彼ら騎馬戦主体なのか、漢民族は地域によって差は生じるが大体歩兵が中心である。
その前に語っておかねばならないことがある匈奴等の異民族は騎馬民族である前に遊牧民族である。彼らの住む地域はまず北にあるこの時点で寒いことは容易に想像できょう。寒ければ育つ植物も限られてくる。そして、内地にありながら標高が高いため黄河などの大河の恩恵を受けることができないさらに寒さもよりいっそう厳しいものになる。そうなれば育つ植物がさらに限られてくる。
つまり、彼らはなりたくても漢民族のように農耕を主体に生計を立てていくことは極めて難しいと言わざるえない。
そこで放牧である、彼らは何頭かの馬や、羊を所有しそれらを放し飼いに自由に草を食べさせるそしてそこから草がなくなれば他の場所に移動し家畜を養う。
肥え太ったところを食べてしまうのである。
馬は漢民族の住む中華よりも蒙古などの寒冷な草原地帯の方を好む。また厳しい環境下で育ったものの方が当然気性は荒いものになるだろうし、肉体も中華の肥沃の大地で育て、何不自由なくストレスが掛からず同じ場所に居続けたものよりも強靭なものにある。
騎馬戦のノウハウは中央アジアから伝えられたとするものが一般的である。
こうして、考えてみると匈奴などの異民族は中央アジアから、騎馬戦のノウハウを伝えられる前から、既に下地が出来上がっていたのかもしれない。
騎馬戦という新たな戦法を知った彼らは次は一体どういった行動に移るのか。騎馬戦という戦型は匈奴等の異民族が漢民族に対して持つ戦のステータスになったに違いない。
騎馬の利点を述べよう。
まず一つ目に拠点から拠点への移動の速さ格段に速くなる点である。
孫子の兵法にも「兵は拙速を尊ぶ」と言っているほど大事である。兵の行軍速度が速ければ相手よりも先に目的地に着くことができる。そうすれば後に戦の主導権も握りやすくなるしその土地に策を施すことも簡単になる。つまり、相手に対して、これだけでも大分有利になる。
そして、二つ目は速さを生かした機動力。こちらも上の一つ目となんの変りもないと思う人もいるかもしれないが、実は上に書いたことはどちらかと言うと戦略的視点であるがこれから私が書こうとしている二つ目の利点は戦術的視点と思ってほしい。
騎馬隊その機動力でチョコマカと蝿の様に動きまわることで相手の士気を落とすことができる。こちらは戦術的視点の中でも特に心理的優位性である。
そして、圧倒的な突破力である。敵陣に騎馬のもつ速さと騎馬に跨っている際の位置的優位性をこの二つを余すことなく十分に生かすことができれば、歩兵にとっては狂猛なる刃になりうるだろう。更に放牧民族は日常から馬に乗って移動しているので漢民族に比べて乗馬の技術は圧倒的に高い。そこで登場したのが弓騎馬である。匈奴等の異民族は乗馬している不安定な位置から弓を放てるようになったためそれまで苦手としていた槍隊にも互角以上に戦えるようになった。
騎馬の持つこれらのステータスを生かして、彼らは生活の糧として略奪という方法を思いついたのである。ここからが、騎馬民族と漢民族の長きに渡る熾烈な闘争の始まりである。
作中でも出したが春秋戦国時代で最も有名な例がある。
趙の名将李牧だ。彼は、敢えて、異民族の匈奴の侵攻を許し匈奴を慢心させたところを大いに討ち破り匈奴の族長に当たる単干が必死に逃げて後ろを振り向いたときには無数の屍の山であったという。
また、今度は悪逆皇帝として中国では有名になっている始皇帝である。彼は中華においては、自分に敵対する勢力を認めないという強硬な姿勢で民衆の思想を弾圧し法で厳重に縛ったが異民族の匈奴までは自分の思うようにできなかった。故に後の世にも有名になった万里の長城をそれまで各国ばらばらだったものを繋ぎ合わせて辺境の防衛を堅くしようとしたのである。
そして、三つめの例として、前漢の武帝を挙げよう。彼は後の世では始皇帝の理想の体現者である。と言われることがある。その理由として先程にも述べた敵対者を認めず自分がこの大陸で唯一無二の絶対君主であるという理想を雲去病に命令し長城外の異民族である匈奴を服従するまで征伐したという。これによって漢は高祖劉邦が建国して以来、空前の繁栄を得るがこの時に衰退の種がまかれた。
最期の例として、雲去病少し前の世代の将軍李広を挙げよう。彼は若かりし頃異民族討伐で名を挙げ匈奴等の異民族の間では「飛将軍」と呼ばれ恐れられた男である。しかし、晩年は哀れなもので自分が当時大将軍であった衛青から従軍の際に後方に追いやられたことを自分の将としての人生はこれで終わったのかと思ったのか自ら首を切りこの世を去った。彼の死は前線の民から非常に悲しまれた。これからいかに彼が民から信頼を得ていたのか想像に易いだろう。
ここで匈奴等の異民族に関する説明を終わりにしたいと思う。
また転生者として生きることになった私、賈詡文和はこの異民族と切っても切れないくらい固い因縁に結ばれることになる。
今後も賈詡の覇道を読み続けてくれると嬉しい。
では読者の皆様がた今日はここでさようなら。