6 賈詡、父の想いを胸に晋陽へ ②
「皆さん、準備はできましたか。」
賈詡が自分以外の賈家の人間をぐるっと見まわす。
今の賈詡の姿はなんと表現したら好いか私には解からない。強いて言うなら、まるで大木のようだ
ところで前述した通り賈詡は七歳である。つまり、物理的には見まわすというより見上げるが正しいのではないのかと思われるのでないか。
そもそも、なぜ家中の人間が賈詡の言うことを張遼はともかく、皆従っているのか、その理由は二つあると思われる。
一つ目は賈詡の母親である紫遥だ。彼女が賈詡の言うこと全て聞いているからだ。勿論、賈詡の持つ類まれない智謀を持っているということ長い付き合いの上で誰よりも肌身で感じているからだ。
そして、紫遥は亡き夫賈瞬に賈詡を投影していたのかもしれない。
二つ目はこの時既に賈詡が覇気だけでなく王者としての風格を持っていたということもある。皆、彼の言うことをただの子供の意見として無視できなかったどころか、彼の意見を聞いていると不思議と安心できるのである。
「はい、ただ今出来ました。」
張遼が答えた。
張遼と賈詡の間にまだ明確な臣従は出来ていないが、張遼は心の中では一生仕えると誓っていることは前述した。一方賈詡からしてみれば今の張遼の態度に違和感を感じるものがある。当然のことであると言える。父である賈瞬の亡くなる前までは、張遼は賈詡へ主の子として、最低限の礼儀は忘れていなかったがどこか、賈詡のことを不思議な人間と感じているところがあり、その賈詡への微妙な心境が態度にも表れていたからである。しかし、賈瞬の死後大きく変わった。それまでの微妙な心境から使命感のような固く熱い焼け石のような感情が賈詡の目に張遼の態度から見られたのである。その理由は前述している。
「母上の方はどうでしょうか。」
賈詡が張遼からははである紫遥や他の使用人へと視線移した。
「こっちは準備万端ですわ、文和。」
紫遥が賈詡に逃走の準備が万端になったのか胸を張って答えているように見えた。
賈詡は体は七歳であるが中身は既に三十くらいである。つまり、いくら肉親とは言え、美人が自分の前でその巨乳を揺らせば、この緊迫としている状況の中では目に悪いどころではない。中身が三十であるために悶々としたものが溜まってしまうのである。はっきり言えば性欲である。
「わ、解かりました。では皆さん背負うだけ背負いましたか。それでは晋陽へ行きましょう。」
賈詡は多少言葉に詰まりながらも晋陽への逃亡を宣言したのである。
宣言といっても大衆の前で堂々と行うようなものではなく賈家の人間の間で静かに皆無言で互いに見つめあったあと小さく頷いた程度のものであった。
こうして、賈詡一行の逃亡劇が始まったのである。
「李儒、これは一体どういうことだ。」
身長九尺を超えるのではないかと思われるほどデカイ漢が李儒に掴みかかっていた。その形相は正に怒りに震えた鬼のようなものであった。
「だから、華雄殿、賈瞬さんの死は不幸なものだったて何度も言ってるじゃないですか。私が行ったと時既に賈瞬さんは討たれる寸前だったんですよ。」
李儒は小物である。故に賈瞬のような知勇兼備、人望溢れるような人物は恐れるが目の前の明らかに猛将といった体格の漢に襟を掴まれ、宙を浮いているのにも関わらず恐れといった感情を顔に出さないどころか軽蔑に近いような目でデカイ漢を見ている。
デカイ漢の名を華雄という。彼は李儒のことを疑っている。しかし、明確な回答を自分の中で得られないのでこうして李儒に突っ掛かっている。
華雄という漢は前線の指揮官としてはその武勇を持って大いに実力を見せるが、政治や謀略といった分野はからっきし駄目で人望もさしてない。だから、李儒にとってもこの漢は決して扱いづらい男ではなく、むしろ御しやすいのであった。そしていつも通り軽くあしらわれる。
「私が賈瞬さんのことを殺して何の得になるというのですか。むしろ、董卓様に睨まれて殺されることになる可能性の方が高いではありませんか。そんな採算とれないことするわけないじゃないですか。」
華雄にはこれ以上李儒に言い返すことができない様子だ。
その様子に悔しさが見てとれる。
「李儒、お前は本当に賈瞬を殺したのではないのだな。」
華雄は李儒にドスを利かす。しかし、華雄の質問はあまり生産的なこととは言えない。例えるなら殺人犯に対して「お前が犯人なのか?」と聞いているようなものであるからだ。
「しつこいですよ。私が賈瞬さんを殺すはずないに決まってるじゃないですか。そんなに私を犯人に仕立てあげたいのですか。それなら、こっちにもそれ相応の手段にださせてもらいますよ。」
そう言って李儒が華雄に凄むと華雄は董卓に睨まれて自分が殺されることになるやもしれないと思い、李儒を下した。
「すまない。ついカッとなってな。」
華雄は納得したわけではないようだが取り敢えず李儒への疑いを一旦頭の中から消して不幸な事故として処理することに決めたようだ。
「気をつけてください。」
李儒は結局最後まで白を切りとおした。その後華雄はその場を去った。
「ふ、愚か者め、これだからお前は猪等と呼ばれるのに。」
李儒は華雄が去った後それまで華雄に対して向けていた軽蔑の目をより一層強くした。同時に扱いやすいこと再び確認して、使えるうちは使ってやると誰にも聞こえないように心の中で呟いたのであった。
そして、董卓の部屋へ戦後処理の報告をするために急いだ。
「賈詡様は、追手に捕縛されていたりしないでしょうか。」
張繍の部下の一人が張繍に不安げに聞いた。
「解からない。賈詡様がとても優秀であるということは賈瞬様の伝聞から聞いているが、こればかりはどうしても運に頼らざるえない。もし、賈詡様が討たれているようなことがあれば、そのときに仇討ちのことを考えればいいではないのか。今はただ、前だけ見てろ。振り向いたら戻れなくなる。私も含めてな。」
張繍に賈詡の生死に関して質問した兵が納得したのか、それ以上は何も聞かなかった。
「張繍様、賈詡様は一体どれだけの兵で追われているでしょうか。」
先程とは、違う部下が張繍に聞いた。
「それも断言することはできぬが、李儒とは一度会っている。奴の性格の陰険さは極め付けだ。そして、臆病さはさらに上を行く。我らの思っている兵力よりも多いと思っておけ。警戒は怠るな。」
最後に述べておこう。
賈瞬と華雄は友として長い間友好を維持してきた。
賈瞬は無骨者で引っ込み思案な華雄の唯一の理解者といっても過言ではない。賈瞬は部一辺倒であるが真っ直ぐな気性の華雄を気に入っていた。
華雄は数少ない自分の理解者として共に笑いあえる友として誰よりも賈瞬のことを気に入っていた。
しかし、その二人の関係は李儒の謀略を持って引き裂かれることになったのである。
華雄が哀れで仕方がない。そんな彼の姿は李儒と去った後悲壮に暮れていた。
だいぶ後になるが華雄の最期は決して良いものではなかったと言える。
その亡きがらは最期の最期まで悲しげなものであったという。