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そんな状態だったので、つい忘れていた。
私のこの羞恥心を打ち消すほどの、黒い代物のことを。
宿題をしなければと鞄の中から教科書を取り出した時、一緒に手帳がこぼれおち、そこでようやく手帳のことを思い出した。
こういうものは、中身を見てはいけないのだ。そう思って鞄に戻そうと思ったが、開いた場所に、視線が外せなくなるような記述を見つけてしまった。
「なんで、キース……」
まさかキース信者か? 一応逆らわなければ優しいわけで、だから女の子がくっついて歩いていたんだろうし。
しかし違った。
《まさか、こんなことになるなんて》
《何も気づいていないと良いんだけど》
日記帳で短くそんなことが書かれている。この辺りは、どうも妄想を綴ったわけではなく、スタートした学校生活における出来事と結果を書き記しているようだ。
ぱっと見、因縁のある人物を視界にいれたくないのになんで同じ学校に! と苦しむ少女のお話としか思えなかった。
むしろどうしてここまでキースを避けたいのか。
新手の妄想の形なのだろうか? 運命の恋人ではなく、宿命の敵、のようなもの?
私がキースを苦手にしているせいだろうけど、マイナスな理由の方が確かに納得しやすかった。
あれこれと推測していた私は、おかげでアンドリューの行動で波打っていた心が凪いでいた。大変お世話になった手帳を鞄にしまい、柏手を打って拝む。
「うっかり見ちゃいましたごめんなさい。だけどほんの二ページ……最初のページ含めて三ページか。でも、おかげで私は平静を取り戻せました」
そう、私はこの手帳の主とたいして変わらない。たまたまクラスメイトが王子と王女と騎士だっていうだけの、平々凡々の人間なのだ。
卒業するか、彼らが国へ帰るかしたら、もう一生会えなくなる相手。
だからこそちょっとだけ……夢見ちゃったんだよね。接点がなさそうな高みにある存在って、そういうものじゃないだろうか。
だからこそ私は願う。
フェリシアという外国名までつけてしまった彼女が、こじらせすぎてキースを倒しに行く前に、覚醒するようにと。
そんな見ず知らずの恩人のため、私は朝も早くから登校してきていた。
とはいえもう7時。部活動で朝練をしている生徒が、グラウンドを走ったりしている。
意外に人がいるんだなと思った私だったが、校舎の中は別だ。用もないのに、こんな早くから学校へ毎日来ようという人間はめったにいない。
私は早々に、昨日の北側の庭へと急いだ。
まずは校舎の窓からのぞいてみると、遠くに女子生徒らしき人影が見える。
何かを探すようにうろうろしながら東側へと校舎を回り込んで姿を消したのは、もしかすると手帳の持ち主ではないだろうか。
「よし、今だ」
私は忍者もかくやという素早さで木に身を隠しながら昨日の場所へ接近し、そっと手帳を置いて退却した。
さらに窓を少しだけ開けて、私は窓に背を向けて立つ。姿を見てはならない。それが同志への優しさというものだ。
やがて「ああっ!」と何かを見つけたような声が聞こえてくる。
しばらく待った私は、振り返ってあの手帳が無くなっていたことを確認し、ふっと微笑んだ。
無事、あの手帳は本人の元へ戻ったらしい。よかったよかった。
教室へ向かった私は、良い気分で席に座って空を眺める。
「おはようございます師匠!」
三十分ほど後になって、登校してきたエドが挨拶に来る。
「うんおはよう。エド」
逃げずに穏やかに応じた私を、エドは不審に思ったようだ。
「師匠……逃げないのですか」
エドは逃げるのが私の生態なのにと言いたげだ。それは君のせいだと言いたかったが、機嫌のいい私は笑みさえ浮かべて答えた。
「うん、今日はエドの課題もちゃんと考えてあるから」
だから尚更に私は機嫌が良い。眠る前まで、エドのことを考えねばならなかったことには忸怩たるものを感じるけれど、おかげで明日のことを不安に思わず安眠できたので良かった。
「して、その課題とはいかなもので?」
「ちょい耳貸して」
指先をくいくいと曲げてエドを呼んだ私は、後ろ暗さから、ちらりとアンドリューを横目で伺う。
アンドリューは自分の席へまず直行して、そこで他の男子と立ち話を交わしていた。よしよし、これで聞かれる心配はない。
私はエドに、昨日考えた課題を告げた。
「アンドリューの花嫁を捜すなら、まずはアンドリューの好みをしっかり抑える必要があるでしょ。そしてエドはそういうのをはっきりとは把握してないんじゃない?」
「そういわれますと確かに……」
「だから、まずはアンドリューの行動調査をするのよ。じっと目で追っちゃう女の子とか、言葉の端々で、好みの女性の特徴を挙げることもあるでしょう。そういった情報を集めてきて、私に報告するの」
ほーとエドが感心したようにこちらを見ている。
ふふ……上手くいったようだ。
こうしておけば、エドは今まで通りにアンドリューの側にくっついて歩くだけだ。誰にも迷惑をかけず、ちょっと貼り付かれすぎてアンドリューが気味の悪い思いをするだけ。
何より、アンドリューはエドと一緒にいることに慣れているのだ。
この世界でも一緒のマンションに住んでいるらしいし、問題ないだろう。
エドのことだから何か勘違いして私に報告を寄越してくるだろうが、その度に追い返せばいい。
ちょっとソレ違う気がするな―とか。もうちょっと強く感心を向けてる子とかいない? とか。それで多分、向こう三か月は余裕でエドをあしらえるはずだ。
万が一エドがきちんと情報を集めてきたとしても、かまわない。本気でアンドリューのお相手を選定して、セッティングをもくろんで仲良くさせるのみだ。
後はエドに見守るよう厳命しておけばいい。
これで少しは追い掛け回される率が低くなると思えば、心の中のほくそ笑みが口元に現れそうになった。おっといけない、と引き結んだのだが、遅かった。
「師匠、なんだか悪人顔になってますが」
「三白眼に言われたくないんだけど」
年頃の女の子に悪人顔とはどういうことだ。思わず言い返した私は、席に鞄を置いてやってきたアンドリューに気づいて、用意していた袋を手に立ち上がる。
「アンドリュー、これありがとう」
差し出したのは、もちろん借りていたジャケットだ。
袋の中に入れたのは、人前でジャケットを返したら私が借りたことが丸わかりなわけで。そうすると、いくらアンドリューが親切心ゆえにしてくれた行為でも、恋愛沙汰と曲解される恐れがある。それを防ぐためだ。
そんなことになったら、間違いなくエドが私をつけ回しかねない。
私は静かな毎日を取り戻したいのだ。異世界の王子様や騎士様に、心乱されない日々を。
アンドリューも「役に立って良かった」と笑顔で答えたのみで、ジャケットを受け取るとあっさりと離れていく。
彼のそっけなさに、やっぱり濡れ鼠になった哀れな同級生だったからジャケットを貸したのだ、という推測を肯定されたようで、ほっとするような残念なような気持ちになった私だった。