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しかし笑っている場合ではなかった。
エドが口を引き結んだ。
次の瞬間にはジェットコースターに乗せられたかのように、上下にもみくちゃにされる。
「…………っ!!」
何が起こっているのか、把握できない。
とにかく上下左右に自分を抱えたエドが文字通り飛び回っている。
壁を蹴って対岸の壁を駆け上がった末に宙を舞い、元の岸へ戻ろうとしたところで、不意に方向を変更したように川へ落下。
地面にたたきつけられるかと涙目になったところで急上昇。
体にかかる重力とか風圧とかで息もできず、恐怖で泣き叫ぶか意識を失うかの瀬戸際で、エドが何かにぶつかられたように横に吹き飛ばされる。
「ぎゃあああああっ!!」
私は恥も外聞もなく叫んだ。
もう怖い。我慢の限界だ。
助けてくれとばかりに、思わず手近なものにしがみついてしまう。
「……師匠」
エドの呼びかけには、とうてい答えられなかった。突然戦闘機に乗せられてアクロバット飛行されたような中で、平気な人がどれだけいるだろうか。
もう移動は止まっていたのに、エドの首にしがみついた腕が震えている。大丈夫だと言われたって、たぶんすぐには外せないだろう。
「師匠」
「な、なに?」
「私と心中するのと、相手を屈服させるのはどちらがお好きですか?」
「えっ、なんで私と心中なんかするの!?」
驚いた瞬間、私は首から手を離していた。とたん。
ぺいっ。
やや乱暴にエドにおろされる。
慌てて足をつけて着地した私は、自分の横を駆け抜けていった風を目で追って、息を飲んだ。
騎士同士の戦いがそこにあった。
お互いに剣は手にしていない。殴り合うその戦い方が、異世界人ならではの速さや勢いで現実味のない代物に見えてしまった。SF映画を見ているような感覚だ。
けれども勝敗は決しようとしていた。
それまでは私を抱えていたエドが動きを制限され、逃げ回るばかりだったのだろう。エドが自由に動き回れるようになった今は、確実にキースを追い詰め――ているのか?
時々木立に隠れるので判別しづらい。
けれど、空高くから叩き落されたキースを見て、私の傍に降り立ったエドの姿に、勝敗が決したことがわかる。
「やはり手加減が必要だと、やりにくかったな……」
無表情でそんなことを言ってのけるのだから恐ろしい。
前も思ったのだが、殺す気でかかった方が楽だとか、どんな殺伐としたことばかりしているのだか。
なんにせよ、キースは倒れ伏して動かなくなったし、一安心できるだろう。
「あれ? エド怪我してる!」
ふくらはぎのあたりが、ズボンが切り裂かれている。薄暗くてはっきりしないが、血も出ていそうだ。
まさか、私を抱えている時に一度キースの攻撃を受けているっぽかったから、その時の怪我だろうか。
言われて気付いたエドは、なんでもないことのように言う。
「問題ないでしょう。これで痛がる者など、騎士として働けませんから」
「え……そ、そうなの?」
確かに痛かったら注意力も落ちるだろうし、いろいろ不都合はあるだろうけどさ。こわいよ異世界人……。
「それはそうと、キースはあれ、死んでないよね?」
ぴくりとも動かないのだ。しかもちょっと地面がへこんでる気がするんだよ。普通の人間なら生きていられないんじゃないだろうか。
「問題ありません。師匠を自殺に追い込もうとした輩です……ご無事でなによりでした」
「……う、うん。その、助けてくれて、ありがとう」
そういえばエドに礼を言う暇もなかった。
礼を言いかけたところで、アニメのごとくカッコいい登場の仕方をしたエドのことを思い出す。
なんでか恥ずかしくなって顔をうつむけそうになり、でもそれはいけないと思いつく。
礼ぐらいはちゃんと相手の顔を見て言うべきだし、エドが相手なので、ちゃんと喜んでいると分かるようにしなければ。
そう考えてなんとか笑みを作って見上げる。
するとエドがはっとしたように息を飲んだ。信じられないものを見たように目を少し見開き、そっと視線をそらす。
なんだろう。師匠様が微笑む姿はうれしくなかったのだろうか。
少々不服に思いながらも、キースを念のため縛り上げに動き出したエドから離れ、私は倒れたままだった笹原さんの方へ近づく。
ちなみにエドは、なぜかポケットに細い縄を持っていた。
笹原さんは、地面に横向きになって眠っていた。特に苦しそうな顔はしていないので、ほっとする。
「笹原さん、笹原さん」
ゆすり起こそうとしてみるが、笹原さんは目を覚まさない。
異世界の術とやらのせいだろうか。よくわからないのだが、そのあたりはアンドリュー達に頼るしかないだろう。
嘆息して、エドを振り返ろうとしたところで、異変に気付いて笹原さんを振り返る。
笹原さんの額の辺りから、ふわ、と光の玉が滲み出していた。
「え……火の玉?」
自分で口に出しておきながら、心の中でいや違うだろうと思いなおす。
燃えてないし、光ってるだけだし。
思わず手を差し出そうとしたところで、その指先をかすめるように何かが高速で飛んできた。
「っ!」
思わず避けた時に、わずかに石らしい影が見えた。
「師匠!」
エドの声が聞こえた瞬間には、風に押されるように舞い上がった光の玉に、手を伸ばす人物の姿が見えた。
額から血を流しながら、光だけを見つめているキース。
けれどキースの手の先から逃げるように光の玉が滑り下り、私の顔面にぶつかった。
「……っ!?」
火花が散ったようだった。頭を石で殴られたみたいな衝撃だけが脳裏に伝わって、一瞬意識が暗転した。
我に返るよりも先に脳裏にひらめいたのは、真っ青な空と白い尖塔。
その下にある石造りの門を通って、馬を進めてくる『父』だと思ってしまう人と『初めて見る』と考えてしまう、金茶の髪の年上の少年……。
それが何かを私は理解した。
フェリシアの記憶!
どうしてなのか、考えたくても流れ込むように思い出してしまう記憶が思考を邪魔する。
そのままならなさに発狂しそうだった。耐えきれなくて悲鳴を上げる私を、誰かがかばうように掴んだ。
「貴様、我が師匠に何を!」
「俺は何もしていない。見ただろう? フェリシアが彼女を選んだだけだ……この兄を選べばいいものを……ふふ」
聞こえてくる声に、私の心がうずく。
――彼が好きだった。
「違う、違う!」
反射的に叫んだ言葉に、頭痛がする代わりに少しだけフェリシアの記憶が遠ざかる気がした。
「私はフェリシアじゃない! あなたは何がしたいの!」
何がしたくて私の中に入ったのか。
叫び続けて、涙がにじむほど頭が痛くなったけれど、ようやく少し物を考えられるようになった。そんな私を、まだ支えている腕はエドのだとわかる。
目の前のキースも、辛うじて立ち続けながらこちらを見ている。
そんな中、もう一つ別な手が私の背に触れた。
「こっちはいいよ、エド。その男を捕縛してくれ」
アンドリューだ。
「ご下命、承りました」
言葉と同時にエドの腕が離れた。
よろめく私を背後から受け止めたのはたぶんアンドリュー。
エドは素早くキースに接近して殴り倒そうとする。
けれどキースも腐っても騎士なのだろう。
先ほど叩きつけられた痛みも感じていないかのように、エドの頭上を飛び越えてこちらに接近してきた。
驚く間にアンドリューが私の前に出る。
しかしアンドリューは持っていた枝を剣のように振るい、足を払われたキースが態勢を整えるために地に足をつけば、エドが足払いをかける。
そのまま縄で、あざやかにキースの腕を後ろ手に戒めた。
「お手を煩わせました、殿下」
「ちょっと油断したね、エド。でも大丈夫」
一瞬の出来事を、霞みそうな視界で追っていた沙桐は、背中を支えているアンドリューに言われるがまま、その場に座り込む。
「先に沙桐さん、君をなんとかしよう」
「アン、ドリュー…?」
座ったまま顎と後ろ頭を支えられて、顔を上向けさせられた。
一体どうするというのだろう。
フェリシアの記憶が教えてくれている。
『術』は主に貴族の中で、わずかな者だけが生まれながらに持つ能力のようなもの。他の者には防ぐこともできないはずなのに。
防ぐか解除できるとしたら、制約を課した王族が、術者にそうするよう強制するしかないのだ。
それを知っているはずなのに。
「アンドリュー王子。いかに王族と言えど、ガーランドの王族ではない貴方には、私を……っ!?」
キースも同じことを思ったのだろう。笑いを含んだ声でバカにしようとしたのだろうが、その言葉が途切れる。
私もよく見えないながらも状況を認識して息が止まりそうになった。
アンドリューが、私の額に口づけている。
ほんの一瞬の後、顎を抑えていたアンドリューの手が額に移動した。
一緒に目を塞がれた私の耳に聞こえてくるのは、異世界語による呪文のような言葉の連なり。
それと共に、頭の痛みが引いていく。
――引きはがされる。
その感覚に、心が泣きたい気持ちであふれる。
どうして泣く必要があるのか。私じゃないものが離れていくだけだ。
疑問に思う私の頭に、一つの言葉が浮かぶ。
まるで記憶の残滓みたいに。
亡くなったはずの記憶の持ち主が……死んだ後で何かを思ったかのように。
気付いた時には、アンドリューの手は離れていた。
「大丈夫? 沙桐さん」
いつもと変わらない笑みと、彼の左の掌の上に浮かぶ光に悟った。
アンドリューは、フェリシアの記憶を抜きだしたのだ。
「ありえない……」
私と同じ感想をつぶやいた相手に視線をめぐらせると、既に涙が止まった私の目に、エドに捕縛されたまま、呆然としているキースが見えた。
そんなキースを無視し、アンドリューは私に自分で座れるかと確認すると、立ち上がる。
エドにはそのままでいるように言い、アンドリューはどこかへ電話をかける。
その後すぐに息をきらせて駆け付けたのはオディールだった。
ジャージ姿でも美しさを損なわない王女は、息継ぎしながらアンドリューに勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありませんでしたわアンドリュー殿下! うちの国の者が迷惑をおかけするなんて!」
重ねて「どうしたら御礼ができるでしょう」「騎士様にもお手数をかけてしまって」と謝罪を重ねていくオディールを押さえる頃には、私も頭痛の名残もなく話せるようになった。
とにかく、キースが何かやらかしたらしい、としかアンドリューが伝えていないのは電話での会話を聞いてわかっていた。なので、私は大まかにオディールに教える。
キースが実は記憶を取り出したり人に植え付けたりできる人で、それを使って妹二号をつくろうとしていたという、実に寒気のする話を。
話を聞いていたオディールは、途中でちょっと目を見開いて考え込む表情をしていた。
簡単な概要説明が終わると、アンドリューがオディールに尋ねる。
「処分について話そうと思って、君を呼んだんだ。君の国の所属だからね」
「ご配慮ありがとうございます……でもこの場合……一番の被害者に聞いてもよろしい?」
オディール王女は、倒れたままだった笹原さんを気の毒そうに見た。
確かにオディールの言う通りだろう。
その提案にアンドリューがうなずき、笹原さんを揺り起した。
フェリシアの記憶も抜けたせいだろうか。今度はすぐに彼女は目を覚ました。
「えっ、アンドリュー様!? あの、私……っ、キース君!」
状況が呑み込めずに混乱したようで、キースを見た瞬間、彼女を後ずさりした。
「落ち着いて、笹原さん」
アンドリューがそんな彼女をなだめ、現状を説明する。
笹原さんも、夢うつつではあったようだが、キースに記憶を奪い去られようとしていたこと、そして自分がフェリシアではないと言われたことは覚えていたらしい。
「……本当に私、関係なかったなんて」
改めてそれが真実だと言われて、笹原さんの目に涙が浮かぶ。
自分が、オディールを巻き込んで心中したのかもしれないと、罪の意識にさいなまれたり、心をかき乱されてきたのだ。どう怒っていいのかわからないのかもしれない。
唇をかみしめる笹原さんに、アンドリューが言った。
「どうする? オディール王女からは君の意見が聞きたいと言われているのだけど」
「オディール様……なんてありがたい……」
笹原さんはぺこぺことオディール王女に頭を下げた。
とはいえ、笹原さんはどうしたらいいのかわからないという。
「もう今は、心の中がぐちゃぐちゃで……」
落ち着いて休みたいと漏らす彼女に、無理もないと私は思った。
一瞬だけでもフェリシアに乗っ取られかけた状態だった私でも、恐ろしくぐったりとしてしまっている。数か月も自分の物だと感じていた記憶を引きはがされ、笹原さんは精神的にも疲れ切っているだろう。
「ではやはりオディール王女、あなたのお国に強制送還ということになりますか?」
アンドリューが話を振ると、オディールもうなずいた。
「これ以上何もできないよう、制約をかけた上で……そうするしかないでしょうね。でもそれだと、貴重な術者だからと利用するために、自由にしてしまおうという意見が出るかもしれませんが」
二人の話に、私は眉をひそめた。
このままではキースは普通に国に帰還して、謹慎を命じられるぐらで許されてしまう可能性があるらしい。その能力を生かすためにという案に家臣たちがこぞって賛同したら、王女に迷惑をかけた、異世界人に迷惑をかけたぐらいでは突っぱねることが難しいようだ。
しかも能力があると言わなければ、強制送還の理由がつけられない。
それじゃ私の恨みも、笹原さんの苦悩も……フェリシアだって浮かばれないではないか。
だから私は手を上げた。
「ね、私の案を検討してくれる?」
アンドリュー達が私を振り返る。
「たぶんこれやったら、どれだけ自分が酷いことしたのかと反省するだろうし、やみくもに使えばどうなるかわからないって、心に刻まれると思うんだけど」
私の話に強く興味をひかれたのだろう。オディールが身を乗り出すように尋ねてきた。
「どうするの?」
目には目を歯には歯を。
「フェリシアさんの記憶、キースに体験してもらったらいいと思うの。自分のしたこと、体験しないとわからないでしょう?」
そしてにっこりと笑った。
「女の記憶を男に?」
さすがのエドも「えげつない」と意見を漏らす。
なにせ自分に恋した記憶を自分で経験するという、気色悪い状態になるはずだからだ。
その時、なぜキースが今まで文句を言わずにいたのかと思えば、さりげなくエドが口をふさいでいた。ナイスだエド。
「問題ないわよ。だって人の記憶……フェリシアさんの気持ちを死んでまで利用したとか。そっちの方が薄気味悪いじゃない。ここまで自分本位に他人を巻き込んだんだから、ナルシストの気だってあるでしょ? 大丈夫よー、自分大好きがちょっと過剰になるだけじゃなーい?」
そう言って「問題なし」と付け加えると、アンドリューが笑い出した。
「くくっ、それはいいかもしれない」
オディールも、それは良い案だと同意する。
「我が国の女性達が蔑まれる原因というのも、男性側が女性側のつらさを体験することがないからなのでしょう。であれば、キースは今後女性をひどく扱うこともできなくなるのではないかと思うのです。でもアンドリュー殿下、自分の術ですから、キースが自分で解除できてしまうのではないかと」
ならば、とアンドリューが提案した。
「僕と王女が二重に制約を課しましょう。どうやら解除する術を開発していたようだけど、さすがにそれも、二重がけは想定していないのでは?」
それを聞いていたキースは真っ青になっていた。
たぶんやめてくれと許しを請う言葉を口にしているのだろうが、エドがきっちり口を抑えているのでもごもごとしか聞こえない。
「では、キース。君には自分でフェリシアの記憶を受け入れ、それを解除するには僕とオディール王女の許可が必要だ。そして命じられたことも他言無用。いいね?」
アンドリューが笑顔で近づき、手の上に浮かんだ光の玉を近づける。
エドが光の玉に触れないよう、ひょいと手を退ける。
ややあって、キースの断末魔にも似た叫び声が、暗い夜の山に響き渡った。
◇◇◇
宿泊所へ戻ると、既に花火は終わっていた。
しかも思ったより時間が過ぎてしまったようで、就寝の見回りをして私たちがいないことに気いた先生たちが、宿泊所の庭を探し回っていた。
戻ってきた私達は、もちろん即座に怒られた。
アンドリューやオディールは、どう理由を繕おうかと視線を交わしている。
だけど私は冷静だった。先生に、さっさと頭を下げてから言う。
「すみません。キース君がお化けがいるって叫びながら山に向かって走り出しちゃったので、追いかけて捕まえてきたんです。ずいぶん遠くまで行ったので、みんなで連れ戻すまで時間がかかっちゃって……」
そう言って、私は目線でエドに担いでいたキースを下すように言った。
うなずいたエドは、うおぉぉぉとか、くぉぉぉと苦悩の声を漏らすキースをやや乱暴に芝の上に落とした。
キースの尋常ではない様子に、うそをつくなと言いたげだった先生も、ひるんだように一歩下がる。
「保護はしたんですけれど、ずっとこんな状態で……取り憑かれてるんでしょうか? どうしましょう先生」
困ったように見上げて後ろ手に手を振ると、背後にいたオディールと笹原さんも、はっとしたように困っていることを口々に訴えた。
それにいち早く反応したのはキースだ。
「ええっ沙桐さんひどいわっ、あ、いや酷いぞ! ああ違う、うぉぉぉ。この卑怯者! だめよお兄様!」
しかしその発言が教師の心証を、著しく私たちがわに傾けることになった。
フェリシア口調とキース口調で交互に言いたいことを言うため、まるっと錯乱してるようにしか見えないのだ。
即、宿泊所に救急車がやってきた。
そのままキースは病院送りになったものの、『他言無用』という制約までかけられたせいで、キースは本当のことを言えない。
しばらくは窮屈な病院生活を送ってもらい、新しい記憶となじんでもらおう。
「あーすっきりした! キースがずっと呻いてるから、どう始末しようかと思ったけど、上手くいったー!」
ばんざい、と宿泊所の玄関を出たところで両手を伸ばして救急車を見送った私を、なぜかオディールと笹原さんが怖いものを見る目を向けてくる。
「容赦ないですわ……」
「で、でも。おかげで私たち先生に怒られずに済んだわけですし」
こそこそと話しているようだが、恐れられても今の私は本望である。
清々しい気分で、川辺やら土の上で転がったりしたので、風呂に入らなくてはと思いながら歩き出す。
そこでばさりと、頭にジャージの上着をかぶせられた。
「わっ、何!?」
慌てて視界を遮る襟部分を持ち上げてみれば、シャツ一枚だけになったエドが見えた。
突然ジャージの上着を押し付けたエドの方は、実に微妙な表情をしていた。
困ったような。むすっとしたような……それでいて、どこか恥ずかしくて落ち着かない人のように視線をそらした。
「先に、どこかで顔を洗った方が宜しいと思います、師匠」
「え?」
なんでそんなことを言われているのかわからない。
するとエドが、今度こそ困った表情一色になり、悩んだ末にはたと何かを思い出したように晴れやかな表情になった。
一体どうしたと思った隙に、エドが耳元に唇を寄せてくる。
「泣き顔など、他の者に見せてはいけません。いいですね?」
暖かな息と共に告げられて、思わず耳を抑えてしまう。
その時にはエドはこれで言いきったぞという表情で、さっさと立ち去ろうとしていた。
「な……な……な……」
なんだあれ!
思ったけれども、言葉も出ない。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、笹原さんたちもいなくなってしまったので、私も急いで宿泊所へ戻る。
そして真っ先に洗面所へ駆け込み、鏡を見てぐぬぬ……と唸る。
「泣いたのまるわかりだから冷やせって言えばいいのに。いつものエドならそうしそうなのに、なんであんなセリフが出て来たの!?」
変な漫画とか読んだんだろう。
誰かに借りたに違いない。
そう決めつけて鏡を睨む私の顔は、目元が赤くなっている以上に、赤くなっていく。
変化を見続けるのも恥ずかしくて、私は勢いよく水で何度も顔を洗ったのだった。