15
オディール・エルシア・ジャンシェール・ディ・ガーランド。
それが彼女の名前だ。
聞いていた通りの射干玉の黒髪は、高く結い上げられてから背に流されている。湖水のように澄んだ青い瞳の、儚げながらもどこか芯を感じさせる綺麗な人だった。
「本日はお招きありがとうございます、皆さま。オディール・エルシア・ジャンシェール・ディ・ガーランドでございます」
お姫様という単語から想像するよりは、高くはない声。けれども耳に心地いい。
すらりとした立ち姿も美しい彼女が席に着くと、招待をしたリーケ皇女が口火を切る。
「おいで頂いてありがとうごオディール様。いつかゆっくりとお話しできたらと思っておりましたの。合同授業の時にオディール様の作品は時々垣間見ておりましたが、あのしっかりとした跳ねのあたりなど、とても素敵だと感じていましたのよ」
「……跳ね?」
何のことかわからず小さく呟いた私に、横のヴィラマインが教えてくれる。
「書道ですわ」
意外なことに、選択授業は書道だったようだ。
なんか……なぜそれを選んだ? みたいな気持ちになる。ちなみにヴィラマインは私と一緒に美術を選択している。現在の彼女は、柔らかな色調で玉ねぎやピーマンを描いているところだ。
「漢字って可愛らしいですわよね。雨なんて、降っている様子がわかりますし」
「払いの、流れるような線も綺麗だと思いませんか? 真っ直ぐに一本幹が伸びているのがわかる『木』も私は好みですけれど」
「オディール様は簡素なものがお好きなのね」
なごやかに話を進める二人。
そこに、対応を心得ている店の従業員がお茶を持ってくる。
並べてられた茶器から漂うのは、馥郁とした香りだ。ややいつもより甘い匂いと、紅茶にしては紫がかった色に私は目を瞬く。
「私たちの世界のお茶ですよ、沙桐さん」
金の緩い巻き髪を抑えながら、ユリア嬢が教えてくれた。
「苦味はないわよ。ちょっと甘めだから、砂糖はよした方がいいわ」
エンマ姫の話にうなずきながら、私は口を付ける。ほのかに甘い。砂糖を一匙加えたぐらいの甘さだから、人によっては足りないと思うかもしれないが。
でも深みがあって美味しい。
「ミルクはあるかしら?」
オディール王女の言葉に、自分もと手を上げる人が三人。そこに便乗して私も手を上げ、ミルクティーのようにして飲んだ。
想定通りのおいしさにふっと笑みが浮かんでしまう。
「気に入って下さったみたいね。そろそろ懐かしい味をと思って用意したのだけど、こちらの世界で暮らしていた沙桐さんの口に合うかどうか、心配していたのよ」
リーケ皇女の泰然としたほほえみに、私は恐縮する。気を遣ってもらって申し訳ない。
「とてもおいしいですねこれ。それに、異世界の物とか、珍しくて口にできるのが嬉しかったですよ」
「私もこのお茶は大好きですわ。ところで、お名前をお伺いしても?」
オディール王女が目を少し見開いてそう言った。
「あ、自己紹介がまだでしたね。私、小幡沙桐って言います。ヴィラマインが誘ってくれて、皆さんのお茶会に混ぜてもらってます」
本当は、王女様だと聞いたのでもっとかしこまった言葉遣いをしたかった。けれどこの場にいるお姫様方からは、堅苦しいのは禁止と言われているので、名前も呼び捨てで、いつも通りの言葉遣いを求められている。
そんな中だから、オディール王女にもいつも通りに話しかけたのだが、彼女は不愉快には思わないでいてくれたようだ。
「私も、この世界の方と知り合えるのはとてもうれしいですわ、小幡さん」
「沙桐、と名前で呼んで下さい、その方が慣れてるので。オディールさんは、クラスの方とは上手く交流していらっしゃるみたいですね。何度かお見かけしました」
近づけはしないものの、遠くから観察することは可能だ。
そうしてオディール王女のことを気にして見ていると、少し背が高めの彼女が、やや小柄な女生徒たちと連れ立って楽しそうに歩いているのをよく見かけた。よろめいたお友達の背を支えてあげたりと、彼女は優しい人のようだった。
社交辞令がてらそう言うと、オディール王女はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「初対面なのでお名前を伺いましたけれど、沙桐さんのことも実は私、知っておりました。なんでもルーヴェステインの騎士を従えたとか」
「う、うわ……」
私は思わず手で顔を覆う。
その『従える』という言葉が非常にこっぱずかしい。しかもそう言うのなら、オディール王女にも、エドに追いかけられている姿を目撃されているはずだ。
穴は。どこか穴はないのか。
もういっそテーブルの下に潜り込みたい。
呻く私の代わりに、ヴィラマインが応じてくれる。
「初めましてオディール殿下。私、沙桐さんと同じクラスのヴィラマインですわ。本当に沙桐さんはすごいんですのよ。アンドリュー殿下のためにと言って、国にいる時のようにふるまっては威圧してくるので、皆困っておりましたの。女子にも関係なしに「道を開けよ!」と言っては、アンドリュー殿下が諌めるということを繰り返していて」
そういえばそんなこともあったなー。
今にしてみれば、同級生は皆同僚。そしてアンドリューは上位者のままという意識ならば、確かに皆にも従えと言うに違いない、と行動の理由は納得できる。
「まぁ、騎士エドはそんなこちらの気風に合わないことを?」
「けれど沙桐さんに懐いて以来、こちらの世界での振る舞いはすべて沙桐さんの言う通りにしなければならないと考えたのか、すっかり大人しくなって下さったの」
改めて聞くと、本当にうちのクラスの女子のエドに対する評価が下落の一方だったことがよくわかる。
「まぁ、アンドリュー殿下も大変ね」
オディール王女が頬に手をあててしみじみとつぶやいた。
そんな彼女に、入れ知恵をするかのようにささやいたのは、エンマ様である。
「なんでもあの騎士、アンドリュー殿下の花嫁を物色していうという噂を聞きましたわ」
「うぐ……」
なぜ知っているんだエンマ様! まるで冥府の番人みたいになんでもお見通しだなこの人。
「殿下は護衛を騎士エド一人しか連れて来なくて、そのために、国元の重臣も、ご結婚に関することまであの騎士に命じるしかなかったようですわね」
「まぁ……アンドリュー殿下もお気の毒な」
「騎士エドに目をつけられた女生徒はいましたの? 大丈夫だったのかしら?」
「まだそういった面で被害を受けた者はいないと思いますけれど……」
不安そうな表情で、ユリア嬢やソフィー嬢までそんなことを言いだす。
真実ではあるが、さすがにエドがかわいそうになってきた。
なにせ最近かなり便利に使ってしまっているので、アンドリューの株ともども持ち上げておきたい。
だからそろりそろりと口をはさんだ。
「や、でもそれも国元で、エドにこちらの風習を教えた人がちょっと説明不足だったみたいだし……」
「一体どんな説明をしていたんですか?」
眉の先を下げて、怯えたような表情のソフィー嬢に尋ねられる。
「あの、公平っていうのが説明が難しいからと、男女問わず騎士団員と同じように扱えって言われたらしくて」
一瞬で、皆が「ああ……」と言いたげな表情に変わった。
「全員男扱いしていれば平等。だけどアンドリューのことは別格なのは変わらず、ってなったらそう言うことになったらしいの」
「確かにそれでは……事情は納得できましたわ」
リーケ皇女でさえ、しみじみとうなずいていた。
これでとりあえず、エドとアンドリューの株はマイナスから持ち直したはずだ。代わりに悪者にしてしまった、ルーヴェステインのどなたか、ゴメンナサイ。でもおかげで私が苦労したことも事実なので、あまり反省はしていない。
しかし一人だけ納得していない人がいた。
「でも、今まですごく迷惑そうだったのに、急にかばうようになったのね?」
エンマ姫だ。
「う……ちょっと最近ですね、野暮用を頼んだりしてまぁ、借りができたというか……」
「騎士エドに頼み事を? それで最近、大人しく連れ歩いているのね」
リーケ皇女がふうんとつぶやく。
「どんな心変わりかと思いましたわ。とうとう騎士エドのつきまといに、沙桐さんがほだされたのかと」
「ほだされる……って、何ですかそれ」
わけがわからないと言えば、リーケ皇女が実に上品に、口の端を上げて笑んでみせる。
「よほど人嫌いでなければ、自分を慕って一心に向かってくる者を、無下にはしにくいものですわ。そして慣れてしまうと、気にもしていなかった犬でも可愛くなるものではない?」
「え?」
首をかしげていると、そこでなぜかユリア嬢が手を打つ。
「私知っていますわこういう時どうなるか! お互いに反目する二人……共同作業をすることになって相手を理解しはじめて、友達のような関係になりながらも、素直になれず。けれどある瞬間、どちらも相手を異性だと気づいて意識しはじめて。今までは平気でふざけあえたのに。どうして目を見るのも恥ずかしくなるの! きゃーっ!」
立ち上がって、自分の肩を抱きしめるようにして熱演するユリア嬢に、私は呆然とする。
ごめん、それは全く考えたことがなかった。
てかユリアさん、貴方そういう方向の人なんですね……。まさか貴方も、黒歴史ノートとか持っていない?
そんなことを考えていると、ユリア嬢がずい、と身を乗り出して迫ってくる。
「ね、ちょっとはときめいたりしませんでしたの?」
問いかけられて、
「うわ、ないわ~~」
思わず、率直に心の声が漏れ出た。
ユリア嬢は目が点になる。しまった。きっとユリア嬢はこんな乱暴な言い方にまだ慣れていないのだ。
なにせうちの学校、留学生が王侯貴族だから、彼らへは丁寧な言葉遣いをしてあげるように言われているのだ。きっとショックを受けたに違いない。
ちなみにうちの学校の受験内容に品行方正さを見る面接があるのはそのせいだ。簡単な異世界語による会話ができることは、必須項目である。
まぁ、相手の留学生が日本語ペラペラなので、役には立たないが。
私は慌ててフォローした。
「いやあの、エドは恋愛対象外っていうか、そもそもアレですら貴族とかでしょう? 学校こそ同じとはいえ、そんな相手とどうこうなろうって考えもしなかったっていうか」
あわあわと弁明していると、こらえきれないように吹き出す人がいた。そのまま笑い出したのは、オディール王女だ。
つられたように他の人も笑い出す。
「こちらの方は、みんな素直に表現するから楽しいわ」
「そうね。あちらでは率直に『対象外』とか『アレですら』なんて言えないものね」
「え、でもこんなにそのまま言ってしまうのって、沙桐さんくらいのものではありません?」
ヴィラマインのツッコミに、更にみんなが笑った。
どうも話が私の奇矯さに移っているようだ。さっきのことで不愉快に思わないでいてくれたのならまぁいいとしよう。
「それにしてもアンドリュー殿下って、お国に婚約者候補などはいなかったのかしら。普通は、その関係もあって異世界でのことにはあまり干渉しないものですけれど」
「あの方は第二王子でいらっしゃったはずですし、そうするとせっぱつまって結婚相手についてまだ吟味していなかったのでは? ご自身の自由に任せるおつもりなのかもしれませんわよ」
エンマ姫の言葉に、リーケ皇女が応じる。
へぇ、アンドリューって第二王子だったんだ、と私はいまさら知ったのだった。
「でも恋など、予定通りにするものでもありませんし。……オディール様のお国はそのあたり厳しいと聞いたのですけれど、いかがなのですか?」
エンマ姫が水を向けるたのは、オディール王女だ。
彼女の婚約者候補として挙がっていたのはキースだ。その彼がついてきているのだから、今でもその立場は盤石なのではと思ったのだが。彼女の返事は予想外だった。
「そういった話はありましたけれど、決まる前に一度白紙に戻りましたの。私もまだ年若いことですし、見分を広めた上で改めて吟味した方が、と父にも言われまして」
ただ、とオディール王女は続ける。
「この国の人は、私たちと同じ年では責任を負ったりはしませんから、時にきつい覚悟を強いるような立場へ引っ張りだすことになるのも、気の毒ではないかと思っておりますわ。なのでよほどの方でなければ、こちらの世界の方を選ぶわけにもいかない、と考えています」
彼女の意見にはうなずける。
特に姫君の場合、お相手は男性だ。高校生であっても、姫を支えられるほどの技能を持っていることが要求されるだろう。
だって、あの脳みそ立方体のエドでさえ騎士として仕事をしてきているのだ。同じだけ役に立てなければ立場を無くし、やがて二人の関係も早々に破たんするに違いない。
「となると、留学してきている他国の方はいかがです? オディール様のお眼鏡に叶う方はいらっしゃいました?」
再び恋の話になったからか、ユリア嬢の瞳がらんらんと輝きだした。
オディール王女は「まだ入学して日が浅いので、あまり沢山の人とかかわっていないので、なんとも」と濁した上で言った。
「どちらにせよ、殿方はしっかりと一本筋が通った方ならば、と思いますわ。自分が恋に溺れて、そのあたりを見誤ったりしないようにとは念じておりますけれど。……国のためにも」
オディール王女の言葉に、私は半紙の真ん中にびしっと書かれた黒い縦線を連想する。
……なんだろう。好みといい、当初予想していた傾向とは違う人のような気がする。
予想ではこう、むしろソフィー嬢やユリア嬢のように、おしとやかで女の子らしいしろとピンクで彩色された陶器の人形を飾っているような、そんな人ではないかと思っていたのだが。
それに『白紙に戻った』という言葉。
キースは婚約者候補から外れたということなのだろう。
原因は何なのか。本当に、二人が仲違いをした末のことなのだろうか。
その後、オディール王女と二人で話す機会を得た私は、フェリシアがいなくなった後のことについて、考えが及んでいなかったことに気付くのだった。