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<七> ちゅうけん

刹那、予想外の衝撃が右手首を襲った。

はぜ割れるような音を発てて、骨が軋んだ。

「――ッ!」

一瞬後には抜けるような痛みが襲う。

そして気付いた。

(まだ落ちてない?)

僕の身体は未だに宙ぶらりんのままである。

右手が上に伸びきって、強い力に引き止められていた。

枝かなにかに、襟が引っかかったのだろうか。

最初はそう思った。

ぴちょり、

頬に何かが当る。

雨ではない。

「のうち……」

やがてそれが血だと気付いた――


上野の犬<七>ちゅうけん


「おまえ! 何やってるんだよ!!」

頭上を仰ぎ、思わず叫んでいた。

「のうち……」

殆どうなるような声。

朝に見たあの男が、必死の形相で僕の袖に噛み付いていた。

雨は完全に止み、霧が散ったように山肌が顕になる。

「……!」

息を呑む。

恐怖で身体が凍りつく。

僕がぶら下がっている場所は、地上まで何十メートルはあろうかという絶壁だったのだ。

落ちたら、間違いなく死ぬ。

ぴちょり、

また頬にあの液体が当った。

死の落下を防いでいるのは、右袖に噛み付いて引き上げている彼の顎の力だけである。

何故手を使わないのか、そんな疑問はすぐに消えた。

「血が出てるじゃないか! おまえ!」

ぎりぎりと噛み締める歯茎の合間から、弾けるように血飛沫が飛ぶ。

もしくは耐えかねたように搾り出される。

それらが幾筋かの流れをつくり、一つが僕の頬に当っていた。

額には脂汗が滲んでいる。

きっと想像を絶する苦痛なのだ。

「もういいって! ……は、離せよ! いいから離せ!」

さすがに「離せ」の言葉には迷いがあった。

離されたら死ぬ

それでも、堪えきれず、何度も何度も「離せ」「離せ」と叫びつづけた。

「の……う……ち……」

「やめろ、ハチ! もういい!」

疑いようもなかった。

涙が溢れる。

――ハチが死ぬ――

「やだ! ハチ! ハチ! 離せよ! 離せったらッッ!」

「のうち……!」

瞬間、ハチは泣きだしそうな顔でこちらを見下ろした。

その顎がふるふると震えている。

限界が来たのだ。

ずるり、と右手の感触が頼りなくなる。

「のうち!」

再び腑の持ち上がるような感覚――


「野口!!」


叫びとともに、がっと手を掴まれた。

今度僕を引きとめたのは、四本の力強い腕だった。

「いっせ〜の……ほりゃっ!」

妙な掛け声とともに、ずるずると身体が持ち上げられた。

片方の足が地面に乗り上げた途端に、思いっきり前方に倒れこんだ。

心臓がばくばくと脈打っている。

「はーっ……はーっ……」

助かった……。その実感が少しずつ湧き上がってくる。

「大丈夫かァ! 野口ィ!」

けたたましい声とともに、ぐいっと身体を持ち上げられた。

「い、岩瀬……?」

目の前に、涙でぐちゃぐちゃの情けない顔があった。

「アホぉ! 何落ちてるんだよ! おまえ、おまえ登山部だろうが!!」

意味不明なことを叫ぶ岩瀬の隣では、似たりよったりの表情をした英子の姿がある。

その顔は涙で濡れる代わりに、怒りの赤で染まっていた。

「本当に! 一体何考えてるのよ! 馬鹿!!」

「はぶぉっ!」

怒鳴るついでに思いっきりビンタをくらった。

こんな状況でなければ、もう一往復くらいはお見舞いされていただろう。

その衝撃ではっと正気に戻った。

「ハチは!? ハチはどうした!!」

慌てて周囲を見渡した。

「のうち!」

声は意外とすぐ近くから聞こえてきた。

驚いて見下ろせば、足元にハチの笑みがある。

「ハチ!」

がばっとしゃがみ込むと、まず無理矢理口を開かせた。

そして口内を執拗に覗き込む。

「あ〜やっぱり! 歯がグラついとるじゃないか! それに顎のあたりが炎症をおこしてるぞ! 筋肉切れたんじゃないのか!? このアホ犬! 駄犬!」

早口で捲し立てる僕に、ハチはきょとんとした顔をしていた。

しかしすぐに満面の笑顔に戻ると、

「のうち♪」

と楽しげに語りかける。

「う……」

(反則だ)

瞬間的に前がぼやけた。

二人に悟られたくないがために、僕はハチの肩口に顔をうずめ、泣いた。


■■■


「これが問題の小説か?」

「そうだ」

俺の問いに、野口は簡潔に答えた。

ビニール袋内で厳重に保管されていた原稿用紙は、あの雨にも関わらず少しもインクが滲んでいない。

山登りを堪能しながら、続きでも書くつもりでいたのだろうか。

「なかなか上手いだろう?」

「てめぇ……」

完全にとはいかないが、大分いつものペースを取り戻してきたようである。

(さっきまでわんわん泣いていたくせに……!)

しかしそれは自分も同じことなので、なかなか話題として扱い難い。

この先半年はたっぷり根に持ってやることに決めて、俺は英子に向き直った。

「じゃあこの小説で、ハチを犬に戻せばその通りになるってことか?」

英子は軽く首を傾げる、

「さぁ〜……っていうかそもそも、それが本当に原因なのか謎だしね」

「何ぃ!? 岩瀬おまえ、何の確証もないのに僕を疑ったのか!?」

「う……」

なんとも痛い言葉である。

しかし、ここで口論になるとややこしい!

「ま、まぁとにかく、試してみないとなんとも言えないって!」

曖昧な笑みを浮かべながら、俺は原稿を野口に押し付けた。

「……ったく」

ぶすっとした顔をしたが、彼はすぐに小説の続きを書き始める。

「少し時間がかかるからな」

その無愛想な言葉に、英子が元気良く立ち上がった、

「じゃあ私達は遊んでようか!」

「そうだな、せっかくハチが人になっていることだし……」

どうせ暇なのだ。却下する理由はどこにもない。

俺の了承が得られて嬉しいのか、彼女はいっそう瞳を輝かせて言った、

「鬼ごっことかどうだろう!」

「ハチが鬼になったら十秒かからないうちに終りそうだけどな」

「じゃあさ……」

「ええい! お前らうるさい! あっちに行け――!!」


その言葉から三十分ほど経った頃、やっと物語が完結を見た。

すっかり辺りはオレンジ色の大地である。

「おまえ遅いよ!」

思わず文句をつけてしまった。

「これで普通なんだよ! 僕の執筆スピードをなめるな!」

売り言葉に買い言葉。案の定喧嘩モード突入である。

歯軋りしながら睨みあう俺達の横を、するりと英子が通り過ぎた。

「おお! できたの!? 見せて見せて!」

さっと原稿を拾い上げると、ぱらぱらとページを捲っていく。

「あはは、か〜わいい!」

「え? 何!? 気になる! 次見せて!」

「ほら」

英子から手渡された原稿に目を通す。

それは、人間になったハチが、俺達と一緒に四人で遊ぶ……という内容の、童話形式のお話だった。

(本当に可愛いもん書いて……)

思わずちらりと野口を見た。

照れているのか、腕を組んだ彼はひたすら明後日の方向を眺めている。

「これでENDを書き入れたら終わりだな」

内容に満足した俺は、原稿を野口のもとへと返した。

「……」

「ひはせ?」

じっと見つめたのを不審に思ったのだろう、ハチが話し掛けてきた。

相変わらず四つん這いの滑稽な姿だが、これがもう見納めとなる。

「ハチ……おまえいい男だよ! 外見も、もちろん中身もな!」

そう言ってわしゃわしゃと頭をなでてやった。

「???」

ハチは笑いながら僅かに小首をかしげた。

(ったく……)

「名残惜しいねぇ」

英子が呟く声が聞こえた。


「さて、じゃあ書き込むぞ!END……と」

丁寧に丁寧に、野口がその文字を書き込んだ。

その変化は一瞬だった――、あるいは非常に長い時間を要したのか。

とにかく、溢れんばかりの夕日を浴びて、ハチは犬の姿に戻ったのであった……。


「おかえり、ハチ」


後日談


「原因はあの小説じゃなかったのかよ!」

「もう御手上げだね」

「でもいいじゃないか、これでハチとキャッチボールができるぞ!いくぞ!ハチ!」

「のうち♪」

「やけにはしゃいでるなぁ、野口の奴……」

「あら?岩瀬はハチとやりたい遊びとかないわけ?」

「ん〜……かごめかごめ……とか、どうよ?」

「あはは、いいね!それ!」


END

以上が上野の犬<本編>です!

わーい! やっと終わった!

これは高校時代に文芸部最後の部誌に書き添えたものです。

一般試験に追われながら歯軋りをして書きなぐった記憶があります(怖!

追い詰められると人間ものすごいことになりますね。

ビデオでも撮っとけばよかったなぁ……。

調子に乗ってものすごいページ数になりました。

後輩怒っただろうなぁ……

しかもハチの変化の原因わからず終いかよ!

部誌はここでお終いですが、ネットではその続きも執筆します。


評価・感想など随時受け付けております!

こんな長いのを読んでくれて感謝感謝です!

もう一度ありがとうございました!(くどい


※本作第<壱>話で、英子が「ぬばたまって宝石かなんかだよね、見てみたいなぁ〜……」

と言うシーンがありますが、ぬばたまは宝石ではありません。

ヒオウギの種子です。つまりは植物です。

英子はぬばたまを知らないのであんなことを言っていますが、この話を読んで、「ぬばたまは宝石……」とは思わないでください。

あ、でも黒の例えに使われるというのは本当です。


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