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<五> えすぱーひーひゃん!

「まったく! 野口の奴もどうかしてるよな!」

怒り任せに、弁当の唐揚げにフォークを突き立てる。

あれから幾許(いくばく)かの時が過ぎ、現在は昼休み。

「夢見がちでもなんでもない。ユーモアセンスの欠片もない! あんな石頭の小説が事の発端かと思うと、どうにも泣けてくるよ!」

「いや、発端は岩瀬だから」

「……すんません」

「ははッ! 情けない顔!」

そうやって俺の怒りにたっぷり水をさした英子だが、彼女の眉間にもそれなりに皺がよっていた。

「でも野口は本当に人でなしだよ! ハチが土下座までして頼み込んでたのに!」

「……ま、まぁな」

(あれは土下座じゃないけど……)

多分英子はハチが野口の前に這いつくばったことを土下座だと言っているのだろう。

しかし、考えてもみて欲しい。ハチはもともと四足歩行の生き物だ。

あれはどう考えても土下座ではなく自然体だろう。

もしかしたら、二足歩行に疲れてくつろいだだけなのかもしれない。

しかし、そんなことを言うと英子の逆鱗に触れかねないので、俺は黙って弁当をつついた。

それにしても今日は色々なことがあった。

一番度肝を抜かれたのは、ハチの授業乱入であろうか。

……今思い出しても胃が痛む。

勉強の邪魔になってはいけないので、ハチには気の毒だが、授業中は便所の個室に篭ってもらうことにした。

こいつは鍵の開け方が解らないのだ。

なので、閉じ込めたときには、しおらしく悲しい鳴き声なんぞを上げてやがった。

おかげでこちらは苛めっ子の気分である。

しかし、ハチの身体能力を侮っていた。

なんと彼は無理矢理トイレの扉をよじ登ると、自力で脱出してのけたのである!

そして四つん這いで階段を駆け上がり、授業中の教室に飛び込んで来た!

『ひーひゃん!』

叫びざまに英子に飛びつくと、その膝の上に頭をのせ、あろうことかお昼寝タイムに突入。

同じクラスの俺は、肝が潰れる思いでその様子を眺めていた。

それにしても一番イラッと来たのは女子の反応である。

ハチが飛び込んで来た途端に、驚きとはまた違った声があがった。

以前にもお話したとおり、ハチは見目麗しい美男子と化しているのである。

女子が騒がないはずがない。

(犬だから!そいつ犬だから!そんな顔して頭空っぽだから!!)

という叫びを飲み込んで、俺はひくひくと震えていた。

よもやハチ相手に闘争心を駆り立てられる日が来ようとは……。

ぬぬぬと(うな)る俺の横で、ハチはぐうたらと寝そべっている。

「結局、信じてくれなかったなぁ……野口」

ぽそりと、英子が呟いた。

「じゃあ放課後にもう一回、説得しに行くか」

「ん〜……」

英子は難しい顔をした。

俺の言葉には答えず、細かくほぐしたハンバーグを掌に載せ、ハチの目の前に持って行く。

腹が減っていたのだろう。ハチは寝転んだ姿勢のまま喜んで舐めあげた。

確かに、野口のことだから、そう大人しく俺達の話を聞くとも思えない。

(いざとなったら、ハチに組み敷いてもらって……)

隣に這いつくばっている男を見やり、その様子を頭の中で想像した。

無理矢理押さえつけられて顔中をべたべたにされる野口。

だめた。話どころじゃない。絶対にブチキレる。

「ああもう! どーすりゃいいんだ!」

ハチに(なら)ってどさっと廊下に寝転んだ。

(ああ、もういっそのこと……)

「いっそ小説を盗み出すとか……」

英子が笑顔で腹黒いことを言う。

「アホ! そんなことしたらもう完全に修復不可能だぞ!」

実は同じこと考えてました。とは口が裂けても言えない。

一人のんきなハチは、ハンバーグのおかわりを英子に要求していた。

「ひーひゃん!」

「もうナイナイよ!」

言って軽く押しやる英子。

「岩瀬、ハチの相手お願いできる?そろそろ私も食べたいし……」

彼女の腹の虫がぐぅと鳴った。

そういえば、さっきからハチに与えるばかりで、彼女は少しも口にしていない。

「了解! ハチ、ちょっと大人しくしてような」

「ひーひゃん!」

「ありがとう! 岩瀬!」

英子は急ぎ足で離れると、直ぐ近くの階段の影に隠れた。

ハチを興奮させないように、という配慮なのだろう。

しかし、実際にはあまり効果がなかった。

遠ざかるご主人と昼飯に、ハチは涎を流しながら必死にばたつく。

狙ったわけではないのだろうが、振り回された拳の一撃が、俺の脇腹をズンと突き上げた。

「ぐっふ!」

こんな事なら唐揚げ残しておいてやるんだった!

後悔しても遅い。俺の弁当は既に空だ。

「ひーひゃん!」

ついに、ハチは俺の拘束を外れた。

「ひ、英子! 行ったぞ!」

「ええっ!? うわっ!」

固いものと固いものを打ち合わせたような、豪快な音が響いた。

(ま、まさか……)

心臓が跳ね上がった。

(頭でも打ったのではなかろうか)

「英子!」

慌てて様子を見に行けば――

はたして英子はそこに居た。

そして想像に違わず、ハチの突撃を受けて仰向けに転がされていた。

しかし……

「やられたわね……」

苦笑する英子。

その足元にはひっくり返った弁当の中身が散乱していた。

しかし俺が目を剥いたのはそこではない。

「ひ、英子、おまえ……」

英子とハチは口付けをしていた。


「本当に申し訳ありませんでした」

さっき寝転んだ床に正座する。

俺の押えが甘かったばっかりに、大変なことになってしまった。

英子とハチはきょとんとしていたが、こちらは死ぬほど気が重い。

解っている。ハチに他意はない。

ただ、ご主人の口元に付着していたケチャップかなにかを舐めとっただけなのだ。

これが犬なら、まぁ微笑ましい光景だろう。

しかし今ハチは人間なのだ。

「……」

「何一人で赤くなったり青くなったりしてるの」

「いや、別に……」

どうやら彼女はさほど気にしていないらしい。

どんな姿になろうとも、彼女の中でハチはハチでしかないようだ。

(俺がズレてるのか……?)

なんだか釈然としない。

「そんなことよりも……!」

彼女はポンと手を打ち合わせて話題を変える。

「私は目覚めたわ!」

「何に!?」

まさか危ない趣味に目覚めてしまったのだろうか。

「だ、駄目だぞ! 飼い犬とだなんて……!」

「何の話よ」

思いきり呆れられた。

(こ、こいつ……)

普段電波扱いしている分、馬鹿にされるとダメージがある。

でもまぁ、ここで呆れられるということは、その道に目覚めたわけでもなさそうだ。

取り敢えず一安心である。

「で、一体何に目覚めたんだ?」

「エスパーによ!」

(や……やっぱり電波だよ! こいつ!)

どん引きである。

まさか頭の打ち所がそんなにやばかったのだろうか。

見れば彼女の後頭部には、ただならぬ盛り上がりが出現していた。

「ごめんなぁ英子!俺のせいで……」

「だから何の話よ!」

がつんとチョップがめり込んだ。

「まぁエスパーは大げさだったかもしれないわね。野口の行動が読めたって言いたかったの」

これまた謎な発言である。っていうか思い切りチョップしやがったな! この野郎!

「どういうことだ?」

素直に不思議がる俺に、英子は自信ありげな笑いを漏らした。

「あれを見なさい!」

彼女の指が指し示す方向には……

「部活動黒板?」

「登山部の活動予定を見て」

なんとも偉そうな口調だが、この時は興味の方が上回った。

言われるがままに目を凝らす。

「どうやら今日も山登りみたいだな」

冒頭でも述べた通り、野口もこの部活に所属していた。

しかし、

「この登山朝からみたいだぞ? 野口学校にいたし、今日は登らないんじゃないのか?」

だから放課後に決着をつけるつもりでいられるのだ。

首を傾げる俺に、英子は長い溜息をついた。

「岩瀬はわかってないわねぇ!いい?

野口は同じことを繰り返すのが嫌いでしょ? だからなんとしてでも私たちとの対決を避けるはず」

まぁ、確かに。

「でも野口は早退なんてしないわ! 理由もないのに授業をサボるなんて絶対しないもの」

ごもっとも。

「なら、何か口実を見つけて学校を離れようとするはずでしょう? ならこれが絶好の大義名分よ!」

「ああ!」

納得して、俺はコクコクと頷いた。

これは本当にエスパーに目覚めたのかもしれない。

というか、英子が『大義名分』だなんて言葉を使っている時点でもう普通じゃない。

「おまえ頭打ってよかったなぁ! 英子!」

「まーね!」

誉められたと判断したらしい。英子はあくまでも誇らしげだ。

「さぁ、野口はもう出発しているはずよ! 私たちも追いかけましょう!」

「おうよ!」

だけどその前に……。

俺は勇む英子の手を取った。

「後頭部冷やしておこうな、コブが物凄いことになってるぞ?」

その後、腫れが引き始めると、英子もアホに戻りはじめた。


<続く>

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