<壱> ことのはじめ
上野英子は犬を飼っていた。
美しい毛並みの中型犬で、全身ぬばたまのような黒い色をしていた。
名前はハチ。英子の両親が忠犬ハチ公にあやかって授けた名前である。
「でもさぁー、ぬばたまなんて実際見たことないよね」
「……」
英子の言葉に、彼は神経質そうに執筆の手を止めた。
「野口は見たことあるの? ぬばたま」
しつこく尋ねられ仕方なく口を開く、
「……ないけど?」
それがどうした、とでも言いた気な態度だった。
執筆を遮られた彼は、ただでさえむっとした口をへの字に曲げている。
その様子に気付くこともなく、英子は愛犬の頭を撫でた。
彼女の愛犬――ハチはご主人の膝に頭を乗せ、ぐうたらと惰眠を貪っている。
「見たこともないのに、ぬばたまの色がわかるの?」
英子はよくこういうことを言う。
典型的な文系脳とでもいうのか、本当にどうでもいいところを突き詰めるのが好きだった。
そして一人空想の世界を彷徨う。
「見たことがなくても、ぬばたまは『黒』の例えに使われるんだよ!」
対する野口は苛々と答えた。
理系脳代表のような彼は、彼女のこうした性質が理解できないらしい。
「まぁまぁ、いつものことじゃないか」
二人の間に割って入る俺はちょうど中間脳と言った所か――
「うるさいぞ、岩瀬! 英子の肩を持つのか」
「いや、肩を持つとかじゃなくて……」
助け舟はあえなく撃沈。それどころか野口の怒りはこちらに向いてしまっている。
まったく冗談じゃない! そろりと英子を盗み見るが、彼女の目線は遥か彼方。
「ぬばたまって宝石かなんかだよね、見てみたいなぁ〜……」
何一つ噛みあっていない会話。
俺たち三人はいつもこんな感じだ。
「それでも十年以上も交友関係が続くんだから、人間っていうのはわからないな」
しみじみと呟く俺に、英子はアラと身を乗り出した。
「ハチがいるじゃないの」
その言葉に、俺は改めてこの駄犬を見やった。
自分のことが話題になっているというのに、こやつは未だに夢の中だ。
「ハチを拾ったのは四年前だったかな」
「三年と五ヶ月前だ」
すかさず野口が口を挟んだ。
「四捨五入すれば四年前だろう」
その言い方が妙にひっかかって、俺は思わず反論した。
しかし野口も負けてはいない。
「一年は十二ヶ月なんだから、五捨六入だろう?」
「なんだそれは、そんなの揚げ足とりだ!」
だんだんと険悪な雰囲気になる俺たちを差し置いて、英子は遠い昔に思いを馳せていた。
「ハチを拾ったときは、まだこーんなちいさな子犬だったよね」
その懐かしげな様子に、俺たちはいったん罵りあいを止めた。
「本当に、こんなでかくなるとは思わなかったなぁ」
手を伸ばして、眠るハチの頭に触れる。
ハチを最初に発見したのは俺だった。
ダンボールに詰め込まれた一つの命。
死にかけた子犬を最初に拾い上げたのは誰だっただろう。
当時中学生だった俺達は、初めて感じる命の重さにひどく戸惑った。
しかし一度そのぬくもりを抱いてしまえば見殺しにすることなど到底できない。
「あの時は可愛い子犬だったのに。今では図体だけ大きくなって……」
太っている訳ではないのだが、雑種のハチは大柄でボリュームもある。
「あ、ハチ」
英子が嬉しそうな声を上げた。
それにつられるようにして彼女の手元を覗き込む。
やっと目を覚ましたハチはまだ歳若いはずなのに、老犬のような緩慢な動作で俺達三人の顔を見渡した。
(おはよう)とでも言っているつもりなのか、ぱたぱたと尻尾を振る。
「よし! ハチが起きたことだし、みんなで公園に行きましょう!」
明るく宣言すると、英子は散歩用の首輪をたぐり寄せた。
「ちょっと待て、僕の執筆が終わってないぞ」
慌てたような野口の声。
そう、今日上野家にお邪魔したのは、なにもハチの散歩をするためではない。
実はこの野口、理系脳代表のくせして創作部なんてものに所属しているのだ。
そのせいで本命の登山部の活動が疎かになっているとかいないとか、
冒頭を覗き見た所、どうやらハチを題材にするつもりのようだが……。
「小説は一人でも書けるだろう?」
俺は今度こそ英子の肩を持つことにした。
いつまでもこうしてだらだらしているのも、さすがに退屈だ。
「岩瀬、いいこと言った!」
英子は器用に片目を瞑ってみせると、ハチの脇腹を軽く叩く。
駄犬は尻尾を振りながら一目散に部屋を飛び出して行った。
散歩用の小さな手提げを手に嬉しそうに歩き出す英子と、同じくそれに続く俺。
「待てって! ああ、もぅ……!」
往生際悪く文句を垂れる野口も、嫌々ながら重い腰を上げた。
真一文字に引き結ばれた口元が、ぶすっとした彼の顔を、さらに迫力のあるものにしている。
この分だと、後々愚痴を垂れるかもしれない。
「なぁ野口、あんな平凡な犬の何を書こうというんだ」
愚痴の予防として、俺はさっさと彼を宥めてしまうことにした。
「馬鹿にするな、ハチにもいいところはある」
彼はまるで子供を叱るような口調でそう返答する。
奴にしては珍しく思いやりのある言葉だ。
ハチを一番大事にしているのは英子かと思ったが、もしかしたらそうではないのかもしれない。
「でも普通の犬だぞ?」
「じゃあ岩瀬ならどう書くんだ」
どうやらどうしてもハチを題材にして書きたいらしい。
なんだか予想外の展開である。
ひしゃげた靴のかかとを踏み潰して、俺はう〜んと悩んだ。
「例えば……ハチが人間になる! とかどうだ?」
浮かんだ案は、我ながらつまらないものだった。
野口もそう思ったのだろう。
いまいちよくわからない表情で、じっと俺を見やった。
「それで、俺達と四人で遊ぶってか?」
もしかして呆れられたのだろうか。
「あは、つまらないことを言ったかな」
照れ隠しに頭を掻きつつそう訊ねると、野口はふと空を仰いだ。
「いや、そうでもないさ」
およ?
「もー! 遅いよ二人とも!!」
声は英子のものだった。
話し込んでいるうちに随分と距離を開けられてしまったらしい。
ロープの先のハチも、急かすようにこちらを振り返っている。
「悪い悪い!」
俺と野口は慌てて駆け出した。
呼びつけたくせに、英子とハチは逃げるように走り出す。
「こら待て英子! ハチ!」
「あはは、公園まで競争だよ! ね! ハチ!」
「聞いてないぞ!」
「罰ゲームは何にしようかなぁ〜!」
「自分が勝ちそうな時だけ罰ゲーム決めるのはやめろぉ!!」
お決まりのやりとり。
変わらない関係図。
このなかに人間のハチが組み込まれたら。
(それはそれで面白いだろうなぁ……)
やがて息が上がって、考えるのが面倒になった。
<続く>
この度は『上野の犬』を読んで下さってありがとうございました。
既に完成している作品ですが、少しずついじくりながらのっけていきます。
本編終了後は『本編ぷらす』として後日談めいたものを新しく連載するつもりです。
こちらは書き下ろしになりますので合わせてご覧下さい。
本当に読んでくれてありがとうございました!!