その1
あの日、私の人生は決まったのだと思う。
その時は先のことなんてまったく考えていなかったのだけれど。
***
青と銀とが混じったような、不思議の色合いの綺麗な髪を持つ、綺麗なお姉さんが、しゃがんで私と視線を合わせてにっこり微笑んだ。
「ねえ、あなた、カミダスケしない?」
カミダスケ? と、鸚鵡返しで問いかける私に、彼女は長い睫に縁どられた、アーモンド型した緑の瞳をまっすぐに向けた。
「そう。カミダスケ。っていうか、わたしとウチの子を助けてほしいの」
わたし、と自分を指差し、それからウチの子、と言って私から見て右を指差した。
その方向へつられるように顔を向けると、そこには淡く光るまるいものが浮かんでいた。
理科の教科書で見た、『宇宙から見た地球』の写真みたいだな、と思う。
ウチの子って、そのまるいもののことなんだろうか。
このお姉さん綺麗なのに、ちょっと可哀想な人なのかな? なんて思いながら、『情けは人の為ならず』なんて、ことわざを思い出してうっかり「いいよ」って頷いたあの時の私をちょっと叱ってやりたい。
知らない人に声をかけられてもついてっちゃだめですよ、とか、ふたりきりになっちゃだめですよ、とか、適当に「いいよ」なんて言っちゃいけませんとかね!
***
携帯通信魔術石が、青く光ってぶるぶると震えている。
首からぶら下げたそれに、人差し指で触れて「受信」と唱える。
すると、光って震えるだけだったそれから少々反響したような声が響き渡った。
『やあ、リコ。俺だけど』
「"俺"さんなんていう知り合いはいません名乗って至急要件をお話し下さい」
無感動にワンブレスで返せば、一瞬の沈黙の後、すぐに硬質な声が届いた。
『ヴァレンタイン・ウノ・オーランド・クルークだ。イェゼロ湖でエストが旅人を保護した』
ヴァレンタイン・ウノ・オーランド・クルーク――…ヴァルは、そう簡潔に呟いた。
旅人。
その単語を耳にした瞬間、手にしていた本を閉じて、視線を足元に向けた。
この家の地下にある転移ゲートは、クルークの城にある中央ゲートにしか繋がっていない。
旅人を迎えに行くときは、必ず一度クルークを通る仕組みだ。
ほんと、うまいこと言いくるめてゲート作ったよねえ、と今更ながらにヴァルに感心しながら、ソファから降り、靴を履いた。
「ん、わかった。すぐに行くね」
相手が返事したのを確認してから、「切断」と言えば、魔術石の通信は終わる。
通話を終えるとすぐに、ソファ横のチェストの上に置いてあった鞄を掴んで、部屋を飛び出した。
戸締りはオッケー。
玄関脇の階段を地下へ駆け下りて、こぢんまりしたうちには少々似つかわしくない、重厚な黒塗りの扉に触れる。
扉とはいっても、ドアノブなんかはついてなくって、私が許可した相手だけに反応してすり抜けられるような魔術がかけられている……まあ、知らない人が見たらただの壁だ。
指紋認証システムみたいな感じ? だと私は思っているんだけど、術式を構築したイルムが言うには、私の精神に感応するようにしてあるので、一度許可した相手でもその時の状況で締め出し可能、だそうだ。
うん……登録したらずーっと認識し続けて、削除したらしたで、また改めて登録し直さなきゃならないようなものじゃなくって便利で良いです。よくわかんないけど。
ちなみにこの術式とやらは、約1名に対して物凄い効果を発揮することがよくあります――…って、思い出してちょっと遠い目したけど、そんな場合じゃなかった。
扉を抜けた奥にあるのは、四畳半くらいの小さな部屋で、天井から壁、床に至るまで転移用の術式がびっしりと刻み込まれている。
その中央にある、直径1メートル程度の円が転移ゲートだ。
そこに立って「転移」と呟けばそれで移動は完了。
転移ゲートって本当に便利だよねえ、と思いながら瞬きしているうちに、目に映る景色が変わった。
うちとは違う、だだっ広い広間に、色とりどりの色で何重にも転移用の術式が書かれている。
世界中に点在しているゲートは、それぞれ行先は数か所しか設定されていないけれど、クルークの王城にあるこの中央ゲートは、すべてのゲートに通じている。
もちろん、イェゼロ湖の近くにも、だ。
すっと姿勢を正し、一度円から出る。
正面で微笑みを浮かべて待っている、金髪碧眼の美青年が先程の通信の相手で、このクルーク王国の王太子、ヴァレンタイン・ウノ・オーランド・クルークだ。
「久し振り、リコ。背は伸びたかな?」
微笑んで腰を折り、頬にキスしようとしてくるヴァルの唇を片手で押し返して、キッと睨みつける。
「前に会ってから半日くらいしか経ってないでしょ! あと、身長のことは言うな!」
きょとんとした表情を浮かべた後、楽しそうに笑い声を上げるヴァルの鳩尾に、残ってた片手を拳にしてぐりぐり押し付けて頬を膨らませる。
ごめんごめん、と軽い謝罪が降ってきて、改めて頬に唇が寄せられる。
――結局それからじゃないと話が進まないのか。
面倒くさくて溜息を吐き出しかけたけど、それを飲み込んで、ヴァルの言葉を待った。
「イェゼロ湖の管理人から、妙な服装の少女がいると伝令鳥便が届いたのが今朝のことで、その報せを受けてエストが向かった。通信によると"チュウガクセイ"らしい」
手短な情報を頭に入れ、解ったと肯いてからもう一度円に向かう。
珍しくヴァルがついてこないな、と思って振り返ったら彼は申し訳なさそうに苦笑していた。
「悪い。今日はこれから雑用があるんだ。だから俺は一緒に行けない」
いや、雑用っていうけどあなたの雑用って大体謁見のコト指しますよね。それ雑用って言わないし。
まあ、その雑用放ってついてくるような男だったら幻滅だけど。
「毎回一緒に来てくれなくても大丈夫だから。きちんとお仕事頑張ってね」
にっこり笑って「イェゼロ湖・転移」と声に出せば、さっきと同じように瞬き数回の内に景色が入れ替わった。
灰色の石造りのこの建物は、イェゼロ湖のほとりに立ってる小さな家の敷地にある。
ちなみに、その家っていうのが湖管理人さんの家らしい。
こんな、貴族が夏場に避暑に遊びに来るだけのような土地を管理しててくれて、本当にありがたいことだよね。
私だったら絶対無理。
近くに書店と図書館のない生活なんて無理だなー、なんて思いながら、魔術の施された扉をすり抜けて外へ出る。
そして外に出た瞬間、どこからともなくすすり泣くような女の子の声と、それを宥める青年の声が聞こえてきた。
声を頼りに歩いていくと、すぐに声の主はみつかった。
肩口で綺麗に切りそろえられた黒髪。
赤いリボンの白いセーラーと黒のプリーツスカート、それから白の靴下に黒のローファー。
どうやらあっちは冬らしく、制服の上に厚手のコート。
うん、中学生ですね! まさしく。
大きな足音を立てないように、ゆっくり近づいていくと、女の子を慰めていた青年が先にこちらに気づいた。
安堵するようにふわっと微笑みを浮かべた、薄茶色の髪と冬空の瞳を持つ彼の名は、エストール・ドゥ・オーランド・クルーク。
ヴァルの弟であり、第二王位継承者だ。
「もう大丈夫だよ、リコが来てくれた」
やわらかな声で告げて、俯いて嗚咽を洩らしている彼女の背中を優しく撫でている。
その言葉にゆっくりと顔を上げて、彼女が私を見た。
それから、驚いたように瞳が大きく見開かれる。
うん、涙が止まっちゃうほどびっくりされるとは光栄ですね!
「こんにちは、初めまして。私は蘇芳翠子、あなたと同じ日本人です」