動かない時計
「美奈、入るよ」
昼ご飯を届けに、静子は娘の部屋のドアを二回ノックしてガチャリと開けた。かつてノックせずにドアを開けたことがあり美奈に怒鳴られたので。
電気は点いているものの、娘はいなかった。母は一瞬眉を寄せた。机には電源の入っていないノートパソコンやゲーム機器、漫画がいつも通り乱雑に積まれている。二年前から変わらない汚部屋。腐臭を放つごみやジャージで散らかった床を遠慮なく踏み、静子はベッドの上に適当に卵サンドとペットボトルの水を置いた。
「どうしようもない」
と、ため息をつく。
「お隣の近藤さんトコのお嬢さんは、名門校に通っているのに。――昔はあの子と仲良かったなあ。どうして行く先が分かれちゃったのか」
静子はやれやれと頭を掻きながら部屋を出た。
*
午後9時。家の中は真っ暗でしんとしていた。最近始めた書店アルバイトから帰ってくると、静子は夜ご飯を作り始めた。先輩の田中さんにロールキャベツの作り方を教えてもらったので今日はそれを作ってみようと思っていた。別にお金に困っているわけでもない。自分でも動機はよく分からないがアルバイトを始めた彼女だった。夫は長いあいだ遠くに単身赴任しているから、今日も二人分の夕食。田中さんが書いてくれたメモを広げた。
コトコト、と食材を煮込む音が広い家に虚しく響く。お米と汁物はもう出来上がってしまったので静子は、時が過ぎるのをぼんやりと待っていた。
ロールキャベツが出来上がった。二つずつに分けて一方は皿に、もう一方はタッパーに盛った。蓋つきの容器をもう二つ棚から取り出し、ご飯とみそ汁をそれぞれに入れて、ぱちんとその蓋を閉めた。
三つの容器とペットボトルを持って二階に上がり、美奈の部屋のドアをノックして開けた。
部屋に娘はいなかった。
静子は立ち尽くして、これは一体何を意味するのだろうと考えた。しかし、すぐに気を取り直し、持っていたものを床に置くと、
「美奈、出てきなさい!」
と、言いながら部屋中を漁り始めた。
「そんなんだから受からなかったのよ。お隣のお嬢さんは受かったのに」
美奈は不登校になってから、たびたび静子から身を隠すようになった。しかし、この台詞を叫べば静子はすぐに美奈を見つけられた。ある時はベッドの下から、またある時は押入れの中から彼女のすすり泣く声が聞こえ始めたからだ。
しかし今回は反応がなかった。静子は首を傾げた。それから大きな溜息をついた。
「もういい。あんたにはうんざり」
静子はそう言い捨てると、娘のために用意した食事を拾い上げ音を立てて階段を降り、持っていたものを乱暴な手つきでごみ袋の中に捨てた。そして手を洗い席に着くと、静まり返ったリビングで夕食を食べ始めた。
ピコン、とスマホが鳴った。静子は最後のロールキャベツを飲み込み、ティッシュで口元を拭いてからスマホを覗き込んだ。
『ロールキャベツ美味しかった? 娘さんにも喜んでもらえるといいわね』
田中さんからラインが来ていた。
静子は息が詰まった。今日、美奈のことを相談して彼女が好きだった給食のメニューであるそれを作ることを勧められた。それでメモを貰ったのだ。
『とても美味しかったです! 娘も喜んでいました。ありがとうございます』
と、静子は打った。送信ボタンを押す。しばらくして、またピコン、とスマホが鳴った。
『美味しいご飯を食べて寝るだけでも元気になるはずだからね! ファイト!』
静子はもう一度娘の部屋を訪れた。
「……美奈、いるなら出てきて」
そう言ってから電気だけが煌々としている部屋で、静子はどうしようもなく結局立ち尽くした。
視線を上げると壁に掛かった大きなアナログ時計の針が止まっているのに気付いた。時計は1時27分を指し続けていた。机上のアナログ時計も、棚の上の時計もベッドの時計もそれぞれ若干のばらつきがあるけれど、似たような時刻を指して止まっていた。静子は机上のそれを取って中身を見た。電池が抜かれている。やめるように言ったのに。
*
隣に住んでいる近藤さんは友達じゃないの、と幼いころ美奈は言った。
「うん?」
「近所の子を巻き込んで私のこと仲間はずれにしてる。私嫌われてる。仲良くなりたいけど嫌われてる」
「ええ、そんなの、あんたに問題があるからに決まってるでしょ。友達ができないのもおかしいわ」
そう言うと、美奈は金属を爪で引搔いたかのような泣き声を上げた。静子はそれを見て、先が思いやられるなあと溜息をついた。
「じゃあもう、せめて頭いい学校入りなさい。そうすれば、いくら友達がいなくたって大損することはない」
静子は美奈を塾に入れて猛勉強させた。しかし美奈は落ちた。彼女はその後、いつからか引きこもり始めた。
美奈が怖がることは受験の失敗を責められることと、他にもう一つあった。時計だ。引きこもりを始めると同時に美奈は時計を怖がり始めた。
ある日、物が割れる音が二階から響いてきて、どうしたどうしたと思って階段を上がり様子を見に行くと、美奈が壁にあった時計を通学バッグで叩き割っていた。
「止めなさいよっ」
貧相な美奈の腕を掴み母は叱った。
「はあ」
「……」
「だから落ちたの。あんたこのままじゃお先真っ暗だよ」
美奈の長い前髪の間から涙がぽろぽろと落ちるのが見えた。次第に嗚咽が混じる。
「なんで時計を壊したの?」
「……怖いから」
「ちゃんとした言葉を喋りなさい」
静子が語気を強めると、美奈は怒鳴った。
「時計の針が進むのが怖いの! 私だけが置いていかれるのが怖いの!」
美奈は母を睨む。その目にまた涙が溜まり、癇癪を起したように泣き始めた。
「もう時計見たくない」
喚く娘を見て静子は、この子は現実逃避しているのだなと思った。それから、胸が痛むが一階の押入れに溜まっていた時計を山積みにして持ってきて、抵抗する彼女を無視して部屋中に取り付けた。美奈を一喝してから静子は、バタンッとドアを閉めた。
*
美奈は時計を自分で止めて、逃げたのだった。静子は娘の行き先を知らない。
家がただ静まり返っている。静子は暗い窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。どうしようもできないもどかしさが夜風となって吹いている。 <了>