動き始めた日常
『神縁』
大切なものを失った少年・一ノ瀬智也と、異世界から現れた神獣の少女・こはく。ひとつの出会いが、ふたりの運命を静かに動かし始める。
心を通わせながら過ごす穏やかな日常、その裏では、世界を喰らう闇が目を覚まそうとしていた――。
過去の傷、隠された力、交わる縁。青春と戦いが交錯する中で、ふたりは“生きる意味”を探していく。
人と神獣の垣根を越えて描かれる、優しくも切ない異世界ファンタジー。
「……智也か」
ふと、上から降ってきた声に、僕は驚いて顔を上げた。
枝の上、淡い桜の花びらが舞うその中に、あの白い髪の少女──こはくがいた。
真っ白な尾がふわりと揺れ、金色の瞳が静かにこちらを見下ろしている。
「……やっぱり、夢じゃなかった」
思わず、僕の頬が緩んだ。
「また、会えた……」
そう呟いた瞬間、こはくがひらりと枝から飛び降りる。ふわりと舞い降りるその姿は、まるで幻のようだった。
「……なぜ、来たのじゃ?」
こはくは僕の前に立ち、小さく首をかしげながら言った。
どこか困ったような、けれど少し嬉しそうな声だった。
「前に、ここで会ったとき……僕、救われた気がして。ちゃんとお礼も言いたくて……それに、また会いたいって思って」
僕がまっすぐに言うと、ふいっと視線をそらした。
「わらわは……なにもしておらぬ」
「……本当に夢じゃないんだな」
隣にいるこはくの白い耳と、ふわりと伸びた尾を見ながら、僕は心からそう思った。やがて、二人並んで桜の木の下に腰を下ろす。
「やっぱりある、耳と……尻尾……」
僕が思わず見とれていると、こはくがむすっとした顔でつぶやいた。
「……智也、おぬし、わらわの尻尾で寝おったの覚えておるか……?」
「え、そうなの!?……ご、ごめん!意識なくしたのは覚えてるんだけど」
僕は慌てて頭を下げる。
こはくは、ふんっとそっぽを向いた。
しばし風に舞う花びらを見つめていた。言葉はなく、ただ、静かに時間が流れていく。
僕は何か話そうと、こはくの方にそっと目をやる。
「こは──」
そのとき、不意に僕のお腹がぐぅぅと大きく鳴った。
「……」
静寂を切り裂くような音に、僕は顔を真っ赤にしてうつむく。
だが次の瞬間──
「ぐぅぅぅ……」
隣でも、こはくのお腹がまさかの共鳴を見せた。
「わ、わらわじゃないぞ!? 今のは、き、気のせいじゃ!」
ふたりで同時に慌てふためく姿が滑稽で、気まずさなんてどこかへ飛んでいった。
やがて、ふとした間のあと──
「ぷっ……」
「ふふ……」
僕とこはくは、笑い出した。
「あはは……!」
「ふふっ、ははは……!」
ふたりは声を上げて笑った。
「何も食べてないの?」
笑いの余韻が収まったあと、僕は少し真剣な声で尋ねた。
こはくは、少しだけ視線を伏せて──
「……食べとらん」
そう答え、膝を抱えてうつむいた。
「……ずっと、ここにいたの?」
「うむ……どこへ行けばよいのかわからぬ。行く当てもないからの……」
僕は静かに立ち上がった。
「……じゃあ、とりあえず、ご飯食べ行こ?」
そう言って、座っているこはくに手を差し出す。
こはくは、そっと僕の差し出した手を見つめた。 その瞳に、迷いと戸惑いが浮かんでいる。
「……なんで、そんなに優しくするのじゃ……?」
ぽつりと、こはくがつぶやく。
「わらわは……人間ではないのだぞ? おぬしにとっては、異形のものなのに……」
その声には、ほんのわずかに、怯えが混じっていた。
僕はそんなこはくに、優しく、けれどまっすぐに言葉を返す。 「もし、逆の立場だったら……」 「こはくは、見て見ぬふりするかな?」
こはくの目が、わずかに見開かれ、顔を膝にうずめる。
「しない……」
「うん、だから、ほら──」
僕はそっと、彼女の手を取った。
「……行こう!」
「ま、待つのじゃ! わらわはまだ行くとは──!」
引っ張られるこはくが慌てて声を上げるが、どこか楽しげに笑みを浮かべていた。
「ふふっ……ほんと、わからぬ奴じゃ……」
僕も思わず、こはくの笑顔につられて笑った。
僕が手を引いて駆け抜けた先は、にぎやかな街の入口。
車が行き交い、信号が瞬き、横断歩道を人々がすれ違う。 コンビニや飲食店、カフェの灯りが並び、夕暮れの空の下、日常が流れていた。
「――ここが、僕の住む世界だよ」
僕は足を止め、手をそっと離して、振り返った。
こはくは驚いたように、周囲を見回す。きらきらとした目で、街の一つひとつを吸い込むように見つめていた。見上げるような高い建物、空から響く電車の音、すれ違う人の波。どれもが、こはくにとって初めての光景だった。
「……これが……人間界……」
呟きながら、こはくはまるで夢でも見ているような顔をしていた。
その横を、スーツ姿の男性が通り過ぎていく。 当然のように、こはくの白い耳、尻尾にも、一瞥すら向けない。
「……やっぱり、見えてるのは僕だけなんだ…」
つい、独りごちた僕の言葉に、こはくがムッとした表情で振り返った。
「だから言うたじゃろ。おぬしが変なのじゃ」
ちょこんとふくれっ面を浮かべるその様子に、僕は思わず笑ってしまった。
そんなこはくを連れて、僕は近くのコンビニへ向かった。 自動ドアが音を立てて開くと、こはくはピクリと反応し、きょろきょろと中を見渡す。
「……な、なんじゃここは……?!」
色とりどりのパッケージ、整然と並ぶおにぎりやサンドイッチ、温かそうな惣菜の香り。
「う、うまそうなものが……こんなにも……」パック詰めの唐揚げや、光るプリンを食い入るように見つめていた。
「……人間は、いつもこんな……うまそうなものを食べておるのか?」
顔を少し膨らませながら、こはくが振り向いた。
「まぁ~そうだね」 「気に入ったの、カゴに入れていいよ」
「よいのか!?では……!」
こはくは、目をきらきらさせながら商品を一つ一つ見ていく。炭酸飲料のコーナーで、「これは何じゃ?」と聞き、ふたつ並べてどちらにしようか本気で悩み――
「むぅ……柑橘というのも捨てがたいが、ぶどうというやつも気になるのじゃ……!」 「ひとまず好きな方にしたら?」
「……では、ぶどう!これにする!」
続けてコロッケやお菓子、プリンやゼリーを慎重に選びながら、まるで宝探しをする子どものようにはしゃいでいた。
レジで会計を済ませると、こはくは僕がお金を差し出す様子を、じぃっと見つめていた。
「……これで食べ物と交換できるのか?これは何じゃ?」
「お金っていって、人間界ではこれでいろんなものを買うんだ。働いて稼いだ分だけ、好きな物と交換できるんだよ」
「ふむふむ……なるほどのぅ」
店を出たあと、近くの土手沿いにあるベンチに腰を下ろす。僕たちはコンビニの袋を開け、それぞれ選んだものを並べた。
「……では、いただくのじゃ!」
こはくは、まずはコロッケをそっと手に取り、ひと口。
「……ん!?これは……さくさくで、中はほくほく……なんという旨さじゃっ!?」
次にぶどうの炭酸を開け、ぴしゅっという音にびくっとしながらも、そろりと口をつけた。
「しゅわしゅわするのじゃ!口の中が……跳ねておる!なんじゃこの水は!?」
お菓子は一つ一つ大事にかみしめ、ゼリーにスプーンを入れる時も「ぷるぷるしておる……」と感心しながら、口に運んだ瞬間――
「つるんとして冷たくて……甘くて……しあわせ……」
そのたびに、こはくの白い尻尾がふわふわと揺れ、耳がぴくぴくと反応していた。 「そういえばさ……」
コロッケの袋を丸めてポケットにしまいながら、僕はふと気になっていたことを口にした。
「こはくって、なんで日本語しゃべれるの?それに、文字とかも普通に読めるっぽいし……」
こはくはペットボトルの炭酸を飲んで、ごくんと喉を鳴らす。
「うむ? それは当然じゃろう。神獣たるわらわは、知らぬ土地の言葉や文字にも、自然と対応できるものなのじゃ」当然のようにこはくは言う。
「……それより智也、これじゃ、このシュワシュワ、気に入ったぞ!」
満面の笑みで言いながら、またペットボトルに口をつけた。
「神獣……」
僕はその言葉に、思わず表情が強張った。
「え、それって……神様ってこと!?」
「んむ……神ではない。わらわもようわからぬ……もぐもぐ……」
こはくはプリンをスプーンですくって口に運びながら、首を傾げた。
その曖昧な返答に、僕の頭の中には疑問がいくつも浮かぶ。 神獣って……一体なに? こはくはどこから来たんだ? 家族は? どうしてこんな場所に……?
でも。
「……ふふ」
隣で、嬉しそうに頬張るこはくの笑顔を見て、その疑問のすべてを、今は一度脇に置こうと思った。
「うまかったのう〜〜〜!」
全部食べ終えたこはくが、満足そうに背伸びをする。
「こはく、食べ終わったらね、『ごちそうさまでした』って言うんだよ」
「おお、そうなのか? ……んん!」
こはくは背筋をぴんと伸ばし、手のひらを合わせて。
「ごちそうさまでした!」 「ごちそうさまなのじゃ!」
「うん、よくできました!」
二人で顔を見合わせ、くすっと笑い合う。
空はいつの間にか、淡い群青に染まり始めていた。
「そろそろ……帰るのじゃ」
こはくが、ぽつりとつぶやいた。
「少しの時間だったけど、美味しいものも食べれて、人間界も見れて……そして、こうしてまた智也と話せて……楽しかったのじゃ」
こはくはふっと笑みを浮かべた。
「……さよならなのじゃ、智也」
その言葉に、僕は俯き、ぽつりと呟いた。
「どこに……帰るの?」
その声に、こはくの足が止まる。
「……どこと言われても、あの場所じゃ。あそこしか……ないからな」
「一人も、案外悪くないものじゃぞ?」こはくは振り返り言った。
僕はゆっくりと顔を上げた。
「……一人が、好きなの?」
「ふふっ、まあな」こはくは肩を少しすくめて笑った。
「……じゃあ、なんで……そんな悲しそうな顔してるの?」
僕の言葉に、こはくの笑顔がふっと止まった。
「……!」
夕暮れの土手沿いで、こはくは僕を見つめたまま、立ち尽くす。
「……おぬしには……そう……見えるのか……」
こはくは視線を少し下に向けた。
「……僕さ」
「両親が亡くなって……全部なくなったと思ってた。世界が真っ暗で、何にも見えなくて……」
金色の瞳が、ゆっくりと僕を見上げた。
「でも、あの日……こはくに出会って、救われたんだ。言葉にできないくらい、心が軽くなって……だから今度は、僕に恩返しさせてくれないかな?」
風が僕の言葉を後押しするように吹いた。
その瞬間、自分が何を言ったのかに気づき、顔が一気に熱くなる。
「あ、ち、ちがっ、今の!そういう意味じゃなくてっ、変な意味で誘ってるとかじゃないよ!? ほら、助けたいっていうか、なんていうか………」
「もっと………一緒にいたいんだ」
顔を真っ赤にした僕に、こはくが、ゆっくりと近づいてきた。
そして、そっと僕の制服の裾を握りしめる。
「……ほんと、おぬしは、ばかなのじゃ……」
その声は、かすかに震えていた。
顔を上げたこはくの目には、ぽろりと光る雫が伝っていた。
その姿に、僕は何も言えなくなって──ただ、そっと微笑んだ。
──夕暮れの風が、二人の距離を静かに縮めていく。
けれどそのぬくもりの裏で──
決して動いてはならなかった歯車が、ゆっくりと音を立てて回り始める。
それは、こはくとの再会が引き金だったのか。
それとも、もっと前から決まっていた運命だったのか──
———僕はまだ、気づいていなかった。
———光が差せば、同じだけの影も生まれるということを。
毎週水曜日/日曜日更新予定(第一章・全48話)
※諸事情により日曜日のみの更新の可能性もございます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。