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神縁  作者: 朝霧ネル
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海辺の約束

こはくと智也がロッジの一階に降りると、室内には静かな朝の気配が満ちていた。


 テーブルのそばでは、叔母さんがひとり腰を下ろし、腕を組んだまま考え込んでいる。 その少し向こうでは、朱焔がしゃがみ込み、武蛇とじゃれ合っていた。炎の神らしからぬ、どこか気の抜けた光景だ。


「おいおい、痛いって言うてるやろ〜かわいいやっちゃな~」「はいはい、黙って寝てなさいっての!」


 ソファでは、泉が横たわる村上の様子を見ながら、いつもの調子で軽口を叩いている。 村上は片目だけ開けて、文句を言い返そうとしては、泉に額をはたかれていた。


 その光景を、こはくは少し離れた場所から静かに見つめていた。


 ――みんな、生きている。


 その事実を噛みしめるように、視線を巡らせる。


 すると、泉がこはくの姿に気づいた。


 ふざけた表情がすっと消え、ゆっくりと立ち上がる。 一歩、また一歩と近づいてきて、小さく息を吐いた。


「……こはくちゃん」


 声が、少しだけ震えている。


「……よかった……」


 それだけ言って、言葉に詰まった。


「わらわは平気じゃ」


 こはくはそう言って、いつものように穏やかに微笑む。


「心配かけてすまぬ。 沙月は……怪我はないか?」


 そう言って、こはくは自然に手を差し伸べようとした。


 ――その瞬間。


 泉の肩が、ぴくりと揺れた。


 無意識に、半歩だけ後ずさる。 ほんのわずかな距離。それでも、はっきりとわかるほどの躊躇だった。


 昨夜、知ってしまったことが、泉の中でまだ整理しきれていない。


 泉は慌てて、ぎこちなく笑った。


「だ、大丈夫……! 私は大丈夫だから……」


 いつもの勢いはない。 どこか、無理に作った声だった。


「こはくちゃんも……無理しないでね」


 その言葉には、怖さと同時に、確かな気遣いが滲んでいる。


 こはくは、差し伸べかけた手をゆっくりと下ろし、泉をまっすぐ見つめた。


 そのとき、ソファの方から間の抜けた声が上がった。


「お、こはくちゃん、起きたんだな〜。 俺は大丈夫だぞ……って、いててて!」


 村上が上体を起こそうとして、すぐに顔をしかめる。


「無理すんなって言ってるでしょ!」


「はいはい、沙月先生こわいこわい……」


 そんなやり取りに、こはくは思わず小さく笑みを浮かべた。 張りつめていた空気が、ほんの一瞬だけ和らぐ。


 その背後で、智也が静かに口を開いた。


「あれ…葉山さんは……?」


 その問いに、泉の表情が曇る。


 少し視線を伏せてから、ぽつりと答えた。


「夏海は……外。 さっき、一人で出て行ったよ……」


 その言葉を聞いた瞬間、こはくの表情が変わる。 柔らかさが消え、まっすぐで真剣な眼差しになる。


「……智也。 すこし、待っていてくれぬか」


 そう言って、こはくは踵を返し、外へ向かおうとした。


 ――その腕が、不意に掴まれる。


「……っ」


 驚いて振り向くと、そこにいたのは泉だった。


 泉ははっとしたように手を離す。


「あ、ご、ごめん……ね…」


 一瞬、言葉に詰まってから、ぎゅっと唇を噛みしめる。


「夏海…ね…」


 小さく息を吸い、そして、こはくをまっすぐに見た。


「……ううん。 こはくちゃん……夏海を、お願いね」

 

 友達としての、精一杯の願いだった。


 こはくはその瞳を見返し、ゆっくりと頷く。


「大丈夫…任せるのじゃ」


 短い言葉に、確かな意志を込めて。


 こはくは扉へ向かい、静かに外へと歩き出した。


 少し離れた砂浜に、ひとり立つ影がある。


 葉山夏海だった。


 彼女は、海に背を向けることなく、ただ立ち尽くしていた。 波が打ち寄せ、足元を濡らしても、動こうとしない。


 夏海は、海を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。


「……私ね」


 誰に向けた言葉でもない。 それでも、吐き出さずにはいられなかった。


「取り返しのつかないことを、してしまった」


 指先が、ぎゅっと握られる。


「友達を……傷つけた」


 喉が震える。


 一度、言葉が途切れた。


「最低なことをした…」


 波の音が、低く響く。


「確かに……あの人に、感情を煽られた。 でも……」


 夏海は、胸のあたりを押さえた。


「羨ましいって思ったのも…… 置いていかれるのが怖いって思ったのも……」


 かすかな笑いが漏れる。


「全部……私の感情だった」


 肩が、小さく震えた。


「だから……私がやったことは、私の罪」


「……こんな私が…… みんなのそばに、いていいわけがない…」


 足が、一歩、前に出る。


 冷たい水が、くるぶしまで覆った。


「いないほうが…… きっと、みんな……しあわせ…」


 夏海は、ぎゅっと目を閉じる。


「みんな…ごめん……ね」


その時背後から聞こえた足音に、葉山はびくりと肩を震わせた。 

けれど、振り向かなかった。 振り向けなかった。 

自分がしてしまったこと。 友達を傷つけたこと。 

その罪悪感が、背中に重くのしかかって、顔を上げることすら許してくれなかった。 


指先が、かすかに震える。


「……夏海」 


その声に、葉山の喉がひくりと鳴る。 

知っている声だった。 

優しくて、あたたかくて――それが余計につらい。 

それでも、葉山は振り向かない。 

視線を海に落としたまま、唇を噛みしめる。 


次の瞬間、背中に、そっと重みが触れた。 

小さな体温。


 ためらいがちで、それでも確かな腕が、背中から回される。


「……無事で……よかったのじゃ」 

こはくの声は、とても静かで、柔らかかった。 


葉山は息を詰まらせる。


「……っ」


「離し……て……」 


声が、震えた。 

拒絶の言葉なのに、力が入らない。 


こはくは、何も言わない。

 ただ、腕に少しだけ力を込める。 


葉山は、その腕を振りほどこうとする。


「離してよ……!」 


指が、こはくの腕を掴む。 


けれど、思ったよりも強くて、ほどけない。


「なんで……なんでよ……」

 言葉が、堰を切ったように溢れ出す。


「私は……みんなを傷つけた……」

「取り返しのつかないことを、してしまった……」

「許されるはずないのに……!」


 喉が詰まり、声が裏返る。


「なのに……なんで……」 

そこで、言葉が途切れた。 


こはくが、すぐ耳元で、静かに告げた。


「……そんなの」 

優しい声だった。


「そんなの……どうでもよいのじゃ」

 葉山の体が、びくりと揺れる。


「夏海が……無事であれば」

「そんなこと……どうでもよいのじゃ」


 その言葉に、張りつめていた何かが、音を立てて崩れた。


「……なんで……」 

涙が、ぽろりと頬を伝う。


「なんで……そんなこと、言えるの……」 

膝から力が抜け、葉山はその場に崩れ落ちる。 


砂を握りしめた指が、白くなる。

「私のせいで……」

「みんなが……」

「私なんて……いなければ……」 

声は小さく、かすれていた。 


こはくは、背中から抱いたまま、葉山と一緒に砂に座り込む。 


そして、ゆっくりと語り始めた。


「……わらわが、人の世に来た時な」 

海の音に溶けるような声。


「ひとりぼっちで……」

「行く当ても、帰る場所も、なかったのじゃ」 


葉山の肩が、ぴくりと動く。


「じゃが……智也に会えた」 

こはくは、葉山の背中に額を寄せたまま、静かに続けた。


「手を……差し伸べてくれたのじゃ」

「だから、叔母様にも会えて……」

「沙月と翔にも、会えた……」 


一つ一つ、噛みしめるように言葉を紡ぐ。


「そして……夏海にも、会えたのじゃ」 

海の音だけが、間に流れる。


「感情というものは……不思議じゃな」 

こはくの声は、どこか遠くを見ていた。


「人を、強くもする」

「じゃが……時には、重すぎて」

「苦しくて、逃げたくて……」

「自分でも、どうしてよいか、わからなくなる」 


少しだけ、腕に力がこもる。


「わらわも……そうじゃった」

「ひとりで抱え込んで……」

「平気な顔をして……」

「でも、胸が痛くて……」 

小さく、息を吐く。


「夏海…」 

こはくは、はっきりと告げた。



「気づけなくて…すまなかったのじゃ」



その言葉に―― 葉山の中で、張りつめていたものが、ぷつりと切れた。


「……っ……」

最初は、声にならなかった。

喉が引きつって、息だけが震える。 


次の瞬間。


「う、ぁ……っ……!」 


堪えきれず、葉山は泣き崩れた。 

嗚咽が漏れ、肩が小刻みに震え、握りしめていた砂が指の間から零れ落ちる。 

葉山は、嗚咽混じりに言葉を吐き出し始めた。


「……私……」

「ずっと……一歩引いてた……」


 砂浜に視線を落としながら、続ける。


「誰かの役に立ちたいって思うと……」

「距離が近すぎるって言われて……」

「だから……また嫌われるのが怖くて……」


 小さく、苦笑する。


「みんなの前では……」

「なるべく踏み込みすぎないように……」

「しつこくならないように……」


 こはくの腕を、ぎゅっと掴む。


「……でも……」


 声が震えた。


「智也くんの前だと……」

「それが……できなかった……」


 その言葉は、弱くて、でも真っ直ぐだった。


「一緒にいて……」

「自然に話せて……」

「気を遣わなくてよくて……」


 唇を噛みしめる。


「……それが……」

「嬉しくて……」


 そして、声を落とす。


「……だから……」

「こはくちゃんと智也くんを見たとき……」


 目を閉じる。


「……嫉妬した……」


 はっきりと、言った。


「自分でも……嫌になるくらい……」

「胸が、ぎゅってなって……」


 涙が、また溢れる。


「……でも……」

「同時に……わかったの……」


 顔を上げ、こはくを見る。


「……あの人が……」

「一番、安心して笑ってるのは……」

「こはくちゃんのそばだって……」


 静かに息を吐く。


「それを壊したいなんて……」

「思えなかった……」


「好きだった……」

「それは、本当……」


「でも……今は……」

「智也くんとこはくちゃんみたいに……」

「大切な人を守れる人になりたいって……」

「……そう…思ってる……」



こはくは、優しく微笑み、口を開く



「話してくれて…ありがとなのじゃ、夏海…」



その一言に、葉山はついに堪えきれなくなった。


 背中から抱きしめているこはくの腕を、ぎゅっと掴み、声を殺して泣く。 

嗚咽が漏れ、肩が小さく震えた。


 こはくは何も言わず、ただ優しく、背中から抱きしめ続ける。 

その腕には、温度だけがあった。




 しばらくして―― 葉山の震えが、少しずつ収まっていく。




 やがて、葉山はゆっくりと、こはくの手をほどいた。 

そのまま座った姿勢で、こはくの方へ向き直る。


 涙で赤くなった目。


「……もう、大丈夫」


 小さく息を整え、穏やかに微笑む。


「ありがとう、こはくちゃん」


 次の瞬間―― 今度は葉山の方から、そっと抱きしめた。


 耳元で、静かに言う。


「私ね…… ちゃんと向き合うよ。 逃げないで、……強い自分になる」


 少しだけ声を震わせながらも、はっきりと。


「本当に……ありがとう」


 葉山はそっと身体を離し、立ち上がる。 

そして、まっすぐに手を差し伸べた。


「行こ?」



 こはくはその手を取り、立ち上がろうとしたが



「……ぬおっ!?」


 びくり、と身体が跳ねた。


「ど、どうしたの!?こはくちゃん!?」


「……足…… 痺れて、動けないのじゃ……」


 情けない声と、溶けたような表情。


 葉山は一瞬きょとんとしたあと―― 吹き出した。


「ふふ……あははっ……!」


 笑いが止まらなくなる。


「笑うな……夏海よ……」


 不満そうに睨むこはく。


 葉山はしゃがみ込み、悪戯っぽく、こはくの足をつんつんする。


「痺れてるの、ここ?」


「ぬおおおおおお! 殺す気かぁ〜!!」


 砂浜に、くすくすと笑い声が混じる。


少し離れた場所で、その光景を見つめる智也。 笑い合う二人の姿を、ただ静かに見守っている。


 ――よかった。


 誰に向けたものでもない、独り言。


 智也は、小さく息を吐き、 穏やかな微笑みを浮かべた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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