夜を超えて、朝へ
こはくは、ゆっくりと目を覚ました。
天井が、少しぼやけて見える。 身体は重く、どこか遠くに引き戻されたような感覚が残っていた。
――……ここは……。
視線を動かした、その瞬間。
すぐそばに、智也がいた。
床に座り込み、ベッドに頭だけを乗せた不格好な姿勢で、深く眠っている。 その手は――こはくの手を、離すまいとするように、しっかりと握られていた。
こはくの胸が、きゅっと鳴る。
その寝顔を見た途端、 昨夜の記憶が、断片的に押し寄せてきた。
紫色の棘。 冷たい笑み。 そして――
――貫かれた、智也の身体。
血の感触。 崩れ落ちる音。 動かなくなった、その姿。
はっ、と息を呑む。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
だが同時に、別の光景も浮かぶ。
自分を抱き寄せる温かい腕。
――助けて……くれたのじゃな。
こはくは、そっと視線を窓の方へ向けた。
朝の光。 穏やかな空。 一見すれば、何事もなかったかのような世界。
だが―― 空気の奥に、確かな歪みを感じる。
昨夜、確かに世界は壊れかけた。 そして、自分たちはその渦中にいた。
こはくは、再び智也へ視線を戻す。
生きている。 ここにいる。 手を、握っている。
こはくは体を横向きにし、しばらくの間、智也の寝顔を見つめた。
そして、普段は決してしない仕草で―― そっと、その髪に触れる。
撫でるように、指先を滑らせる。
――無茶しおって……。
責める言葉は、心の中にだけ落とした。
そのとき。
「……こはく……」
かすれた声が聞こえる。
智也が、ゆっくりと目を開いた。
眠たげに瞬きをしながら、こはくを見上げる。
「……おはようなのじゃ」
こはくは、小さく微笑んだ。
そして、静かに起き上がり、智也の前にかがむと―― そのまま、ぎゅっと抱きしめる。
「……守ってくれて、ありがとうなのじゃ」「……生きててくれて……ありがとう」
智也の腕が、遅れて回ってくる。
「……こはくこそ。無事でよかった……」
こはくは目を閉じた。
静かな空気が、まだ部屋に残っていた。
智也とこはくは近い距離のまま、互いの呼吸を感じていた――そのとき。
バンッ!!
勢いよく扉が開く。
「おはようさん!!」
部屋の空気が、一瞬で吹き飛んだ。
「――――っ!?」
こはくと智也は、反射的にぱっと離れる。
こはくは顔を真っ赤にし、尻尾をばさっと揺らし、 智也も慌てて視線を逸らし、耳まで赤くなる。
「……っ、き、急になんじゃ……!!」
「……!」
朱焔はその様子をじっと見て、首をかしげた。
「ん? なんやなんや、二人とも顔まっかっかやん」
わざとらしく、にやりと笑う。
「朝から暑いんか? それとも……なんかあったんか?」
「な、なにもないのじゃ!!」「なにも……!!」
朱焔は「ふーん」とだけ言うと、 何も追及せず、そのままこはくの前にしゃがみ込んだ。
視線の高さを合わせ、にかっと笑う。
「なぁ」
突然の距離感に、こはくは少し身を引く。
「……な、なんじゃ」
「うちのこと、覚えとるか?」
こはくは一瞬考え、首を傾げた。
「……わからんのじゃ。誰なのじゃ?」
「やっぱりか〜!」
朱焔は大きく肩をすくめ、けらけら笑った。
「うちは朱焔。 五神の一人や」
そう言ってから、ふっと表情を緩める。
そして、そっと―― こはくの頭に手を置いた。
「……ほんま、でかなったなぁ」
優しく撫でながら、懐かしそうに目を細める。
「白華に、よう似とるわ……」
その名前を聞いた瞬間、 こはくの表情が変わった。
「――母上を、知っておるのか!?」
身を乗り出し、朱焔の服を掴む。
「母上はどこにおるのじゃ!? 今も、生きておるのか!?」
必死な声。 揺れる尻尾。
「お、おいおい!」
朱焔は慌てて両手を上げた。
「落ち着け落ち着け! 興奮しすぎや!」
「――!」
「こはく!」
智也がすぐに声をかける。
「落ち着いて。まだ身体が…」
こはくははっとして、息を整える。
こはくが深く息を吐き、ようやく落ち着いたのを見て、 朱焔はふっと笑みを消した。
さっきまでの軽い調子は影を潜め、 珍しく、真剣な表情になる。
「……こはく」
その声に、こはくが顔を上げる。
朱焔は一瞬だけ視線を伏せ、 ゆっくりと言った。
「すまんな。 正直に言うと……うちも、白華が今どこにおるかは、わからん」
その言葉に、 こはくの胸がきゅっと縮む。
尻尾が力なく垂れ、 こはくも俯いた。
「……そう、か……」
部屋に、短い沈黙が落ちる。
けれど―― 次の瞬間。
「せやけどな」
朱焔は、顔を上げた。
そして、いつもの調子で、にっと笑う。
「白華はな、 とんでもなくしぶといやつや」
こはくの頭に、ぽん、と手を置く。
「簡単にくたばるような女やない。 うちが保証したるわ」
くしゃっと、少し乱暴に撫でる。
「せやから―― 大丈夫や」
その笑顔は、どこか確信めいていて、 軽口なのに、不思議と心強かった。
こはくはゆっくりと顔を上げ、 朱焔を見つめる。
「……ほんと、か?」
「ほんまや」
朱焔は即答した。
「それに、白華は…」
こはくの胸元を、指先で軽くつつく。
「大切な娘を置いてくようなやつやない…」
こはくはどこか安心したように、ふっと、小さく笑った。
「……そう…じゃな」
その笑みは、まだ不安を残しながらも、 確かに、希望を含んでいた。
朱焔はそれを見て満足そうに頷く。
「よっしゃ! ほな今は、ちゃんと休め!」
その言葉に、こはくは静かに頷いた。
智也は、そっとこはくの手を握った。
「……きっと、大丈夫だよ」
力を込めすぎない、けれど確かな温度で。
こはくはその手を見つめ、 しばらく、静かな沈黙が落ちる。
――そのとき。
「……はっ!」
こはくが、弾かれたように顔を上げた。
「夏海……! 沙月は……翔は!?」
息を詰めたまま、智也を見つめる。
智也は、すぐに頷いた。
「大丈夫。みんな無事だよ」
安心させるように、はっきりと。
「朱焔さんが……みんな助けてくれたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、 こはくの肩から、すっと力が抜けた。
「……そう、か……」
小さく息を吐き、 こはくはゆっくりと朱焔のほうへ向き直る。
「……ありがとう、なのじゃ……」
ぺこり、と素直に頭を下げる。
その姿を見た朱焔は――
「はぁ〜〜〜っ!!」
両手で胸を押さえた。
「なんやこの子! かわいすぎやろ!!」
次の瞬間、 ぎゅっとこはくを抱きしめる。
「ちょ…!! なんなのじゃ!? 離すのじゃ!!」
こはくは慌ててじたばたするが、 朱焔はまったく離す気配がない。
「ええやんええやん〜! 命の恩人にこれくらいサービスしても〜!」
「意味がわからんのじゃ!!」
必死に抵抗するこはくと、 満面の笑みで抱きしめ続ける朱焔。
その様子を横で見ながら、 智也は思わず、苦笑いを浮かべた。
こんこん、と控えめなノックの音がした。
「入るわよ〜?」
返事を待つより先に、扉が開く。
顔をのぞかせたのは、叔母さんと澪白だった。
こはくの姿を見つけた瞬間―― 叔母さんの表情が、ぱっと崩れる。
「こはくちゃん……!」
次の瞬間、ぎゅっと強く抱きしめられた。
「無事でよかった……ほんとに……心配かけないで…」
震える声と、温かい腕。
澪白もその後ろで、深く息を吐き、 ようやく肩の力を抜いたような表情を浮かべている。
こはくは少し驚きながらも、 ゆっくりと、その背中に腕を回した。
「……心配、かけたのじゃ……」
その様子を見ていた朱焔が、ぴくっと反応した。
「あっ! ちょっと待ちぃ!」
ずいっと身を乗り出す。
「うちはあんなに嫌がられたのに! その抱きしめはアリなんか!?」
こはくは、叔母さんにしがみついたまま、きっぱりと言った。
「叔母様はよいのじゃ!」
「なんやそれぇ!!」
朱焔は悔しそうに自分の服の裾を噛みしめる。
「差別や! うちは傷ついたで!!」
その騒ぎの中、 こはくと叔母さんが抱き合う姿の前に、澪白が静かにしゃがみ込んだ。
そっと、 こはくの頭に手を置く。
「……守ってあげられなくて、ごめんなさい……こはく」
いつもより低く、 どこか震えた声。
こはくは、その手に気づき、顔を上げると、首を横に振った。
「……姉上は、なにも悪くないのじゃ、わらわが、悪いのじゃ…」
まっすぐな瞳で、そう言う。
その言葉に、澪白は一瞬、唇を噛みしめた。
――自分の不甲斐なさを、 否応なく突きつけられたように。
けれど、その空気を切るように、 叔母さんが手を叩いた。
「それより!」
明るい声で。
「みんなもう回復して、起きてるわよ。 下に集まってるから、行きましょ」
智也はその言葉に頷き、立ち上がる。
そして、こはくの前に立つと、 そっと手を差し出した。
「ほんと…!こはく、みんなのとこ行こ?」
「肩、貸すよ」
こはくは一瞬きょとんとし、 それから、素直にその手を取った。
「……うむ」
そうして、 智也、こはく、叔母さんは部屋を後にする。
扉が閉まり、 部屋に残ったのは、朱焔と澪白だけだった。
朱焔は、少し真剣な顔に戻り、澪白に声をかける。
「澪……」
低く、落ち着いた声。
「一人で背負うな。 それ、悪い癖やで」
澪白は、噛み締めていた唇を、ゆっくりと緩めた。
「……私は……無力だ……」
その呟きは、 誰に言うでもなく、床に落ちる。
朱焔は答えず、 窓際へ歩み寄り、外を眺めた。
歪み始めた空気を、肌で感じながら。
「……何を言うとるんや」
「澪らしくないな〜」
その背中は、 軽い口調とは裏腹に、 どこか張りつめていた。
朱焔は、俯いたままの澪白の横へと歩み寄り、足を止めた。
一瞬、言葉を選ぶように息を吸ってから、 そっと――澪白の肩に手を置く。
「……なぁ、澪」
いつもの軽い調子ではない、落ち着いた声。
「今回はな、ただタイミングが悪かっただけや」
澪白の肩が、わずかに揺れる。
「澪が悪かったわけでも、間違っとったわけでもない」
朱焔は、少しだけ視線を落としながら続けた。
「それに……こはくは、もう子供やない」
澪白は、はっとしたように顔を上げる。
「傷ついて、泣いて、それでも立ち上がって…… ちゃんと“選ぶ”ところまで来とる」
朱焔は、穏やかな口調で、けれど確かな重みを込めて言った。
「守れんかったことばっかり数えるんやなくてな」
肩に置いた手に、少し力を込める。
「これから先―― こはくや智也、皆が笑って過ごせるようにする」
「それが、今のお前の役目やないんか?」
しばらくの沈黙。
澪白は、唇を噛みしめたまま、 やがて――小さく、けれど確かに、頷いた。
「……」
その一言に、朱焔は満足そうに息を吐く。
「よっしゃ」
肩に置いていた手を、ぽん、ぽんと軽く叩いた。
「ほな、先に下行っとるで」
少しだけ、いつもの明るさを取り戻した声で。
そう言って、朱焔は振り返らずに部屋を出ていった。
残された澪白は、しばらくその場に立ち尽くし―― やがて、胸の奥に溜まっていた息を、静かに吐き出した。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
迷いの色は、もうそこにはなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




