死線に上がる花火
気づくと、智也は崖の上に立っていた。
どこまでも続く草原が、眼下に広がっている。 空は澄みきり、風は静かで、世界は不思議なほど穏やかだった。
「……ここは……?」
自分の声が、やけに遠く感じる。
「目を覚ましたか」
背後から、低く落ち着いた声がした。
振り返ると、そこに一人の男が立っていた。 長い髪を風に揺らし、静かな瞳で智也を見つめている。
――知っている。 澪白の記憶の中で、見た姿。
「……あなたは……」
男は、ほんの少しだけ笑った。
「大きくなったな、智也」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……蒼玄……さん……?」
「ああ」
男――蒼玄は、隣に立ち、同じように草原を見下ろした。
二人の間に、しばし沈黙が流れる。 暖かな風が吹き抜け、草が波打つ。
「……ここに来たということは」
蒼玄が、静かに口を開く。
「人の身では、越えてはならない場所まで来てしまった、ということか」
智也は、はっとして自分の胸に手を当てた。
「……僕……どうして……」
記憶が、曖昧だ。
「死にかけた。いや……もう、半分は向こう側…?」
智也は、息を呑む。
蒼玄は、智也の肩にそっと手を置いた。
「話しておかなければならないことがある」
智也は、その手の重さに逆らえず、黙って頷いた。
「智也。“禍津”という存在を知っているな」
「……はい」
蒼玄は、草原の遥か先を見つめながら語り始める。
「禍津は、もともと“争いの神”でも“破壊の神”でもなかった」
風が、少し強く吹いた。
「情を司る神だった。 人の悲しみ、怒り、喜び……すべてを受け止め、均す役目を持っていた」
智也は、黙って聞いている。
「我々五神は、禍津の手と足となり、人間界を見守り、救ってきた…」
蒼玄の声が、わずかに低くなる。
「禍津もときに人間界に降りては、人のそばに立ち、声を聞き、感情を背負い続けた。それでも……人は、五神の名を崇め、禍津の名を呼ぶことはなかった」
「……」
「理解していた。 人にとって、見える力、名だけが“神”なのだと」
蒼玄は、拳をわずかに握る。
「だが……積もった。 感情は、積もる。 吐き出す場所を失った感情は、やがて歪む」
智也の胸に、嫌な予感が広がる。
「禍津は、人を憎んだのではない。 ……“救おうとして、救われなかった自分自身”に耐えられなくなった」
蒼玄は、そこで一度、言葉を切った。
「そして、その矛先は……私に向いた」
「……あなたに?」
「ああ」
蒼玄は、ゆっくりと頷く。
「禍津は、何かあれば必ず私に相談してきた。 支え合ってきた……つもりだった」
その声に、初めて揺らぎが混じる。
「だが、最も肝心な時……私は、そばにいなかった」
「私は……人間界にいた。 お前が、生まれようとしていたからだ」
蒼玄は、智也を見る。
「……智也。 お前が生まれた瞬間、私は心から喜んだ」
優しい声だった。
「だがその間に、禍津は……完全に、独りになった」
蒼玄は、目を伏せる。
「救えたはずだった。 話を聞き、手を伸ばせば……」
風が、草原を大きく揺らした。
「だが、私は選んだ。 お前と……香織のもとへ行くことを」
「……それで……禍津は……」
蒼玄はわずかに目を伏せた。
「ああ」
静かに、しかし確かな痛みを帯びた声だった。
「私は、智也が生まれたことを報告するため、禍津のもとへ向かった。 父として、友として……喜びを分かち合えると、疑いもしなかった」
蒼玄は、拳を握りしめる。
「だが、そこにいたのは―― 私が知っている禍津ではなかった」
風が、草原を強く揺らす。
「禍津は、すでに人間への憎しみに囚われていた。 そして……智也の存在を“歪み”だと断じた」
蒼玄は、はっきりと言った。
「女神様がきてくれなければ、 私も、智也も……その場で消されていた」
短い沈黙。
蒼玄は、空を見上げる。
「女神様は、禍津の異変に気付いていた……」
そして、声を落とした。
「……だが、その女神様でさえ―― 禍津に…」
言葉が、地面に落ちるように重い。
蒼玄は、しばらく黙っていた。
智也の横顔を見つめ、そして、ふっと小さく息を吐く。
「話は変わるが……会えたんだな、智也」
唐突な言葉だった。
智也は、きょとんとして蒼玄を見る。
「……え?」
「白い狐の娘だ」
蒼玄の視線が、草原の彼方ではなく―― もっと遠い、現実のほうを見ている。
「九つの尾を持つ、白華の子…… こはく、という名だったな」
その名を聞いた瞬間―― 智也の胸が、強く脈打った。
――思い出す。
夜白の笑み。 紫色の棘。 血に染まる夜。 そして――
「……っ!」
「こはく……!」
頭の奥で、すべてが一気に繋がる。
自分が倒れた理由。 ここにいる理由。 そして――
「……まだ……戦ってる……!」
「こはくが……一人で……!」
声が、震える。
「戻らないと……!今すぐ……!」
「焦るな」
「でも――!」
「だからこそだ」
蒼玄の声は、低く、重い。
「このまま戻っても、お前は―― また、守られる側のままだ」
「……それじゃ、間に合わない」
蒼玄は、一歩、智也に近づいた。
「禍津は、お前の大切なものを“壊す”つもりだ。 心も、誇りも……すべてだ」
「……やめてくれ……」
「ならば、選べ智也」
蒼玄は、はっきりと言った。
「力を継ぐ覚悟はあるか…完全にだ」
風が、草原を大きく揺らした。
「それは、救いではない。 人としての“普通”を、捨てる選択だ」
「痛みも、恐怖も、後悔も…… 誰よりも背負うことになる」
蒼玄の瞳は、逃げなかった。
「それでも―― あの子の隣に、立ちたいか?」
智也は即答した。
「……立ちたいです」
声は、震えている。 だが、迷いはない。
「守りたいんです…… もう……一人で戦わせたくない……それに、大切な家族、友達も…失いたくない……!」
蒼玄は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、深く頷く。
「……そうか」
智也の肩に、力強い手が置かれる。
「ならば、受け取れ」
蒼玄は、真正面から見据える。
「お前が選んだ道。 私は、それを誇りに思う」
蒼玄は、智也を強く抱きしめる。
「行け、智也…皆を…頼んだ…」
そして―― 崖の向こうへ、突き落とされる。
「えっ……!」
身体が、宙へ投げ出される。
落下する視界の中で、蒼玄が遠ざかる。
その背後―― 微笑む人影が、3つ並んでいた。
言葉はない。 ただ、肯定だけがそこにあった。
智也は、目を閉じる。
――ああ。
――僕は、独りじゃない。
光が、智也を包み込む。
そして―― 世界が、反転した。
夜白の指が、こはくの髪を容赦なく引き上げた。
「……っ、く……!」
無理やり仰がされた視界の先で、 夜白は楽しそうに、ゆっくりと微笑む。
「その顔……いいわ。」
次の瞬間―― 地面が、低く鳴動した。
こはくの手首を、結晶の棘が貫く。
「――あっ!!」
鋭い痛みが、神経を貫く。
思わず息が詰まり、 歯を食いしばって声を殺そうとするが――
続けざまに。
足元から、さらに一本。
「――っ、ああぁぁっ!!」
今度は、堪えきれなかった。
悲鳴が、夜の浜辺に響く。
夜白は、その声を聞いて、満足そうに目を細める。
「いい声。 そうよ……ちゃんと、感じなさい、痛みを」
こはくの身体が震える。
「……こ、ろ……し、て…やる…のじゃ……」
掠れた声でそう言っても、 夜白は止まらない。
最後に、夜白の視線が―― こはくの頭へと向けられた。
地面が、大きく軋む。
「さあ……終わりね」
結晶の棘が、今まさに突き出ようとした――
「――――ッ!!」
その瞬間。
夜白の視界から、こはくの姿が消えた。
紫の棘は、空を穿つだけ。 こはくの身体が小さく跳ねる。
荒い呼吸のまま、 震える声が、ようやく零れ落ちた。
「……とも、や……」
――間に合った。
そう思った瞬間、 智也は崩れ落ちるように、こはくを抱き寄せた。
小さな身体は、驚くほど軽く、 そして――痛々しいほど、ぼろぼろだった。
「……こはく……」
腕の中で、かすかに震えるその身体に、 喉が詰まる。
「……ごめん……遅くなった……」
返事は、なかった。
こはくの身体から、ふっと力が抜け、 そのまま――意識を手放す。
「……っ」
智也は歯を食いしばり、 そっと、そっと―― 傷ついた身体を木の根元へと横たえた。
その瞬間。
――空気が、震えた。
風が逆巻き、 衝撃波が、地面を円状に押し広げた。
智也の全身を包むように、 蒼いオーラが立ち上り、 力が漲る。
その瞳からは、 抑えきれないほどの光が漏れ出していた。
ゆっくりと、顔を上げる。
視線の先―― 夜白を、まっすぐに射抜いて。
「……お前だけは」
低く、震えのない声。
「絶対に……許さない」
夜白は、その姿を見て、 ふっと、楽しそうに笑った。
「……あら」
紫の結晶が、地面から芽吹くように現れる。
「ようやくお目覚めのようね」
周囲に、紫色の結晶の薔薇が咲き誇る。
「さあ…… 私を、楽しませて」
智也は、一歩踏み出す。
次の瞬間―― その姿が、かき消えた。
「――神典蒼嶺」
空を裂く声。
「――乱天」
拳、蹴り。
軌道は不規則。 連続する衝撃が、空間そのものを切り裂く。
残像が、何重にも重なり、
「……っ!?」
どこから、攻撃を受けたのか夜白は理解できない。
次の瞬間、 身体が大きく弾き飛ばされた。
地面を転がり、 夜白は、――混乱の色を浮かべる。
智也の足元が――沈む。
「――神典蒼嶺・翔破」
その瞬間、 智也の身体は空へと跳ね上がった。
重力の向きが、意味を失う。
竜が雲間を泳ぐように、 上下も、斜めも、背後さえも―― “方向”という概念を置き去りにした軌道。
夜白の視界から、 智也の姿が完全に消える。
首を傾げ、くるりと視線を巡らせる。
「次は……どこからくるの?」
――その背後。
空気が、鳴いた。
「……見え見えよ」
夜白が振り向きざまに、 無数の紫色の結晶を噴き上げる。
刃のような棘が、 智也の進路を完全に塞ぐ――はずだった。
だが。
智也の身体は、龍のようにしなやかに捻られた。
結晶の隙間を、紙一重で擦り抜け、 空中で体勢を反転。
次の瞬間――
横腹に、蹴りが叩き込まれる。
その足には、 蒼い龍の気配が絡みついていた。
青龍が、脚そのものに宿ったかのような一撃。
「――っ!?」
夜白の身体が、 地面へと叩き落とされる。
――一度。
――二度。
――三度。
地面を跳ね、岩を砕き、 何度もバウンドしながら吹き飛ばされていく。
最後に、 土煙が大きく舞い上がった。
その中心で、 夜白は地に伏し――
それでも、 ゆっくりと笑った。
「……なるほど」
口元に血を滲ませながら。
「面白いじゃない…ふふ」
夜白は、血に濡れた口元を指でなぞり、 くすりと笑った。
「でも、残念……」
その視線が、智也の腕に落ちる。
「腕、傷ついてしまったようね」
――パチン。
指が鳴った瞬間、 智也の全身を雷のような激痛が駆け抜けた。
「――っ、ぁ……!!」
喉から、声にならない呻きが漏れる。 膝が崩れ、地面に手をついた。
視界が歪む。 色が滲み、夜白の輪郭が揺れた。
「もう少し楽しめると思ったけど……」
夜白は肩をすくめる。
「やっぱ、ダメね」
――その姿が、消えた。
「っ……!?」
次の瞬間、 目の前に、夜白がいた。
理解するより早く――
膝蹴りが、腹部を抉る。
「――ぐっ……!!」
肺の空気が一気に吐き出され、 智也の身体が宙に浮く。
そのまま、 無様に地面へと叩きつけられ、 腹を押さえ、うずくまった。
「ふふ……」
夜白は見下ろしながら笑う。
「あの子と、同じ格好してるわよ」
こはくの姿が、脳裏をよぎる。
――それでも。
智也は、歯を食いしばり、 立ち上がる代わりに――跳ねた。
両手が、 夜白の喉元を掴む。
「……っ!」
夜白の目が、わずかに見開かれる。
だが、すぐに口角が上がった。
「ほんと……生意気ね」
夜白は、智也の手首を掴み、 ゆっくりと、引き剥がす。
――そして。
鈍い音。
手首が、あり得ない角度に折れた。
「――あぁぁぁぁあああ!!」
夜の浜辺に、 智也の悲鳴が響き渡る。
夜白は、腹を抱えて笑った。
ひとしきり笑い終えたあと、 その表情は――氷のように冷えた。
「……もういいわ」
淡々と、告げる。
「二人して、仲良く死になさい」
夜白が、ゆっくりと手を上げる。
その瞬間、 二人の頭上に―― 鋭利な薔薇の花びら型の結晶が、無数に現れた。
刃のように尖り、 今にも降り注ごうとするそれら。
――その時。
海の向こうで。
夜空を裂くように、 巨大な花火が、一発だけ打ち上がった。
赤と紫が、 不気味に夜を染める。
まるで―― 何かの到来を告げる合図のように。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




