表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神縁  作者: 朝霧ネル
37/40

九尾、こはく

こはくは、眠る葉山の身体をそっと抱え直し、砂の上に横たえた。 

その仕草は驚くほど優しく、戦場にいることを一瞬だけ忘れさせる。


「……智也」


 振り返らず、低く言う。


「皆を、頼む」


 その言葉に、僕ははっと息を呑んだ。


「でも、こはく……体が……!」


 息は荒く、肩は上下している。


 こはくは、ちらりと振り返り、少しだけ笑った。


「大丈夫じゃ」


 その笑みは、いつもの無邪気なものではない。


「……わらわを、誰だと思っとる」


 僕は、それ以上言葉を続けられなかった。


 


 すると、愉しげな声が響く。


「ほら。来ないの?」


 夜白は、闇の中に佇んだまま、指先で空をなぞるように笑う。


 こはくは一度、深く息を吸った。 そして、構えを取る。


 次の瞬間―― 地を蹴り、一気に距離を詰めた。


 


 拳が放たれる。


 しかし。


 夜白の姿は、紙一重で揺らぎ――消える。


「……っ!」


 拳は空を切った。


 耳元で、囁く声。


「ふふ……」


 冷たい吐息が、こはくの耳朶を撫でる。


「まだ、あなた番じゃないわ、こちらにきてくれてありがと」


 その声は、甘く、残酷だった。


「――絶望はね。 大切なものが壊れるところから始まるのよ」


 


 その瞬間。


 僕の背筋に、凍りつくような感覚が走った。


「……っ、まさか……!」


 夜白の視線が、ちらりと逸れる。


 その先―― 砂の上で眠る、村上と泉。


「くそ……!」


 僕は考えるより早く、走り出していた。


 


「智也!?」


 背後で、こはくの声が弾ける。


 振り返る暇もなく、僕は二人の前に飛び出す。


 ――間に合え。


 そう願った、次の瞬間。


 


 ズブリ。


 鈍く、嫌な音がした。


 


 地面が裂け、 紫色の棘が、僕の胸を貫かれていた。


 


「……っ……!」


 口から、息が漏れる。


 眠る二人を、背に庇って。


「……智…也……?」


 こはくの声が、震える。


 夜白は、少し驚いたように目を細め―― そして、心底楽しそうに笑った。


「……あら」


 紫の煙の中で、唇が歪む。


「いい顔するじゃない」


 こはくの思考が、一瞬、止まる。


「……え……?」


 言葉にならない声が、喉から零れ落ちる。


 次の瞬間、足から力が抜けた。 砂を踏みしめていたはずの感覚が、ふっと消える。


「……うそ、じゃ……」


 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。


 ふらふらと、まるで夢の中を歩くように、智也のもとへ向かう。 視界の端で、夜白が微笑んでいるのが見えた。


 その笑みは、あまりにも穏やかで――残酷だった。


「大丈夫よ」


 夜白は、まるで慈悲深い存在のように、肩をすくめる。


「私は優しいから。 ……看取る時間くらいは、あげるわ」


 


 その直後だった。


 貫いていた紫の棘が、 ぱきりと、乾いた音を立ててひび割れる。


 まるでガラスのように、 崩れ、砕け、霧のように消えていった。


「……っ……」


 身体が、前に傾ぐ。


 支えるものを失った人形のように、 そのまま、倒れ込んだ。


 


「――智也…」


 こはくは駆け寄り、膝をつく。 迷いなく、その身体を抱き起こした。


 腕の中の重みが、あまりにも現実的で―― あまりにも、冷たかった。


「……智也……?」


 呼びかけても、返事はない。


 唇が、かすかに震え、 その口から、血がこぼれ落ちる。


「っ……!」


 こはくは、慌ててその顔を抱き寄せる。


「だいじょうぶじゃ……すぐ……すぐ治る……」


 自分に言い聞かせるように、繰り返す。


「ほら……目を、開けるのじゃ……なぁ……」


 


 だが、まぶたは、ゆっくりと閉じられていく。


「……!」


 こはくの喉が、ひくりと鳴った。


 両手で、必死に肩を揺さぶる。


「起きるのじゃ……! 智也……冗談は……やめるのじゃ……」


 返事は、ない。


「……なぁ……」


 声が、震える。


 次第に、掠れていく。


「なぁ……智也……」


 


 ――ぽた。


 こはくの頬から落ちた涙が、 智也の頬に、静かに触れた。


 


「……起きるのじゃ……」


 もう、叱るような声ではなかった。


 縋るような、 壊れそうな声だった。


「……置いていくな……」


 言葉が、胸の奥から絞り出される。


「……一人に、するな……」


 


 返ってくるはずのない答えを待ちながら、 こはくは、ただ智也を抱きしめ続けた。


 まるで、その体温が消えてしまうのを、 必死に引き留めるかのように。


 


 夜白は、その光景を見下ろしながら、 ゆっくりと瞬きをした。


 そして、楽しげに―― ほんの少しだけ、声を落とす。


「……綺麗ね」


 それは、 絶望が完成する瞬間だった。


こはくは、智也を抱きしめたまま、声を殺して泣いていた。


 小さく、何度も、 その名を呼びながら。


 その様子を、夜白は少し離れた場所から眺めている。


 やがて―― 氷のように冷えた声が落ちた。


「はぁ……もう、いいかしら」


 


 こはくの動きが、ぴたりと止まる。


 しばらくの沈黙のあと、 こはくは智也をそっと地面に横たえた。


 ――次の瞬間。


 空気が、変わった。


 


 こはくの周囲に、 淡くも眩しい白黄色のオーラが一気に噴き上がる。


 風が逆巻き、木がざわめく。


 背中から―― 九本の尻尾が、扇状に広がるように現れた。


 ゆっくりと、 しかし確かな足取りで、こはくは立ち上がる。


 


 そして―― 身体は前を向いたまま、 顔だけを後ろにいる夜白へと向けた。


 黄金の瞳が、まっすぐ夜白を射抜く。


「――殺してやる」


 低く、掠れた声。


 それは宣言だった。


 


 夜白は一瞬だけ目を細め、 次の瞬間、口元を歪めて笑った。


「……やれるものなら、やってみなさい」


 


 ――その言葉が終わるより先に。


 こはくの姿が、消えた。


 


「っ!?」


 夜白が反応した時には、 すでに――遅かった。


 


 背後。


 気配。


 ――衝撃。


 


 横から叩き込まれた、渾身の蹴り。


 夜白は咄嗟に腕を交差させて受け止めるが――


「――っ!!」


 衝撃は防ぎきれない。


 夜白の身体が、弾丸のように吹き飛んだ。


 


 宙に浮く、その瞬間。


 ――上。


 夜白の視界に、白い影が落ちる。


「な――」


 すでに、夜白の真上にいた。


 落下の勢いそのままに、 腹部へ、拳を叩き込む。


「――っぐ!!」


 鈍い音とともに、夜白の身体が地面へと叩きつけられる。


 地面が、ひび割れた。


 追撃。


 容赦は、ない。


 


 こはくは着地と同時に身体をひねり、 そのまま――


 顔面へ、もう一撃。


 


 だが。


 夜白は、ぎりぎりでそれをかわす。


「……っ!」


 


 次の瞬間、 夜白の周囲の地面から、無数の紫色の棘がように噴き上がった。


 


 こはくは即座に跳び退く。


 棘が、さっきまで立っていた場所を貫く。


 


 二人の間に、距離が生まれる。


 砂煙の向こうで、 夜白はゆっくりと立ち上がった。


 口元に、血。


 だが―― その瞳は、狂気と興奮で、輝いている。


 


「……いいわ」


 夜白は、愉しそうに息を吐いた。


「やっと、本気になったのね、もっと見せなさい…怒りを…憎しみを」


 


 こはくは答えない。


 九本の尻尾を大きく揺らし、 ただ、獲物を睨み続ける。


 「――死ね」


 それは、怒号ですらなかった。 感情を削ぎ落とした、刃のような一言。


 


 次の瞬間―― こはくの姿が、弾けるように夜白へと飛ぶ。


「……ふふ」


 


 そして―― 夜白は拳を、地面へ叩きつける。


黒葬(こくそう)棘獄きょくごく


 低く呟いた刹那。


 


 地面が、悲鳴を上げた。


 


 紫色に濁った光を帯びた、 結晶のような巨大な棘が、無数に隆起する。


 一本、二本ではない。 地面そのものが牙を剥くように、 前後左右、逃げ場を潰す勢いで突き出した。


 


「――っ!」


 


 こはくは空中で身をひねり、 紙一重で棘を避ける。


 だが――


 ざくり


 腕をかすめ、血が散る。


 ずるり


 足を掠め、褐色の肌に血が走る。


 


 それでも。


 


 こはくは、止まらない。


 


 棘の隙間を縫い、 踏み、跳び、かわしながら、前へ。


 視線は、ただ一つ――夜白だけ。


「……っ、しつこい…」


 夜白の前に、さらに棘が立ちはだかる。


 結晶は硬く、鋭く、 触れれば肉を裂く凶器。


 


 だが――


 


「邪魔じゃ」


 


 こはくは、拳で叩き割った。


 


 砕け散る紫の破片。


 砕き、かわし、踏み越えながら、 ついに――夜白の間合いへ。


 


「馬鹿みたいに突っ込んできて…ただの獣ね――捕まえた」


 


 夜白が、こはくへと手を伸ばす。


 


 その瞬間。


 


「神尾演舞 ― 疾影尾しつえいび


 


 こはくの声が、空気に溶けた。


「……?」


 


 夜白の視界から、こはくの姿が完全に失われる。


 ――背後。


 ――右。


 ――上。


 現れては、消える。


 現れては、消える。


 九本の尾が、残像のように揺れ、 夜白の周囲を、円を描くように走る。


 


「……ちっ」


 


 夜白の眉が、わずかに歪む。


 視線が追いつかない。


 気配が、定まらない。


 


「……鬱陶しいわね」


 夜白は、ゆっくりと笑った。


 混乱の中で―― その笑みだけは、消えない。


 


 ――とん。


 


 夜白が、足を一度、踏み鳴らした。


 


 次の瞬間。


 夜白の足元を起点に、 紫色の結晶が薔薇の花弁のように隆起する。


 一本、また一本。


 それらは地面から生え出しながら、 渦を描くように回転し始めた。


 


 ぎり、と 嫌な音を立てながら、結晶が組み合わさる。


 まるで、夜白を中心に―― 棘と花弁でできた薔薇の檻が形成されていくかのように。


 


「いつまでそうしてるつもり?ふふ…」


 


 夜白の声と同時に、 回転する結晶が一気に速度を上げる。


 


 ――ざくっ。


 


 こはくの脇腹を、 肩を、 太腿を、 腕を。裂く。


「……っ!!」


 こはくの体から、血が舞った。


 白と黄色のオーラに、 赤い飛沫が混じり、夜空に散る。


 


 それを見て―― 夜白は、愉しそうに口角を上げた。


 


「痛い…?そんな無作為に飛んでも意味な…」


 


 次の瞬間。


 


 ――ぱき、ぱき、ぱき。


 


 回転していた結晶が、 一斉に、割れた。


 


「――よく喋る奴じゃな」


 


 砕け散る紫の破片を突き破り、 こはくが、夜白へと飛びかかる。


 


「神尾演舞 ― 乱舞尾らんぶび


 


 呟きと同時に、 こはくの拳が、踊り始めた。


 ――一撃。


 ――二撃。


 数えられない。


 


 拳、肘、膝、踵。 九本の尾が生む加速に乗せて、 無数の打撃が、一瞬で夜白を包む。


 


 ――どがっ ――ばきっ ――ぐしゃり


 


 骨が軋む音。 肉が沈む感触。


 夜白は、避けられない


 すべて、受けた。


 


「……ぐっ、……」


 


 最後の一撃が、夜白の腹部に叩き込まれた瞬間――


 夜白の体が、弾丸のように吹き飛ぶ。


 


 一直線に、 森の奥へ。


 ――どんっ!!


 巨大な大木に叩きつけられ、 樹皮が砕け、幹が軋む。


 


 夜白の体は、そのまま地面へと落ちた。


 夜の静寂の中、 砕けた結晶の破片と、血の匂いだけが残る。


 こはくは、荒い息を吐きながら、 夜白が消えた方向を、睨み続けていた。


 夜白は―― ふらり、と体を揺らしながら立ち上がった。


 


 額から、 頬へ。 唇へ。


 


 血が、垂れる。


 


「……ほんと」


 


 夜白は、歪んだ笑みを浮かべたまま、 顔に浮き上がる血管を隠そうともせず、吐き捨てる。


 


「むかつく、がき」


 


 次の瞬間。


 


 ――ぱちん。


 


 夜白が、指を鳴らした。


 


 それだけだった。


 


 だが――


 


「――っ!!!」


 


 こはくの体を、 激痛が貫いた。


 


 結晶に裂かれた傷口が、 まるで内側から抉られるように、焼ける。


 


 筋肉が、 神経が、 魂が――


 


 悲鳴を上げる。


 


 こはくは耐えきれず、 地面に崩れ落ちた。


 


「っ……あ……ぁ……!」


 


 爪が土を掻く。 喉から、かすれた声が漏れる。


 


 それを見て―― 夜白は、愉しそうに笑った。


 


「ふふ……」


 


 ゆっくりと、 夜白は歩き出す。


 


「私の“薔薇”はね」


 


 一歩。 また一歩。


 


「感情を、痛みに変えるの」


 


 こはくの前へ。


 


「怒りも、悲しみも、後悔も……ぜんぶ、ね」


 


 夜白は、くすりと笑う。


 


「素敵でしょう?」


 


 こはくの口から、血が溢れた。


 


「……っ、は……」


 


 呼吸すら、ままならない。


 


 夜白は、その前で膝を折り―― しゃがみ込む。


 


 そして。


 


 こはくの白い髪を、 乱暴に掴み、引き上げた。


 


「――っ!!」


 


 無理やり顔を上げさせられ、 こはくの視界に、夜白の顔が映る。


 


 夜白は、 その苦痛に歪む表情を、 じっと、味わうように眺めていた。


 


「……いい顔」


 


 声が、甘くなる。


 


「ねえ、どう?」


 


 夜白は囁く。


 


「大切な人が、目の前で殺されて」


 


 指に、力を込める。


 


「自分も、こうして痛みにもがいて……」


 


 夜白の瞳が、愉悦に光る。


 


「悔しい?」


 


 こはくは、歯を食いしばり―― 睨み返した。


 


「……っ……」


 


「私を、殺したい?」


 夜白は、笑った。


 その笑みは、底なしに、冷たく―― 残酷だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ