前兆
『神縁 ー しんえん』
大切なものを失った少年・一ノ瀬智也と、異世界から現れた神獣の少女・こはく。ひとつの出会いが、ふたりの運命を静かに動かし始める。
心を通わせながら過ごす穏やかな日常、その裏では、世界を喰らう闇が目を覚まそうとしていた――。
過去の傷、隠された力、交わる縁。青春と戦いが交錯する中で、ふたりは“生きる意味”を探していく。
人と神獣の垣根を越えて描かれる、優しくも切ない異世界ファンタジー。
球技祭が終わり、校舎を出る頃には夕日が街を染めていた。
歓声と笑い声の余韻がまだ耳に残る。
僕とこはくは並んで歩きながら、ゆっくりと坂道を下っていく。
「……疲れたな」
僕がつぶやくと、こはくは小さく伸びをして答えた。
「わらわもじゃ。でも……楽しかったのじゃ!」
その笑顔は、夕日に照らされて柔らかく輝いていた。
家の前に着くと
「おかえりー! 二人とも!」
叔母さんがエプロン姿のまま、満面の笑みで出迎えた。
「ただいまー」
「ただいまじゃ!」
二人がそろって声を返すと、叔母さんは嬉しそうに手を叩いた。
「ねぇねぇ! こはくちゃん、球技祭どうだった?」
「ふふん、優勝じゃ! わらわも智也も!」
誇らしげに親指を立てるこはく。
「ええっ、すごいじゃない! 二人ともやったね!お疲れさま、よく頑張ったね!」
叔母さんは嬉しそうに頭をぽんぽんと撫でた。
「ありがとう」
「うむ!」
和やかな空気が流れる。
だが、その温度が変わったのは次の瞬間だった。
光がゆらりと揺れ、空気が張り詰める。
静かに現れたのは、澪白だった。
「おかえりなさい、こはく、智也」
その声は穏やかだが、どこか厳しさを含んでいる。
「ただいまです、澪白さん」
僕が姿勢を正すと、澪白は彼に目を向けた。
「言ったこと、ずっと続けてる…?」
僕は少しうつむき、苦笑いを浮かべる。
「やってはいるんです。でも……まだ、何も掴めなくて。でも、今日、球技祭のときに――体が異様に軽くなった瞬間があって、全ての動きがゆっくり見えたんです。自分では軽く飛んだつもりなのに、すごく……飛べて。」
澪白の瞳が静かに細められた。
「そう。なら、今夜はその感覚を覚えているうちに――やりましょう。」
その言葉に、こはくが眉をひそめる。
「姉上、智也は今日疲れておるのじゃ。今日は休ませてやってもよいではないか、休息も大事じゃ。」
澪白は目を閉じ、静かに首を振る。
「こはくには関係のないこと。口を挟まないで。」
その冷たい声音に、こはくの耳と尻尾がぴくりと動いた。
「関係ない……? なんじゃその言い方は!」
ぱっと空気が張り詰める。澪白の瞳は揺らがない。
こはくの金の瞳が、真っ直ぐにぶつかる。
「二人とも、やめなさい!」
叔母さんの強い声が響いた。
その一声に、空気がびくりと震える。
僕は慌てて間に入る。
「こはく、僕は大丈夫だから、澪白さん……準備しますね。」
澪白は頷く。
こはくは唇を噛み、視線を逸らした。
叔母さんが深く息を吐く。
「もう、いい加減にしなさい。……こはくちゃん、お風呂入ってきなさい。澪ちゃん、智也くんをお願いね。」
こはくは不満げに頬を膨らませたまま、ぷんぷんと音が聞こえそうな勢いで部屋に向かう。
「はい…」
澪白は静かにうなずき、僕の方に歩み寄る。
こはくの足音が遠ざかる。その音が消えたあと、残った三人の間には、しばしの沈黙が落ちた。
夜の庭に、涼やかな風が流れていた。
その中心で、僕は息を整えようと必死になっていた。
澪白の声が、静かに響く。
「――もう一度。精神を整えて、意識を“流れ”に重ねなさい」
僕は頷き、ゆっくりと息を吸い込んだ。
けれど、胸の奥が熱い。呼吸は乱れ、膝が震えている。
今日の球技祭で、体が異様に軽くなった感覚――それを再現しようとするほどに、身体は反発する。
焦り。息苦しさ。
そして、胸の奥で何かが脈打つ。
ぽたりと汗が落ち、頭がくらくらする。
「もう……限界かも…しれません……」
僕の声は、かすれていた。
「まだ…」
澪白の声がぴしゃりと割り込む。
「その先にしか、あなたの“力”は目を覚まさない」
その時――
「智也っ!」
ぱたぱたと駆けてくる足音。
風呂上がりのこはくが、濡れた髪を揺らしながら庭に飛び出してきた。
「もうやめるのじゃ、姉上! 智也は疲れておる!」
「こはく、戻りなさい。これはあなたには関係のないこと」
澪白の声は冷たい。
こはくの瞳が怒りに揺れた。
「智也の体に何かあったら元も子もないではないか!」
「邪魔をしないで」
「やめぬか、姉上!」
こはくは家の中に僕を連れて行こうと、腕を引っ張る。
庭の空気が、びり、と震えた。
風が二人の髪を揺らし、月光が白く照らす。
僕は、意識が朦朧とし、足は麻痺し動かない。
すると、澪白がこはくの腕を掴み、壁に押し付ける。
その指先に力がこもる。
「お願いだから……邪魔しないで、こはく」
声が震えていた。必死で、切羽詰まったように。
「い、痛っ……!」
こはくが顔をしかめる。
その瞬間だった。
僕の胸の奥で、何かが弾けた。 風が一気に吹き荒れ、澪白の髪が舞う。
無意識に伸ばした手が、澪白の腕を掴んでいた。
その掌から、青白い光が滲み出る。
「澪白さん……その手を、離してください……!」
低く、震える声。
怒りとも、恐怖とも違う――“何か”が僕の中で目を覚ましていた。
澪白は驚愕に目を見開く。
掴まれた腕が熱を帯び、青い光が脈打つ。
「……智也……?」
こはくの苦しそうな声が夜気に溶けた。
澪白は、その青い輝きを見つめながら、ぽつりと呟く。
「守護本能……やっぱり……蒼玄の子だね……」
「いいから……離してください」
僕の声は、痛みと焦りが入り混じっていた。
澪白は、わずかに息を吸い、ゆっくりと手を放す。
澪白の腕の力が抜けた瞬間、僕も力尽きたように、膝から崩れ落ちた。
こはくが慌てて駆け寄る。
「智也! 大丈夫か!?」
背中に手をあてる。僕は呼吸を整えるのに必死だった。
澪白は静かに目を伏せ、かすかに頭を下げた。
「ごめんなさい、こはく、智也…」
「姉上はおかしいのじゃ……なぜそんなに無理をさせるのじゃ! 何を焦っておるのじゃ!」
こはくの声には怒りと悲しみが入り混じっていた。
「――少し前に、結界が急激に弱まった。原因はまだ掴めていない。けど……禍津がこの人間界に現れるのも、もう時間の問題…」
その声は、静かでありながら、震えていた。
こはくは息を呑み、眉を寄せる。
「禍津とは、そんなに強大な神なのか? 姉上たちが敵わぬほどに、恐ろしいのか?」
澪白は、少しのあいだ口を閉ざし、やがてゆっくりと目を伏せた。
そして、搾り出すような声でつぶやく。
「――あやつには、慈悲も、心もない。ただ“負”を喰らい、世界に絶望を増やすことしか考えていない。 怒り、悲しみ、憎しみ……そういった人の感情を糧にして、無限に力を増す。 あの女神様ですら、適わなかった…そして、白華も…」
夜風が吹き、澪白の髪が小さく揺れた。
その表情は痛みに歪み、声には震えが混じっていた。
こはくも険しい表情を浮かべる。
澪白は、少し顔を上げ、こはくの目を見る。
「――百歩譲って、禍津だけなら、まだ道はあったかもしれない。けれど……“禍神”が誕生していたら、もう…」
その言葉に、こはくは眉を寄せる。
「禍神……?」
僕も、息を整えながら顔を上げた。
「禍神とは……何なんですか?」
澪白は、二人の顔を見て、わずかに沈黙した。
やがて、夜風に髪をなびかせながら、小さく口を開く。
「私も、聞いたことしかない。伝承の中で“存在してはならないもの”として語られている。ただ彷徨う朽神とは違い――人間の強い感情、特に“執念”が、亡き神の器と適合するときがある。その魂は“禍神”へと変わる…」
こはくが小さく息を呑む。 澪白は続けた。
「適合すれば、その者は神に匹敵する力を得る。けれど、代償として己を失い、ただ一つ――“満たされなかった感情”のためだけに動くようになる。決して満たされない感情…それどころか、その飢えた情は増すばかり… 怒りなら世界を焼き、悲しみならすべてを壊し、憎しみなら、命そのものを呪う……」
僕は目を見開いた。
「そんなの、人間じゃ……」
澪白は小さく息を吐いた。
「でも、“元は人間”。どんな感情が、どんな形で力に変わるのか――それすら誰にもわからない。力の規模も、性質も、すべてが未知数。だからこそ、怖い……もう誰も、失いたくない――」
その声は、震えていた。
こはくが何か言おうとしたそのとき――
「ちょっと!騒がしいと思ったら……なんて顔してんのよ!澪ちゃん」
明るい声がリビングから響いた。
叔母さんだった。
エプロン姿のまま腕を組み、少し呆れたように笑っている。
「澪ちゃんが弱気になってどうするのよ。らしくないじゃない」
澪白は、少し驚いたように目を上げた。
叔母さんはゆっくり近づきながら言葉を続ける。
「澪ちゃんは大切なものをたくさん失ってきた。それはわかる。 でもね――もう一人じゃないの。全部一人で抱え込まないで。みんなで悩んで、ぶつかって……それでいいのよ。打開策なんて、きっとどこかに転がってる! もしなくても、なんとかなる!」
そう言って、にかっと笑う。
その笑顔は、闇を切り裂くように明るかった。
澪白は俯いたまま、かすかに首を振る。
「そんな簡単なことじゃ、ないんです…」
叔母さんはその顔をそっと両手で包み、無理やり目を合わせた。
「そんな顔しないの。前を向く!」
そして、いたずらっぽく笑う。
「とりあえず、ご飯食べなさい!私のできることは、それくらいだからね!」
ウィンクする叔母さんに、澪白の頬がわずかにゆるむ。
そのやりとりを見ていた僕は、静かに立ち上がった。
「僕も、もっと…頑張ります。だから、その負担、少し……背負わせてください」
叔母さんは目を細め、誇らしげに笑った。
「よく言った、智也くん!」
そしてすぐに手を腰に当てて言う。
「でもすっごい汗よ! 早くお風呂入ってきなさい!」
「……はは、はい」
ふらつく足で脱衣所へ向かいながら、ふと振り返った。
こはくと澪白が、静かに向き合っていた。
「……姉上。その……すまなかったのじゃ」
こはくが小さくうつむきながら言う。
澪白は首を横に振り、柔らかな声で返した。
「いいの。さっきは、私の方こそ……乱暴してごめんね、こはく」
「うむ」
こはくはこくりと頷く。
その光景に、僕は胸の奥で小さく微笑む。
すると――
「ちょっと忘れてたけど!」
再び叔母さんが戻ってきて、にこにこしながら両手を振り上げた。
「喧嘩した罰ね!」
ぱしん、と小気味よい音。
二人の頭に見事なチョップが炸裂した。
「いったぁ!? な、なぜわらわもなのじゃ〜っ!」
こはくが尻尾をばたつかせる。
澪白は、両手で頭を押さえながらも小さく笑った。
その笑みは、穏やかだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




