未練のかたち
『神縁 ー しんえん』
大切なものを失った少年・一ノ瀬智也と、異世界から現れた神獣の少女・こはく。ひとつの出会いが、ふたりの運命を静かに動かし始める。
心を通わせながら過ごす穏やかな日常、その裏では、世界を喰らう闇が目を覚まそうとしていた――。
過去の傷、隠された力、交わる縁。青春と戦いが交錯する中で、ふたりは“生きる意味”を探していく。
人と神獣の垣根を越えて描かれる、優しくも切ない異世界ファンタジー。
澪白は姿勢を正し、静かに言葉を紡いだ。
「……では、朽神について、お話ししましょう」
叔母さんは緊張をにじませながらも、こくりとうなずく。
澪白は短く息を整え、ゆっくりと口を開いた。
「亡くなった人々の感情や執念が形を持ち、彷徨う存在……それが“朽神”と呼ばれるものです。本来はただの影。けれど……」
一度言葉を切り、澪白はわずかに目を伏せる。
「……叔母さまもご存じの通り、人間界で姿を現し、襲ってくるまでに狂暴化しております。今は私たちの前にしか姿を見せていませんが、今後は……どうなるか、わかりません」
叔母さんは少し必死な声で言った。
「でも……澪ちゃんも、こはくちゃんも…強いし!他の三神も今こっちに向かってるんでしょ?禍津?のことも、きっとなんとかなるわよね…!?」
澪白は言葉を失い、沈黙する。
「澪ちゃん…?」
叔母さんが問いかける。
澪白は小さく首を振った。
「なんとかなっていれば、今私はここにいません。」
叔母さんは苦笑いを浮かべ、力なくうなずく。
「そう…よね…」
澪白はふたたび視線を仏壇に戻した。
「朽神の中には、時に強い執念が、かつての神の“器”に寄りつくことがあります」
叔母さんは目を見開き、息を呑む。
「寄りつく……?」
「はい。器と完全に適合すれば、それはもはや朽神ではありません。“禍神”(まがみ)と呼ばれる存在となるのです」
澪白の声は淡々としていたが、言葉の端々に重みが宿る。
「禍神…」
叔母さんが震える声でつぶやいた。
「封神蔵深部から抜け出した“禍津”。そして同時に……人間界に姿を現した朽神…最悪の場合…“禍神”がすでに誕生しているのかもしれません」
叔母さんは蒼ざめた顔で、両手を胸に寄せる。
「もし、その……禍神…が誕生していたとしたら……どうなるの……?」
澪白は目を伏せ、長い睫毛の影を落とす。しばしの沈黙のあと、低い声で答えた。
「多くの人の命が奪われるでしょう」
叔母さんが小さく息を呑む。
澪白は静かに言葉を続けた。
「禍神は……感情や執念そのものの塊。その飢えや未練を満たすため、人の負の感情を吸収し、力へと変えていきます。つまり……人間界は、禍神にとって絶好の“餌場”なのです」
そこで一度、澪白は視線を落とし、低い声で付け加える。
「……それに、私たち五神でさえ、これまで禍神を目の当たりにしたことはありません。どのくらいの力を持っているのか……誰にもわからないのです」
叔母さんは思わず息を呑み、手を胸に当てる。
「……そんな……」
澪白は目を伏せ、言葉を選びながら口を開いた。
「……私たち四神も、青龍が欠けたことで力を失っています。だからこそ、智也の中に眠る青龍の力を引き出さなければなりません……。昨日いきなり押しかけて、勝手なことを言っているのは分かっています。ですが――」
そこまで言いかけたところで、叔母さんが首を横に振った。
「澪ちゃんは悪くないよ……それに、智也くんは止めても、きっと聞かない…」
そう言って、視線を落とす。
「私にも力があったら……少しはみんなを助けられたのにね」
自嘲気味に笑うその横顔は、どこか寂しげだった。
澪白は返す言葉を見つけられず、ただ静かに沈黙を守る。
すると叔母さんは、ふっと息を吐いて立ち上がった。
「澪ちゃん、話してくれてありがとうね。くよくよしてても何も進まないよね、難しいことはよく分からないけど……私にできることは一つ!」
ぱっと笑顔を向け、胸を張る。
「美味しいご飯を作って、みんなに元気を与えること!それなら、私にだってできるから!」
その明るさに、澪白もわずかに表情を和らげた。
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朽ちた石の柱が林立し、崩れた天井の隙間からは鈍い月光が差し込んでいた。
朽ち果てた神殿は、冷たい風が吹き抜けるたびに軋みを上げ、闇に潜むものの息遣いをひそやかに響かせている。
その最奥、黒く沈む祭壇に、ひとりの影が眠っていた。女神との戦いで力を削られ、未だ深い眠りから覚めぬ存在。
「……禍津様」
しんとした空気を裂くように、ひとりの男の声が響いた。
白の衣を纏い、細く鋭い目をした白蓮が、祭壇の傍らに立っていた。
口元にうっすらと浮かぶのは笑みか、それとも侮蔑か。
「残りの女神族の殲滅は、瘴牙と噛音に任せました。残るは人間界に逃げた、獣どもだけ……」
白蓮の声は、冷たく乾いた響きで神殿に反響する。
祭壇の上で眠る禍津は、しかし微動だにしない。
白蓮は恭しく頭を垂れると、静かに続けた。
「結界は、もうすぐ綻びましょう。それまで――どうかごゆるりとお休みください」
そう言い残し、白蓮は踵を返し、きしむ扉へと歩み寄った。
重々しい扉に手をかけ、押し開く。闇の向こうに外の光がわずかに漏れた、
その刹那。
白蓮はふと立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
「……それと、もう一つ。昨日、龍のような気配を感知いたしました」
声は低く、笑みを含んでいた。
「……それでは」
扉が軋みを上げながら閉ざされ、再び神殿は沈黙に包まれる。
――その時だった。
眠り続ける禍津の手指が、ぴくりと小さく動いた。
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荒れ果てた神殿。
本来は女神族の祈りの場だったであろう場所は、いまや瓦礫と血に染まり、静寂の代わりに不気味な笑い声が木霊していた。
鼻歌が響く。噛音が女神族の亡骸を弄びながら、四肢を切り離し、まるで玩具を分解するかのように床へ並べていく。
「ふふふっ……いい音するねぇ。折れる音って、最高に愉快だぁ。ほら、もっと泣いてみなよ?声が枯れるまでさぁ~♪あ、でももう、死んじゃってるかぁ~、ふふっ」
その残酷な調べに重なるように、朗らかな声が背後から飛んできた。
「おーい、噛音! またやっとるんか! ほんまお前、楽しそうやのう~」
大股で現れたのは瘴牙だった。血の匂いを吸い込みながらも嫌そうな顔はせず、にかっと笑い、血まみれの手でガシガシと頭をかく。
噛音は振り向きもせず、腕を引きちぎりながら軽い調子で返す。
「ん〜? そっちも、もう片付いたの〜?」
「当たり前じゃろ!」瘴牙は豪快に笑い、肩を揺らす。
「でもよぉ……なんか物足りんのう! もっとこう、強えぇやつとやりあわんと退屈でしゃあないわ!」
噛音は甲高い笑い声をあげ、血に濡れた手をぱたぱたと振ってみせる。
「わかるわかる! あははっ、やっぱり瘴牙も同類だぁ〜!」
血と笑い声が混じり合い、朽ちた神殿は地獄の饗宴のような空気に包まれていく――。
血にまみれた床を蹴りながら、瘴牙が呆れたように声をかけた。
「しっかしお前は……ほんま感情ってもんがないんか? まぁ、ワシらにゃもう普通の感情なんてもん残っとらんがのう、けど人間の頃のお前……どないなっとったんや?」
噛音は肩をすくめ、ちぎった四肢をぽいっと投げ捨てる。
「感情? そんなの、ないよ~。今も、昔もねぇ」
唇の端を吊り上げながら、なおも楽しげに“作業”を続ける。
瘴牙は片眉を上げ、わざと大げさに笑った。
「お前……生きとった頃、友達おらんやろ? 怖いわ~!」
その言葉に、噛音の手がぴたりと止まる。
「……友達?」
振り向いたその瞳は、いつもの軽薄な笑みを消し、鋭さを帯びていた。
「瘴牙には……いたの? “友達”って呼べる存在が」
不意を突かれ、瘴牙はガシガシと頭をかく。
「……まぁ、何人かは……おったな」
噛音はじっと見据えたまま、低く言葉を紡ぐ。
「それは本当に“友達”? 自分が苦しい時、辛い時、そばにいてくれる? 何とかしようと力を貸してくれる?……ただ遊んだり話したりするだけじゃ、それは友達とは呼べないんだよ」
淡々とした口調。しかし、血よりも冷たい本性の一端が顔を覗かせる。
瘴牙はその変貌に一瞬目を丸くし、だがすぐにおどけて声を張った。
「なんやお前、過去になんかあったんか!? 怖いのう! 噛音が真面目に語っとるのなんて、初めて聞いたわ!」
噛音はしばし沈黙し、視線を死体に戻す。
そして――にこっと、いつもの調子で笑った。
「……別に。――それよりさぁ! この手足で積み木しよっ!」
「するかぁ!」
瘴牙は即座にツッコミを入れる。
「え~、ノリ悪~。ノリ悪いおじさんはモテないよぉ? ふふっ♪」
「やかましいわ!おじさんちゃうねん」
瘴牙の怒鳴り声が神殿跡に響き、二人の奇妙なやり取りが血塗られた空気をさらに歪ませていった――。
噛音が、死体を積み上げながら、からかうように笑って
「はいはい、ごめんねぇ、お兄ちゃん。ふふっ♪」
瘴牙はその一言に、ぴくりと動きを止める。
笑っているはずなのに、その瞳の奥が一瞬だけ遠くを見ていた。
「お兄ちゃん…か…」
呟いた声は低く、どこか懐かしさを帯びていた。
噛音は首をかしげながら、死体の腕を積み直す。
「なぁに? どうしたの?」
瘴牙はすぐに表情を取り繕い、頭をかきながら大げさに笑う。
「いや、なんでもないわ」
噛音は興味深そうに、じっと瘴牙を見つめる。「ふぅん」
瘴牙は頭をかきながら、ふと問いかける。
「それより噛音、お前、人間界に行ったらまず何したいんや?」
噛音は即答した。
「殺したい人がたくさんいるの」
「……即答かいな」
瘴牙は苦笑し、肩をすくめる。
噛音は手を止め、にこっと笑う。
「瘴牙は? ……あ、違った。お兄ちゃんは?」
「勘弁してくれや」
瘴牙は再び苦笑し、けれどすぐに真顔へと変わる。
「……わしも同じや。同じ目に合わせたる……邪魔してくるやつがいようもんなら、全員……潰したるわ」低く響くその声には、憎悪の影が宿っていた。
「こわ~い。お兄ちゃん、怖いよぉ~」
噛音は楽しげに飛び跳ね、血まみれの手をひらひらと振る。
「ふふっ、早く行きたいなっ!」
瘴牙はその姿を、どこか懐かしいような、優しい眼差しで見つめていた。
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