途絶えた温もり
『神縁 ー しんえん』
大切なものを失った少年・一ノ瀬智也と、異世界から現れた神獣の少女・こはく。ひとつの出会いが、ふたりの運命を静かに動かし始める。
心を通わせながら過ごす穏やかな日常、その裏では、世界を喰らう闇が目を覚まそうとしていた――。
過去の傷、隠された力、交わる縁。青春と戦いが交錯する中で、ふたりは“生きる意味”を探していく。
人と神獣の垣根を越えて描かれる、優しくも切ない異世界ファンタジー。
澪白の口から静かに告げられた一言に、部屋の空気がわずかに揺れた。
「叔母様、改めまして、私は―澪白、五神の一柱…玄武…」
こはくは最初こくこく頷きながら聞いていたが、言葉の意味が脳裏に届いた瞬間、ぱちんと目を見開いた。
「ふんふん……って、はああ!? 姉上、今なんと!?」
澪白はまっすぐな目で、再び同じ言葉を繰り返す。「私は、玄武…」
「そ、そんなこと聞いてないのじゃー!」
白い尾を逆立てて抗議するこはくに、澪白は肩をすくめるように小さく呟いた。
「言ってないもの…」
「な、なるほど……わらわが人間界に普通に入れたのも納得じゃ…!」
こはくはひとりで腑に落ちたように頷き、白い尾をばさばさと揺らす。
すぐさま澪白へと身を乗り出し、指を突きつけた。
「なぜ今まで言わなかったのじゃ!?」
澪白は小首をかしげ、ほんの一瞬考え込むような仕草をした。
「うーん……なんでだろう……」
まるで他人事のような口ぶりに、こはくは目を丸くし、次いで大きなため息をつく。
「まったく、姉上は昔からこうなのじゃ……」
呆れ果てたように腰を下ろすと、尾をぱさりと床に投げ出した。
僕は思わず口を開いた。
「玄武って……たしか、四方を護る神獣の一体ですよね? 北を守護する……」
その言葉に、叔母さんが「ああ!」と手を打った。
「こはくちゃんが前に話してたやつだ! えっと、青龍と、朱雀と、白虎と……」
ぽんっとひざを叩いた叔母さんは、急に立ち上がると仏壇へ向かい、木箱を抱えて戻ってきた。
「ほらこれ! お姉ちゃんが大事にしてたやつ! これ、関係あるんじゃない?」
「はい……それについても、後で話します…」
視線を戻した澪白の声音は、静かでありながらも、どこか重さを帯びていた。
そしてふと顔を上げ、真っ直ぐ僕と叔母さんを見た。
「……まず、こはくが人ではないことを、二人は知ってますか…?」
僕と叔母さんは顔を見合わせ、そろって頷いた。
「うん。こはくちゃんが来たとき、ちゃんと伝えてくれたよ」
「うむ、耳も尻尾も、全部見せたのじゃ」
澪白は静かに目を細め、頷いた。
次の瞬間、澪白はそっと両手を差し出した。透き通るような白い手。
「……こはく、智也、叔母様。話す前に、まずは私の手を握ってください。
――私が見てきたものを、あなたたちにも見せます」
僕と叔母さんは顔を見合わせ、ためらいながらも澪白の手に触れた。
ひんやりとして、それでいて不思議に落ち着く温もり。
最後に、こはくが迷いなくその手に自分の小さな手を重ねた。
「目を閉じて」澪白の静かな声に従い、僕らは一斉に瞼を下ろす。
……次の瞬間、足元の感触が消えた。まぶたの裏から差し込んでくる光に誘われ、
僕が目を開けると――そこは見たこともない世界だった。
(……どこだ、ここは……?)
目を開いた瞬間、視界いっぱいに青い空が広がっていた。
けれど身体は石のように重く、指一本動かせない。
視点だけが切り取られたように宙へ浮かび、ただ風景を見つめるしかなかった。
参道の石畳を、白銀の髪が風に揺れる女性が歩いている。澪白だ。
その背筋はすっと伸び、静かな気配を纏いながら、ゆっくりと社の奥へ向かっていく。
やがて辿り着いた社殿の前。そこで――。
「あーっ、澪~! やっと来た~!」
朗らかで明るい声が響き、木戸の奥から姿を現したのは、色白の女性だった。
白い耳がぴょこんと揺れ、ふさふさの白い尾が背に広がる。
その笑顔は太陽のように輝き、まるで周囲の空気ごと澄み渡らせるようだった。
「白華 遅くなって、ごめんね……」
澪白は微笑み、歩み寄るとその女性の前で足を止める。
(……こはくに、そっくり……?)
胸の奥で小さく呟いていた。耳も、尾も、笑顔も。違うのは大人びた落ち着きと、漂う包容力だけ。
澪白はふと視線を落とした。女性の足元に、小さな影――。
「……こはく。久しぶり」
白い裾に隠れるように、まだ幼いこはくが澪白を見上げていた。
大きな瞳は少し怯えながらも、どこか懐かしさに揺れている。
(……え? こはく……? ってことは……白華という女性が、こはくの……)
言葉にならない衝撃が、胸の奥を打ち抜いた。
すると、奥からもう一人、青き気配を纏った男が現れた。
「蒼玄…来てたんだ…」
「蒼玄!久しぶりだね~!」
「今来たところだ…今日は、二人に会わせたい人がいる」
腕の中には、小さな赤子が眠っていた。
「我が子。智也だ…」
(……え……? 智也……?)記憶を追っているはずの僕の胸が、どくんと跳ねた。
(僕……? 僕の名前……? 聞き間違えか…?……今、蒼玄が抱いている赤ん坊は
――だとしたら…僕の知ってる父さんと母さんは…?)
頭の中がぐちゃぐちゃになる、足がすくんだように体が動かない。ただ、目の前の光景を信じられない気持ちで見つめるしかなかった。白華の目が柔らかく細まり、ぱっと笑顔が咲く。
「無事に産まれたんだね! ……かわいい! ほら、こはく、挨拶しなさい」
白華の足元に隠れていた小さなこはくが、恥ずかしそうに顔を出す。金の瞳が赤子を見つめる。蒼玄は腰を落とし、目線を合わせて穏やかに笑った。
「こはくちゃん、智也が大きくなったら……遊んでやってくれないかな…」
こはくは一瞬ためらったあと、小さな手を赤子に差し出した。ふに、と小さな指が掴まれる。
赤子の僕が無邪気に笑う。こはくは頬を赤らめて、呟いた。
「かわいいのじゃ……」
その場を包む空気は、ただ幸せと温もりだけで満ちていた。
白華と澪白、そして小さなこはくと僕――いや、“僕”が笑い合う光景。
温かな風景に目を細めたその瞬間――。
「……え?」
視界がぐらりと揺れた。頭の奥を誰かに強く押されたように、景色がぐあん、と歪む。耳鳴りがして、光が弾け、身体が浮かぶような感覚に襲われる。
次に瞬きをしたとき、そこはもう別の場所だった。
暗く冷たい空気が充満し、笑い声は消えていた――。
白華の社。境内の木漏れ日の下で、澪白と白華が並んで座っていた。
そこへ、息を切らした女神族のひとりが駆け込んでくる。
「……蒼玄様が……禍津に……!」
空気が凍りついた。白華が即座に立ち上がり、澪白の腕を強く掴む。
「澪! 早く行って!」
澪白は頷き、迷いなく社を飛び出した。
たどり着いた神殿の奥――そこに広がっていたのは、言葉を失う光景だった。
鎖に縛られた黒き影――禍津。
そして、その前で倒れ込むように、我が子を庇うよう抱きしめた蒼玄の姿。
「蒼玄!」澪白は駆け寄り、その血に染まった衣を必死に押さえる。
「……澪白……」
蒼玄の声はかすれていた。
瞳の青は、もう光を失いかけている。
「智也を…香織のもとに…澪白…頼んだよ…」
最後に吐き出した言葉と共に、蒼玄の魂は薄く光り、澪白の腕の中からすり抜けていった。
「蒼玄――ッ!」澪白の喉が裂けるほどの叫びが神殿に響く。
視線の先――禍津。その影は鎖に縛られたまま、嗤っていた。
「ふん……人間と交わり、それを女神が許すとは。なぜだ? なぜ貴様のような獣が慕われる。神と呼ばれる私よりも……。死んで当然だろう、青龍」
「貴様ァ――!」澪白は立ち上がり、怒りに任せて飛びかかろうとする。
だが、背後から柔らかな光が伸び、腕を掴む。
「やめなさい、澪白」
女神の声。
「封神蔵最深部に連れてけ」
澪白の目に涙がにじむ。怒りと悔しさで震える身体を必死に抑えながら、それでも蒼玄の亡骸を抱き締めて、声にならない嗚咽を漏らした――。
ぐあん、と世界がまた揺れる。視界が白く染まり、次に映ったのは――夕暮れに染まる人間界の住宅街だった。
チャイムの音。玄関の扉が開き、明るい笑顔が顔を覗かせる。
「――あっ、澪白さん! お久しぶりです!」
その女性は、肩までの髪を揺らしながら、柔らかな声で迎えた。
けれど、澪白の表情は沈んでいる。
小さな僕――幼い僕を腕に抱えたまま、かすれる声で応じた。
「香織さん……お久しぶりです」
「? どうしたんですか、その顔……」
香織は小首をかしげたが、すぐに笑顔を取り戻す。
「もう~あの人ったら、智也を連れ回してばかりで……澪白さん、ありがとうございますね」
そう言って、僕を澪白の腕から優しく抱き寄せる。温もり。
(……この人が……僕の……本当のお母さん……?)
胸の奥が強く揺れ、息が詰まった。
「蒼玄さんと一緒じゃないの?」きょろきょろと辺りを見回す香織。
澪白は俯き、唇を噛みしめながら震える声を洩らした。
「すみません……すみません……」
その様子に、香織はゆっくりと息を呑む。そして、かすかに震える声で問いかけた。
「もう帰ってこないんですよね……?あの人の……最後は……立派でしたか……?」
澪白は目を合わせられず、ただ深くうなずく。
「はい…」
香織の頬に涙が伝う。それでも、無理に口角を上げて――
「そうですか……」
作り笑いのまま、幼い僕をぎゅっと抱き締めた。
その後も澪白は、何度も香織の家を訪れた。僕を抱く彼女は、疲れを隠すように笑っていた。
小さな体で泣きじゃくる僕をあやしながら、
「最近は夜泣きがひどくて」
「でも、この子の笑顔を見ると、頑張れるの」
そう言って、汗を拭い、笑みを浮かべる姿は眩しかった。
澪白は黙って頷き、時折、抱き上げてあやした。ふと視線を空に向け、呟く。
(蒼玄。見ているか? 香織さんは、とても強い。君の残したものを、ちゃんと守っている……)
季節が巡り、澪白は「もう大丈夫だろう」と思い、しばらく顔を出さなかった。
しかし、久しぶりに訪れたその日――。
家の前に立つと、玄関の表札は外され、扉には「入居者募集」の札が掛けられていた。澪白は息をのむ。慌てて近所の家を訪ねると、初老の女性が困ったように口を開いた。
「お隣さんのお友達? 言いづらいんだけどね」
「あの方、少し前に……首をつって、自ら……」
時間が止まった。澪白の顔から血の気が引き、足元が崩れ落ちそうになる。
「……う、そ……」女性の声が遠くに聞こえる。
「小さなお子さんを残して……本当に、気の毒で……」
澪白は拳を握りしめ、唇を噛み切るほど強く噛んだ。
(……私のせいだ……)
(何が強いだ……。私は、何もわかっていなかった……)
澪白の声は震えていた。
(人は……脆い生き物だ。笑いたくないときにも、笑わなければならない。泣きたいのに、涙を飲み込んで生きねばならない……。その苦しみを、なぜ私は気づけなかった……支えになれたはずなのに……)
悔恨と自責の念が心を裂き、涙が頬を伝う。
「香織さん……」
その声は、冷たい風に掻き消されていった。
必死に息を整え、やっとの思いで口にする。
「お子さんは……どうしたか、ご存じですか……」
女性は少し目を伏せ、ためらいがちに答えた。
「詳しいことはわからないけど……聞いた話だと、素敵なご夫婦が養子にとったみたいよ。ほんとうかは分からないけど……」
胸の奥が少しだけ、微かに温かくなる。けれど同時に、喉まで込み上げる後悔が押し寄せてきた。
「そうですか……ありがとうございます……」澪白は小さく頭を下げると、くるりと背を向けた。
足は震え、視界は滲む。抑えていた涙が頬を伝い、ぽたりと落ちた。
――香織さん。蒼玄。私は……結局、何も守れなかった。でも……あの子だけは、必ず守る……。
澪白は空を仰ぎ、噛み締めるように心で誓った。
僕は気づけば、頬をつたうものがあった。
涙だった。止めようとしても、まるで堰が切れたように溢れてくる。
声は出なかった。嗚咽も、叫びも。
ただ胸がきつく締め付けられ、息を吸うことさえ苦しい。
(……父さん…母さん…澪白さん……)
僕を抱いていたのは、確かに本当の母だった。
必死に子を抱き、必死に生きようとして……それでも壊れてしまった。
涙が落ちるたびに、足元で世界が滲んでいく。
僕はただ、その残酷な記憶を、見つめることしかできなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




