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神縁  作者: 朝霧ネル
19/31

途絶えた温もり

『神縁 ー しんえん』


大切なものを失った少年・一ノ瀬智也と、異世界から現れた神獣の少女・こはく。ひとつの出会いが、ふたりの運命を静かに動かし始める。


心を通わせながら過ごす穏やかな日常、その裏では、世界を喰らう闇が目を覚まそうとしていた――。


過去の傷、隠された力、交わる縁。青春と戦いが交錯する中で、ふたりは“生きる意味”を探していく。


人と神獣の垣根を越えて描かれる、優しくも切ない異世界ファンタジー。


澪白の口から静かに告げられた一言に、部屋の空気がわずかに揺れた。


「叔母様、改めまして、私は―澪白、五神の一柱…玄武…」


こはくは最初こくこく頷きながら聞いていたが、言葉の意味が脳裏に届いた瞬間、ぱちんと目を見開いた。


「ふんふん……って、はああ!? 姉上、今なんと!?」


澪白はまっすぐな目で、再び同じ言葉を繰り返す。「私は、玄武…」


「そ、そんなこと聞いてないのじゃー!」

白い尾を逆立てて抗議するこはくに、澪白は肩をすくめるように小さく呟いた。


「言ってないもの…」


「な、なるほど……わらわが人間界に普通に入れたのも納得じゃ…!」

こはくはひとりで腑に落ちたように頷き、白い尾をばさばさと揺らす。


すぐさま澪白へと身を乗り出し、指を突きつけた。


「なぜ今まで言わなかったのじゃ!?」


澪白は小首をかしげ、ほんの一瞬考え込むような仕草をした。


「うーん……なんでだろう……」


まるで他人事のような口ぶりに、こはくは目を丸くし、次いで大きなため息をつく。

「まったく、姉上は昔からこうなのじゃ……」


呆れ果てたように腰を下ろすと、尾をぱさりと床に投げ出した。


僕は思わず口を開いた。


「玄武って……たしか、四方を護る神獣の一体ですよね? 北を守護する……」


その言葉に、叔母さんが「ああ!」と手を打った。

「こはくちゃんが前に話してたやつだ! えっと、青龍と、朱雀と、白虎と……」


ぽんっとひざを叩いた叔母さんは、急に立ち上がると仏壇へ向かい、木箱を抱えて戻ってきた。


「ほらこれ! お姉ちゃんが大事にしてたやつ! これ、関係あるんじゃない?」


「はい……それについても、後で話します…」


視線を戻した澪白の声音は、静かでありながらも、どこか重さを帯びていた。

そしてふと顔を上げ、真っ直ぐ僕と叔母さんを見た。


「……まず、こはくが人ではないことを、二人は知ってますか…?」


僕と叔母さんは顔を見合わせ、そろって頷いた。

「うん。こはくちゃんが来たとき、ちゃんと伝えてくれたよ」


「うむ、耳も尻尾も、全部見せたのじゃ」


澪白は静かに目を細め、頷いた。


次の瞬間、澪白はそっと両手を差し出した。透き通るような白い手。

「……こはく、智也、叔母様。話す前に、まずは私の手を握ってください。

――私が見てきたものを、あなたたちにも見せます」


僕と叔母さんは顔を見合わせ、ためらいながらも澪白の手に触れた。

ひんやりとして、それでいて不思議に落ち着く温もり。

最後に、こはくが迷いなくその手に自分の小さな手を重ねた。


「目を閉じて」澪白の静かな声に従い、僕らは一斉に瞼を下ろす。


……次の瞬間、足元の感触が消えた。まぶたの裏から差し込んでくる光に誘われ、

僕が目を開けると――そこは見たこともない世界だった。


 (……どこだ、ここは……?) 


目を開いた瞬間、視界いっぱいに青い空が広がっていた。

けれど身体は石のように重く、指一本動かせない。

視点だけが切り取られたように宙へ浮かび、ただ風景を見つめるしかなかった。


参道の石畳を、白銀の髪が風に揺れる女性が歩いている。澪白だ。

その背筋はすっと伸び、静かな気配を纏いながら、ゆっくりと社の奥へ向かっていく。


やがて辿り着いた社殿の前。そこで――。


「あーっ、澪~! やっと来た~!」

朗らかで明るい声が響き、木戸の奥から姿を現したのは、色白の女性だった。


白い耳がぴょこんと揺れ、ふさふさの白い尾が背に広がる。

その笑顔は太陽のように輝き、まるで周囲の空気ごと澄み渡らせるようだった。


白華(しらえ) 遅くなって、ごめんね……」

澪白は微笑み、歩み寄るとその女性の前で足を止める。


(……こはくに、そっくり……?)


胸の奥で小さく呟いていた。耳も、尾も、笑顔も。違うのは大人びた落ち着きと、漂う包容力だけ。


澪白はふと視線を落とした。女性の足元に、小さな影――。


「……こはく。久しぶり」


白い裾に隠れるように、まだ幼いこはくが澪白を見上げていた。

大きな瞳は少し怯えながらも、どこか懐かしさに揺れている。


(……え? こはく……? ってことは……白華という女性が、こはくの……)


言葉にならない衝撃が、胸の奥を打ち抜いた。

すると、奥からもう一人、青き気配を纏った男が現れた。


「蒼玄…来てたんだ…」

「蒼玄!久しぶりだね~!」


「今来たところだ…今日は、二人に会わせたい人がいる」

腕の中には、小さな赤子が眠っていた。



「我が子。智也だ…」



(……え……? 智也……?)記憶を追っているはずの僕の胸が、どくんと跳ねた。

(僕……? 僕の名前……? 聞き間違えか…?……今、蒼玄が抱いている赤ん坊は

――だとしたら…僕の知ってる父さんと母さんは…?)


頭の中がぐちゃぐちゃになる、足がすくんだように体が動かない。ただ、目の前の光景を信じられない気持ちで見つめるしかなかった。白華の目が柔らかく細まり、ぱっと笑顔が咲く。


「無事に産まれたんだね! ……かわいい! ほら、こはく、挨拶しなさい」


白華の足元に隠れていた小さなこはくが、恥ずかしそうに顔を出す。金の瞳が赤子を見つめる。蒼玄は腰を落とし、目線を合わせて穏やかに笑った。


「こはくちゃん、智也が大きくなったら……遊んでやってくれないかな…」


こはくは一瞬ためらったあと、小さな手を赤子に差し出した。ふに、と小さな指が掴まれる。

赤子の僕が無邪気に笑う。こはくは頬を赤らめて、呟いた。


「かわいいのじゃ……」


その場を包む空気は、ただ幸せと温もりだけで満ちていた。

白華と澪白、そして小さなこはくと僕――いや、“僕”が笑い合う光景。

温かな風景に目を細めたその瞬間――。


「……え?」


視界がぐらりと揺れた。頭の奥を誰かに強く押されたように、景色がぐあん、と歪む。耳鳴りがして、光が弾け、身体が浮かぶような感覚に襲われる。


次に瞬きをしたとき、そこはもう別の場所だった。

暗く冷たい空気が充満し、笑い声は消えていた――。

白華の社。境内の木漏れ日の下で、澪白と白華が並んで座っていた。


そこへ、息を切らした女神族のひとりが駆け込んでくる。


「……蒼玄様が……禍津(まがつ)に……!」


空気が凍りついた。白華が即座に立ち上がり、澪白の腕を強く掴む。


「澪! 早く行って!」


澪白は頷き、迷いなく社を飛び出した。


たどり着いた神殿の奥――そこに広がっていたのは、言葉を失う光景だった。


鎖に縛られた黒き影――禍津。


そして、その前で倒れ込むように、我が子を庇うよう抱きしめた蒼玄の姿。


「蒼玄!」澪白は駆け寄り、その血に染まった衣を必死に押さえる。


「……澪白……」

蒼玄の声はかすれていた。

瞳の青は、もう光を失いかけている。


「智也を…香織(かおり)のもとに…澪白…頼んだよ…」


最後に吐き出した言葉と共に、蒼玄の魂は薄く光り、澪白の腕の中からすり抜けていった。


「蒼玄――ッ!」澪白の喉が裂けるほどの叫びが神殿に響く。


視線の先――禍津。その影は鎖に縛られたまま、嗤っていた。

「ふん……人間と交わり、それを女神が許すとは。なぜだ? なぜ貴様のような獣が慕われる。神と呼ばれる私よりも……。死んで当然だろう、青龍」


「貴様ァ――!」澪白は立ち上がり、怒りに任せて飛びかかろうとする。


だが、背後から柔らかな光が伸び、腕を掴む。

「やめなさい、澪白」

女神の声。

「封神蔵最深部に連れてけ」



澪白の目に涙がにじむ。怒りと悔しさで震える身体を必死に抑えながら、それでも蒼玄の亡骸を抱き締めて、声にならない嗚咽を漏らした――。

ぐあん、と世界がまた揺れる。視界が白く染まり、次に映ったのは――夕暮れに染まる人間界の住宅街だった。


チャイムの音。玄関の扉が開き、明るい笑顔が顔を覗かせる。


「――あっ、澪白さん! お久しぶりです!」


その女性は、肩までの髪を揺らしながら、柔らかな声で迎えた。

けれど、澪白の表情は沈んでいる。

小さな僕――幼い僕を腕に抱えたまま、かすれる声で応じた。


「香織さん……お久しぶりです」


「? どうしたんですか、その顔……」

香織は小首をかしげたが、すぐに笑顔を取り戻す。

「もう~あの人ったら、智也を連れ回してばかりで……澪白さん、ありがとうございますね」


そう言って、僕を澪白の腕から優しく抱き寄せる。温もり。


(……この人が……僕の……本当のお母さん……?)

胸の奥が強く揺れ、息が詰まった。


「蒼玄さんと一緒じゃないの?」きょろきょろと辺りを見回す香織。


澪白は俯き、唇を噛みしめながら震える声を洩らした。

「すみません……すみません……」


その様子に、香織はゆっくりと息を呑む。そして、かすかに震える声で問いかけた。

「もう帰ってこないんですよね……?あの人の……最後は……立派でしたか……?」


澪白は目を合わせられず、ただ深くうなずく。


「はい…」


香織の頬に涙が伝う。それでも、無理に口角を上げて――

「そうですか……」

作り笑いのまま、幼い僕をぎゅっと抱き締めた。


その後も澪白は、何度も香織の家を訪れた。僕を抱く彼女は、疲れを隠すように笑っていた。

小さな体で泣きじゃくる僕をあやしながら、

「最近は夜泣きがひどくて」

「でも、この子の笑顔を見ると、頑張れるの」

そう言って、汗を拭い、笑みを浮かべる姿は眩しかった。


澪白は黙って頷き、時折、抱き上げてあやした。ふと視線を空に向け、呟く。

(蒼玄。見ているか? 香織さんは、とても強い。君の残したものを、ちゃんと守っている……)


季節が巡り、澪白は「もう大丈夫だろう」と思い、しばらく顔を出さなかった。

しかし、久しぶりに訪れたその日――。


家の前に立つと、玄関の表札は外され、扉には「入居者募集」の札が掛けられていた。澪白は息をのむ。慌てて近所の家を訪ねると、初老の女性が困ったように口を開いた。


「お隣さんのお友達? 言いづらいんだけどね」

「あの方、少し前に……首をつって、自ら……」


時間が止まった。澪白の顔から血の気が引き、足元が崩れ落ちそうになる。


「……う、そ……」女性の声が遠くに聞こえる。


「小さなお子さんを残して……本当に、気の毒で……」


澪白は拳を握りしめ、唇を噛み切るほど強く噛んだ。

(……私のせいだ……)

(何が強いだ……。私は、何もわかっていなかった……)

澪白の声は震えていた。

(人は……脆い生き物だ。笑いたくないときにも、笑わなければならない。泣きたいのに、涙を飲み込んで生きねばならない……。その苦しみを、なぜ私は気づけなかった……支えになれたはずなのに……)


悔恨と自責の念が心を裂き、涙が頬を伝う。


「香織さん……」


その声は、冷たい風に掻き消されていった。


必死に息を整え、やっとの思いで口にする。


「お子さんは……どうしたか、ご存じですか……」


女性は少し目を伏せ、ためらいがちに答えた。

「詳しいことはわからないけど……聞いた話だと、素敵なご夫婦が養子にとったみたいよ。ほんとうかは分からないけど……」


胸の奥が少しだけ、微かに温かくなる。けれど同時に、喉まで込み上げる後悔が押し寄せてきた。


「そうですか……ありがとうございます……」澪白は小さく頭を下げると、くるりと背を向けた。


足は震え、視界は滲む。抑えていた涙が頬を伝い、ぽたりと落ちた。



――香織さん。蒼玄。私は……結局、何も守れなかった。でも……あの子だけは、必ず守る……。



澪白は空を仰ぎ、噛み締めるように心で誓った。




僕は気づけば、頬をつたうものがあった。

涙だった。止めようとしても、まるで堰が切れたように溢れてくる。


声は出なかった。嗚咽も、叫びも。

ただ胸がきつく締め付けられ、息を吸うことさえ苦しい。


(……父さん…母さん…澪白さん……)


僕を抱いていたのは、確かに本当の母だった。

必死に子を抱き、必死に生きようとして……それでも壊れてしまった。


涙が落ちるたびに、足元で世界が滲んでいく。


僕はただ、その残酷な記憶を、見つめることしかできなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。



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