告げる刻
『神縁 ー しんえん』
大切なものを失った少年・一ノ瀬智也と、異世界から現れた神獣の少女・こはく。ひとつの出会いが、ふたりの運命を静かに動かし始める。
心を通わせながら過ごす穏やかな日常、その裏では、世界を喰らう闇が目を覚まそうとしていた――。
過去の傷、隠された力、交わる縁。青春と戦いが交錯する中で、ふたりは“生きる意味”を探していく。
人と神獣の垣根を越えて描かれる、優しくも切ない異世界ファンタジー。
(あの方……?)
思わず小さく口にしてしまう。疑問が頭を埋め尽くす中、澪白はふっと目許を和らげた。
懐かしさを含んだ微笑み。
「あの方って――」
僕が問いかけようとした瞬間、
「なぜ今になって来たのじゃ……わらわをひとりにしておいて……」
こはくは花をいじりながら、拗ねたように小さな声で呟いた。
澪白はその姿を静かに見つめ、そっと手を伸ばす。
「……ごめんね、こはく」
頭をやさしくポンポンと撫でる。
「ふ、ふんっ!」
こはくはそっぽを向いて照れ隠しをする。だが耳の先が赤く染まっているのを、僕は見逃さなかった。
そのまま立ち上がったこはくは、誤魔化すように白い蛇を呼ぶ。
「武蛇! 一緒に遊ぶのじゃ!」
蛇は嬉しそうにとぐろを巻き、くるりと尾を揺らす。
こはくは桜の木の下まで駆けていき、蛇とじゃれ合い始めた。
笑い声が風に溶け、さっきまでの険しい空気が嘘のように和らいでいく。
僕はその様子を眺めつつ、隣に座る澪白に視線を戻す。
「さっき……僕が誰かに似ているって言ってましたよね…?」
思い切って声をかけた。
「知り合いに……僕と似てる人がいるんですか?」
澪白はしばらく無言で花畑の向こうを見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ微笑み、静かに口を開く。
「そう…」
その声音には懐かしさと、消えない哀しみが滲んでいた。
「どんな…人だったんですか…?」
気づけば、口が勝手に動いていた。僕は隣の澪白に視線を向ける。
澪白は、静かに目を閉じる。
「――優しい方だった。厳しさもあったけれど、誰よりも仲間を思い、誰よりも真っ直ぐで……そして、とても強かった」
一言ごとに、淡い追憶が滲む。声は落ち着いているのに、奥底には懐かしさと切なさが絡み合っていた。
僕は小さく息をつき、わずかに微笑んだ。
「すごいですね。僕とは大違いです…」
そう言いながら、視線を遠くへ向ける。
桜の木の下から、こはくの笑い声が風に乗って届いてくる。
「やめろ~武蛇!くすぐったいのじゃ~!」
白い蛇が尾を揺らし、こはくがころころと転げ回る姿が見える。
その声に、澪白の瞳が僕へと戻る。
「そんなことはない……。だって、君は――」
意味深に言いかけたその時、僕と視線が交わる。
「智也~! こっち来るのじゃ~!」
こはくが遠くから大きく手を振った。
はっとして立ち上がり、手を振り返す。
「はーい、今行く~!ちょっと行ってきますね…」
駆け足でこはくのもとへ向かっていった。
澪白は二人と武蛇が楽しそうにじゃれ合う様子を静かに見守る。
響く笑い声、舞う花びら、夕日の中で跳ねるこはくの尾。
澪白はそっと空を仰ぎ、唇をかすかに動かした。
「……蒼玄。あの子は、立派に育っている。安心して」
やがて、こはくが僕に声をかける。
「そろそろ帰るのじゃ!智也!」
「うん、そうだね。帰ろっか」
僕も笑顔で応え、武蛇に手を振って別れを告げる。
すると、背後から静かな声が落ちた。
「私も行っていい…?」
振り返ると、澪白が少しだけ俯き加減に立っていた。
こはくはきょとんとした後、僕をちらりと見て首を傾げる。
「神界には帰らぬのか?」
「うん…しばらくここにいる…」
「うむ…わらわは構わんが……智也はどうじゃ?」
「もちろんです」僕は迷わず答えた。
「こはくのお姉さんなんですから。ぜひ一緒に」
その言葉に、澪白の長いまつ毛がかすかに揺れた。
無表情のまま、けれど小さく息をつくように――
「……やった」
その一言が、妙に子どもっぽくて。僕もこはくも思わず目を丸くするのだった。
花畑を後にし、三人は並んで歩いていた。
こはくが先に立ち、僕と澪白がその後ろをゆっくりとついていく。夕陽に照らされた小道は赤く染まり、風が稲穂をざわめかせていた。
「……姉上、急に現れて……びっくりしたのじゃ」
こはくがむすっと口を尖らせる。
澪白は無表情のまま、すっと答えた。
「嬉しかった…?」
「う、うれし……くなどないのじゃ!」
耳をぴんと立て、尻尾をぶんぶん振っている。明らかに動揺しているのに、本人は必死に否定する。
思わず笑みがこぼれた僕を横目で睨み、こはくはさらにぷいっと顔を背けた。
その時だった。
「……ッ!?」
肩にひやりとした重みを感じたかと思うと、白い蛇――武蛇がぴょんと飛び乗ってきた。
そしてその舌で、ぺろぺろと僕の頬を舐め始める。
「うわっ、冷たいっ!? ちょ、やめっ……!」
思わず声を上げると、こはくの目がカッと見開かれた。
「むむっ……武蛇! 智也ばかり構うでない! わらわにも構うのじゃ~!」
頬をふくらませ、蛇にまで嫉妬している。
澪白は歩みを止めることなく、一言だけ。
「気に入られたね…」
それだけを静かに告げる。
こはくがバタバタと抗議している間、武蛇は相変わらず僕の頬をぺろぺろ舐め続ける。
僕は必死に振り払おうとするが、意外に力強くて逃げられない。
「ははっ……!」
そんな僕らのやりとりを見て、こはくはとうとう声をあげて笑った。
――その隣で。
澪白はふと、空を見上げていた。
夕焼けに染まる雲、その向こうにあるはずの神界を見つめるように。
表情は変わらない。だが、その影は確かに沈んでいた。
僕はそんな澪白の一瞬の影に気づくこともなく――
「(……不思議だ。初めて会ったはずなのに……家族みたいな安心感がある)」
胸の内でそう思いながら、隣を歩き続けた。
玄関の扉を開けた瞬間、叔母さんの弾んだ声が響いた。
「おかえり智也くん……って、え!? な、なにこの綺麗なお嬢さん!」
その視線の先に、こはくの隣で静かに立つ澪白がいた。
長い白髪が輝き、アメジストの瞳は氷のように澄んでいる。
「叔母様、姉上なのじゃ!」
こはくが胸を張って言うと、叔母さんはさらに目を丸くした。
「お姉さん!? こはくちゃんのお姉さん!? なにそれ反則でしょ!綺麗すぎるんですけど~!」
矢継ぎ早に浴びせられる称賛に、さすがの澪白もわずかに身を引いた。
「……近い」
珍しく言葉に困ったように目を瞬かせる。
その直後、澪白はすっと姿勢を正し、両手を膝に添えて一礼した。
「お邪魔いたします。こはくがお世話になっております。澪白と申します…」
あまりにも丁寧な口ぶりに、場の空気が一瞬止まった。
「……は?」
こはくがぽかんと口を開け、きょとんとした表情になる。
「姉上……そんな喋り方、聞いたことないのじゃ……」
僕も思わず目を瞬かせ、叔母さんですら
「えっ…は、はい…」
と声を漏らす。
澪白は首を傾げ、無表情のまま一言。
「いけなかった…?」
リビングに通されると、澪白は無言のまま部屋をゆっくりと見渡した。
白い指先が軽く止まる。その視線の先には、仏壇の上に置かれた木箱。
「……」
じっと見つめる澪白に、こはくが首を傾げて顔を覗き込む。
「どうしたのじゃ、姉上?」
澪白は小さく首を振り、白髪をさらりと揺らした。
「なんでもない…」
それ以上触れようとはせず、話題を切り替えるように、澪白はふとこはくを見つめた。
「そういえば、その服…かわいい…」
「おぉ!これか!」
こはくは嬉しそうに制服の裾を引っ張り、胸を張る。
「これは制服じゃ!智也と一緒に学校に行っておる!」
どや顔で言い切るこはくに、僕は思わず苦笑する。
すると叔母さんが、すかさず会話に入ってきた。
「そうそう!こはくちゃん、行きたそうにしてたから……ねぇ?」
澪白は驚いたように振り返り、そのまま深々と頭を下げた。
「こはくを……見てくださって、本当にありがとうございます」
「ちょ、ちょっとちょっと!?」
慌てて手を振る叔母さん。
「もう、そんなかしこまらないで!こはくちゃんが来てから、うちがどれだけ明るくなったことか……助かってるのはこっちよ!」
にこにこと笑う叔母さんと、身を正す澪白。
そのやり取りを見ていたこはくは、誇らしげに尻尾をゆらゆらと揺らしていた。
「こはくちゃん、服が土で汚れてるじゃない。もう、せっかくの制服なのに……」
叔母さんは腰に手を当て、
「ほらほら、脱いで脱いで!もうすぐご飯なんだから――こはくちゃんも、お姉さんも!一緒にお風呂いってらっしゃい!」
「え、ちょ、叔母様っ!? わ、わらわは自分でできるのじゃ!」
「こはくと…お風呂……」無表情の澪白も、ほんのり耳が赤い。
そんな二人を有無を言わせず背中から押し出し、叔母さんはずんずん廊下へ連れていった。
バタバタと遠ざかる足音に、リビングが静けさを取り戻す。
その隙を縫うように、白い影がするりと床を這った。
「……うわっ」
武蛇だ。するすると僕の足元に絡みつき、そのまま首に巻きついてくる。
ひんやりした鱗の感触に、思わず肩がすくんだ。
「武蛇か……」
顔を寄せてくる武蛇が、ぺろり、と僕の頬を舐めた。冷たい舌先が妙にくすぐったい。
「くすぐったいって。ははっ」
苦笑しながら頭を撫でると、武蛇は嬉しそうに体を揺らす。
そこへ、叔母さんがひょいと顔を出した。
「あらあら!その子はなに?蛇ちゃん?かわいい~!」
興味津々で目を輝かせながら近寄ってくる。
「えっと……澪白さんの連れてる蛇で、武蛇っていうみたい」
「武蛇ちゃん!?なにそれ強そうじゃない!?しかもかわいい~!」
そう言って叔母さんは、ためらいもなく自分の頬を武蛇にすりすりした。
「ほら、ほら、仲良し~♡」
「……!」
武蛇も満更ではないのか、ぺろぺろと叔母さんの頬を舐め返す。
「きゃはは!かわいい~!飼~い~た~い~!」
しばらく、武蛇と遊んでいたところに、こはくと澪白が戻ってきた。
「ふぅ……さっぱりしたのじゃ!」
濡れた白髪をタオルで拭きながら、こはくが元気よく現れる。
その後ろから澪白も姿を見せ、肩に掛けたタオルを丁寧に畳んでいた。
「叔母様…お風呂、ありがとうございました。」
「いいのいいの!智也くんも入っておいで~」
淡々とした声に促され、僕は慌てて立ち上がる。
「うん、ありがとう。じゃあ行ってくる」
僕はお風呂から上がりリビングに向かうと、笑い声が響いていた。
こはくと澪白が並んで座り、何やら楽しそうに話している。こはくの尾がぱたぱたと揺れ、澪白の無表情の横顔も、どこか柔らかく見えた。まるで本当の姉妹みたいで、僕は思わず足を止めて見入ってしまう。
「おっ、智也~! 早く来るのじゃ!」
こはくに呼ばれ、僕は照れくさく笑いながら席に着いた。
その夜の食卓は、寄せ鍋だった。
湯気と香りが部屋を満たし、腹の虫がぐうと鳴く。
「いただきます!」
こはくは箸を握るなり、迷いなく肉をひょいと取る。
澪白も無言で続き、あっという間に野菜や具材が消えていく。
「ちょっ、姉上! それはわらわの分じゃ!」
「早い者勝ち…」
「むむむ~!」
九尾を逆立てながらこはくが唸る横で、澪白は淡々と口に運ぶ。
その意外な豪快さに、僕は呆然と見つめるしかなかった。
一方で――。
「ほらほら~、はい、あーん!」
叔母さんは武蛇を膝に乗せ、赤子にするようにスプーンで餌を与えている。
白蛇は嬉しそうに舌を伸ばし、ちゅるんと啜った。
「……」
僕は目をこすった。
(な、なんだこの光景……)
「武蛇! なにあまあまされておるのじゃー!」
「シャァ~♪」
嬉しそうに返事する蛇に、こはくは頬をぷくりと膨らませた。
にぎやかなまま、食事は終わった。
こはくはまだ満腹なのか、尾をばたばたさせて畳に転がっている。武蛇はそんなこはくに飛びつき、じゃれるようにリビングを駆け回っていた。
「ひゃぁ!、やめるのじゃ武蛇!わらわの尻尾を舐めるな~!」
「シャァ~♪」
こはくの尾を追いかけて跳ね回る蛇に、リビングは再び大騒ぎだ。
一方、澪白と叔母さんは台所で並んで食器を洗っていた。
「とても美味しかったです…洗い物はやっておきます…」
「なに言ってるの、私もやるわよ~、こんな綺麗なお姉さんと一緒に台所立てるなんて最高~♪」
「……」
澪白は小さく瞬きをして、珍しく困ったように微笑んだ。
やがて片付けが終わり、澪白は濡れた手を拭いながらリビングへ戻ってくる。
ソファに腰を下ろすと、まだ武蛇と追いかけっこしているこはくに視線を向けた。
「こはく」
「はぁっ、はぁっ……なんじゃ姉上、今いいところなのじゃ!」
「智也、叔母様も…」
澪白が穏やかに呼びかける。その声音には、さっきまでの柔らかさとは違う緊張が滲んでいた。
僕と叔母さんも顔を見合わせ、並んで腰を下ろす。
最後に渋々と武蛇を解放したこはくも、頬をふくらませながら席に着いた。
澪白はゆっくりと息を整え、表情を引き締める。
アメジストの瞳がまっすぐ僕たちを見据えていた。
「――話さなければならないことがあります」
諸事情で遅れてしまい、大変申し訳ございません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




