黒き兆し
『神縁』
大切なものを失った少年・一ノ瀬智也と、異世界から現れた神獣の少女・こはく。ひとつの出会いが、ふたりの運命を静かに動かし始める。
心を通わせながら過ごす穏やかな日常、その裏では、世界を喰らう闇が目を覚まそうとしていた――。
過去の傷、隠された力、交わる縁。青春と戦いが交錯する中で、ふたりは“生きる意味”を探していく。
人と神獣の垣根を越えて描かれる、優しくも切ない異世界ファンタジー。
僕は、湯気がまだ残る脱衣所から出て、頭にタオルを巻きながらリビングへと足を運ぶ。
「ふう……」
ほっと一息つきながらふと視線を向けると、ソファの上に、うつ伏せで足をパタパタとさせているこはくがいた。
スマホを手に、眉間にしわを寄せながら、画面を指でつんつんしている。
「……こはく、携帯、買ってもらったの?」
タオルで髪を拭きながら声をかけると、こはくは顔を上げずに答えた。
「む……これ、難しいのじゃ……なんで思うように動かぬのじゃ……」
タップ、スライド、ピンチ。画面の中のアイコンは行ったり来たり、まるで迷子状態だ。
「ちょ、押しすぎ押しすぎ!」
笑いながら近づき、隣に腰を下ろすと、こはくはもじもじしながらスマホを差し出してきた。
「智也、なんとかするのじゃ……」
「うん。とりあえず、電話のかけ方教えるね。これが連絡先で……」
スマホの基本的な操作を一つずつ説明し、僕と叔母さんの番号を連絡先に登録してやる。
こはくは目を丸くしながら、画面に自分の指を合わせて真剣な顔。
「おお……! できたのじゃ!」
満面の笑みで送信ボタンを押すこはくに、つられて僕も笑った。
そのとき、キッチンからふわりと甘辛い香りが漂ってきた。
「ごはんできたわよ~! 今日は生姜焼きよっ!」
エプロン姿の叔母さんが、フライパンを抱えながら顔を覗かせる。
その手には艶々に焼けた豚肉と玉ねぎの香ばしい香りが乗っていた。
「おぉぉぉ!」
こはくが飛び跳ねるようにソファから立ち上がり、ダイニングテーブルへと向かう。
僕も後を追い、席についた。
「……じゃ、いただきます!」「いただくのじゃ!」
3人そろって手を合わせ、温かな食卓が始まった。
「そういえばさ、今日ショッピングモールでこはくちゃん、子どもを助けたのよ!」
叔母さんが目を輝かせる。
「なんかね、2階から落ちた子を、シュバッ!って抱きとめて、周りの人みんな見えないくらい速かったの!」
「ふふ……当然のことをしたまでじゃ」
こはくは照れたように笑いながら、箸を運ぶ。
「あとね、可愛い服もいっぱい買ったのよ! こはくちゃん、何着ても似合うの。天才的!」
「うむ…ある意味戦場であったぞ…」
テーブルには料理の香りと笑い声があふれ、まるで本当の家族のような時間が流れていった。
食後、僕こはくは洗面所で並んで歯を磨く。
「しゅー……しゅしゅしゅ……」
鏡に映る白い尻尾をわさわさと揺らしながら、こはくが口を動かす。
「なあ、智也」
「ん?」
「わらわ、学校が気になるのじゃ」
歯ブラシを口から外してこはくがこちらを見る。
「叔母様が、わらわも行けるかもしれぬと、言っておったのじゃ」
「えっ!? ほ、ほんとに!?」
あまりの驚きに、思わず口の中の泡を吹き出しそうになる。
「ほんとじゃ!」
得意げに胸を張るこはく。
歯磨きを終えてリビングに戻ると、ソファに座る叔母さんに声をかける。
「叔母さん、こはく……学校に行けるって、本当?」
「あぁ、聞いたの?こはくちゃん、帰り道に智也くんを見かけてね。学校、気になるんだって」
優しく微笑む叔母さん。
「でもさ……生活のこととか、学費とか……大丈夫なの?」
「もう、学生はそんなの気にしないの!」
明るく笑いながらも、どこか頼もしさがにじむ声だった。
「試験とか……そういうのは?」
すると叔母さんは、ふふんと鼻を鳴らして胸を張る。
「実はね、校長先生、私のお姉ちゃんの知り合いなの。だから、そこは……なんとかしてみせる!」
「へえ……そうなんだ。知らなかったな、校長先生とそんな繋がりがあったんだ…」
僕はソファの背にもたれて息を吐いた。
「叔母さん、色々ありがとね。今日、こはく……すごく楽しかったみたいだよ」
「ふふっ。私も楽しかったわよ~? 可愛すぎて、こっちまで元気になっちゃうんだから」
叔母さんはいつもの調子で明るく笑った。
僕はそっと立ち上がった。
「じゃあ、部屋戻るね。おやすみ」
「おやすみ~!智也くん」
歯を磨き終わったこはくは、自室のドアの前でこちらを振り返る。
「智也、おやすみなのじゃ」
「うん、おやすみ、こはく」
二人は、それぞれの部屋へと戻っていく。
◆ ◆ ◆
布団に入ったこはくは、月明かりの差す天井を見つめながら、深く、静かに目を閉じた。
――そして、夢の中。
そこは、どこか懐かしくも寂しい、水辺の風景だった。風はなく、空は曇天。水面がぼんやりと光をたたえている。
その岸辺に、うすぼんやりと人影が見えた。
「こはく……」
やわらかく、しかし悲しみを含んだ声が響く。
「用心し…て……もう…すぐ……そちらに……」
「姉上……?」
視線を向けると、そこには長い白髪を静かにたらした女性が、石の上に腰掛けていた。
薄い衣をまとう姿――
けれど、様子がおかしい。瞳はどこか遠くを見つめ、力なく呟いている。
「……女神…様…が……」
「姉上!? なにを言っておるのじゃ!? 姉上は平気なのか!? しっかりするのじゃ!」
こはくが水辺に駆け寄ろうとするも、その距離はまるで縮まらない。
「姉上!! 返事をするのじゃ!」
何度叫んでも、その声は届かない。ただ澪白は、膝の上に手を置いたまま、悲しげに目を伏せるだけだった。
――姉上……姉上っ!!
こはくの声が空に吸い込まれていく。
「――っ!!」
バッ、と勢いよくこはくが目を覚ました。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、鳥のさえずりが聞こえている。
額には汗が浮かび、肩で呼吸を繰り返す。
「……夢、じゃったのか……?」
夢の余韻が、胸の奥に冷たいものを残している。
窓の外では、穏やかな朝が、何事もなかったように広がっていた。
――僕も同じ頃、不意に、目が覚めた。
(……なんだろう、なんか……)
ぼんやりとした頭を抱えながら、ゆっくりと身を起こす。何か夢を見ていた気がする。
でも、その内容は思い出せない。ただ、胸の奥にうっすらとした不安だけが残っていた。
(……怖い夢だったような……)
掛け布団をはねのけて、僕は寝ぼけ眼のまま洗面所へと向かう。
そこにはこはくの姿があった。
「……おはよう、こはく」
「おはようなのじゃ、智也」
洗面台に身をかがめ、冷たい水を顔にぱしゃぱしゃとかけているこはくは、タオルで顔を拭きながら僕の方を振り向いた。
僕は隣に立ち、歯ブラシに歯磨き粉をのせる。カチカチ、と蛇口をひねり、歯を磨き始めようとしたとき――
「……なあ、智也」
「ん?」
「以前、わらわが……“姉上”と慕う者がいると話したの、覚えておるか?」
「うん」
「その姉上が、夢に現れたのじゃ。水辺に座っていて、何かを言っておった。けれど……聞き取れなかったのじゃ…」
「そっか…」
僕が口をゆすぎながら尋ねると、こはくの表情がふっと曇った。
「何かを伝えようとしていたように見えたのじゃ。……おそらく、わらわの世界で何かが起きておる」
「お姉さんに……何かあったってこと…?」
「……わからぬ。じゃが、様子がおかしかったのは確かじゃ……」
タオルを握りしめながら、こはくは視線を落とす。
その姿を見て、これ以上重くならないようにと、話題を変えることにした。
「……ねぇ、今日は学校休みだからさ。気晴らしに、散歩でも行かない?」
こはくは少し驚いたように顔を上げ、すぐに「うむ」と頷いた。
そのときだった。
「おはよ~~……って、うひゃあ、さむ……」
寝間着姿の叔母さんが、ぼさぼさの寝癖頭でふらふらと洗面所に現れた。
「……叔母様、頭が……爆発しておるぞ……」
こはくが素直に呟き、僕は思わず吹き出す。
「ふふっ……今日学校ないから、もう少し寝てていいのに」
「うぅ~、そうしたいけど……今日はこはくちゃんの制服の採寸しにいくのよ~」
叔母さんは目をこすりながら、あくびを噛み殺す。
「昨日ね、校長先生に電話して、事情を説明したの。そしたら“こんなところでよければ、ぜひ”って言われてさ」
「……はぁぁ!!!」 「なんじゃと…!!!」
僕とこはく、同時に声をあげた。
「……いや、行動力の鬼……?」
「わらわも、学校に……!?」
「私をなめるんじゃないぞ~、でも、とりあえず、仮入学からね」
あくびをしながらそう言って、洗面所から去っていく。
こはくと顔を見合わせ、なんとも言えない不思議な気持ちで見送った。
僕たちは朝食をとり、それぞれ身支度を整えた。
制服採寸のため、僕たちは叔母さんの車で学校へと向かった。
車内では、こはくが窓の外をじっと見つめ、「学校…学ぶ場所…制服…」などとぶつぶつつぶやいていたが、緊張というよりはわくわくしている様子だった。
学校に到着し、校舎内の一室──仮設の採寸部屋に案内される。
「こはくちゃん、ちょっとこの制服に着替えてみてね。あ、着替えが終わったら呼んでくれればカーテン開けるわよ〜」と、叔母さんが制服を手渡す。
こはくは一瞬だけ戸惑った顔をしたが、「うむ、わかったのじゃ……」と受け取り、試着室へ入っていった。
しばしの沈黙。
「智也くん……こはくちゃん、絶対似合うと思わない?」と、叔母さんがニヤニヤして僕の顔をのぞいてくる。
「……う、うん……たぶん」
そう答えた瞬間──。
「着替え、終わったのじゃ……」
カーテンが、スッと開かれた。
そこには、制服に身を包んだこはくが、すこしはにかみながら立っていた。
白い髪にゴールドの瞳、褐色の肌に真新しい制服。
その姿はまるで絵本から飛び出してきたようで、息を呑むほど綺麗だった。
「……っ!」
思わず、言葉を失って立ち尽くしてしまう。
「な、なんじゃ……じろじろ見るでない…そんなにおかしいか…?」
「い、いや!すごく……すごく似合ってるよ……」
「ふふっ、で、でしょ!? ほら見て! 鼻血出るくらいかわいいって証拠が──」
「ぶふぉっ!!」
隣で叔母さんが盛大に鼻血を噴き出して崩れ落ちた。
「うわっ! 叔母さん!? 大丈夫!?」
「構えていたのに……この破壊力……不覚なり……」
「こはくに喋り方似てきたな…まったく…」 僕は肩を落とし、呆れた表情でため息をひとつついた。
それからしばらくして、僕たちは校長室へと向かい、校長先生に挨拶を済ませた。
「昨日、恵美さんからお電話をいただいてね。事情は聞いてるわ。大丈夫、来週から登校できるように手配しておくから」
「ありがとうございます、校長先生。本当に助かります」
僕と叔母さんが頭を下げると、こはくも続いてぺこりとお辞儀をした。
こうして──
こはくが、来週からこの学校に通うことが、正式に決まった。
校長先生に深く頭を下げ、三人で校長室を後にする。
「こはくちゃん、ほんとに似合いすぎててヤバいよ〜! かわいいは正義!」
駐車場へ向かう道すがら、叔母さんが両手をばたばた振りながら、まるでアイドルに遭遇したかのように浮かれている。
「……は、はしゃぎすぎじゃ……」
こはくが小さく肩をすくめる。その頬はうっすら朱に染まり、いつもよりも控えめな声だった。
智也はそんな様子を横目に見ながら、制服姿のこはくと並んで歩いていた。
緩やかに揺れるスカート、膝下からのびる細くしなやかな足、そしていつもより人懐っこい表情。
そのどれもが、彼女の新たな一面を見せてくれていて、思わず視線を逸らしてしまう。
……似合いすぎるだろ、ほんと。
そう思いながら、ふと視線を正面へ戻したときだった。
「……ん?」
僕は足を止める。 校門のそば――影が一つ、ぼんやりと立っているのが見えた。
誰か、いる……?
最初はそう思った。けれど、次の瞬間――
「……頭……?」
影はゆっくり、しかし不自然なリズムで、頭を揺らしていた。 まるで、首の骨が外れているかのように、だらりとした動きで。
「……っ、なにあれ……」
ざわりと背中を冷たいものが走った。 どこか違う。人じゃない。直感がそう告げていた。
「叔母さん、こはく……止まって。あれ……」
僕が指をさすと、二人も足を止め、視線を向ける。
「――っ」
叔母さんが小さく息を飲む音が聞こえた。 表情から血の気が引き、唇が震えている。
「……あれは……なに……っ」
それでも叔母さんは、こはくと智也をかばうように一歩前に出た。
「智也くん、こはくちゃん…に、にげなさい……!」
その背中は強がっていたけれど、小刻みに震えているのがわかった。
「……ふたりとも……」
低く、しかし芯のある声が背後から届く。 こはくがゆっくりと叔母さんの肩に手を添え、優しく後ろへ押す。
「わらわの後ろにおれ」
制服のまま、こはくは一歩、前に出た。
そして次の瞬間――
その“影”が、ぐるりと首を回した。
――360度、完全に。「か…え…し…て……ひかり…を……」
ありえない方向へねじれたその顔が、笑っているように見えた。 でも、目は笑っていない。どころか、眼球はぐしゃりと潰れ、口元は裂け、どこを見ているのかすらわからない。 ただ、音もなく、こちらを“見ている”。
その瞬間――世界が変わった。
周囲の音がすべて消える。 車の音も、鳥の鳴き声も、風のそよぎも、全部。
そして鼻を突くような強烈な悪臭。
視界の端が歪む。 空気が重くなり、足元が揺れているような錯覚に陥る。
気がつけば、まるで現実じゃないような景色が広がっていた。 僕はその場に立ち尽くし、足がすくんで動けなかった。 隣にいた叔母さんは膝をつき、顔を青ざめさせながら震えている。
「……二人にも、見えておるのか」
こはくが、低く、それでいてはっきりとした声で言った。 彼女の目はまっすぐ、校門の先に立つ“それ”を見据えていた。
「あやつは――『朽神』と呼ばれるものじゃ。 朽ちた神の、“情念”だけが残った存在。理性も自我もなく、ただ、強い感情だけが形になった……悲しき者じゃ」
「安心するのじゃ。危害は加えてこない。あれはただ、彷徨っているだけ……じゃが――」
ふと、こはくの目が鋭く細められた。
「どこから入ってきたのじゃ…?本来、朽神は封神蔵に封印されてるはずじゃが…」
その瞬間だった。
――“朽神”が、目にも留まらぬ速さで動いた。
僕の目の前に、一瞬で現れる。
首を異様な角度にねじ曲げ、こちらを覗き込んでくる。
そして、鋭く黒ずんだ爪が、僕の目を潰そうと振りかざされた。
「かえして……わたしの、ひかりを……」
その声は、泣いているようで、怒っているようで、何より――怖かった。
――その瞬間。
「……この者達に、触れることは、許さん」
こはくの手が、鋭い爪を振り上げた“朽神”の腕をがっしりと掴んだ。 その華奢に見える腕からは想像もできない力に、朽神は動きを止める。
だが次の瞬間──
「かえして……かえして……! カエシテ、カエシテ……!」
狂ったように叫びながら、朽神が暴れ出す。 爪が空を裂き、地が割れ、風圧で砂塵が吹き荒れる。
その凄まじい連撃のなか、こはくは一歩も動じることなく、 ただ、無表情のまま、ひらり、ひらりと舞うように避け続ける。
──やがて、朽神が地を削る勢いで横薙ぎに振るった爪を、 こはくはすっと低姿勢でかわした。
「……終いじゃ」
風が止まる。音が消える。 こはくの右拳に、黄金の光が集う。
「神尾演舞・破衝尾」
その声は、囁くように、けれどはっきりと響いた。
そして──低姿勢のまま、前方へ拳を突き出す。
触れていないはずのこはくの拳から、衝撃波が直線状に走り、朽神の胸に、ぽっかりと穴が空いた。
遅れて響く、重低音の衝撃。
その一撃で、朽神の全身がぐらりと傾き、膝をつく 蒼白い光と黒い欠片をこぼしながら、静かに崩れ始めた──
朽神は、聞こえるか聞こえないかの声で、寂しそうに呟く。
「……か、え……して……」
こはくは、その身体をそっと抱きしめる。
「もう……よい。安らかに眠るのじゃ」
朽神の顔の半分が、元の穏やかな面影を取り戻していた。
「……ありが……と……」
かすかな声と共に、一粒の涙がこぼれ、光となって消えていく。
こはくはゆっくりと立ち上がる。
その瞬間、歪んでいた景色は音もなく消え、そこには何事もなかったかのような日常が広がっていた。
鳥のさえずり、遠くで聞こえる車の音。すべてが戻ってくる。
「……」隣にいる叔母さんと顔を見合わせる。二人とも、顔から血の気が引いていた。
「こは…く……」震える声が、自然と口からこぼれる。
「また、怖い思いをさせたのじゃ。すまぬ」
こはくは、いつもの優しい笑みで振り向いた。
腰が引けて、うまく立てない僕と叔母さんに、こはくはそっと手を差し伸べる。
「さあ、家に帰るのじゃ」
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