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第六夜

 こんな夢を見た。

 倉庫が並ぶ道を抜けた先には、埋められた海があった。だだっ広い空き地に蛇の舌ほどに細い雑草が小石の群がりのなかから伸びていて、敷地の尽きるあたりには緑に塗った金網が張ってあった。

 狭山と武田と梶原が真っ白なフリスビーを投げては受け取り、また投げている。

「そーじゃねえ! そっちじゃねえよ、このクソバカヤロー!」

 そんな笑い声が耳にぶつかる潮風に乗ってきこえてきた。

 殺し屋は敷地を区切る金網を上って、降りた。葦が密に生えた岸辺に出た。葦は公園の汽水池まで伸びていて、タグボートが通るたびに黒い水が膨らんで、葦の根が浮き上がった。殺し屋は葦の原へ歩いた。一歩進むごとに水は深くなってきた。腰のあたりまで来たところで、気合のない、ポッという花火の音がきこえてきた。真昼の花火らしい音だな、と殺し屋は考えた。

 葦が尽きたところで殺し屋は汽水池公園とは逆へ平泳ぎを始めた。角ばった島にはコンテナが時代劇の賄賂のように積み上がり、巨大な貨物船がガントリークレーンから運ばれるコンテナを次々と食っていた。白い橋が湾をまたぎ、青空には飛行機雲が交差している。釣り舟がコチを釣る糸を垂れていた。

 釣り人がひとり、殺し屋に気づいたらしく、声をかけてきた。

「おーい、大丈夫か?」

「大丈夫です」

「なんでそんなところを泳いでいる?」

「フリスビーを投げる気になれなかったから」

 黒くうねる潮が湾の船を外へ連れ出そうとしていた。殺し屋の体はその潮に自分から泳いでいった。湾岸でのたくりまわるコンビナートのパイプや燃料塔の輝きが水平線に消えるころ、殺し屋は夜のようは昼のなかを泳いでいた。太陽は白く燃えるが、空は黒く、星ひとつ、ウロコ雲の一枚もない。海面は白けたように末まで見晴らしが利いて、潮はいつの間にか死んだ。

 殺し屋はどうもまずいところに泳ぎ込んでしまったなと思ったが、フリスビーのことを考えると、これ以外に方法がなかったともあきらめがつく。空はコインランドリーの乾燥機みたいにグオングオンと鳴くことがあり、それが自分を導くのかと思った。だが、ずいぶん前にある組長の娘をもてあそんで捨てたホストの首をコインランドリーの乾燥機に放り込んだことを思い出し、コインランドリーは自分の敵なのだと悟った。

 グオングオンの音に逆らって泳ぐと、水平線が盛り上がった。徐々に厚みを増し、ついにとうとうたどり着くと、それが東西にどこまでも伸びる土手だと分かった。何も植えていない、雑草だけが目立つ土手で西へ行けば静岡か伊豆に着くはずだが、人の営みの光が全く見えない。逆に東へ行けば、サンフランシスコまで人気はないはずなのに、小さな座敷が闇のなかにポツンと浮いていた。東へ歩いているうちに、乾いた風が吹き、服の水気をさらっていった。小さな座敷の沓脱にスニーカーを脱ぎ捨てると、まもなく女中がやってきた。額から頬にかけてひどく醜い傷跡のある女中で、特に尖った頬骨のところは特に皮が薄くなっているのか、細かい血管が網の目に拍動しているのがはっきりと見えた。

「なんにいたしましょ」

「カルビ肉を挟んだ焼きおにぎりを」

 女中が引き上げる。藍色の座布団の上で足を崩し、泳ぎでくたくたの体を徐々にあぐらへと持っていく。狭い座敷で、床の間からは掛け軸のなかの愛染明王がアタマのいかれた検察官みたいにこちらを睨んでいる。ただ、花瓶の代わりに黒電話が置いてあった。指ではじくと崩れてしまいそうな土壁の向こうからきこえるのは予算案をめぐる与党と野党のインチキや貴族化した労働組合主催のチキンレース、手持ちのアイドルをチップにした芸能事務所の丁半博打で、土手のふもとを浸す水音に耳を澄ませたい人間にとっては全員死ねばいいと思うような雑音の数々。

 床の間の黒電話が鳴った。ひどくやかましいのに、どこかおいおい泣くようにもきこえる。止む気配もなく、他に出てくれる人もいないので、仕方なく出た。受話器のなかで涙声が震えていた。

「あんたはいま、どこにいる?」

「ここにいるよ」

「ウソだ。あんたは間違えてる」

「何を?」

「時間」

 ガチャンと切れた。殺し屋はなぜか分からないが、ひどく腹立たしくなってきた。もう、カルビを挟んだ焼きおにぎりのことはどうでもよくなった。料理はやってこない。座敷を蹴って、靴を履き、土手へ戻り、北側の坂を下り、海に飛び込んだ。潮が殺し屋を沖へと運んだ。殺し屋も手足を使って泳いだ。だが、泳いでも泳いでも陸は見えなかった。太陽がかかった黒い空の下、陸が見えるそのときまで、殺し屋は必死に泳がなければならない。

 すると、今度はカルビを挟んだ焼きおにぎりのことが惜しくなってきた。女中があの座敷にやってきて、殺し屋がいないのをいいことに、これはわたしが食べてしまいましょう、と言っている姿が目に見えるようだ。なんて、惜しいことをしたんだ。だが、振り返っても、土手は見えなかった。

 そのとき、白いフリスビーが飛んでいるのが見えた。

「やった! 陸は近いぞ」

 殺し屋はフリスビーを追って、必死に泳いだ。だが、フリスビーはずっと殺し屋の先を飛び続けた。白い太陽と黒い空の下、止まった潮のなかを何日も何か月も何年も泳いだ。殺し屋は相変わらず、ショートヘアの少女、または長髪の少年に見えた。

 あのフリスビーが、実は太陽が鯨油で燃やしてつくった分身であることを殺し屋が知るのはずっと後のことである。

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