序章~時の翼の物語~(5)
「……の地所については、バロン・ボウルズに譲るものとする。さて、次にボウルズ家に代々伝わる家宝の<五十人の敵を前にしても絶対勝利する宝剣>と<五十人の敵を前にしても絶対無傷でいられる大楯>、それに<五十人の敵を前にしても絶対逃げられるブーツ>だが、これは我が家の伝統でな。当主の亡くなるという時に長男から順に選ばせる、というしきたりになっておるのじゃ。そこでバランよ、まずはおまえからこの三つの品から好きなものを取るがいい」
(ま、まずいぞっ!!)と、バロンは風にひるがえるセルリアンブルーのカーテンの陰で思いました。(そうだ。実際のところ、「ちょっと待ったあっ!!」とばかりオレが中へ入っていくってわけにもいかないんだから、本当はこの前日にでも昔のオレか兄さんのどっちかにでも事情を説明しておく必要があったんだ。じゃあ、もう一回時の移動をやり直して……)
バロンが焦りつつ、そこまで思った時のことでした。驚いたことに、バランは自分の父親に向かい、こう言っていたのです。
「では、私はこの<五十人の敵を前にしても逃げられるブーツ>をいただきたく存じます。と言いますのも、ガへリス伯父さんとガレス伯父さんの勇敢な死が良い教訓となりました。そのような誰を前にしても必ず勝利できる剣など、むしろ末の弟のバロンにこそ必要なものでないかと考えるからなのです」
「うむ、よくぞ申した、バランよ。では、バリンは宝剣と大楯のいずれがよいかな。兄の有難い忠告はともかくとして、おまえはおまえで好きなほうを選ぶがよいぞ」
「ははっ。ですが父上。確かに俺は剣の腕前では兄上に今一歩及ばないことを考えると……このように素晴らしい宝剣を手にしてみたい気持ちもありますが、ここは<五十人を前にしても無傷でいられる大楯>を選びたく存じます。これは、俺にとっては騎士として驕り高ぶらぬようにとの、己に対する戒めでもありますゆえ」
「うむ、よくぞ申した、バリンよ。わしはおまえたち三兄弟にこれまで随分厳しく接したこともあったな……じゃがそれもまた、おまえたち息子の将来の幸福を思えばこそのこと。最後にバロンよ、三人の中ではおまえが剣においても槍においても普通並であった。これも、剣豪と呼んで差し支えない兄ふたりと比べてのことではあるが、今後ともその宝剣の所有者として相応しい者となれるよう、騎士道に励むのじゃぞ」
「ははっ。父上、このような素晴らしき剣、バラン兄上かバリン兄上こそが所有するに相応しきもの……ですが、もっとも力の及ばぬ者であるオレこそがこの黄金の柄を握ることになった以上、ボウルズ家の家名にも宝剣の名にも恥じぬよう最善を尽くすことを、今ここにお約束いたします」
「うむ、よくぞ申した、バロンよ。この父、実は三兄弟のうち、わしはおまえのことが一番心配だったのじゃ……というのも、バランはガへリス伯父さんに、そしてバリンはガレス伯父さんに似て、真の勇者の心を持つ豪の者であったが、このわしだけは違ったのでな。そうした意味で、バロンよ。自分にそっくりなだけに、わしはおまえの行く末のことが一番心配だったのじゃ……無論、バランのことは長兄として心から誇りに思い、バリンよ、おまえのことも常に心にかけてきたつもりじゃ。その父としてのこのわしの想い、説明などせずとも、おまえたちならばわかってくれるな?」
「もちろんです、父上っ!!」
ここでバロンが堪らなくなって、カーテンの陰からそっと部屋の中を覗いてみると――四柱式寝台の背もたれに背をもたせたカラドスが、三人の息子たちと涙ながらに抱擁しあっているところでした。
「さて、わしはこれからバランに、今後のこのボウルズ家の領地の治め方その他について、少々ふたりで話しあわねばならん。バリンとバロンよ、おまえたちはそれぞれ大楯と宝剣を手にして、今後のことをよく考えるとよい」
――バリンとバロンのふたりが部屋から出ていくと、カラドスは早速とばかり、<五十人の敵を前にしても必ず逃げられるブーツ>には、他に<時をかける力>のあることを説明しはじめました。実をいうと、事はこうしたことだったのです。今から約十三年前のあの時、バランとバリンは扉の外で、こっそりカラドスと未来からやって来たバロンの話を聞いていたのでした。
『兄上、あの話、どう思う?』
『いや、あの未来のバロンに対する父上の態度は、決してペテン師に対するものじゃなかったと思うんだ』と、二階にある部屋の一室から、門へと向かって歩く父と大人バロンの姿を眺め、バランは言いました。『父上もまた、<時をかけるブーツ>の所有者であればこそ色々なことがすぐにわかったんだろう。だがこの場合、細かい事情はよくわからないにしても、とにかく将来的に僕とおまえのふたりはまずいことになるらしい』
『ふうむ。じゃあ、未来を変えるためにはどうしたらいいのかな。父さんが今から十三年後くらいって言ったっけ?そんな日のことは考えるのも嫌だけど……もし、その日その瞬間がやって来たら、俺たちはどんな選択をするのがもっとも正しいということになるんだろうか』
『すっかり大人になったバロンが言ってた通り、たぶん僕が<時をかけるブーツ>を選べばいいんじゃないかな。何分、シャリオン村はここから近いんだし、そこになんらかの異常があったと報告があれば、このあたりの地所を継ぐらしい僕がそちらへ向かうのはある意味当たり前のことだ……これから僕も、あらゆる歴史の書物なんかを当たって、たとえば死霊の伝説であるとか、昔のそうした言い伝えの中で参考になるものがないかどうか、調べてみるつもりだけど――とにかくシャリオン村へは夜には向かわず、昼間そこで昔何があったかを<時をかけるブーツ>で調べたほうがいいってことなんだろうな』
『そうだ!!あとは大楯の所有者である俺と宝剣の持ち主となったバロンのことを呼べばいいよ。そんな素晴らしい剣をバロンの奴に譲るのはちょっと癪だけど、実際のとこ、俺たち三人の中であいつが一番弱っちいっていうのは事実だもんな』
『まあ、未来のことはわからないけど』と、バランは笑った。『遺言の席でバロンがブーツを選び、僕が宝剣を選んで、それがまずい失敗に繋がることになったっていうのは、なんか理解できるんだ。よし、バリン。今日のことはしっかり日記にでも書き記しておいて、お互い、時々――そうだな。毎年誕生日が巡って来た時にでも――「あのこと覚えてるか?」とでも言って、互いに確認しあうとしよう』
『いつも通りグッドアイディアだ、バラン兄さん!!』
仲のいいこの兄弟はお互いに手を打ち合わせると、そう約束しあいました。
『父さんもさ、なんかちゃんと遺言を言い終わらないうちに亡くなったっていうことだから、俺たちや執事の口から、それとなくその日に備えるよう言ったりしたほうがいいのかもしれないな』
『そうだな。父さんも未来から末の息子のバロンがやって来た今日という日のことを――決して忘れることはないだろうけれど、何分未来のことはわからないものな。なんにしても、僕たちは今からそうした心積もりでいることにしよう』
バランとバリンの二兄弟がこんなふうに目の前で実際に見たり聞いたりしたことを、そのまま素直に信じられたのは……もしかしたら彼らがまだ年齢としては幼かったという、そのせいもあったかもしれません。とにかく、彼らは十三年後に起きるという父カラドスの臨終の席のことをその後も忘れませんでした。また、このままいくと将来は『死ぬより恐ろしいことになる』らしいとも思い、父親の厳しい指導に応え、互いに心身を鍛えることを怠ることもなかったというわけなのです。
――こうして、バロンはそれ以上特に何かする必要もなく、茂みに姿を隠してぺちゃくちゃしゃべっている三人の仲間の元へ戻って来ました。
「あっ、バロン、また目を赤くしてるわね!まったくもう、泣き虫さんなんだからっ!!」
「そう言うなよ、ラヴィ。孤児のオイラにしてみたら、バロンさまは立派なご家族がいらっしゃって、まったく羨ましい限りだもの」
「んだ、んだ」と、頷いてグリン。「ほいで、バロン。万事滞りなくうまくいっただか?」
「ああ。うまくいったのはいいんだが……」
ここへ戻って来るまでの間、疑問になったことについてバロンは思わず口にしていました。
「バラン兄さんが<時をかけるブーツ>を選び、バリン兄さんが大楯を、そしてオレが宝剣を選んだということは――これから時間軸を未来に戻ったとすれば、すべての運命が変わっている、ということになるだろう。だけど、今実際のところオレはまだこのブーツをはいたままだし、ということはどうなる?未来に戻った途端、オレは大楯とブーツを同時に失い、この宝剣だけがオレに残された持ち物となる、ということなんだろうか?」
「確かにそうだ」と、ロックも腕組みをして考えこみます。「第一、未来が変わったってことはオイラたちだって、こうして友達になってるかどうか……」
「う゛~ん。どうなんだろ。そこはそれ、あたいたちは結局のところ何か別のことで同じように仲間になってるとか?」
「とにかく、帰ってみればわかるべ」と、あっけらかんとしてグリン。「バロンはさっき、靴の踵を二度打ち鳴らしてオラたちをここまで連れてきただ。そんで、三度鳴らせば、帰るべき場所へ帰れるんだべ?とにかく、問題はそういうことだよ。バロンが三回<時をかけるブーツ>の踵を鳴らしゃあ、きっとオラたち、それぞれ居るべき場所へと帰れるんでねえだか?」
「それもそうね!!」、「そうだな」、「オイラもそう思うだよ」……三人はほとんど同時にそう言ってしまい、互いに顔を見合わせて笑いました。とにかく、こうしたわけでラヴィとロックとグリンの三人は、再びバロンのガウンの裾やら革のベルトやら肩やらにそれぞれ掴まり――再び時の移動を開始したのでした。
今度は、踵を二度打ち鳴らしたのではなく、三度打ち鳴らしたからでしょうか。何か、移動する時に見えたものが色々と違って見えました。たとえば、兄のバランがシャリオン村へ向かい、骸骨騎士を前にして、ロックとともに<時をかけるブーツ>の踵を二度打ち鳴らし、移動した時の先のことなどが見えました。そしてここからは、そこでバランがどんなふうにしてシャリオン村で起きたことの解決をはかったかの、その原因除去の物語……ということになります。
~悲しみと後悔の姫、そして四十九人の嘆きの騎士の物語~
昔むかし、あるところにとても我が儘で傲慢なお姫さまがいました。その国の王様とお妃さまは心から愛しあっていましたが、長く子宝に恵まれず、ようやくしてこのお姫さまがお生まれになっておりましたので、小さな頃から甘やかして育てたのがその原因だったと言えたでしょう。
しかもこのモルガン姫、国一番の器量よしでしたので、誰もがその美しさの前には平伏さずにはいられなかったのです。どうにかしてこのお姫さまの関心を惹こうと、誰もが周囲で常に競っていましたし、彼女が年ごろの娘に成長した時――それは危険な凶器のようなものであるようにさえ、よく目の見えるものには感じられたに違いありません。
国王もお妃さまも、随分お年を召してからのお子さまでしたので、ふたりともなるべく早く姫には結婚してもらい、安心したいといったように考えていました。ようするに、この場合は婿取りということですが、モルガン姫の愛を得るために、第一回目の馬上槍試合が開かれるということになったのです。とはいえ、この時姫はある条件を付けていました。優勝しても、自分が気に入られなければ結婚は出来ないということ、また、準優勝やそれ以下の者であっても、自分がその者のことを気に入れば、その者に彼女の手で王冠を授けることを、などです。
さて、これで何故この馬上槍試合の頭に第一回目とついたのか、おわかりいただけたでしょうか。もっともその頃、モルガン姫はまだ十三歳でしたから、結婚するにはまだ早いとして、周囲の人々も無理強いまではしませんでした。こうして、第二回目の馬上槍試合、第三回目の馬上槍試合と開催され……モルガン姫が二十歳にもなろうという頃、馬上試合は第七回目ということになっていました。けれど、姫は優勝した騎士のうちの誰の手も取りませんでしたし、準優勝やそれ以下の者になど、最初から目もくれないといったような始末だったのです。
ところで、国王さまが憂慮されていたことがありました。というのも、馬上槍試合のほうは真剣勝負でしたので、時に槍によって急所を突かれ落馬後に死亡する者など、国が誇りとする優秀な騎士たちが、第七回目を迎えようとする頃には四十九人ばかりにも膨れ上がっていたのです。国王さまは今この時に至るまで、可愛いひとり娘のことを叱ったことは一度もありませんでしたが、隣国が戦争の準備をしていると伝え聞くと、その次の年の馬上槍試合は中止する、ということにしました。
「可愛いモルガンや。結局のところこのル・フェイ王国にはおまえの気に入る男なぞ存在しないのだろうよ。にも関わらず、これ以上この国の貴重な戦力を失うわけにはゆかん。もしおまえに結婚する気がないのなら、王冠は従兄弟のエル・シャダイのものとしよう。わしも母上ももう年じゃからな。これ以上はとても待てぬ」
「従兄弟のエル・シャダイのものですって?そんなこと、とんでもないわ、お父さま!わたくし、お父さまが亡くなったら、喜んでこの国を継いで女王になります。何故ですの?男しか王になってはいけないだなんて、そんな話、ちゃんちゃらおかしくって笑っちゃう」
この時、モルガン姫がさもおかしそうに「ぷーっ、くくくっ」とお腹を抱えて笑いだしたので、いつもは気も長くお優しいお父さまもついカッと頭に血が上りました。いいえ、それだけではありません。あれほど可愛がり手塩にかけて育てた娘の頬を、バシッ!!と生まれて初めて叩いていたのです。
「女が一国の王になるだと!?馬鹿も休み休み言えっ!!もしおまえがそんな聞き分けのない、愚かなことを言うのであれば……そうだ、これだけは決してすまいと思っていたが、我が国へ戦争を企てているというカルヴァリー王国にでも嫁ぐのだな。そして、この国はおまえの従兄弟のエル・シャダイが継ぐのじゃ。そうじゃ……よく考えれば、初めからこうしておったら良かったのじゃ。せめても自分の直系の者に、などと拘ったりせずに。さすれば、自分の父が死ぬのを待っていたなどという、ひどい親不孝な言葉をわしも聞かずに済んだことじゃろう」
生まれて初めて父親から叱られ、モルガン姫はどうしたら良いかわからなかったのでしょう。彼女は母親であるお妃さまに縋りましたが、お母さまはこの時も「お父さまのおっしゃるとおりです」としか言ってくださらなかったのです。というのも、お母さまもまたお優しい方で、怒っているところを一度も見たことのないような方でしたが、いつでもなんでも「国王であるお父さまのおっしゃるとおりです」と、まるで毎回決まった場所に判でも押すように言うばかりの人だったからなのです。
(お母さまには自分の意見ってものがないのかしら……結婚することを拒んでさえいれば、きっとそのうち『そうじゃな。よく考えればモルガンよ、おまえが女王になるのが一番じゃった。何故そのことにもっと早くに我らは気づかなかったのであろう』と言ってもらえるに違いないと思っていたのに……)
こうして、父親と母親に初めて反抗心を持ったモルガン姫は、家出――それとも城出でしょうか――をすることにしました。年老いた両親に心配をかける、良くない選択であることは彼女自身よくわかっていましたが、従兄弟のエル・シャダイが国を継いで王になるのであれば、すでに自分は用済みだとも思っていました。
モルガン姫は城を出て、当てもなく旅をはじめたのですが、憂鬱なのは最初のうちだけで、そのうちだんだん貴族としての習慣から完全に解放された自由を味わいはじめました。彼女は男のような成りをして、顔のほうも泥で汚したりしていましたから、汚い言葉を使って勇ましい態度を取っていれば、男のように見えなくもなかったのです。
とはいえ、両親のお膝元の城下町にずっといたのでは、いずれ連れ戻されてしまうでしょう。そこで、モルガン姫は三日ののちには商人の出入りに紛れ、城砦の外へ出ました。カルヴァリー王国のある方角へは当然向かえませんし、かといって従兄弟のエル・シャダイが治める領地へ向かうというのも、なんだか癪に障ります。そこで、新天地を求めて――進路を北へ取るということにしました。とにかく、道があるということは、その先には町があったり村があったりするものだろうと、そんなふうに思っていましたから。
ですがこの時、モルガン姫は知りませんでした。実は、彼女のお父さまとお母さまは子供が欲しいがために、死霊の王と取引をしていたのです。もし生まれたのが王子でも王女でも、その子が結婚した時、その第一子は必ず失われる、という約束を……また、もしその王子なり王女なりが結婚もせず、子も儲けずにいた場合、必ずその王子や王女自身に災いが降りかかるという、それはそうした契約でした。
何故愚かにもそのような取引をしたのかと、きっと誰もがそのように思うことでしょう。けれども、人というのは自分の願うことはいつでも正しいものだと信じがちなものですし、初孫が必ず死ぬと聞かされても――その前に子供が欲しいと願う夫婦にとっては、それは将来本当に起きることなのだろうかと、なんとなく疑わしいようにすら感じられることだったのです。
モルガン姫がいなくなったと聞き、国王さまもお妃さまも、この死霊の王との取引のことがありましたから、半狂乱になって国中を探させようとしました。けれども、モルガン姫はこうした探索の手を逃れ、遠く……この世ではない死霊の国へと次第に足を踏み入れようとしていました。また、モルガン姫がルフェリス城を出た時点で、すでに呪いは始まっていたのです。モルガン姫がいなくなったと聞いた時点で、お妃さまは卒倒されており、そのまま病いにかかってお亡くなりになってしまったのですし、お妃さまの気も狂ったような嘆きようがそのまま乗り移ったように国王さまも頭がおかしくなってしまわれました。そして国王さまはその後、お妃さまのあとを追うように、老衰によって亡くなられていたのです。
自分がどんな親不孝をしたかも知らずに、モルガン姫は災いの待っている道をどんどん真っすぐ進んでゆきました。最初は緑豊かな麦畑の広がる農地だったのに、次第次第に牧草地だった場所は緑の樹木もまばらになってゆき、そのうちペンペン草ひとつ生えぬ荒れ地へと変わってゆきました。やがてあたりは暗くなってゆき、モルガン姫は不安になって来ました。優しく温かいお父さまとお母さまの顔が浮かび、この時初めて(帰ろうかな……)と思ったモルガン姫ですが、今から帰るにしても、とりあえず一晩くらいは野宿する必要があったに違いありません。
モルガン姫は荒れ地に吹く冷たい風にぴゅうと吹かれただけで、もうそれ以上道を進む気にはなれませんでした。そこで、少しばかり引き返し、大きなオークの樹があったところまで戻ってくると、そこで一晩休むことにしました。踵に靴擦れが出来るほど歩いたことなど生まれて初めてでしたから、モルガン姫はあっという間に眠りに落ちてゆきました。
ところが真夜中のことです。どこか林の奥のほうから、誰かがしくしく泣くような声が聞こえてきます。モルガン姫は驚いて、鳴き声のするほうに「一体誰なの!?」と震え声で呼びかけました。というのも、明かりのない森の真夜中というのは、それはもう言葉では尽くせぬほど不気味なものだからです。
「しくしく……悲しい。もう誰も、私のことなど必要としてくれないことが……身も世もなくこんなにも悲しいのです」
「まあ、何を言うの。おまえがどこの誰かは知らないけれど、誰も必要としないなんてこと、決してあるものですか。そうだわ!おまえ、わたしが必要としてあげるから、こっちへいらっしゃい」
「そうですか。ありがとうございます……」
若い男は手にランタンを持っておりましたので、モルガン姫としてもほっとしました。男はなかなか身なりのほうも良いようで、そこらの農夫といったわけでもなさそうです。
ですが、モルガン姫がいくら悲しみの理由をさらに深く聞こうとしても、男は答えようとしませんでした。それでも、名前を聞くとセヴァン・パーティントンと答えましたが、モルガン姫はその名前を初めて聞いたような顔をしたという、それだけでした。彼は第一回馬上槍試合の時、準決勝戦で命を落とした騎士だったのですが、彼女はその名前すら覚えてはいなかったのです。
とにかく、男がしつけの行き届いた無礼でない青年であることがわかると、モルガン姫はセヴァンに自分を守る騎士としての任務を与えました。こうして、彼に守られつつ生まれ故郷のルフェリス城まで戻ろうとしたモルガン姫でしたが、翌日も、その翌日もおかしなことには目的地に一向辿り着く気配がありません。ただ、夜になるとしくしくと泣く誰かの声が聞こえ、訊ねてみると「自分の家に帰れないのが悲しい」とか、「道に迷ってしまってもう帰れないのが悲しい」とか、そんなことしか言わないのです。
彼らもまた、それぞれ自分の名を名乗り、それぞれ第三回目や第六回目の馬上槍試合のどこかで敗れた騎士だったのですが、モルガン姫は彼らが自分のために戦うところも、急所に槍を受け、落馬して命を落とすところも見ていたはずなのに――名前を聞いても全然ピンと来ていない様子でした。
とはいえ、どんなに道を歩いても、彼女自身城のほうへ辿り着けなかったのですから、彼らと同じ不幸の渦中に自分も巻き込まれてしまったことに、モルガン姫はようやく気づいたというわけなのです。
そんなふうにして五十日目を迎えると、騎士の数は四十九名にも上っていました。そして五十日目の夜――それまで従順にかしずいていた騎士たちが、とうとうその正体を現しはじめました。その日、モルガン姫の故郷の城ではありませんでしたが、別の古城が遠くに見えたので、彼女たちはそちらへ向かうことにしました。騎士たちは狩猟が上手でしたし、その他木の実やキノコなど、必ずどこかから食料を調達してきてくれるので、モルガン姫は食べ物に困ることはなかったのです。
けれども、その古城で過ごした夜のことです。夢の中に死霊の王が現れたかと思うと、国王やお妃と自分がどんな約束をしたかを彼は告げました。死霊の王はこの時嘘をついて、生まれた娘がもし結婚しなかった場合、必ず自分の花嫁にするという約束をした……と、そのようにモルガン姫に絶望的な宣告をしていたのです。
死霊の王はなんとも恐ろしい顔をしており、こんな怪物と結婚だなんてとんでもないとしかモルガン姫には思えませんでした。けれども、この翌日には四十九人の死霊の騎士たちに囲まれ、モルガン姫はこの死霊の王と結婚式を挙げることになってしまったのです。しかも、その婚礼の席は招待客が化け物ばかりの、身の毛がよだつばかりのもので――テーブルに居並ぶ死霊の騎士の姿を見て、初めてモルガン姫はハッとしたのでした。この、馬上槍試合で命を落とした、勇敢な騎士たちのひとりを選んで結婚さえしていれば……きっと今ごろ自分はこんな思いをせずに済んだのだろう、ということに。
その日以降、モルガン姫は毎日泣いて暮らしました。けれども、どんなに嘆き悲しみ、自分のした過去の選択を後悔しても、もうどうにもなりません。この昔話の広く伝わる地方一帯では、こう言い伝えられています。夜中に幽霊のすすり泣く声を聴いても、決して耳を傾けてはいけないと……何故ならそれは、あなたの魂を死霊の国へ導く道案内で、悲しみと後悔のモルガン姫の家来にされたが最後、もう二度と帰っては来れないだろうから、と。
>>続く。