第19章
ハムレット王子の軍はその後、クロリエンス州の州都グロリアスに向けて進軍していった。フローリエンス侯爵の居城であったグロリア城もまたすでに民兵らに占拠されており、この城下町も城へ向かう大きな通りに、民たちのシャツやフリル付きブラウスなど、たくさんの衣服が何かの目印のように道いっぱいに敷き詰められていたものである。
ハムレット軍は、城砦都市ロディスやクレノール、城郭都市ライエンスティンヴァッハなど、他にいくつもの都市や町や村を経由して州都グロリアスへ到達していた。内苑州の、特にクロリエンス州内へ足を踏み入れた時からわかっていたことではあるが、内苑州が何故<緑の心臓>(グリューネヴァルト)と呼ばれるのか、その時ほど彼らにしみじみ感じられたことはなかったに違いない。
特に砂漠三州の出身者で、自分の州から出たことのない兵士などは、どこもかしこも緑輝く肥沃な大地ばかりなので羨望の念さえ彼らの間には沸き起こったことだろう。どの城砦都市も城郭都市も……周囲を緑に覆われていないようなところはひとつもなく、樹木が健全に育つため、間引きした樹木による材木だけでも毎年結構な量になったものである(またこれが、内苑州の人々が重税を搾り取られながらも、唯一家屋だけは立派だったことの理由でもある)。
グロリア城もまた、小高い丘の上に城下町を睥睨するような形で建てられていたから、背後にあるクドゥロリン山を覆う緑は、その周囲の森へと鬱蒼と続いていったものである。そしてこの、オレンジに近い茶色の壁に紺色の屋根を持つグロリア城もまた周囲をふんだんな緑に囲まれており、城下町にしてもそこここに緑が自然な形で配され、街の広場も公園も緑の木陰で満ち満ちていた。三角屋根の尖塔を五十四も持つグロリア城は、いかにも代々の貴族が贅を凝らしたといった風情であり、巨大すぎて一日では端から端まですべて見尽くすことが困難なほどの広大さを有していたものである。
ここへ来るまでの過程において、城砦都市においてはどこも、貴族の虐殺やフローリエンス侯爵の差し向けた軍の兵士への殺戮行為など、凄惨な状況はどこも同じであったことから……その当のフローレンス・フローリエンス侯爵のいるそのお膝元の城下町などでは、その最上級のもっとも酷い惨状を目にするものと、ハムレットたちは覚悟していたようなところがある。
だが、実際にはむしろその逆であった。城下町の通りの道のどこにも死体などはなく、街の人々は比較的静かにひっそりといつも通りの日常を送っていたのである。唯一、グロリア城へ至るまでの最短の道に衣服が敷かれているという以外では――ハムレット王子がどのような方かなどと、家の鴨居の下まで出てくるような者も少なく、建物の二階部分に住む女たちはベランダからしきりと花びらをまき散らして王子軍を祝福はしたが、彼女たちにしても騎士らが顔を上げてそちらへ視線を送ったりすると、すぐにも窓の内側へ引っ込んでしまうのだった。
「タイス、カドール」と、ハムレットは、後ろの頼りになる自分の参謀ふたりに声をかけた。「フローリエンス侯爵というのはどのような人物なのだ?もしや民に人気があって、彼への申し訳なさから、あまり大っぴらに我々の軍を歓迎出来ないといった理由でもあるのだろうか?」
「もともと、あまり人気のある方ではないですね」と、カドールが肩を竦めて言う。「ただ、ご自身の住む城下町と、周辺にある極僅かばかりの町からはそこまで重く税を取り立てはしなかったようですよ。ですから、城下町の人々はそうした意味で税のことでは侯爵を恨んではいないはずです。ただ、色好みの方として有名で、この城下町だけでもフローリエンス侯爵の庶子というのは軽く百名以上はいるだろうという噂があるという、そんな方ですね」
「グロリア城からライエンスティンヴァッハへやって来た使者の話によると……」と、タイス。「フローリエンス侯爵が殺害されたのは、ここ、州都グロリアスに駐屯している軍隊のクーデターがきっかけだったとか。もともと内苑州の貴族というのは私腹を肥やすことしか頭にないということで、王都のクローディアス王の睨む目と後ろ盾がなかったとすれば、仕えるほどの価値なしとする臣下というのは数多かったということなのではないでしょうか。軍の元帥であるデヴォン=デュ=ヴォロニアック卿という方は、準男爵で、民の人望のほうも厚かったようですね。そこで、軍隊に先導された民兵たちがフローリエンス侯爵の首を取ったまでは良かったが、ハムレット王子がそのことをどう考えるか、そのことを探るのに部下を寄こしたということなんだと思いますよ」
ライエンスティンヴァッハにて、ヴォロニアック卿の遣わした使節団の兵士たちに彼らが話を聞いたところによると、大体次のようなことだったのである。クロリエンス州の宮廷においては、実は意見のほうが真っ二つに割れていたらしい。バロン城塞陥落の報を聞き、ハムレット王子軍に味方したほうがこれからの時代は得策だと踏んだ者たちが半数、いや、クローディアス王のペンドラゴン王朝に叛旗を翻すなどとんでもないという強硬な意志を曲げない家臣らが半数……だが、ヴォロニアック卿はハムレット王子こそ神に選ばれた王であると信じていた。そこで、自分と志を同じくする者たちと共に立ち上がるとフローレンス・フローリエンス伯爵を討つことに決め、その家族や一族の者たちは牢獄のほうへ幽閉したわけである。
「まあ、確かに……自分の主君を討つ者であれば、オレの首を狙いかねないとして、時と場合によってはそれが排斥する理由にもなるということか?だが、ここの城下町の様子を見ていればわかる。その、デヴォン=デュ=ヴォロニアック卿というのは、おそらくとても立派な人物なのだろうということがな」
ヴォロ二アック卿の使節団の言葉や恐縮しきった礼儀正しい態度、それに城下町の雰囲気から――ハムレットはほとんど確信していた。どうやらそのヴォロニアック卿というのは信頼するに足る人物なのだろう、ということを……。
とはいえ、噂で聞くだけであって、実際には内苑州に一度も来たことのないハムレットにとって、一番最初に感じたのが『百聞は一見に如かず』ということであったように、そのデヴォン=デュ=ヴォロニアック準男爵についても、直に会って話してみるまでは用心が必要とは思っていたわけである。
だが、グロリアス城砦及びグロリア城がヴォロニアック元帥の手により要衝をしっかり押さえられていたように、ハムレット軍が坂道を上りグロリア城へ近付いていくにつれ――道の左右は兵士たちが居並ぶようになり、それがすでに左右に開かれた門の前まで続いているということがわかってきた。しかもその兵士らは、ラッパやクラリオンや太鼓など、それぞれ楽器を手にしており、王子を歓迎する曲を奏ではじめたのだ。グロリア城の近郊は貴族の豪邸ばかりが並んでいたが、いまやそこは民衆のために解放されており、そこには着飾った人々がぎゅう詰めのようになっていた(つまりはこれが城下町が静かだった理由なのである)。
そして、この民衆たちは叫んだ。「神さまに威光と畏敬を!!ハムレット王子に栄光を!!」と……こうして祝福のうちにハムレットたちは進軍してゆき、グロリア城にはフローリエンス侯爵が自慢にしていた大厩舎があったから、騎士たちの軍馬はすべてそこに入り十分に世話をしてもらえる準備まで、すでにすっかり整っていたのである。
ハムレット王子をグロリア城の前にある広場にて出迎えたのはデヴォン=デュ=ヴォロニアック卿その人であった。彼は白髪頭の老獪な紳士といった容貌の男であり、今すぐにでも軍馬に跨り出撃できるとでもいうように、全身を甲冑の正装によって固めていた。
「ハムレット王子、今ここグロリア城は召使いが残っている以外では完全に無人でございます。元の城主であるフローレンス=フローリエンス侯爵のことは、軍に先導された民兵たちが討ち取りました。ですが、その咎めについては私ひとりの頭に帰すとして、他の部下や民たちについてはなんの罪もなしとしてお赦しいただきたいのでございます。どうか、何卒……」
ヴォロニアック卿がハムレットの足許に跪くと、彼もまたこの準男爵の元帥の前に跪き、その手を取った。
「何を言うか、ヴォロニアック卿。我々は顔を合わせるのは今が初めてでも、すでに旧知の仲にも等しい。なんでも御使者の話によれば、そなたが『ハムレット王子に降伏する意志を示すのに、その気持ちのある者はその通り道に衣服を敷け』とお命じになったとか……何より、その機略に感服致す。そのお陰で我ら一同、妙に疑心暗鬼に陥ることもなく、ここまで安心してやって来れたのだ。元帥殿には感謝と礼の気持ちしかない。今は王都テセウスへと先を急がねばならぬが、のちの褒美についてはいくらでも申される通りのものを渡す所存であることを、これから先ずっと覚えておいていただきたい」
「ははっ。まったく、この星神・星母さまの御目から見れば、砂粒程度の価値なき我に、そのようなもったいないお言葉……このヴォロニアック、老い先短い身なれども今のハムレット王の有難いお言葉、墓に入るまで忘れることは決してありますまい。元より、褒美はすでにいただきましてございます。今こうして、次の素晴らしい時代を築く王のお姿をこの目で見、お声を聞けただけで――このヴォロニアック、あとはもうただ安心して死んでゆけまする」
「何を言うか、デヴォン殿」と、ここでハムレットは優雅に優しく笑った。「そなたのような忠実な廷臣、このハムレット、いくら宝を積もうと簡単に得られると思うほど愚かではないつもりだぞ。とにかく、これからもここクロリエンス州にて兵を束ね、是非とも軍の采配を振るってくれ。よろしく頼む」
こうしてクロリエンス州においては、貴族対民衆の深刻な対立は徐々に緩和され、収束する方向へと向かっていった。とはいえ、城砦都市ロディスやクレノール、城郭都市ライエンスティンヴァッハなど、その他多くの町々で――殺戮と略奪、暴力と強姦に味をしめた悪辣な連中も多数残っており、これらの者たちの中にはハムレット軍についてさえいけば戦争のどさくさに紛れ、さらなる虐殺の快楽と他人から奪う略奪の愉悦に溺れることが出来ると考えたのだろう、軍の最後尾にこっそりついて来る者たちがたくさんいた。
だが、そんな旨味には今後そう簡単に与れないと気づき、途中で自分の町や村へ帰っていった者もあれば、そんな旨味に与れる機会を窺いつつ、ハムレット王子の軍が今後どんな快進撃を続けるのかと、半ば物見遊山的な気持ちでさらについて来ようとする者もあり……さらには、王子軍が彼らのことを気遣って食糧など十分分け与えてくれたことから、涙を流してすっかり改心し「ハムレット王子のためならいつでも命を投げだす覚悟だ」とばかり、その者たちはその後も最後尾にくっついて来た。そして、元の自分たちと同じ目的でやって来る者たちに彼らは説教を垂れはじめたので、時にそちらでは激しい口論や喧嘩に発展することさえあったようである。
クロリエンス州については、ハムレットはタイスやカドールといった側近、それにロットバルト伯爵やメレアガンス子爵、それに各騎士団の団長や副団長など、みなで協議した結果、今後はデヴォン=デュ=ヴォロニアック卿に領主として治めてもらうのが一番良いのではないかということでまとまったのだが、元帥がこのことを辞退したため――ヴォロニアック卿も含めて再協議した結果、ハムレットが王座を確立するまでの間という限定付きで、ローレンツ=ローゼンクランツ公爵がヴォロニアック卿を副官という形にすることで、暫しこのクロリエンス州の領主として就任することになったのである。
一応このことには理由や由来があり、遡っていえば、ローゼンクランツ公爵の先祖は今はクロリエンス州と呼ばれるこのあたり一帯を治めていたところを、時の王に追放の身とされていたのである。とはいえ、公爵には跡取り息子もないことから、この戦争が終わり次第砂漠の自分の領地へ戻り、こちらへ誰か自分に連なる者を名代として残すつもりもないことを、最初にはっきり明言していた。
ローゼンクランツ公爵がクロリエンス州の州民たちにそう明言したのは、辞退したとはいえ、ヴォロニアック卿こそがフローリエンス侯爵ののち、ここグロリア城の城主となるにもっとも相応しい人物であると感じたからであった。また何よりこの、準男爵である男の謙遜な態度と神に対する信仰深さに胸打たれ、深い感銘を受けたということもそこにはあったに違いない。
こうして、クロリエンス州には仮の領主としてギネビアの父、ローゼンクランツ公爵が残り、ローゼンクランツ騎士団の、ランスロットの父であるカーライル=ヴァン=ヴェンウィック騎士団長、他に彼の片腕であるクレティアンやパーシヴァルなど騎士団のうち半数の者と手兵の半数を残し、他のローゼンクランツ軍の者たちはランスロットに率いられ、さらに王都テセウスを目指して進軍するということになった。
ライオネス・ローゼンクランツ・ギルデンスターンの砂漠の三州が合流したということは、すなわちトリスタン・ライオネルがライオネス騎士団、それに一万五千の兵を率いてきたということであり、外苑州の一番遠い国と言われるギルデンスターンからは、領主であるキルデスが、キリオンの弟であるエリオンと共にこちらも一万五千の兵士を率いやって来たことを意味していた。
王都テセウスまでは、まだ長い行軍が続くとしても――バリン州に続き、ここクロリエンス州においても無事ある程度統治の見通しがついたことから、州民たちの歓迎と歓待もあり、ハムレットたちのみならず、兵たちも一旦少しばかり気を緩めて休むということが出来ていたようである。
グロリア城は部屋数が軽く三百余を越えていたのみならず、今まで通ってきた他の城砦都市や城郭都市などと違い民衆たちの略奪の対象ともなっておらず、すべてにおいて贅を凝らした装飾、家具や調度品類なども無事であったことから……ハムレットはなるべく多くの騎士らがそこで休むことが出来るようにさせ、中庭いっぱいに天幕を張り、そこで兵士らには寝起きしてもらうことにしていた。グロリア城砦の周辺にも、そのような形で休息するのにちょうどいい野原があり、たくさんの人々がそこへやって来て、料理など、兵士のために色々と世話を焼いてくれたものである。
トリスタンとの心嬉しい再会、ローゼンクランツ公爵の娘ギネビアに対する雷、ギルデンスターン親子の喜びと涙の抱擁……といったことは、バロン城塞攻略前にあったことであるが、みなは再びこうして顔を合わせると、祝祭ムードの中、次の進軍開始のラッパが鳴り響くその瞬間まで寛いで過ごすことが出来たのである。
とはいえ無論、軍事会議のほうは連日開かれ、ヴォロニアック卿によってもたらされた新しい情報は、どれもハムレット軍にとって重要なものばかりだったことは言うまでもない。デヴォンはクローディアス王よりフローリエンス侯爵宛てに届いた親書の内容についても知っていたし、その親書を届けた王都よりの使者が、ハムレット王子のペンドラゴン王家の血を引いているとの信憑性を失わせるようにと言い残していったことも知っていた。だが、彼はあえてその点には触れず、他の内苑州の残りふたりの公爵や、ラングロフト州のラグラン=ド=ラングドック侯爵、レティシア州のマドゥール・ド・レティシア侯爵のこと、それぞれの州の地理やその州民性についてなど、デヴォンは自分の知りうることをすべて教えてくれていたのである。
「これはローゼンクランツ公爵のみならず、ギルデンスターン侯爵やライオネス伯爵、ロットバルト伯爵、メレアガンス子爵も、当然ご存じのこととは思うのですが、アグラヴェイン公爵とモルドレッド公爵はクローディアス王とは幼なじみの親友といった関係性であることから……このふたりの公爵の連合軍を打ち破り、王都テセウスへと至るのがもっとも困難な道と思われます。とはいえ、今はまずラングロフト侯爵とレティシア侯爵の軍をどうすべきかを考えるのが先決とは思いますが、実はフローリエンス侯爵の元へは、ラングロフト侯爵の軍と力を合わせてハムレットさまの軍を打ち破るようにとのクローディアス王からの親書が届いていたのです。ゆえに、ラングロフト侯爵の元へも当然同じものが届いているはずですし、アグラヴェイン公爵もモルドレッド公爵もすでに軍備を整え、その戦いに兵士を投入する機会を窺っているといった状況なのはまず間違いございますまい」
「その中で、レティシア侯爵の軍はどうしたのだ?」
地理的に言って、同じ内苑州に位置しているとはいえ、王都テセウスへ至るには、すべての州を通らなければならないというわけではない。今のところは最短距離としてのルートを行軍していくつもりではあるが、言うまでもなく事情によっては遠回りすることになるのは間違いない。とはいえ、レティシア州というのはいくら遠回りすることになったにせよ、一番通る可能性の低い場所に位置していたのである。
「僭越ながら、王子に閣下」と、ごほん、と一度咳払いしてからホットスパーは挙手して言った。閣下というのは今の場合、ヴォロニアック卿のことである。「レティシア州には、ボウルズ卿の一族の者たちが逃れて身を寄せています。それというのも、サミュエル・ボウルズ伯爵の今は亡き奥方さまがレティシア侯爵家のご出身だったからでありまして、おそらくこちらから使者を遣わしボウルズ伯のふたりのご子息から重ねて説得してもらえば、レティシア州の軍とは交戦せずに済むどころか、味方としてラングロフト軍の横腹をついてくれましょう」
「素晴らしい!!」と、ヴォロニアックは感嘆の眼差しでガラハッド・カログリナント卿のほうを見た。彼らはテーブルの上に内苑州の地図を広げ、主だった者がそれを囲うようにして座し、近くのテーブルに副官らがいて会議に参加しているという形であった。「実は私も、似たことを考えていたのでございます。レティシア侯爵家は少々……もともとクローディアス王とは距離がありましたからな。と言いますのも、マドゥールさまはクローディアス王の拷問趣味が理解できず、その~、なんと申しましょうか。口には出さずとも軽蔑しているとでも申しましょうか、そうした態度を滲ませるところのある高潔なお方でして。今回、フローリエンス侯爵やラングロフト侯爵に協力しあってハムレット軍を討てと命じたのと同様に、レティシア侯爵にもそのような強い要請によるお声がけがあったと聞いております。ただ、フローリエンス侯爵がその後レティシア州に援軍の使者を送り、侯亡きのち届いたマドゥール卿のお返事というのがですな……非常に長い慇懃な文面ながら、簡潔に申せば「ちょっと考えさせてもらいたい」、「また、そうした時間が我には必要なり」といった、そのようなものでございまして……もっと申し上げますとな、実は私は……ボウルズ伯爵ではなくレティシア侯爵のほうが、クローディアス王に拷問にかけられる可能性が高いのではないかと以前より内心感じておりました。いえ、こう申し上げるからと言って、決して私はボウルズ伯爵のような高潔な方の魂を汚そうというのではないのです。ただ……」
「わかっておりますとも、デヴォンさま」と、ホットスパーは笑顔で応じた。「マドゥールさまは、こう申し上げてはなんだが、結構な変わり者だからな。あ、俺も誤解のないように先に言っておきたいが、俺は一応侯爵さまとはポールやハルウェルのボウルズ家同様とても親しい間柄なのです。また、彼ならばその性格から言っても、必ずやハムレットさまのお味方となってくれましょう」
「そのマドゥール・ド・レティシア侯爵とはどのようなお方なのですか?」と、タイスが聞いた。内苑州の中に、まさかそのように味方になってくれる領主がひとりでもいるとは思ってもみなかったのである。
「一言でいえば信仰深いと言いますか、ちょっと信心が行き過ぎるあまり、滝に打たれるといった苦行を自分に課してみたりと、そうした点が人の目には変わったように見えるお方やも知れませぬ」と、ホットスパーは肩を竦めて言った。自分で自分を鞭打ち、『我は今、この苦行を神にお捧げした』といったことまでは、彼には到底理解不能なのだった。「とはいえ、このような俺の見方は不敬なものであって、マドゥールさまは信仰深すぎる以外ではまったく善い方と思います。学業的なことにおいても芸術的なことにおいても、その他政治を行うことにおいても、その他の生活すべてを神中心にお考えになるという意味でも立派な方と思うのですが……ただ、たまたま偶然黒い猫が進軍の道を横切り、次にカラスが行軍する兵士の上をギャアギャアと舞い、最後にトドメとばかり、真っ黒な牛を農地で見かけたとなったら――『どうもこの行軍は神に祝福されていない気がする』とお考えになり、戦争へ行くのをおやめになるやも知れませぬ。半分冗談のようにして申し上げましたが、マドゥールさまにはそのような傾向の強いところがありますが、ハムレットさまが星神・星母に選ばれた方だと確信されれば、何があろうと味方として戦場に馳せ参じてくださいましょう」
マドゥール・ド・レティシアは現在二十三歳であったが、今よりさらに若かった頃、王都テセウスにて行われた武術大会にて優勝したこともあるほど勇猛な騎士として知られていたのである。一日のうち政務を司っていない間は、神殿参りをしたり祈祷の間にて祈るなど、そのような暮らしを基本的に送っており……奥方やまだ小さな子供たちとは、父のそうした信仰深さの強制に辟易していたが(とはいえ、そのことを口に出して言ったことまではない)、その欠点(?)を除けば、彼のことを心底愛していたと言えたに違いない。
「わしもまた、僭越ながら申し上げさせていただきますれば」と、ホットスパーの後ろに控えていたフォルスタッフが椅子から立ち上がって言う。「ホットスパーは勘当された身とはいえ、それでも一応貴族の端くれですからな。わしのようなデブの平民がこの場ででしゃばってあれこれ言っていいとはまるで思いません。ですが、レティシア州への使者は、ホットスパー……いえ、ガラハッド・カログリナント卿をおいて、彼以上の適任者は他におりますまい。わしは一身上の理由から王都にて復讐を果たしたき人物がおりますゆえ、見苦しい巨体を揺らしつつ、みなさんの後をついてゆくことをお許しいただきたいが、実は我々レーゾンデートル団の中には、ラングロフト州の州都ラ・ドゥアン、それにアグラヴェイン公爵の治めるアデライール州の州都アディル、モルドレッド公爵の治めるモンテヴェール州の州都モルディラなどに情報収集のための諜報員を何人も送っております。ラ・ドゥアンの使者には、暗号文にて誰かひとりこちらへ来て内情を知らせるようにしたいと考えておりますが、そのためには最低でも数日は要しましょう。とはいえわしが思いますのに、ラングロフト侯爵は南や南東側を我々の軍に、西をレティシア軍に、それから北はアグラヴェイン公爵とモルドレッド公爵の連合軍からのプレッシャーによって押し出されるといった苦しいお立場。ペンドラゴン王家の血筋を引いている由緒正しき公爵家とは、家柄としては劣るラングロフト侯爵家では……クローディアス軍に味方することを決断した場合、公爵ふたりに顎でいいように使われるといったことになりますゆえ、こちらへ味方していただけたほうが、侯爵ご自身のおためとは思うものの、そのような決断をあの優柔不断なラングドックさまが下すことが出来ますものかどうか……」
この時、ホットスパーは実は、他の者にはよくわからぬ事情から、自分の副官であるフォルスタッフのことをキッと睨んでいた。明らかに彼が出すぎた真似をしたといった、そうしたことが理由ではないだろう。ハムレットもタイスもカドールも、他にその場にいた者たちもそう感じたとはいえ、そのことには特段誰も言及しなかった。
ハムレットはホットスパーこと、ガラハッド・カログリナント卿に、彼自身が信頼する護衛の者たちとともにレティシア州へ向かうことを命じ、そこで一旦軍事会議のほうはお開きということになった。最後にみなが大広間から退室しようかという時――彼は最後、フォルスタッフに残るようにと声をかけていた。
フォルスタッフは「このデブめをですか!?」と、自虐的なことを口にしていたが、無論喜んで居残った。ホットスパーはフォルスタッフにすぐにも問いただすことが出来なくなったため、内心「チッ」と舌打ちしていたが、彼は実はフォルスタッフがラ・ドゥアンやアディルやモルディラなどに、レーゾンデートル団の者を諜報員として忍び込ませているなどとは露知らなかったのである。
「それで王子さま、この麻袋に藁を詰めた太ったクズめに、一体どのような御用でございましょうか?」
「そういちいち自分を卑下する必要はないと思うがな」と、ハムレットは微笑って言った。「ただ、ひとつ聞いておきたかったのだ。話したくなければ無論構わぬが、そなたが復讐のために王都へ上るその理由や、おそらくはその復讐のためなのであろうな。各州の州都などに自分の手の者を送り、諜報活動を行わせているのは……そのあたりの事情について、どちらかというと個人的な興味として聞いてみたかったのだ」
大広間には、以前はそこにフローリエンス侯爵が座っていた玉座があったが、今ハムレットはそこに座り、後ろにはタイスとカドールが控えている。「彼らが邪魔ということならば一旦下がってもらうが、そのほうが良いか?」とも聞く。
「いえいえ、今となっては特段ハムレットさまにお隠しするようなことでもまるでなく、タイスさまもカドールさまも王子の腹心の方々なれば、むしろデブの戯言が不快だというのでない限り、聞いていただいてまったく結構でございます。我々はもともとはバリン州においてはレーゾンデートル団と名乗っておりましたが、ラ・ドゥアンでは別の名前で活動しておりますし、それは王都や他の州都などでも同じでしてな……簡単にいえば、復讐とその仕置きのための一団でありまして、腕に覚えのある者たちが、特に貧乏な民の悲しみ、つらさ、苦しみ、悔しさを代弁し、恨みのある者に仕置きをするわけですよ。ホットスパー……いいえ、ガラハッド卿とは、州都バランにてボウルズ卿の恨みを晴らそうという人々と共に知りあいました。とはいえ、ガラハッド殿はわしのそうした顔の一面しか知らぬゆえ、もしかしたら先ほどは少々驚いたやもしれませぬ。まあ、この点についてはあとから彼に説明するとして……」
ここでフォルスタッフは「失礼とは存じまするが、椅子に座っても構いませんかな?」と聞き、ハムレットが「どうぞ座ってくれ」と言うと、彼は特に横幅のある、緑に薔薇柄の布の張られた椅子を選ぶと、「どっこいしょ」と腰かけていた。
「わしゃどうも痛風らしいのですがな、『いや、わしは痛風などではないぞ、断じてな』と一生懸命自分の体に言い聞かして、痛風じゃないってことで頑張っとるんですわ」
「痛風か……それがもし本当ならばつらいことだな。だが大丈夫なのか、フォルスタッフ。そなた……そのような病いを抱えつつ、本当に恨みのある人物に復讐など果たせるのか?」
フォルスタッフは何かというと二言目には自分のことを「デブ」と言い、自虐ネタを披露するのだが、実際の彼はよく見るとなかなか筋肉の引き締まった太目の男といったところであった。
「まあ、いざとなりましたらな、このわしの巨体で相手の男の小さな体の上に覆い被さってひねり潰してやろうと思っとるんですわ。何分、向こうは年の頃はわしと同じとはいえ、体のほうは半分くらいの身長のチビ助だもので、ワイン樽がちょうど小ネズミの上にゴロゴロ転がり、どんなに俊敏に走って逃げようとも最後には坂道の下でぺしゃんこになるという具合に……まあもしわしが万一痛風でも、そんなやり方であいつのことを必ずぺしゃんこにしてやろうと思うとります。それも、仮にこの命と引き換えにすることになったとしても絶対にです」
「その恨みのある人物とは、どのような男なのだ?して、そなたのような愉快な人物にそれほど深い恨みを買うとは、その男はどのようなことをしたのであろうな?」
「ええ、それはもう語るも涙、聞くも涙の物語でしてな……」と、フォルスタッフは深く嘆息して続けた。「その頃、わしは太ってはいましたが、今ほどのデブということもなく、若かったからまだ痛風にもなっておりませんでした……なんにしても、今はこんな頭に白いものが混じりつつあるとはいえ、こんなわしにもまだ夢や希望を抱く若かりし頃というのがあったのですよ。それを、あのイアーゴー・ベンティクルスという男がすべてぶち壊してくれたというわけなのです……」
ここで、ハムレットの左隣にいたカドールが、ハッと息を飲む気配をタイスとハムレットは感じた。
「それはもしや王都テセウスにて、現在収税吏を束ねる収税長官の位にある、あのイアーゴー・ベンティクルスのことか?」
「ええ、左様でございます。きゃつめの悪名はどうやら、遠く砂漠の三州にまで知れ渡っていると見えますな……イアーゴーは、元財務長官で、現在は国務大臣の地位にあるケイ・ルアーゴにゴマをゴリゴリゴリゴリ、グォリグォリグォリグォリと音高らかにすり潰しまくって今の地位を得たわけですよ。まあ、わしのことなどはおそらく、自分が出世するための踏み台くらいにしか考えておらなかったことでしょう。わしは王都テセウスにて代々馬具職人をしておる家系に生まれましてな、パトリス・シュトラウスの家といえば、王家御用足しのみならず、この国一番の馬具職人として有名だったくらいです。イアーゴーの奴はそもそも平民であって、わしの父に弟子入りしてきた、その頃は本当にただの小男でした。きゃつめはその時まだ十四とかそのくらいでしたかな……ベンティクルス家は父親が酒飲みで、よくある話ですが、母親が色々な仕事を……なんと申しましょうか、男と添い寝することまでして、六人いる子供たちを育てておりました。今もよく覚えております……きゃつが、母のそうした職業のことを当てこすられたり、ちょっとでも揶揄されると小さい体ながら真っ赤になってキリキリ相手に挑んでいった時のことを……」
ハムレットはフォルスタッフの話をきちんと聞いていたが、それと同時、カドールに「そのイアーゴーとはいかなる人物なのだ?」と小声で聞いていた。「非常に評判の悪い、嫌な人物と聞いております」と彼は答えた。「そもそも今のように、州全体に年々重い税がかけられるようになったのも、このイアーゴーと元財務長官のケイ・ルアーゴが元凶であるとの噂があるほどです」
「わしはその頃……最初の第一印象としては、イアーゴーに対して『なんかやな感じ』とは、確かに思うことには思いましたわな。ですが、手先のほうもぶきっちょで、兄弟子たちからいいように顎で使われておるのを見ると……『なんか可哀想だな』なんて、つい同情してしまいまして。そのですな、王子さま。わしはこの世界には二種類のデブがいると思うておるのです。ひとつ目は、ただ太ってるだけのなんか不愉快なデブ、ふたつ目は太ってはおるけれども、さほど不愉快でもなく、人からもそこそこ好かれるデブの二種類に……そいで、わしは意外に思われるかもしれませんが、その頃はまあ『そこそこ悪くもない、人から好かれるデブ』といったところでしてな。特段太ってることで馬鹿にされるでもなく、学校などでも愉快なデブとして友達もたくさんおりました。また、同じ年ごろの子よりずっと体が大きかったもんで、弱い者いじめをする奴がいた日には痛めつけてやったり……で、わしはつい、よせばいいのにイアーゴーの奴のことも庇ってやっちまったのですよ。まあ、となると一応、言葉だけでもせめてお礼を言わねばなりませんわな。今にして思うと、奴は顔では媚びへつらってわしに『いつもありがとう』なんて言いながらも、腹の中は違ったのでしょうな。『こんなデブに何故自分が庇われたり、下に見られたりせねばならんのだ』と小ネズミなりにプライドを高く持っておったのでしょうし、それは他の連中に対してもそうだったのでしょう。『いつかおまえらのこと全員見返してやるから見てろよ!!』と、執念深く思っておったのでしょうな……」
「そのイアーゴーという男、そのような平民の身から、一体どのようにして今の収税長官の地位にまで成り上がったのだ?」
タイスが、そのように疑問を呈した。フォルスタッフの身の上話が長くなりそうだと思ったからではない。ただ、ハムレット同様彼もまた、個人的な興味に駆られてそんなふうに聞いたのだった。
「簡単に約めていえば……奴の五人いる兄弟姉妹のうちすぐ下の妹がですな、貴族のお坊ちゃまに見初められて結婚することになったんですわな。これで平民のベンティクルス家にもちょいと良い風が吹き始めたといったところでして、飲んだくれの親父は金の都合をしてもらってさらに飲んだくれるといったこともなく、娘にとって恥かしくない父親になろうと突然決意して真人間になったのですわい。その他、上の兄貴にはちょっとした下級官職を世話してやったり、すでに結婚していた姉はパン屋の女房でしたが、王都でもいい場所に小綺麗な店を構えることが出来たといった具合でしてな。母親のほうもあちこちに頭を下げて洗濯をしたり繕いものをしたり、ましてやもう男と添い寝する必要もなくなって万々歳といったところだったでしょうな。そしてそれはイアーゴーも例外ではなく、奴は妹御の夫殿の腰巾着として気に入られており、そのうち奇妙なことをはじめました。妹御の貴族の旦那殿は、当時の貴族の若い衆の間に実に顔の利くお人だったもので、色んなおパーチーやらなんやら御一緒してついて歩くうち……貴族の若い連中いうもんは、何分頼れる親のセブンライツというのがありますからな。ちょいといい馬を買う手付金だの、博打で大負けして一時的に収監されるだの、いわゆる手許不如意というのでしょうかな。イアーゴーは自分の趣味のためにはひとつも金を使いませなんだが、父親や親戚などから遺産を送られるちょいと手前あたりにいる貴族の若い衆に気前よく金を貸してやったのですわ。こうして小さな形で恩を売っておき、今度は彼らが父親や兄弟が不意に病没するなどして莫大な資産を受け継ぐ時がやって来る……奴はこのあたり、なかなかに狡猾でしたたかな小男だったのですよ。彼らは資産を受け継ぐ前に金なんぞ貸してくれたのはイアーゴーくん、君ひとりきりだったよ――なんてことを覚えておって、やがて国の要職に就いたりした暁には何かの折にご恩返ししてもらったわけですわな。まあ、間違いなくそれが目的であったにも関わらず、「いやあ、そんなつもりで君を助けたのじゃないよ」なんて振りを巧みにしつつ……そんなこんなで十数年後にはかなりのとこ羽振りのいい生活を送っておったわけです。しかもその途中で奴自身もどうやったものか、いいとこの貴族のお嬢さんと結婚したりしておりましてな」
「余計な話をさせたようですまなかった」と、タイスはあやまった。何より、ハムレットはフォルスタッフの復讐の理由を知りたかったというのに、余計な回り道をさせてしまったような気がする。「もともとの最初の話のほうへ戻ってくれ。そのようなイアーゴーという男と因縁が生じることになった理由について、是非俺も知りたい」
ハムレットが「うむ」というように頷いたため、フォルスタッフは深呼吸するように大きく一度息を吸った。彼は小さな頃はベンティクルス家と家族ぐるみといっていいつきあいがあったのだが、それが最終的に立場が逆転してしまったことについて……イアーゴー以外のベンティクルス家の誰を恨むというのでなしに、心境としては今も複雑だったからだ。
「それがもう、なんと申しましょうか」と、フォルスタッフは椅子の肘掛け部分に肘をついて頭を支えるようにし、苦し気に言を継いだ。「父パトリスが弟子たちに厳しかったのは愛情あってのことだったのですが……イアーゴーは当時そんなふうに思ってなかったのでしょうな。クローディアス王の元に長くかかって作った馬具一式を納めるというその日、イアーゴーはそれを釘でズタズタに傷つけ、父のことを破滅させたのですよ。父は、拷問部屋行きを恐れて自殺しました。とはいえ、その前に家財を処分したりしましてな、長男であるわしにこの金で母や姉のことを頼むぞと言って、行方をくらましたのですよ。父の首吊りした死体がフォルトゥナ山から見つかったと聞いたのは、その一月もあとのことでした……不幸はこれだけでは終わりませんでな、わしの姉のイネスは、イアーゴーのことを昔から嫌っておりまして、態度のほうが冷たかったのです。姉は父の弟子のひとりと結婚することが決まっておったのですが、なんと言いますか、まあ男というものはその種の誘惑に弱いものですからな……結婚が決まって婚約中、さらにはウェディングドレスも縫い上がってそれを着るばかりとなった頃、ヨハンの奴(というのが姉の婚約者の名だったのです)、評判の良くない娼婦と浮気してしまいましてな。どうやら酒の席でイアーゴーにそそのかされてのことだったようなのですが、姉のイネスは短気ですぐにカッと頭に血が上るタイプだったので、ヨハンのことを決して許しませんでした……そこをぐっと飲み込んで結婚するよう、母などは泣きながら必死で説得しましたが、無駄でした。母は父が名誉ある職を失い、自殺したことがショックで、その時点で相当弱ってましたが、姉が結婚して父の馬具職人としての技が伝えられていくことを希望していたのですよ。え?わしですかい?いやあ、馬具職人としては、独り立ちしてやってけるくらいの腕は持ってましたがね、ヨハンのほうが職人として優れておったのですよ。ヨハンはその後、その娼婦から悪い病気をもらって死にましたし、その時にイネスに心からの詫びの言葉を口にしていました。『今も愛しているのはイネス、おまえだけだ』と……そのですな、先ほども申し上げましたとおり、姉は頭にカッと血の上りやすいタイプで、一度ひとつのことを思い詰めるととことんまでやるといった情熱に突き動かされる女だったのですよ。簡単に話を短くまとめるとしますと、イアーゴーのことをその手で殺そうとしたのです。その時、イアーゴーもそのまま死ねば良かったのでしょうが、危うく難を逃れましてな。まあ、それでも姉の恨みの刃がぐっさりとその腹には深く突き刺さったというわけでして……姉はその後傷害罪で逮捕され、獄中死しました。わしがあの男のことを一等恨んでおるのは、この姉の裁判のことでやもしれませんな、もしかしたら……どうやったかわかりませんが、うまく裁判官たちに賄賂を贈り、姉のことを特に重い有罪としたのですよ。イアーゴーはこの裁判の席にて、なんともいやらしい被害者面をして現れましてな、姉はそのたびに憤死寸前になっておったものです。それというのも、あいつが姉や婚約者だったヨハンのことで嘘八百並べたからで、自分も誘惑されたが、それを断ったので逆恨みしたのだろうなどと……牢獄のほうはまったく酷い場所でしてな、母は面会に行くたび、泣いておりました。この面会というのも、看守などに賄賂をつかませてようやく会えるといった具合でして、姉のことを無罪にするために八方手を尽くした結果、我が家は破産し、母はその後すっかり心身とも弱りきって衰弱死しました」
あまりの身の上話に、ハムレットもタイスもカドールも言葉を失った。だが、もし自分たちがこのまま王都テセウスまで攻め上った場合――国務大臣ケイ・ルアーゴも、収税長官であるイアーゴー・ベンティクルスも、自動的に失脚するという形にはなるだろう。だが、もしクローディアス軍側の旗色がどうにも悪いとなった場合、自分たちの財産をなるべく多く抱えて彼らは逃亡を図ろうとするだろうか?もし逮捕され、牢獄行きとなったとすれば、やはり待っているのは斬首刑ということにはなろう。ハムレットはクローディアス王の政治顧問官や大臣、廷臣たちについてどうすべきかについてまでは、実は今まであまり具体的に考えてみたことがない。とはいえ、この二名に関してのみは重税の原因となった張本人であることから、そうでもしなければ民衆たちの沸点に達した怒りは決して鎮まるまいとわかってはいたわけである。
「これから、我々が王都テセウスへ向かい、イアーゴー・ベンティクルスを見つけた場合……彼の身柄については、フォルスタッフ、おまえに一任することにしよう。ところでフォルスタッフ、そなたのこの名前は本名なのか?」
「いえ、偽名でございます、ハムレット王子」と、話のほうはこれで大体終わったと思ったのであろうか、フォルスタッフは椅子から「よっこらしょ」と立ち上がると玉座に向かい、恭しく礼をした。「わしの本名は、パトリス・シュトラウス五世と申します。なんとも、このデブの巨体に似つかわしくない名前でしょうが?自分でも、小さな頃から鏡で自分の顔や体つきを見るたび『こいつがほんとにパトリス・シュトラウス五世?』なんて思っておりましたもんですわい。わしの代から遡って五代前の曾々おじいちゃんがパトリス・シュトラウス一世というわけでしてな、その時から王室御用達の馬具職人となって以来、家業を継ぐ者にその名が与えられてきたというわけでして。そのう……王子さま。わしはイアーゴーの奴めに復讐を果たせましたらば、あとの自分の人生のことは今はあまり考えておりません。ですが、もしわしの馬具職人としての腕がそこそこ悪くないと思し召しましたならば、わしの作った馬具を、王子……いえ、その頃には王となっておられましょうな。王さまの馬に使っていただきたく存じますが、いかがでしたでしょうか?」
「もちろんだ。是非ともそうさせてもらいたい、パトリス・シュトラウス五世よ。その頃には王都において、先祖の稼業を継いで店を出すといいのではないか?そして母上殿の望みの通り、弟子を取って父の技を伝えていくことだって出来るに違いない」
「ありがとうございます、ハムレット王」民衆たちがすでに彼を王子と呼ばず、その半数以上が王と呼んでいることに習い、フォルスタッフもまた敬意を込めてそう呼んだ。「是非そのことを励みにこれからも共に戦って参りたく存じます。それでは、ラ・ドゥアンから諜報員が戻り次第、すぐにもそちらの状況についてお伝えしたく思っておりますゆえ……」
フォルスタッフは部屋から出ていく際、最後にもう一度深々と貴族風に礼をしてからドアを閉めていた。それから彼は、おそらくホットスパーが自分を探しているだろうと思い、この友の姿を探した。すると思ったとおり天使や聖人らの彫刻像の並ぶ回廊の、大理石の柱の陰にガラハッド・カログリナントはいた。
実は、ガラハッドのことをホットスパー(熱い拍車)と名付けたのは他でもないフォルスタッフである。バリン州においてはレーゾンデートル団と呼ばれている彼らの秘密結社は、入団者は全員その名を隠し、普段は偽名や通り名で呼ばれているのが普通である(その全員の名前や身上その他を知っているのは一部の幹部のみだった)。入団の儀式の際、彼らは血の復讐のため、互いに協力しあうことを誓いあうのだが、普段であればフォルスタッフはガラハッド・カログリナントのような血の気の多いタイプは用心して仲間にしないようにする傾向が強い。だが、彼のことを仲間にしたのにはある理由があった。
「てめえ、てっきり仲間だとばかり思いきや、単にこの俺のボウルズ卿の恨みを晴らしたい気持ちを利用したっていうそれだけなんだな?そして、勘当された身とはいえ、そのためには俺が一応ロットバルト州の貴族の端くれだってことなんかも、きっとおまえには利用価値があるように映ったってことなんだろ?ええ?」
「友よ」と、フォルスタッフはホットスパーに対し、心から熱く呼びかけた。「わしはおまえみたいな、鍛冶屋の鉄梃みてえに熱い奴が好きなんだ。わしはな……イアーゴーのことは今も到底許せんとは思うとる。だがな、復讐ちゅうもんは、人間の体力や精神力を極限まで削ぐものよ。そして、これからもしわしがイアーゴーの奴めを追い詰め、一等惨めな形で殺してやって、父と母と姉の無念を晴らせたとするわな。わしは、そのことを家族の墓の前で報告する自分を夢見とる……だが『おお、我が一族の無念、これで晴らしてやったぞ』と満足するのと同時――わしはおそらく一緒に、砂でも噛むような虚しい気持ちを味わうに違いないのだ。にも関わらず、復讐をせんことには決してわしの心は休まらん。わしはな、ホットスパーよ。おまえには……おまえにだけは、わしのようにはなって欲しくないとずっと思うとった。それが何故だかわかるか?」
「何故だ?」
自分が聞きたいことの答えになってないとは思ったが、フォルスタッフの目に涙が光っているのを認め、ホットスパーは自分の怒りに水をかけられたような気がした。
「おまえが、わしの姉に似ておるからよ。わしの死んだ姉はな、まあイアーゴーに殺されたにも等しいが、姉はおまえと同じく、まったく真っすぐな瞳をしていたもんじゃ。性格のほうも同じくまったく真っ直ぐじゃったがの。唯一の欠点が、いわゆる癇癪持ちというのか、短気で熱しやすい性格をしておった。そこをイアーゴーにつけ込まれて牢獄へ行くことになったが、法的には貴族が相手であればいざ知らず、あの頃は奴も貧弱な下層階級の一市民にすぎんかったからの。その上、殺したというのでもなく腹を刺しただけであったというのに死罪を言い渡された。わしはな、ホットスパーよ、おまえがいずれ姉と似たようなことになりゃせんかと心配で心配で仕方なかったのだ。もちろん、わしとおまえは友達で、いわゆるツーカーの仲というやつよ。だから、何を言われずともわしにはすでにわかっておる……わしはな、おまえにはボウルズ卿の復讐のことだけ考えて欲しかったのだ。他州の都その他にも諜報員がいて、色々なことを嗅ぎまわっているだのなんだの、そんなことを知ればおまえも気が散るじゃろ?だからわしは、バリン州のレーゾンデートル団のことしかおまえにはあえて知らせなかったのだ」
「…………………」
(そうだったのか)と、ホットスパーは思った。彼も一応、フォルスタッフにはイアーゴーという全精力を生涯に渡って傾けてでも仇を取りたい敵がいるとは知っていた。その男に、父と母と姉を殺されたも同然なのだということも……そして、今となってみれば間抜けな話よ、と彼も思うが、王都を少しばかり嗅ぎまわったくらいで、ヴァイス・ヴァランクスが平民の身からどのようにして男爵に成り上がったかなど、正確な情報がすぐに入ってきた理由についてもよくわかろうというものだった。
こうして、ホットスパーは暖炉に薬缶をかけた時のように熱された自分の怒りが、すぐにも冷めていくのを感じた。フォルスタッフはそうしたすべてについて、自分に対して善かれと思い、あえて情報を制限したのだろうということも、それが正しかったことも、今ではすべて認めることが出来る。
「なあ、ホットスパーよ」
回廊を歩いていき、中庭の見える窓の前で立ち止まると、そこで兵士らが愉快そうに歓談する姿を見、フォルスタッフもまた自然と笑顔になって言った。
「これからレティシア州へ行くのだろう?そしたら、ケイトによろしくな」
「なっ……フォルスタッフ、おまえ何を言ってるっ!!今は愛だの恋だの、そんな戯言をあれこれ言っておる場合ではないぞっ!!」
マドゥール・ド・レティシア侯爵の元へは、ポールとハルウェル、それに彼らの年の離れた妹のケイトが身を寄せている。そしてこのケイト・ボウルズとガラハッドは長く恋愛関係にあるのだった。
「まあ、それはそれ、これはこれということでな」と、フォルスタッフはにやりと不敵に笑った。「わしもな、こんな太ったデブながら、時に女にはモテることがあったもんじゃわい。酒に酔っぱらって、わしのこの見事なバリトン・ボイスで恋の歌でも歌えば、もう一発よ。何分相手も酔うておるからな、わしが昼間よりもずっとスマートに見えたりするんじゃろ。というわけで、復讐だなんだということは忘れ、そうした女のひとりとでも所帯を持って馬具職人としてでも暮らしていこうかと思うたこともある……が、やはり駄目なのじゃ。父と母と姉の無念を晴らさんことには、どうしてもわしは自分の人生というやつを先に進めていけんらしい。だが、ホットスパーよ、おまえはこの惨めなデブの老人を反面教師として、こんなふうになっては絶対にいかん。ハムレット王子……いや、ハムレット王はきっと良い治世を敷きなさることじゃろう。そしておまえもまたこれからの身。どうかおまえの愛するケイトと結婚し、子供を作って末永く幸せになっておくれ」
(わしや姉の分もな……)とフォルスタッフは心の中で思ったが、それは彼個人の思いであるため、口に出しては何も言わなかった。だが、ホットスパーにはこの年上の賢い友の気持ちがこの頃には十分通じていたのである。
「そうだな……だが、人生には万一ということがある」ガラハッドはフォルスタッフと窓辺に並ぶと、兵士たちが肩を並べて輪になり、それぞれの故郷の歌を披露しあうのに耳を傾けた。言うまでもなく、その手にはエールやワインを満たした錫製のジョッキや取手付きのコップが握られている。「俺は、レティシア州の州都レリオスにあるレンドルフ城でケイトに会ったとしたら、もし今回の戦争で俺が死んだら他の男と結婚しろと言っておくつもりなんだ。今までだって会うたびに、『お父さまのために復讐なんてやめて』みたいなことは何度となく言われてはきた。だが、その点では俺もおまえと一緒なのさ、フォルスタッフ。あんな高潔な素晴らしい人が、よくわからない罪状を押し付けられて死んだんだ。しかも普通の死に方じゃない。拷問死だぞ?俺はその瞬間のボウルズ卿のことを思うたび、怒りで頭がカッと熱くなる。そして俺のこの怒りを少しでも冷ますためには、クローディアス王が同じように恥辱の中で断末魔の苦しみを味わいながら死ぬ必要があるんだ……そしてその儀式が済まないことには、俺はどうしても自分の人生というやつを先に進めることは出来んのだ」
この時、フォルスタッフは子を想う父のような、深い悲しみをその瞳に湛えていた。ホットスパーは、今は亡きサミュエル・ボウルズ卿や、今目の前にいる太っちょの老人のほうが実の父よりもよほど深く自分を想ってくれるのは何故なのだろうと考える。一応、彼は父親のガウェインと表面上仲直りはした。というのも、ハムレット王子が間に入り、戦争の前にふたりが和解するところが見たいと言ったからなのだった。誤解のある者同士の和解が、今回の戦争がうまくいく先触れになるだろうから、と……。
そこまで王子に言われてしまっては、ガウェインとしてもそれ以上『自分には息子はもうひとりしかおりませんですわい』という振りは出来なかったのだろう。事実、彼は食堂などでガラハッドのことを見かけても、彼のことが透明人間のようにまったく見えない振りをしていたものである。(こ・の・や・ろ~っ!!)と思ったガラハッドは、同じように『自分には生まれた時から父などいない』という振りをし続けることにしたのだった。だが、弟のラトレルがこのふたりの間でおろおろしていたことから……ハムレットが一肌脱ぐことにしたわけである。
「ホットスパーよ、おまえ、結婚して孫でも出来たら親父さんとも仲良くやっていけよ」
「だから……」と、ホットスパーはイライラしたように言った。「俺はたぶん、これから先もきっとあの親父とは気が合わないで終わるだろうよ。だが、そうだな。一応俺にも親父に孫の顔くらいは見せたい気持ちがなくもない……とはいえ、それは弟のラトレルだって結婚すりゃ俺に代わって出来ることだからな」
「まあ、ケイト・ボウルズのお嬢さんは、心優しいだけじゃなく賢い娘さんだからな。おまえと親父さんの仲が悪いままでも、そこらへんは機転を利かせてうまくやっていくことだろう。だからそうした点についてはわしゃ、何も心配なぞしとらんのだがな」
ホットスパーは、フォルスタッフのこの言葉に肩を竦めて苦笑した。中庭で天幕を張っている兵士たちの様子は、まるで戦争に勝利した後のようだったが、フォルスタッフがすでにずっと先のことを確信しているらしいのが彼には不思議だった。
「マドゥールさまは、どうもケイトのように信仰深くて心優しい女には俺のような粗忽な荒くれ者は到底似合わないと思っているらしくてな。どうやら、ケイトにはもっと他に相応しい男が別にいると考えておいでのようなんだ。今までだって何度か、『マドゥールさまが薦めるいい相手という奴と結婚したって全然構わないんだ。俺はおまえが幸せになるなら、相手が俺じゃなくたって全然構わない』と言ったことがある。わかるか、フォルスタッフ?ようするに、ケイトもまたボウルズ家の一員だってことなのさ。彼らは一度こうと決めたら梃子でも動かぬ頑固さを代々受け継いでいるんだ。だから俺はマドゥールさまに言ってやった。『心優しい女の救いを必要とするのは、同じように心優しい男ではないんじゃないですかね。俺とケイトはそうした意味でまったく気が合うんですよ』と。そしたら、『まあ、確かに』と認めておられたよ。『神の救いが必要なのは、善人ではなくおまえのような心根に問題のある悪人だものな』だと。べつに俺は腹も立たず、まったくその通りだと思ったもんで、『そうですね』と頷いておいたっていうただそれだけさ」
「ホットスパー、おまえは善い奴で、決して悪人なんかじゃない。本当の悪人という奴はな、自分にほんの少しばかり嫌な思いをさせただけで、その相手を不幸にさせずにはおれないような、イアーゴーのような奴のことを言うのさ。心配せんでもいい。おまえとケイトお嬢さんはほんに似合いのカップルだて」
「ははっ。いいのさ、フォルスタッフ。フォローは無用だ」と、ガラハッドは笑った。「おまえこそ、まったく本当に見上げた善い奴だ。それも、ずっと俺のことを思えばこそ、色々なことを黙っていてくれただなんてな……まあ、この目の前の兵士たちやおまえのように、俺もここは楽観的になって、自分の将来の幸福を思い描いて言えばな……フォルスタッフ、おまえ、うちに一緒に住むか、あるいは隣か近所に住むかして、俺んちの家族になれよ。そしたらおまえの老後の面倒も見てやって、墓くらいおっ立ててやるからさ」
「ありがとうよ、ホットスパー」と、フォススタッフも野太い声で愉快そうに笑った。「だが、その言葉だけで十分だ。新婚家庭に老人は不要というものだからな。まあ、それでもおまえんとこのお子が仔馬に乗ろうかって頃には、その可愛いお馬さんにピッタリサイズの鞍でも作って贈らしてもらおうかね」
そのあとふたりは互いに顔を見合わせると、「ワッハッハッ!!」、「アッハッハッ!!」と笑いあった。そして、お互いの肩に腕を回すと、まだ酒を一滴も飲んでもいないのに酔っているかのように上機嫌で、中庭へ下りていき、他の兵士らに混ざって歌を歌いはじめた。
結局のところ、この不思議なデコボココンビは終生に渡って親友であり続け、互いに復讐を果たしたあとは――同じ敷地内に屋敷を建てて住み、住居自体は別々であったにしても、毎日顔を合わせるような生活を送り……ガラハッドはケイト・ボウルズと結婚後、三人の息子に恵まれることになるのだが(長男にはサミュエル、次男にパトリス、三男にはガウェインと名付けた)、フォルスタッフは時に痛風に悩まされながらも長生きし、この三人のやんちゃな子たちの馬具一式については彼がすべて用意した模様である。
>>続く。




