赤い糸の行方
第1章 港町の凶兆
朝もやが海霧となって立ち込める港町・汐見崎。その静寂を、けたたましいサイレンの音が無遠慮に切り裂いた。
「…またか」
佐野俣至は、重い疲労を滲ませた顔で、吐き捨てるように呟きながら現場へと車を走らせた。ここ数ヶ月、汐見崎を蝕むように続く不可解な連続事件。その捜査で、彼の睡眠時間は削られ、神経はすり減る一方だった。
「佐野俣さん、顔色、酷いですよ。少しは休まないと」助手席の若手刑事、河野が心配そうに声をかける。その若さゆえの真っ直ぐな気遣いが、今の佐野俣には少し眩しかった。
佐野俣は、力なく笑ってみせた。「大丈夫だ。それより、今回の概要は?」
「はい」河野は手帳を開き、緊張した面持ちで報告を始めた。「今朝6時過ぎ、漁に出ようとした地元の漁師が第一発見者です。港の第3岸壁に、所有者不明の小型クルーザーが漂着。船内には…」
「…現場を見てから聞く」佐野俣は河野の言葉を遮った。詳細を聞く前に、まず自分の目で確かめたい。理屈ではなく、現場の空気が語るものがあるはずだ。
現場に到着すると、既に物々しい雰囲気に包まれていた。黄色い規制線が張り巡らされ、制服警官たちが慌ただしく動き回っている。潮の香りに、微かに死の匂いが混じっているような気がした。その中心に、岸壁に乗り上げるようにして静止している、流麗なフォルムの小型クルーザーがあった。
「状況は?」佐野俣は、現場指揮を執る河野に短く問いかけた。
「はい。被害者は男性、40代後半と見られます。身元は現在確認中ですが、船の登録情報から、市内のIT企業社長、高山健吾の可能性が高いと。死因は…まだ断定できませんが、外傷は見当たりません」
河野の説明を聞きながらも、佐野俣の目は鋭く現場を観察していた。クルーザーの船首付近、波に洗われる部分に、何か細いものが引っかかっている。それは、陽光を浴びて鈍く光る、一本の赤い絹糸だった。風に吹かれて頼りなく揺れ、まるで何かを指し示すかのように、沖へと伸びている。
「…赤い糸、か」
佐野俣の脳裏に、過去二件の事件現場が鮮明に蘇る。全く接点のないはずの被害者たち。孤独死した老女、山中で発見されたホームレス男性。そして今回の、裕福なはずのIT社長。彼らを繋ぐ唯一の共通項が、この不気味な「赤い糸」だった。事件現場に、必ず一本、赤い糸が残されているのだ。
「佐野俣さん、これを見てください」
河野が、証拠品としてビニール袋に入れられた写真を差し出した。クルーザーのキャビンで見つかったものだという。そこには、セピア色に変色した古い写真が収められていた。写っているのは、幼い少女と、その隣で優しく微笑む若い女性。だが、写真の一部は焼け焦げ、少女の顔は判別できない。
「…誰なんだ、この子は」
その時、背後から鈴を転がすような、しかしどこか影のある声がした。
「どうやら、私の“糸”がまた、事件を呼んでしまったみたいですね」
振り返ると、そこにはセーラー服姿の少女が、規制線のすぐ外側に佇んでいた。松葉光。この港町に住む高校生。そして、佐野俣が最も扱いにてこずる、厄介な協力者だった。
「…お前か。なぜここにいる」佐野俣は、ため息を隠さずに尋ねた。
「だって、赤い糸が関係しているんでしょう? 私の“出番”かなって。声をかけてくれないなんて、水臭いじゃないですか、佐野俣刑事」
松葉は、少し拗ねたような、それでいて全てを見透かしたような不思議な表情を浮かべた。
佐野俣は、この少女の存在を無視したかった。彼女の持つ、常識では説明できない鋭すぎる洞察力、時折口にする予言めいた言葉。それらは、時に捜査の突破口を開くが、同時に危うさも孕んでいた。だが、今回もまた、彼女の力が必要になるかもしれない。過去の経験がそう告げていた。
「…分かった。ただし、現場には入るな」佐野俣は渋々頷いた。「お前の“特別な目”とやらで、何か見えるか?」
松葉は、悪戯っぽく笑うと、真剣な眼差しでクルーザーを凝視し始めた。そして、ふと何かに気づいたように、船体の側面、水面に近い部分を指さした。
「あそこ…何か、傷のようなものがありませんか?」
佐野俣と河野が近づき、ライトで照らしてみる。確かに、塗装が剥がれ、何か硬いもので引っ掻いたような、微細な傷跡がいくつか残っていた。それは、まるで文字のようにも、記号のようにも見える。
「これは…暗号か?」河野が首を捻る。
松葉は静かに首を横に振った。「いいえ、これは暗号なんかじゃありません。これは…もっと古い、祈りのような…」
彼女の言葉が途切れた瞬間、佐野俣の携帯電話がけたたましく鳴った。本庁からの着信だ。
「佐野俣だ…何? 分かった、すぐ戻る!」
電話を切った佐野俣の表情は、一層険しくなっていた。彼は松葉と河野を厳しい目で見据えた。
「署に戻るぞ。被害者の身元が確定した。そして…厄介な情報が入ってきた」
三人は、言いようのない不安感を抱えながら、パトカーに乗り込んだ。港には、依然として重苦しい朝もやが漂い、赤い糸だけが不吉に揺れていた。
第2章 赤い糸の呪縛
汐見崎警察署の刑事課は、朝から異様な緊張感に包まれていた。ホワイトボードには、今回の事件と過去二件の概要が書き出され、赤い線で結ばれているが、その繋がりを示す確たる証拠は何一つない。
「どうだった?」佐野俣が、ベテラン刑事の山田に声をかけた。
山田は、疲れた顔で眉間に深い皺を寄せた。「被害者はやはり高山健吾、48歳。市内で急成長したIT企業の社長だ。だが…内情は火の車だったらしい。多額の負債を抱え、資金繰りに窮していたようだ」
「負債か…」佐野俣は呟いた。動機としてはありきたりだが、赤い糸との関連が見えない。
「はい」山田が頷く。「それだけじゃない。高山の自宅を捜索したところ、こんなものが見つかりました」
山田が差し出した証拠品袋。中には、古びた木箱が入っており、その蓋は一本の赤い糸で固く封じられていた。
「…また、赤い糸だ」佐野俣の眉間の皺が深くなる。
その時、資料室から松葉光が興奮した様子で飛び出してきた。
「佐野俣さん! 見てください、これ!」
彼女が差し出したのは、高山の書斎で見つけたという、一枚の古いメモ用紙の切れ端だった。そこには、震えるような筆跡で、こう書かれていた。
『赤き糸は縁を結び、永遠を紡ぐ。されど、断ち切れぬ想いは呪いとなりて、人を蝕む』
「…呪い…」佐野俣は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「前の二件でも、似たような意味合いの言葉が残されていましたよね?」松葉が確認するように言う。
そうだ。最初の老女の現場には『糸は過去を繋ぎ、未来を縛る』。二件目のホームレス男性の現場には『運命の糸は、時に残酷に絡みつく』。そして今回の『呪い』。一連の事件には、単なる偶然では片付けられない、強い意志と、何らかの共通した思想、あるいは怨念のようなものが感じられた。
「光、よくやった」佐野俣は素直に少女の功績を認めた。「これで、事件の連続性はほぼ確定だ。だが、このメッセージが何を意味するのか…」
佐野俣は、再びホワイトボードに目を向けた。港、クルーザー、IT社長、負債、古い写真、赤い糸、呪いの言葉…。バラバラのピースが散らばっているだけで、全体像は全く見えない。
「河野、高山の周辺を徹底的に洗ってくれ。家族、従業員、取引先、金の流れ…。どんな些細な情報でもいい」
「はい!」河野は力強く頷き、部屋を飛び出していった。
佐野俣は、松葉に向き直った。「お前はもう学校に戻れ。これ以上、首を突っ込むな」
「えー、でも、私なら何か分かるかもしれないのに…」松葉は不満げに唇を尖らせた。
「いいから。必要になったら連絡する。これは命令だ」佐野俣は、敢えて厳しい口調で言った。彼女の能力は認めている。だが、まだ未成年の少女を、これ以上危険な捜査に深入りさせるわけにはいかなかった。
渋々といった様子で松葉が署を後にする。その後ろ姿を見送りながら、佐野俣は複雑な感情を抱えていた。彼女の存在は、この事件を解く鍵なのか、それとも更なる混乱を招くのか…。
「佐野俣さん」山田が声をかけてきた。「高山の妻、高山美奈子さんが到着されました」
佐野俣は深呼吸し、気持ちを切り替えた。「分かった。俺が話を聞く」
取調室で、佐野俣は憔悴しきった様子の美奈子と向き合った。上品な雰囲気の女性だが、今は悲しみで打ちひしがれている。
「奥さん、ご主人と最後に話されたのはいつですか?」
美奈子は、震える声で答えた。「昨日の…夜です。『大事な話があるから、少し遅くなる』と…それが、最後でした…」
堰を切ったように涙が溢れ出す。佐野俣は、静かにティッシュを差し出した。
「…最近、ご主人の様子で、何か変わったことはありませんでしたか? 何か悩んでいるとか、怯えているとか…」
美奈子は、涙を拭いながら、記憶を辿るように俯いた。「…そういえば…少し前から、古い木箱を…赤い糸で封じられた箱を、書斎でじっと見つめていることがありました」
「赤い糸の箱…?」
「はい。私にも見せてはくれませんでした。ただ、『これは、開けてはならない箱なんだ』と…。それを見ている時の主人は、とても…悲しそうで、何かに怯えているようにも見えました」
佐野俣の中で、バラバラだったピースが少しずつ繋がり始める感触があった。赤い糸、古い箱、怯える被害者…。
刑事課に戻った佐野俣は、過去二件の事件資料を徹底的に洗い直した。最初の被害者、孤独死した老女・田中とめ。二件目の被害者、山中で発見された身元不明のホームレス男性。そして今回の高山健吾。一見、何の繋がりもない三人。だが、赤い糸という共通項以外に、もう一つ、奇妙な一致点が見つかった。
三人が死亡する直前、それぞれが汐見崎のとある古い神社、「龍神神社」を訪れていた可能性が高いのだ。防犯カメラの映像や、聞き込み捜査から浮かび上がってきた事実だった。
「龍神神社…赤い糸…呪い…」佐野俣の思考が加速する。この神社に、事件の核心があるのではないか?
その時、佐野俣の携帯が激しく鳴った。ディスプレイに表示されたのは、「松葉光」の名前。嫌な予感が胸をよぎる。
「もしもし、松葉か!?」
『佐野俣さん…! 大変…! 学校の帰り道で…変な男の人に後をつけられて…赤い糸を持ってる…!』
電話の向こうから聞こえる、怯えた松葉の声。そして、短い悲鳴と共に、通話は唐突に途切れた。
「松葉! おい、松葉! 聞こえるか!?」
何度呼びかけても、応答はない。
佐野俣は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。椅子を蹴倒すように立ち上がり、上着を掴むと、刑事課を飛び出した。
松葉の身に、何かが起きた。あの男は、犯人なのか? それとも…?
頭の中で警報が鳴り響く。今はただ、一刻も早く彼女の元へ辿り着かなければならない。赤い糸が、少女の命をも絡め取ろうとしている。佐野俣は、アクセルを床まで踏み込んだ。
第3章 糸の交差点
松葉が最後に連絡してきた場所、駅前のロータリーに、佐野俣はパトカーを急停車させた。夕暮れ時の雑踏。行き交う人々の顔には、日常の安穏さが浮かんでいる。だが、佐野俣の目には、その全てが敵意を帯びているように見えた。
「くそっ、どこだ!」
焦燥感に駆られながら、佐野俣は必死に松葉の姿を探した。人混みをかき分け、辺りを見回す。その時、視界の端に、赤い色がちらついた。駅前の古い公衆電話ボックス。その受話器から、一本の赤い糸がだらりと垂れ下がり、まるで誘うかのように、裏路地へと伸びている。
「…これか!」
佐野俣は迷わず、その赤い糸を追った。糸は、古びた商店街のアーケードを抜け、人通りの少ない、入り組んだ路地へと続いていく。まるで、蜘蛛が獲物を巣へと誘い込むように。
息を切らせながら路地を駆け抜け、小さな空き地に出た瞬間、佐野俣は息を呑んだ。空き地の中央、錆びたブランコに、松葉がぐったりと座らされていた。その手足は、何重もの赤い糸で固く縛り付けられている。
「松葉!」
佐野俣が駆け寄ろうとした、その瞬間。空き地の隅、打ち捨てられた廃材の影から、ゆっくりと一人の男が現れた。年の頃は50代半ばだろうか。痩せた体に、サイズの合わないよれたスーツを着ている。しかし、その瞳には、尋常ではない、狂気に近い光が宿っていた。男の手には、銀色に光るカッターナイフが握られ、その切っ先が松葉の白い首筋に向けられていた。
「そこまでだ、刑事さん。良い子だから、動かないでいただこうか」
低く、押し殺したような声。だが、その声には異様なほどの圧があった。
「お前が…一連の事件の犯人か」佐野俣は、松葉から目を離さずに、男を睨みつけた。努めて冷静に、相手を刺激しないように。
「犯人、という呼び方は心外だな」男は、歪んだ笑みを浮かべた。「私は、ただ、淀んだ世の中を浄化しているだけだ。謂わば、正義の代行者、かな」
「正義だと? 人を殺めておいて、それが正義か!」
「彼らは死んで当然の人間だ」男は嘲るように言った。「過去の罪から目を背け、己の欲望のままに生きてきた亡者どもだ。法が見逃したとしても、天が許しはしない」
松葉が小さく呻き、身じろぎした。カッターの刃が、彼女の首筋に赤い線を描く。
「松葉を離せ! 彼女は何も関係ない!」佐野俣の声に、焦りが滲む。
「関係ない? いやいや、とんでもない」男は、恍惚とした表情で松葉を見つめた。「この娘こそ、全ての中心だ。彼女は…“視る”ことができる。我々には見えぬ、因果の糸を」
男の言葉に、佐野俣は激しく動揺した。やはり、松葉の能力に気づいている。
「何を言っている…。妄想も大概にしろ」佐野俣は、男の気を逸らそうと試みた。
「妄想だと?」男はナイフの切っ先を松葉の喉元にさらに押し当てた。「そこまでだ。それ以上近づけば、この娘の細い喉を掻き切ることになるぞ。…この娘が持つ“力”、お前も薄々気づいていたのではないかね? 彼女の“勘”が、どれほど事件解決の助けになってきたか」
佐野俣は否定できなかった。松葉の直感は、確かに常人の域を超えていた。だが、それが未来予知のような超常的な力だとは…。
「彼女には特別な力がある」男は、まるで聖女に触れるかのように、松葉の頬に指を這わせた。「穢れを知らぬ、清らかな魂。そして、未来の罪人をも見通す瞳。彼女こそ、私の“正義”を完成させるための、最後のピースなのだ」
松葉が、恐怖に震えながらも、男を睨みつけた。「私に…そんな力なんて…ない!」
「まだ、目覚めていないだけだ」男は囁いた。「だが、心配はいらない。私が導いてやろう。共に、この穢れた世界を浄化するのだ」
狂っている。佐野俣は、男の言葉の端々から、常軌を逸した信念、あるいは妄執を感じ取った。「お前の目的は、松葉の力を利用することか?」
「そうだ。彼女の“目”があれば、法の手から逃れた悪人どもを、一人残らず裁くことができる。私の手で、真の正義を実現するのだ!」男の目が、狂信者のように爛々と輝いた。
「ふざけるな!」佐野俣は怒りを抑えきれずに叫んだ。「お前のやっていることは、ただの連続殺人だ!」
「殺人ではない。粛清だ」男は肩をすくめた。「狂っているのは、悪が蔓延るこの世界の方だ。私は、それを正しているにすぎん」
緊迫した空気が、二人と一人の間に張り詰める。佐野俣は、どうすれば松葉を無傷で救出できるか、思考を高速で回転させた。隙はどこにある?
「…あなたの名前を聞かせてくれないか」佐野俣は、時間を稼ぐために、静かに問いかけた。
男は一瞬ためらったが、嘲るように答えた。「…高野。高野誠一郎だ。覚えておくといい。この世に真の正義をもたらす者の名を」
「高野さん…なぜ、ここまでする? あなたに、何があったんだ?」佐野俣は、男の過去に揺さぶりをかけようとした。
高野の表情が、初めて微かに揺らいだ。「…お前のような、法の番犬に何が分かる。法など、所詮は権力者のための道具にすぎん。弱者を、真実を守ることなどできはしない!」
「何か…辛い経験があったのか?」
高野の目に、一瞬、深い悲しみと憎しみの色がよぎった。「…20年前だ。私の…私の愛する人が、理不尽に命を奪われた。犯人は捕まった。だが…奴は、証拠不十分で無罪放免となったのだ! 法は、私たちを見捨てたのだ!」
佐野俣は息を呑んだ。彼の犯行の根源には、深い個人的な絶望があったのだ。
「だから、自分で裁きを下そうと…」
「そうだ!」高野の声が激しさを増した。「法が裁けぬなら、私が裁く! この手で!」
「それは間違ってる!」縛られたままの松葉が、突然叫んだ。「どんな理由があっても、人の命を奪っていいはずがない! それは正義じゃない、ただの復讐よ!」
高野は、驚いたように松葉を見た。「小娘が…! お前には、私の絶望の深さが分かるまい!」
「分からない! でも、分かることもある!」松葉は、恐怖を振り払うように、さらに強く言い返した。「あなたのやっていることは、あなたの大切な人を悲しませるだけだってことよ!」
その瞬間だった。松葉の言葉に、高野の心が揺らいだのか、ナイフを握る手に一瞬、力が緩んだ。その僅かな隙を、松葉は見逃さなかった。
彼女は、全身のバネを使うようにして体を捻り、高野の腕を強引にはねのけた! ナイフが宙を舞い、カラン、と乾いた音を立てて地面に落ちる。
「佐野俣さん!!」
松葉の叫び声が合図だった。佐野俣は、電光石火の速さで高野に飛びかかった。体格では佐野俣が勝る。激しいもみ合いの末、佐野俣は高野を地面に押さえつけ、震える手で手錠をかけた。
「…終わった…」
佐野俣は、荒い息をつきながら呟いた。急いで松葉の元へ駆け寄り、赤い糸を解く。
松葉は、まだ恐怖で体が震えていたが、安堵の表情を浮かべていた。
「ありがとう…佐野俣さん…」
「いや…お前が、よくやった」佐野俣は、少女の勇気を称えた。
だが、佐野俣の心は晴れなかった。松葉の能力…。高野の言葉は、単なる妄想だったのか? それとも…。そして、高野の過去に何があったのか? 20年前の事件とは? 赤い糸の意味は?
「…署に戻ろう。高野から、全てを聞き出す」佐野俣は、高野を引き起こしながら言った。
松葉は、まだ震えの残る手で、しっかりと頷いた。「…はい」
三人は、夕闇が迫る空き地を後にした。街灯が点り始め、彼らの長い影を引き延ばす。事件は解決に向かっている。しかし、本当の謎は、まだ始まったばかりなのかもしれない。赤い糸の先に繋がる真実は、一体何を語るのだろうか。
第4章 過去からの残響
汐見崎警察署の取調室。蛍光灯の白い光が、逮捕された高野誠一郎の憔悴した顔を冷たく照らしていた。佐野俣は、その向かいに静かに座り、尋問を開始した。取り調べには、山田刑事も同席している。
「高野、動機は分かった。だが、なぜ今なんだ? 20年の時を経て、なぜ今、このような凶行に?」
高野は、虚ろな目で宙を見つめていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。「…きっかけは、半年前だ。偶然、あの神社の…龍神神社の宮司と再会したんだ」
「龍神神社…やはり、あの神社が関係しているのか」
「そうだ。あの神社は、古くから“縁結び”と“縁切り”の双方にご利益があるとされてきた。そして…宮司の一族は、代々、特別な力を持つと言われてきた」
「特別な力?」
「ああ…人の縁、運命の“糸”を視る力だ。そして、私の亡き婚約者…村井香織も、その一族の血を引いていた」
佐野俣は息を呑んだ。松葉の能力と、高野の婚約者、そして神社が線で繋がった。
「香織は…その力ゆえに苦しんでいた。だが、同時に、その力で人を助けようともしていた。20年前、彼女は自分の死を予感していたのかもしれない。私に何度も警告してくれた。『危険な糸が絡みついている』と…。だが、私は信じなかった。そして…彼女は殺された」
高野の声が、深い後悔に震えた。
「犯人は捕まったが、無罪になった。私は絶望し、法も神も信じられなくなった。だが…半年前、宮司と再会し、彼から聞かされたのだ。『香織さんの力は、姪御さんに受け継がれているやもしれぬ』と…」
「それが、松葉光…」
「そうだ。宮司は、香織の忘れ形見である赤い糸を私に託し、『この糸が、真実へと導くだろう』と言った。私は、松葉君を探し出し、彼女の中に、確かに香織と同じ“力”の片鱗を見た。そして決意したのだ。彼女の力を使って、法が裁けぬ悪を、この手で裁こうと…」
高野の目は、再び狂気の光を宿しかけていた。
「被害者たちは、どうやって選んだ?」
「赤い糸が導いた…いや、そう思い込もうとした。彼らは皆、過去に何らかの罪を犯しながら、法の網をくぐり抜けた者たちだ。最初の老女は、昔、悪質な詐欺で多くの人を不幸にした。ホームレスの男は、ひき逃げ事件の犯人だった。そして高山は…インサイダー取引で莫大な利益を得ながら、証拠不十分で立件されなかった」
高野は、彼らの“罪”を詳細に語った。それは、彼が独自に調査し、確信した“事実”だった。
「だから、赤い糸を現場に残し、呪いの言葉を添えたのか。彼らが断ち切れぬ過去の罪によって裁かれたのだと示すために」
「そうだ。それが、私の…いや、天の裁きだと」
取調室を出た佐野俣は、重いため息をついた。高野の歪んだ正義感と、深い絶望。そして、松葉の能力と、20年前の事件…。全てが複雑に絡み合っている。
廊下で待っていた松葉が、心配そうに駆け寄ってきた。
「佐野俣さん…高野さん、何か話してくれましたか?」
佐野俣は、松葉の目を見て、静かに頷いた。「ああ。お前の伯母さん…村井香織さんのこと、そして龍神神社のこともな」
松葉の表情が曇った。「やっぱり…私には、伯母さんと同じ力が…?」
「それは分からない」佐野俣は正直に答えた。「高野はそう信じている。そして、お前の洞察力が並外れているのも事実だ。だが、それが超能力なのか、鋭い観察力や共感力の表れなのか…今の時点では誰にも断言できない」
佐野俣は、少女の肩にそっと手を置いた。「大切なのは、お前がその力(あるいは才能)をどう使うかだ。高野のように、憎しみに囚われるな。お前自身の意志で、正しいと信じる道を進め」
松葉は、佐野俣の言葉を噛みしめるように、じっと俯いていた。そして、顔を上げると、その瞳には迷いが消え、強い決意の色が浮かんでいた。
「…はい。私、自分で決めます」
その時、取調室の方から、けたたましい物音が響いた!
「佐野俣さん!」山田刑事の切羽詰まった声!
佐野俣は血相を変えて取調室に駆け戻った。ドアを開けると、信じられない光景が広がっていた。
監視役の警官が床に倒れ、高野が窓から身を乗り出そうとしている! その手首には、証拠品として保管されていたはずの、例の赤い糸が食い込むように巻き付けられ、その糸の先には、隠し持っていたらしい、ガラスの鋭利な破片が握られていた!
「高野! 馬鹿な真似はやめろ!」
佐野俣は叫びながら飛びかかろうとしたが、間に合わない! 高野は、最後の力を振り絞るようにして、赤い糸で自らの首を…!
「ダメ!!」
叫び声と共に、何かが高野の手首に突き刺さった! それは、松葉が護身用に持っていた、細い金属製の簪だった。咄嗟に投げつけたのだ。
ガラスの破片が高野の手から滑り落ちる。佐野俣と山田刑事が、高野の体を押さえつけた。
「…なぜ…邪魔をする…」高野は、苦悶の表情で松葉を睨んだ。
松葉は、震えながらも、毅然とした態度で答えた。「死んで償おうなんて、間違ってます! あなたは、生きて、自分の罪と向き合わなきゃダメです!」
高野は、松葉の強い瞳に射抜かれ、言葉を失った。
意識を失いかけた高野は、病院へと緊急搬送された。一命は取り留めたものの、予断を許さない状況だ。
刑事課は、騒然としていた。自殺未遂、そして松葉の咄嗟の行動…。
佐野俣は、疲労困憊の松葉を労った。「…助かった。ありがとう、光」
松葉は、小さく首を振った。「…私、怖かったです。でも、高野さんを死なせたくなかった…」
佐野俣は、改めてこの事件の根深さを感じていた。高野の罪は明らかになった。だが、赤い糸が紡いだ物語は、まだ終わっていない。20年前の事件の真相、龍神神社の秘密、そして松葉の能力…。解き明かさなければならない謎は、まだ残されている。
松葉は、窓の外を見つめていた。彼女の瞳には、以前とは違う、何か覚悟を決めたような強い光が宿っていた。
「佐野俣さん…私、行かなきゃいけない場所があります」
「どこへだ?」
「龍神神社です。全ての始まりの場所へ。そこでなら、きっと…分かる気がするんです。赤い糸が、私に何を伝えようとしているのか」
第5章 龍神神社の真実
松葉の決意は固かった。佐野俣は、危険を感じながらも、彼女の申し出を断ることができなかった。この事件の真相に迫るためには、龍神神社が鍵を握っていることは明らかだったからだ。佐野俣と河野は、松葉に同行し、汐見崎の町外れにある古びた神社へと向かった。
龍神神社は、鬱蒼とした森の中にひっそりと佇んでいた。苔むした石段、風化した鳥居。訪れる人も少なく、どこか神秘的で、同時に近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
社務所を訪ねると、白髪の老宮司が静かに三人を出迎えた。高野に松葉の存在を教えたという、張本人だ。
「…刑事さんと、光様。お待ちしておりました」宮司は、全てを見透かしたような穏やかな目で言った。
「宮司さん、単刀直入に聞きます」佐野俣は切り出した。「高野誠一郎に、何を話したのですか? なぜ、松葉さんのことを?」
宮司は、深いため息をつき、ゆっくりと語り始めた。「…高野殿には、20年前の悲劇以来、ずっと心を痛めておりました。彼が愛した村井香織様は、我ら宮司の家系の遠縁にあたり、彼女もまた、人には視えぬ“糸”を視る力をお持ちでした」
やはり、伯母にも同じ能力があったのだ。松葉は息を呑んだ。
「香織様は、その力ゆえに苦悩されながらも、人々の縁を結び、悪縁を断ち切るために、密かに力を尽くしておられました。そして、自らの死をも予感されていた…。高野殿に託された赤い糸は、香織様が、未来に希望を繋ぐために遺したものだったのです」
「では、なぜその糸を高野に? そして、松葉さんのことを?」佐野俣は問い詰めた。
宮司は、悲しげに目を伏せた。「…高野殿の心の闇が、あまりにも深かったからです。彼を救うには、香織様の遺志を継ぐ者の存在が必要だと考えました。光様に、香織様と同じ力の兆しがあることは、遠縁の我々にも伝わっておりました。高野殿が光様と出会うことで、彼の憎しみが癒え、香織様の本当の願い…人々を救済するという願いに気づいてくれるのではないかと、そう願ったのです。しかし…結果として、私の浅はかな考えが、新たな悲劇を招いてしまった…」
宮司は、深々と頭を下げた。
「伯母は…香織さんは、どんな人だったんですか?」松葉が、震える声で尋ねた。
宮司は、優しい目を松葉に向けた。「…光様に、よく似ておられました。芯が強く、慈悲深く、そして、ご自身の持つ力と真摯に向き合っておられました。彼女は、未来の断片を視ることができましたが、それは決して確定した未来ではなかった。人の意志や行動によって、未来は変えられる、と常々おっしゃっていました」
未来は変えられる…。その言葉が、松葉の胸に強く響いた。
「宮司さん、20年前の事件について、何かご存知のことは?」佐野俣が核心に迫る。香織さんを殺害したとされる犯人は、なぜ無罪になったのか?
宮司は、しばらく沈黙した後、重々しく口を開いた。「…あれは、複雑な事件でした。確かに、逮捕された男が香織様を襲ったのは事実でしょう。しかし…本当に彼女の命を奪ったのは、別の要因だったのかもしれません」
「別の要因?」
「香織様は、その力を使って、ある大きな悪を暴こうとしておられました。政界にも繋がる、組織的な犯罪です。彼女は、その証拠を掴みかけていた…。おそらく、口封じのために…」
「つまり、逮捕された男は、真犯人を隠すための捨て駒だった、と?」
宮司は、肯定も否定もせず、ただ静かに目を伏せた。「…真実は、闇の中です。そして、その闇は、今もこの汐見崎に深く根を張っているのかもしれません」
その言葉は、佐野俣と松葉に新たな衝撃を与えた。高野の事件は解決したかもしれない。だが、その根底には、さらに巨大で、根深い悪が存在する可能性があるのだ。
「…私…」松葉が、決意を込めて言った。「伯母さんが遺した赤い糸…そして、もし私に本当に力があるのなら、それを使って、伯母さんが果たせなかったことを、やり遂げたい。この町の闇を、祓いたいんです」
その時、松葉が胸ポケットから取り出した、高野から託された赤い糸が、淡い光を放ち始めたように見えた。いや、それは夕陽の反射だったのかもしれない。だが、松葉には、その糸が脈打っているように感じられた。
宮司は、松葉の強い瞳を見つめ、静かに頷いた。「…光様。その“糸”は、あなたを真実へと導くでしょう。しかし、その道は険しく、危険も伴います。覚悟は、おありですか?」
松葉は、迷いなく答えた。「はい。私、逃げません」
佐野俣は、松葉の隣に立ち、宮司に向き直った。「宮司さん、我々警察も、全力で協力します。20年前の事件の再捜査も含め、この町の闇を必ず白日の下に晒します」
宮司は、安堵の表情を浮かべ、再び深々と頭を下げた。「…ありがとうございます。香織様も、きっとお喜びでしょう」
神社を後にする三人の足取りは、重かったが、そこには確かな決意があった。事件は終わったのではない。本当の戦いは、これから始まるのだ。赤い糸が示す未来は、まだ誰にも分からない。だが、彼らは信じていた。人の強い意志があれば、どんな運命の糸も、変えることができると。
第6章 未来へ紡ぐ糸
高野誠一郎は、一命を取り留めたものの、罪の意識と長年の苦悩から、精神的な回復には時間を要した。彼は、裁判で全ての罪を認め、自らが歪んだ正義感に囚われていたことを深く反省し、法の下で裁かれることを受け入れた。彼の口から語られた20年前の事件に関する証言は、再捜査の重要な端緒となった。
事件後、松葉光の日常は少しだけ変わった。自分の持つかもしれない不思議な力について、彼女はまだ戸惑いを隠せないでいたが、それを恐れるのではなく、向き合っていくことを決めた。宮司から聞いた「未来は変えられる」という伯母の言葉を胸に、彼女は自分にできることから始めようとしていた。
「佐野俣さん、見てください!」
ある日の放課後、松葉は興奮した様子で佐野俣に駆け寄ってきた。彼女の手には、地域新聞の記事が握られている。
「これ! 私が先日、通学路で見つけた危険な陥没箇所のこと、学校に報告したら、すぐに市が対応してくれて、事故を未然に防げたって!」
佐野俣は、記事を読み、目を細めた。「…大したもんだな、光。お前の小さな行動が、誰かの未来を守ったんだ」
「はい!」松葉は誇らしげに胸を張った。「未来予知なんてできなくても、ちゃんと周りを見て、気づいたことを行動に移せば、未来は良くできるんだって分かりました!」
彼女の晴れやかな笑顔に、佐野俣も心が温かくなるのを感じた。この少女は、きっと大丈夫だ。力に溺れることなく、自分の足でしっかりと未来を切り開いていくだろう。
佐野俣自身も、この事件を通して変化していた。法の限界に悩み、時に無力感を覚えていた彼だったが、松葉の純粋な正義感や、高野の悲劇を目の当たりにし、改めて刑事としての使命を再確認していた。完璧な正義は存在しないかもしれない。だが、諦めずに真実を追求し、人々を守ろうと努力し続けること。そこにこそ、意味があるのだと。
彼は、20年前の村井香織さん殺害事件の再捜査に、全力を注いでいた。宮司や高野からの情報を元に、当時の捜査資料を洗い直し、証拠を再検討する日々。それは困難を極めたが、佐野俣には確信があった。必ず、闇に葬られた真実を掘り起こしてみせると。
「佐野俣さん」数ヶ月後、松葉が少し大人びた表情で、佐野俣の元を訪れた。「私、決めました。将来、警察官になります」
佐野俣は、驚きながらも、どこか予期していたような気持ちで彼女の言葉を受け止めた。
「…そうか。険しい道だぞ」
「分かっています」松葉の瞳は、真っ直ぐに佐野俣を見つめていた。「でも、私は伯母さんのように、そして佐野俣さんのように、誰かを守れる人になりたいんです。私のこの“目”が、もし本当に特別なものなら、それを正しいことに使いたい」
佐野俣は、力強く頷いた。「…分かった。応援する。だが、忘れるな。一番大切なのは、その力じゃない。お前自身の心だ」
「はい!」松葉は、力強く返事をした。
その時、佐野俣のデスクに置かれていた、証拠品として保管されていた一本の赤い糸が、窓から差し込む光を受けて、きらりと輝いた。それは、かつて事件を象徴した不吉な糸ではなく、未来へと繋がる希望の糸のように見えた。
佐野俣は、その赤い糸を手に取り、松葉に差し出した。「これは、お前が持っていてくれ。伯母さんの形見であり、お前の決意の証だ」
松葉は、少し驚いた顔をしたが、静かにその赤い糸を受け取り、大切そうにポケットにしまった。
「さあ、行くか」佐野俣は立ち上がった。「今日も、この街のどこかで、誰かが助けを待っているかもしれない」
「はい!」松葉も元気よく立ち上がった。
二人は、肩を並べて刑事課を出た。夕暮れの光が、彼らの背中を優しく照らしている。
赤い糸が紡いだ運命は、悲劇だけではなかった。それは、新たな絆を生み、未来への希望を繋いだのだ。
彼らの戦いは、まだ終わらない。しかし、その瞳には、確かな光が宿っていた。信じる未来へと、真っ直ぐに伸びる、赤い糸のように。
(了)