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気づくとお姉さんの部屋にいた。
いつの間にか気を失った俺はお姉さんに運ばれたらしい。
寝起きだからかぼうっとする。
でもおでこがひんやりと気持ちいい。
カタカタとキーボードを叩く音がする。
「おはよ」
お姉さんはベッドの横にあるイスに座ってた。
パソコンを触ってたらしい。
「おはよ、ございます」
起き上がろうとしたけど体が痛くてうめき声が漏れる。
切れた口も染みて痛い。
「あかんて、今日はゆっくりしとき」
「でも、仕事」
「なに言うとん。そんな面じゃお客さんびびるし、あの鬱陶しい客が二度と来ん言うてんから、うちとしては充分や。ほんまにありがとう」
「君はうちの幸運やな」
「役に立てました?」
「充分やって。あの客な、前から鬱陶しかってん。ああやって誘ってきてて。でも多分、ほんまに二度とこんやろ。なんせ、十五歳の子供に鼻血出されてもうたからな。メンツが立たんで」
にやりとお姉さんは笑う。
「凄いな、自分。恐かったやろ、痛かったやろ」
恐かったけど、痛かったけど。
それどころじゃなかった。
そんなことどうでもよかった。
「別に」
「かっこつけんなや。でも君」
「かっこよかったよ」
嬉しいよりも照れくさい。
俺は布団の中に顔を隠す。
「なんか食べられそうなもん持ってくるわ。口ん中切れとるやろうけど、ゼリーなら食えるやろうから」
ゼリーは確かに食べられたけど、口の中は切れててしっかり痛かった。
でもまあ、
「はい、あーん」
「自分で食べますよ」
「ええから」
「いや」
「はよ口開けろや」
「はい」
お姉さんが食べさせてくれたからなんでも食べれた。
お姉さんが食べさせてくれるなら納豆でも食べれそう。
納豆嫌い。
「なんか欲しいもんある?」
「欲しいもの?」
「漫画でも食べ物でも用意するから。高いもんは勘弁してほしいけどな」
「じゃあ」
俺はこの時も知らなかったけど、殴られすぎると熱がでるらしい。
だから思考があやふやになって、突拍子もないことを言ってしまうようだった。
「お姉さん」
言ってから自分の言葉を知った。
なんてことを言うんだ俺は。
「な、なんでもないです」
「うちは奥やからな」
お姉さんがベッドに潜り込んでくる。
一緒に眠った経験もあるわけだけど。
その時とは雰囲気が違って、俺は借りてこられた猫のように固まった。
「こんな」
お姉さんの手が頭に触れる。
いつも俺がそうするように。
優しく髪を撫ではじめる。
「こんなぼろぼろになってもうてな」
「ごめんな」
別にぼろぼろになるのもぼこぼこになるのも、お姉さんを守れたならそれでよかった。
お姉さんが喜んでくれてるし、ちょっとでも役に立てたみたいだし。
お姉さんが頭を撫でる。
それはとても心地いい。
お姉さんの手が首の下に移動する。
それこそ犬猫のようにそっと撫でられて、くすぐったくて体が跳ねた。
「こっち向いて」
耳元でそっと囁かれた甘い言葉に脳が痺れた。
視界すらぼうっとしている中でお姉さんの方に振り向くと、唇が唇に触れる。
ファーストキスだ。
とか思う間もなく、お姉さんの舌が口の中に入ってくる。
生暖かい別の生き物が、滑りを立てて侵入する。
動く度にそれは音を発して、俺とお姉さんがつながっていることを証明した。
切れた口は少し痛かったけど、音が鳴るたびに頭が溶けていくようだった。
舌と舌が絡んで、お姉さんの舌が口の中の全てを這う。
横も、舌の裏も、上も、歯も。
口の切れた痛みも忘れて、ただ侵されることに集中した。
これ以上ない幸福が詰まっているような気がした。
お姉さんの手が俺の右手に触れて。
指先ですっとなぞる。
それは手から全身に電流を流して、意識が更に拡散していく。
手を握られる。
俺も握り返す。
好きな人とキスをするって。
こんなに幸せなことなんだ。
その人のことしか考えられなくなって、ずっとお姉さんとこうしていたくなる。
この世界にこんな気持ちのいいことがあるんだって驚いた。
そのままえっち、をすることはなかったけど。
それが残念だと思うことはなかった。
童貞故に、なのか。
心が充分に満たされていたから。
「お風呂はいろか」
でも、その言葉だけで頭の中はピンク色に染まった。
「先入っとって。すぐ入るから」
言われて、シャワーを浴びる。
湯船のお湯はまだ半分ぐらいしか溜まっていない。
シャンプーで頭を洗っていると電気が消える。
「入るでー」
速攻で足を閉じてを隠した。
けたけたと笑うお姉さん。
電気が消えているから暗いとはいえ、脱衣所の電気はついてるからはっきりと身体のラインは見えていた。
「髪洗ったるよ。手どかし」
言われるがままに手をどかし、お姉さんにシャンプーをお願いした。
胸のどきどきがうるさかった。
だって真後ろに、裸のお姉さんがいて、その前に、裸の俺がいて。
「流すでー」
人に頭を洗ってもらうのは気持ちいい。
流されて、溜まった湯船に向かい合って浸かった。
目がどうしても胸にしかいかないから、お姉さんの顔をちらっと見ると、全て見透かされたように笑われた。
恥ずかしくって壁を見ることにした。
「どやった?」
「なにがですか?」
「言わんでもわかるやろ」
「……よかったです」
「はは、かわい」
ごぼがぼごぼ。
「一週間まであと四日やなあ」
「それは……」
それはお姉さんが決めたことじゃないですか、と繋げたかったけど、俺にそんなことを言う権利はなかった。
なにせこのあともずっとここにいたら、それはとても嬉しいことだけど。
俺は沢山のことでお姉さんに迷惑をかけるだろうから。
「ほんまに若いなぁ」
子供扱いされて拗ねてしまったのを隠すためにお湯へ顔をつけた。
それは同時に、別れが来ることが悲しくて泣きそうなのを悟られたくなかったから。
風呂から出て、お姉さんの部屋へ。
俺は家にパソコンがなかったからお姉さんがパソコンで遊んでいるのに興味深々だった。
暫くして眠ることに。
流石に明日は仕事に行かせてほしい。
「僕も行きますよ」
「気持ちだけでええよ。辛いやろ?」
辛いとかそんなんじゃなくてお姉さんと一緒にいたいだけなのに。
と思った。
「君はほんま可愛いなあ」
口に出てた。
「ええよ、やけど仕事はさせんで。
それやと化粧できんし、まだ腫れとるからな」
二人で一つのベッドに寝転がる。
このまま時が止まればいいのに。
このまま日課にしてしまいたい行事。
お姉さんの頭を優しく撫でて、お姉さんが眠るまで隣にいること。
うとうとするお姉さんの横で、お姉さんが心地よさそうに震えるのを見てられること。
「気持ちいいですか?」
「それさっきのお返し? 気持ちいいよ、もっとして」
撫でていると心が安らかになる。
なんでか、お姉さんよりも優位に立った気がする。
「お姉さんも可愛いですよ」
「君に言われたないわ」
「ほんとに」
「はいはい……ありがと」
本当にたまらなく可愛いからいっそのこと撫で回して抱きしめ尽くしてむちゃくちゃにしたくなるけど、お姉さんはそのまま寝入っていくから。
眠るまで静かに見守った。
どうすればお姉さんの好きな人になれますか?
って。
小さな声ですら囁けなかった。
店はその日繁盛していた。
それもどうやら俺が原因らしい。
「大丈夫やったん? なんか大変やったんやろ?」
そんな調子のお客様がたくさん来た。
聞いてる限りだと、その時そこにいたお客様がTwitterかなんかで呟いてそっから馴染みの客が全員来たらしい。
だから満員で。
「ほんまごめん、あとでお礼するから」
「いりませんよ、そんなの」
お姉さんは罰が悪そうにしてたけど、どう見ても手が足りてないから俺も手伝うことになった。
俺の顔はまだ腫れてて、それを見ると女性客は慰めてくれて、男性客は褒めてくれた。
「あいつも吹っ切れたみたいでよかったなあ」
気になる会話をしていたのはテーブル席の三人客だった。
「吹っ切れた、ですか?」
お姉さんに渡されたカクテルを置く。
「だって君を選んだんだろ? あいつ」
選んだ?
「ん? 付き合っとんちゃん?」
お姉さんが俺と?
……男として見てくれてるかも怪しい。
「吹っ切れた、が気になるんですけど」
「ああ、それは……なんでもない」
お客様が視線を落としてはぐらかす。
カウンターでお姉さんが鬼のようにお客様を睨んでいた。
「余計なこといいなや」
とても怒っているようだった。
中に戻るとぽんとお姉さんが俺の頭に手を置いた。
「帰ったら話すわ」
と言ってくれた
そのあとも仕事は続いて、でもどことなく仕事に身が入らない。
といっても、ミスをするような仕事内容でもないからいいけど。
お客さんが話しかけてきてもぼうっと返事を忘れてしまうくらい。
家に帰るまで気が気じゃなかった。
お姉さんの話っていうのは十中八九俺が知りたいことだろう。
お姉さんが好きな人のことだろうから。
家に帰って、お風呂にも入らずお姉さんは飲み物を用意する。
もちろん俺はコーヒーを頼んだ。
「飲めんくせに」
「飲めるようになります」
「ええやん、飲めんでも」
「嫌です」
「子供やなあ」
子供扱いされてついむくれてしまう。
「はい、どうぞ」
差し出されたコーヒー。
うげえ。
「それで、話してくれるって言ってたことなんですけど」
「華麗にスルーするやん」
ははっ、とお姉さんはいつものように快活に笑って、口を開く。