06*◆あなたが落としたのは……
本編完結後、ルドベキアとトゥイーディアの結婚後の話です。
目を開ける前に、劈くような頭の痛さを自覚した。
風邪を引いたとかではない、これはどこかに頭を打ったのかも知れない――とにかく、逃れようのないすごい痛み。
う、と無意識のうちに呻いて目を開ける。
「トゥイーディア!!」
目の前に、あるはずのない顔を見て、私はぽかんとした。
――漆黒の髪、深青の瞳、整った精悍な顔立ち、たぶん世界一かっこいい男の人。
彼がいることは別に不思議ではない。なにしろ私たちは救世主仲間だから。
だから、近くにいてくれることについて自惚れるには値しないが――あれ?
頭痛がひどい。
眉を寄せる。
それに反応する彼の表情が――おかしい。
――いつもの、あの蛇蝎を見るような目はどうしたの?
私が口を開くだけで顰められていた表情をどこへやったの?
私の話を聞くときにはいつも、「うるせぇな」と言わんばかりに寄せられていた眉はどうしたの?
その、自惚れてしまいそうになる、私のことが心配で堪らないっていう表情はなに?
――今って、なんだっけ。
どういう状況だっけ。
何か、彼が演技をしないといけないような局面だったっけ――思い出せない。
頭の中が混乱していて、上手く状況を把握できない。
彼が――ルドベキアが、ますます私に顔を近付けた。
近い近い!
私は思わずぎゅっと目を瞑り、しかしながらすぐに思い直してかっと目を開けた。
演技でもなんでも、彼が私に優しくしてくれるなんて初めてのことだ。
見逃してはもったいない。
ルドベキアは眉を寄せている。
しかしそれも不機嫌そうな表情ではなくて、本当に心配しているというような憂い顔。
もしかしたら私の後ろに誰かがいて、その人のことを心配しているのかも知れないが――それでいい。
もういい。
この表情を思い出すだけで、私はこの先千年頑張れる。
ちょっと泣きそうだ。
涙ぐむ私をまじまじと見てから、ルドベキアは――信じられないことに――片手を上げて、その手で軽く私の頭を撫でた。
「――――っ!」
気絶しそう。
一体どうしたの。
ものすごい勢いで顔が赤くなっていることを自覚するが、どうしようもない。
そしてあろうことか、その馬鹿丸出しの私の顔を見て、ルドベキアがふっと笑った。
その笑顔を、何と言おう――優しげな、慈しむような苦笑――私に向けてもらえるとは、一度も思ったことのない笑顔。
呼吸が怪しくなってきた。
息をして、この空間を壊してしまうことが憚られる。
身動きも出来ない。
涙を堪えることで必死になってしまう。
「――大丈夫か?」
ルドベキアが尋ねた。
何がだろう、分からないけれど、とにかく私は頷いた。
その拍子にまた、劈くように頭が痛み、無意識のうちに顔を顰めてしまう。
それを見て取ったのか、またしてもルドベキアが憂い顔。
――かっこいい。
飽和状態にある恋情、報われるはずのない恋情が、なおもぎゅんぎゅんと体積を増して胸の中に蓄積して、心臓がぎゅうっと締め付けられた。
「痛む? ――アナベル、カルに、トゥイーディアが目を覚ましたって言ってきてくれ。あと、氷の替えもほしい」
アナベル?
私は瞬きして、そうっと視線を動かした。
ルドベキアの隣に、こちらも心配そうなアナベルが立っていて、私と目が合うとほっとしたように微笑んだ。
――あれ、何かがおかしい。
ルドベキアのように明らかな異常があるわけではないけれども、おかしい。
なんというのか――いつものアナベルより雰囲気が柔らかいというか。
それに、氷の替え?
何を言っているんだろう――確かに、自覚してみれば頭の左側の辺りに冷たさがあって、たぶん冷やしてもらっているんだろうなということは分かるけれども、どうして替えなんかが要るの?
アナベルなら、何もないところからこの部屋をいっぱいにするくらいの氷を生み出すことは訳ないのに。
そこまでではないけれど、ルドベキアだって――
この部屋。
見覚えがない。
ゆっくりと視線を巡らせてみると、温かみのある内装の、小さな部屋だ。
窓辺に一輪挿しの花がある。
――ここはどこだろう?
じゃっかん不安になる私を他所に、アナベルはほっとした様子のまま、ルドベキアに向かって言っていた。
「――もう、だから心配し過ぎなくても大丈夫って言ったじゃない。今のイーディは身体も頑丈に決まってるでしょう。リリタリス卿の娘なのよ。
なんであたしが、あなたが世界を滅ぼす暴挙に出るんじゃないかってひやひやしなきゃいけなかったのよ、まったく」
はい? リリタリス卿って誰のこと?
ぽかんとする私を後目に、アナベルが寝台の傍を離れて、扉を開けている。
そして、やや大きな声で呼ばわった。
「カルディオス。カルディオス! イーディが目を覚ましたから、医師に伝えて――」
部屋の外から、「良かった! ルドはなんもしてねーな!?」という、カルディオスの声が聞こえてきた。
――何かがおかしい。
どんどん不安になる私の顔を、心臓が止まるくらいの間近で覗き込んで、ルドベキアが首を傾げた。
「――大丈夫か? まだ痛むだろ。ごめんな。
気持ち悪くない? 喉乾いた? 水は要る?」
矢継ぎ早にどんどん私を気遣ってくれるルドベキアを見て、そのとき私は、唐突に悟った。
この不可解な状況に筋が通る説明は一つしかない。
これは夢だ。
◆*◆
久し振りにカルディオスとアナベルがこっちに来られるということなので、俺が迎えのために広場に出ていたのが悪かった。
俺とトゥイーディアの住まいは、コリウスの生家の領地の一部である港町シェルケからほど近い、シェルケと領都のあいだに位置する山間部の小さな町にある。
以前までは、シェルケから汽車の軌道が通っていた便利な立地だったが、汽車が死んだ今となっては残されているのは軌道のみである。
とはいえ人間の根性も伊達ではなく、今はその軌道を馬車道として活用して、シェルケから領都まで続く乗合馬車が通っている。
世界が引っ繰り返ったあとなので、身分と責任のあるコリウスとカルディオスは毎日めちゃくちゃ忙しい――
カルディオスはまだマシで、すっかり悄然としたお父さんの尻を叩いて彼を商人として育て、軍事一本でやって来た彼の家を、なんとか商家として立ち直らせようとしているところなのだが、大商人の息子として生まれたこともある経験が生きているのと、こいつは結構そういう心労を上手く受け流すことに長けているので、まだけろっとしている。
一方悲劇はコリウスで、ただでさえ抱え込みがちな気性に加えて、領内のあらゆる問題が、辺境伯である彼の父親だけでは捌き切れず、どんどんコリウスの頭の上に降ってくるものだから、しばらくは見ていられないほどの憔悴ぶりだった。
しかも世双珠がなくなったがために経済がぶっ壊れ、それをなんとかするに当たって雇用を生まねばならないとのことで、コリウスが手ずからいくつか会社を興したが、その運用もあって身体がいくつあっても足りないという有様だったらしい。
ある日突然ぶち切れて、ただの使用人に過ぎないはずのディセントラにあらゆる仕事を丸投げし、「助けに来て」と俺とトゥイーディアに手紙を出してきたときにはびっくりした。
こいつも他人に頼れるようになったんだな――と感涙を拭って助けに行ったが、書類に埋まって不貞腐れているコリウスのご機嫌とりには時間を喰った。
「この会社とこの会社の在庫の数が帳簿と取引歴で合わないんだが」と、くっきりと隈を作った顔でご立腹だったので、計算程度ならやるよと申し出てみたところ、以前なら絶対に有り得ない感動の目で俺を見て、「愛してるよ」と言い置いて寝に行った。
ディセントラもトゥイーディアも爆笑していたが、俺はけっこうぞわっとした。
――閑話休題。
とにかく、カルディオスも平気な顔をしているが、それに匹敵する忙しさであるはずで、そんな中で、「しばらく休めるからアナベルとそっちに会いに行くね」と手紙が届いたときの俺とトゥイーディアの喜びようはお察しだろう。
ちなみにその報せをこっそりディセントラにも回したところ、コリウスとディセントラも何が何でも会いに来るということで、明日にはこっちに着くはずなのだが――
――反省点としては、俺が先にカルディオスとアナベルを迎えに広場に出たことだ。
トゥイーディアは、「アナベルが好きそうなお菓子を買ってから行くね」とのことで、乗合馬車の到着時間は読みづらいこともあるが、もしかしたら俺がカルディオスたちと合流して、そのうえでトゥイーディアと合流することになるかもな、と話していた。
実際はこれだ。
事の経緯は俺よりカルディオスの方が詳しいが(何しろ俺からすれば、経緯を把握するどころではなかった)、窓から何かを落っことした誰かがいて、その真下に子供がいたので、咄嗟にトゥイーディアが助けに入り、その何かを躱したトゥイーディアが転び、受け身を取り損ねて頭を打った、ということらしい。
周辺に散乱していた破片から推して、落ちてきたものはたぶん、窓辺に置かれていた陶器の置物。
お義父さんに鍛えられたトゥイーディアが受け身を取り損ねるなんてことがあるわけないので、間違いなく、トゥイーディアに庇われたガキがパニックを起こして暴れて、彼女が足を滑らせたのだ。
トゥイーディアが間違いなく大丈夫だと分かったら、俺はそのガキと、そもそも窓から置物を落っことした馬鹿と話をつけに行かねばならない。
「奥さんが」と近所の人から知らせを受けたのは、ちょうど俺がカルディオスとアナベルを迎えたときだったが、そこから先しばらくの記憶が俺にはない。
気付いたときには完全にパニック状態でトゥイーディアを抱え上げており、後ろからカルディオスが、「気絶してるだけだから、この馬鹿!」と怒鳴っていた。
そこから町医者の先生のところに彼女を運び込み、現在に至る。
アナベルがうんざりしながら話していたところによると、トゥイーディアの大事故に騒然としていた周囲の人が、途中から完全にトゥイーディアではなく俺を見て、「落ち着いて!」と叫んでいたというが、俺は覚えていないし、仮にそれが本当だったとするとトゥイーディアにばれると困る。
俺は真剣に、トゥイーディアが目を覚まさないようなら、――あれだけ頑張ったけれども――兄ちゃんには申し訳が立たなくなるけれども――魔王の権能を使ってでも彼女を治さねばならない、と思い詰めており、それが顔にも出てしまっていたのか、カルディオスとアナベルの緊張度合いはすごかった。
カルディオスは最初のうち、ずっと俺の肩を押さえていたくらいだ。
途中、先生が、トゥイーディアが事故の拍子に落としていた髪飾りを届けてくれたけれども、まずはトゥイーディアが目を覚ましてくれることが先決なので、俺は頑としてトゥイーディアの手を離さず、それを受け取ったのはカルディオスだった。
――だが、本当に良かった――トゥイーディアは目を開けてくれた。
それまで俺は周りの音も聞こえないくらいで、本当にトゥイーディア以外は見えていなかったのだけれども、彼女が目を開けた途端に全てが正常に戻った。
とはいえ、目を覚ましたトゥイーディアの様子がおかしい。
しきりに怪訝そうにしているし、やたらとまじまじと俺を見るし、アナベルにもなんだか訝しそうな目を向けている。
頭が痛むのか、時おり蟀谷を押さえて目を閉じており、その度に気弱な俺の心臓は縮み上がった。
カルディオスはほっとした様子で部屋に駆け込んできたが、トゥイーディアが髪を解いているので気まずそうな顔をしていた。
既婚の女性は、髪を下ろして項を隠した姿を、夫以外の異性には見せないものだからね。
とはいえ、まあ、今は緊急事態だから。
俺も気分が良くはないけど。
もうずいぶん年配の先生が、よっこらせとばかりに部屋に入ってきて、一様に下がって場所を開けた俺たちに会釈してから、よぼよぼの目でトゥイーディアを観察した。
トゥイーディアもなんだか神妙な顔をしている。
気分は悪くないかね――大丈夫です。
吐き気があったりするかね――いえ、ありません。
頭は痛むかね――はい、ちょっと。
自分の名前は分かるかね――はい、トゥイーディアです。
あそこの方々は分かるかね――はい、ルドベキア、カル……カルディオス、アナベル。
いくつか問答したうえで、先生は俺を振り返った。
「さっきも言ったけれども……裂傷も切傷もない、打ち身だよ……。
もう大丈夫だから……今日はゆっくり休ませてあげて……静かな環境でね。また何かあったら……うちに来なさい」
俺は頷いた。
何かあったらどうしようと思うと、俺は気が気でない。
頭を打つのは洒落にならない。
俺の兄貴のチャールズだって、雲上船が引っ繰り返ったとき、俺が頭を打ったかどうかを真っ先に気にしてくれたのだ――そのときの状況は考えない。
よたよたと先生が去っていくと、俺は真っ先にトゥイーディアに駆け寄って、寝台に座る彼女の手を取って膝を突いた。
「トゥイーディ、イーディ――本当に気分は大丈夫?」
トゥイーディアは、なぜか俺が握った自分の手をじっと見た。
そのまま微動だにしないので、怖くなった俺が、「トゥイーディア?」ともういちど呼び掛けるに至って、はっとしたように俺を見た。
「えっ? あ――うん」
「立てそう?」
俺たちの家は町の外れにあるが、俺がトゥイーディアを抱えていくのも吝かではない。
だが、トゥイーディアは慎重に頭を動かして、頷いた。
「うん――だいじょうぶ……」
なんとなく口調がたどたどしい。
俺はどんどん恐怖に駆られていった。
「なあ、本当に大丈夫か? 気分が悪かったり――頭はどのくらい痛いの? 他に痛むところは? 俺、うるさい?」
トゥイーディアはゆっくりと首を振った。
なんとなく、こわごわと動いている感じがして、俺はいっそう怯えてしまった。
「トゥイーディ?」
「本当に大丈夫」
トゥイーディアが言って、ゆっくりと寝台から脚を下ろして、立ち上がろうとする素振りを見せた。
俺は慌てて立ち上がり、彼女に手を貸して、立ち上がったトゥイーディアの肩をそうっと抱き寄せて、彼女を自分に寄り掛からせた。
トゥイーディアは俯いた。
カルディオスもアナベルも心配そうに俺を見ていたが、トゥイーディアの方はあんまり心配していないみたいだった。
なんでだよ。
「もっとひどい怪我してるところも見たことあるだろ。おまえ、マジでイーディのことになるとやばいな」
カルディオスがむしろ感心するようにそう言ってきたので、俺はいらっとした。
「状況が違うだろ」
「そりゃそうだけど」
カルディオスは軽く肩を竦めて、アナベルを見遣った。
「じゃ、俺たちどーしよっか? 静かにしてた方がいいなら、俺たちはルドの家に泊まらない方がいいね」
「そうね」
アナベルは無表情に頷いて、事も無げに言った。
「そもそも宿を取ってたでしょう。そこに泊まるわよ」
「アナベルさーん」
カルディオスは悲しそうな顔をした。
「それ、一室だけ。俺の分がない。俺、ルドん家に泊まるつもりだったから……」
「そうね。なんとかしなさいよ。
――まさかあたしと一緒に泊まりたいんじゃないでしょう?」
冷ややかに言われて、カルディオスはじゃっかん悲しそうに項垂れて見せる。
「まあ……ルドの家にさえ泊まらねーくらいだもんね……。俺だってそんなことして、シオンさんに刺されたくねーよ……」
トゥイーディアが、弾かれたように顔を上げた。
愕然とした様子でカルディオスを見るトゥイーディアにただならぬものを感じて、俺は思わず彼女の顔を覗き込む。
「どうした? トゥイーディア?」
トゥイーディアの飴色の瞳が、ぎこちなく動いて俺を見て、それからゆっくりと伏せられた。
「――……ううん、なんでも……」
「そうか?」
しばらくじっと見ていたが、トゥイーディアはそれ以上は言わなかった。
俺は渋々彼女から目を離し、カルディオスを見遣った。
「別に、俺たちの家に泊まるのでいいと思うけど」
「あ、いや、神経過敏になったおまえと一つ屋根の下にいたくない」
カルディオスは素早くそう言って、翡翠の瞳を細めてにっこり笑った。
「まあ、だいじょーぶ。俺、泊まる家に苦労したことはないんだよね。――アンスには言うなよ」
トゥイーディアが怪訝そうに眉を寄せ、それから小さく息を吐いた。
俺は慌てた。
「悪い、トゥイーディア。帰ろうか――ほんとに歩ける?」
トゥイーディアはこくんと頷いた。
俺は半信半疑ながらもほっとしたが、焦るがあまりに重要なことを見落としていた――
――すなわち、普段の彼女であれば、「せっかく来てもらったのにこんな騒ぎになってごめんね」とカルディオスとアナベルに言ったに違いないということを。
◆◆◆
トゥイーディアは、帰路においてもゆっくりと歩いた。
眩しそうに頻りに周囲を見渡していて、俺が握っている彼女の手をやたらとじっと見て、俺が彼女の肩を抱くと顔を伏せる。
明らかに様子がおかしく、顔見知りのおばさんから、「さっきは大丈夫だった? 大騒ぎになってたわね!」と声を掛けられたときも、びっくりしたようにまじまじと相手の顔を見て、ちょこんと会釈をしただけだった。
代わりに俺が答えて、「頭を打ったみたいで」と言い添えると、おばさんは気の毒そうに俺を見てきた。
「あらら……。気が気じゃないみたいね」
そりゃそうだろ。
そのあと俺が、トゥイーディアが庇ったというガキが誰だか心当たりがあるかと尋ねてみると、おばさんは気まずそうに目を逸らして口籠っていた。くそ。
町の外れの、広い庭のある家に帰ってきたときには、既に日が暮れかかっていた。
そのときも、トゥイーディアはなんだかまごついているように見えた。
この家は、コリウスが見つけてきてくれたときに彼女も感動していたから、気に入っているはずだけれども――なんでだ。
庭の門戸を空けて、小径を通って玄関へ。
どことなくぽかんとした様子で家を見上げるトゥイーディアに、「大丈夫?」と重ねて問いながら中に入ると、トゥイーディアもおずおずと、手を引かれるがままに入ってきた。
そのまま、まるで初めて入った場所を見るように玄関を見回している。
「トゥイーディ?」
トゥイーディアははっとしたように俺に目を戻し、はにかんだ様子で微笑んだ。
かわいい。
その表情にようやく少しほっとして、俺は彼女の手を引いて居間へ向かった。
居間の暖炉の上には、お義父さんの二振りの剣が交差して掛けられている。
明かり取りの小窓には色硝子が嵌め込まれていて、俺はけっこうこれが気に入っていた。
ともかくも彼女を安楽椅子の上に座らせて、俺はその前で膝を突く。
トゥイーディアはきょときょとと落ち着かない様子で視線を動かした。
そのまま、もじもじと膝の上で手指を組み合わせているので、俺はそうっと彼女の手を握る。
「何か、食べられそうなもの――食べたいものはある? 作るよ」
トゥイーディアが、ふるふると首を振った。
俺は眉を寄せる。
そもそも今日は、カルたちを呼ぶ予定だったので、食事の支度は大体のところで整っている。
「作ってあったスープは? それも要らない?」
ふるふる、となおも首を振るトゥイーディア。
俺は心配の余り腹が痛くなってきた。
「な――何か要らない? せめて何か飲んで」
トゥイーディアが困ったように眦を下げたが、俺は軽く彼女の頬に口づけして、「ちょっと待ってて」と言って立ち上がった。
トゥイーディアが目を見開いて固まり、俺がコップにミルクを入れて戻ってきても、しばらく茫然としているままだった。
腹だけではなくて、頭の芯の方も痛くなってきた。
そろそろとミルクを飲んでいる最愛の人を見詰めながら、俺はじゃっかん涙ぐんでいたかも知れない。
「なあ――ほんとに大丈夫か?」
トゥイーディアはこくこく頷いて、その健気さに、いっそ俺の胸は痛んだ。
「だい――大丈夫よ。ほんとに大丈夫。
きみ、その……――大丈夫」
俺は息を吸い込んで、ちょっとのあいだ目を閉じた。
なぜかそのとき、ヘリアンサスのあの言葉を思い出した――『この世界は、おまえを幸福にするためにある』。
目を開けて、俺はミルクを飲み終わったトゥイーディアの手からコップを受け取り、彼女の手を軽く引っ張った。
「――疲れただろ。取り敢えず、着替えて――早めに休もう」
きょとんとする彼女の手を引いて、寝室へ。
なおもぽかんとしている彼女に断りを入れてから、彼女の衣裳棚から部屋着を取り出して、彼女に渡す。
それを見下ろして首を傾げる彼女に、「着替えて」と念押しすると、ようやく彼女は頷いた。
どんどん不安になってくるので、俺はとにかくもいちど彼女をぎゅっと抱き締めて、「着替えといてくれ」ともういちど念押ししてから、寝室を出て扉を閉めた。
この家を見つけてくれたとき、俺はめちゃくちゃコリウスに感謝し、奴がドン引きするほど熱烈にお礼を言い、なんならあいつを抱き締めかねないくらいだった。
その理由の一つが、この家の特殊な立地だった。
なんとこの家、温泉が湧く近くに建てられていて、その温泉からお湯を引いているのである。
そのお蔭で、世双珠がなくとも入浴が出来るという、滅多にない幸運に恵まれた。
そのお湯場から盥に湯を掬い、タオルと一緒に寝室へ持っていく。
いちおう扉をノックして、応答を確認してから扉を開けると、着替えを終えたトゥイーディアが所在無げにしていた。
彼女が脱いだ服は、丁寧に畳まれて寝台の傍の椅子の上に置かれている。
俺はほっとして、トゥイーディアを寝台に座らせて、盥をサイドテーブルに置いた。
お湯にタオルを浸けてぎゅっと絞り、トゥイーディアの隣に腰かけて、不安そうにする彼女の手を拭う。
続いて、温かさにほっとしたように表情を緩ませたトゥイーディアの頬と額を拭い、首筋を拭うと、トゥイーディアがくすぐったそうに身を捩った。
「自分でする……」
「いいから」
なんとなく、俺はほっとした。
これはいつもの遣り取りに近い。
夜は――愛し合ったあとは――大抵、トゥイーディアがぐったりすることが多いので、俺が彼女の身体を拭うが、その度に恥ずかしそうに「自分でするから」と言うのが彼女だ。
寝台から下りてトゥイーディアの前に膝を突き、靴を脱がせて彼女の足を拭う。
じゃっかん冷えていた彼女の足指が、温かさを拾って微かに色づいた。
トゥイーディアは恥ずかしがるように両手で顔を覆ってしまう。
タオルをいったん盥の中に放り込み、トゥイーディアの隣に戻って彼女の目を覗き込み、俺は尋ねた。
「なあ、ほんとに大丈夫か? 変だ――ちょっとでもおかしいことがあったら言ってくれ」
トゥイーディアが大きな飴色の瞳を見開いて、それからそれを、ふい、と俺から逸らした。
「大丈夫」
「おまえに何かあったら耐えられない」
ぼそっと呟くと、トゥイーディアが咽た。
俺はぎょっとした。
「トゥイーディ?」
「大丈夫――大丈夫よ。何もないわ。大丈夫――ほんとに……」
顔を上げたトゥイーディアが、少し涙ぐんでいる。
少なくとも、苦しいのを我慢している顔ではなかった。
それに――トゥイーディアは俺のことを好きでいてくれているから――俺が耐えられないと言ったことを、無理に隠し立てするようなことはないだろう。
まだ不安はあったが、それでも少しばかりほっとして、俺はトゥイーディアの頭をそうっと撫でた。
トゥイーディアが赤くなった。
そのまま潤んだ目で俺を見てくるので、殊トゥイーディアに対してはぽんこつに過ぎる俺の理性はあっさり白旗を揚げた。
トゥイーディアの方に身体を傾け、彼女の頭を撫でた手でトゥイーディアの小さな頭を柔らかく引き寄せて、俺はトゥイーディアの唇に軽く口づけた。
――そして、びくっとした。
いつもこういうときは、トゥイーディアはすぐに甘えるように身を寄せてきてくれる。
それが、今はあからさまに身体を硬直させた。
慌てて身を離して、両手を挙げて寝台から立ち上がり、床に膝を突く。
トゥイーディアは愕然とした、信じられないという目で俺を見て、彼女自身の唇に手を触れて、蕃茄も斯くやという勢いで真っ赤になっている。
泣き出す寸前に見えて、俺は混乱した。
――トゥイーディアは、嬉しいときや感極まったときにしか泣かない。
なら、俺の今の振る舞いは嫌ではなかったはずだ――それなのにどうして、急に甘えてくれなくなったんだ?
「ごめん――」
俺は呟いた。
混乱と傷心で胸が痛んだ。
「――ごめん、嫌だった?」
そこまで言って、俺は自分の馬鹿さ加減に呆れ返った。
思わず実際に自分の頭を叩いてから、俺は言った。
「ごめん、傷が痛かったか?」
「…………」
トゥイーディはなおしばらく、信じられないという顔で俺を見ていた。
手が震えている。
顔は真っ赤のままだ。
俺はおずおずと膝で下がった。
「ほんとにごめん……」
「っ、違うの!」
唐突に、すごい勢いでトゥイーディアが叫んだ。
「違う、嫌なわけない、すごく嬉しくて――」
その勢いに、今度は俺がびっくりした。
「落ち着いて――怪我に響く」
「痛くない――痛くないわ、ほんとよ」
言い募るトゥイーディアの様子に嘘はなさそうだったので、俺はまたおずおずと立ち上がって、再び彼女の隣に腰かけた。
トゥイーディアが、恐る恐るといった様子で、小さく震えながら俺の方に身体を寄せてきてくれた。
ほっとして、俺はトゥイーディアの腰を抱いた。
――まさか、怪我をしているのに口づけされるとは思ってなくて、びっくりしたのかな。
そう思いながら、俺はゆっくりと、傷に響かないよう注意を払って、トゥイーディアの長い蜂蜜色の髪を撫でて、毛先を指に巻きつけた。
トゥイーディアが俯いて、小さく震えている。
――まるで、呪いが解けた直後みたいに。
俺はぎゅっと彼女を抱き締めて、促した。
「疲れただろ。今日はもう休んで」
寝台に座るトゥイーディアの膝を掬うようにして半ば抱え上げて、寝台の上でくるっと彼女の向きを変えて横たえようとすると、トゥイーディアが嫌がるように俺の手を握った。
「やだ……眠りたくない……」
そのあとに、彼女が何か言葉を続けた。
あまりにも小さな声だったので、俺には「――覚めちゃう……」という部分だけが聞き取れた。
なんのことか分からず、俺は眉を寄せる。
「トゥイーディ、ちゃんと休まないと怪我が治らない」
俺はそう窘めて、トゥイーディアの身体を掛け布でくるむ。
そして、なおも駄々をこねるように首を振るトゥイーディアの頭を撫でた。
トゥイーディアが俺を見て、唇を震わせている。
すん、と鼻を啜って、彼女が小さく囁いた。
「お願い、どこにも行かないで……傍にいて」
「…………」
俺の奥さんがあんまりにも可愛い。
俺は間抜け面を晒しただろうが、幸いにもトゥイーディアがそれを気にする様子はなかった。
数秒して、俺は慌てて表情を取り繕った。
ついでに鼻血が出ていないかも確認した。
大丈夫だった。
「お――おう。大丈夫、ずっと隣にいるよ。だから、気分が悪くなったりしたらすぐ言うんだぞ。腹が減ったら言って――なんか作るから。いいな?」
トゥイーディアはこくこく頷いた。
かわいい。
違う、そうじゃない、今日は彼女を心配する日だ。
でもかわいい。
そっと彼女から離れようとすると、トゥイーディアが慌てたように俺の手を両手で握って縋ってきた。
これにはちょっと変な声が出た。
かっ……かわいい……。
「離れないって言った……」
責めるように俺を見てそう言うので、俺は再度、自分が鼻血を出していないことを確認しつつ、なんとかいつも通りに笑って、彼女を宥めてぽんぽんと頭を撫でた。
「大丈夫、着替えてくるだけだって」
「ほんと?」
かっ……かわいい……。
俺はなんとか苦笑を作った。
「ほんと。すぐ戻るよ。ってかこの部屋で着替えるし」
トゥイーディアが赤くなって、ぱっと俺の手を離した。
そして自分の両目を覆ってしまう。
「見てません」の格好に、俺は思わず笑ってしまった。今さらなのに。
手早く着替えてトゥイーディアの隣に戻ると、彼女はおずおずと、なんか人に慣れたての猫みたいに、俺の胸に擦り寄ってきた。
かわいい、すっげぇ可愛い、なんでこんな……。
トゥイーディアの頭を撫でて、蟀谷に軽く口づけをして彼女を抱き寄せて、俺は目を閉じた。
トゥイーディアは縋るように俺の服の裾を握っている。
いつもは普通に腕を回してきてくれるのに、どうしたんだろう……
でも、どうやら、傷が痛んで眠れないとか、そういうことはないみたいだ。
良かった――
と、暢気に思っていた俺が馬鹿だった。
翌朝、俺は飛び起きた。
トゥイーディアの尋常ならざる悲鳴で。
「きゃあああ!」
きゃあ、だと。
トゥイーディアが。
レイヴァス一の剣士に薫陶を受けた騎士が。
何があった。
即座に跳ね起きた俺、既に起きており、寝台の上で座り込んでいるトゥイーディア。
寝癖がついていて可愛い――ってそうじゃない。
悲鳴を上げ、両手で口許を覆ったトゥイーディアは間違いなく俺を見ている。
俺は茫然とした。
トゥイーディアは零れんばかりに目を見開いて、半泣きの声で言った。
「……な――なんできみがここにいるの……」
「――――は?」
鈍い俺の頭が、ようやく働き始めた。
どうやら、重大な行き違いがあるようだ。
◆◆◆
カルディオスは死ぬほど笑った。
あまりにげらげら笑うので、家が揺れるかと思うほどだった。
処は、俺たちの家の居間。
居間のテーブルを囲むソファの一画にカルディオスが、そしてその隣にトゥイーディアが座り、そしてそれとは別の一人掛けのソファに俺が頽れている、そういう構図だ。
ちなみにアナベルは、事の次第を呑み込むとすぐに、「ま、なんとかなるんじゃない?」とだけ言い置いて、さっさと――今日この町に到着する予定の――コリウスとディセントラを迎えに行ってしまった。
今朝、俺が真っ青になってアナベルの宿を訪ねて、「トゥイーディアが!」と言ったときには俺と同じく蒼くなったのに、なんだこの変わりよう。
一方のカルディオスは、顔を押さえて大爆笑。
こいつを捜し当てるのにも苦労したが、それも合わせて殺意が湧くほどの大笑い。
しかもトゥイーディアが――トゥイーディアが――
「あー、なるほどね。それでおまえ、世界の終わりみたいな顔してるわけね。
記憶が吹っ飛ぼうが自分が誰か分かんなくなろうが、イーディの気持ちが変わるわけねーじゃん。
あー、腹いてぇ……」
トゥイーディアは、そんなカルディオスに完全にくっ付いて、警戒するように俺を窺っている。
もうこれはカルを殺すしかない。
長年の友情もここまでだ。
カルを殺した上で、もういちどトゥイーディアを口説き落とすしかない。
そう決意した俺が立ち上がろうとしたとき、玄関の方で人声がして、どやどやと三人が入ってきた。
アナベルから大体の話は聞いたのか、コリウスが憂慮の表情、ディセントラも心配の表情。
居間の俺たちを見て、髪を解いているトゥイーディアに気まずそうにしてから、外套を脱ぎつつコリウスが呟いた。
「ルドベキア、大丈夫か」
俺は頷いた。
今からカルを殺すところだ。
とはいえ、それを察したのか、ディセントラが足早にこっちに近づいてきて、俺のソファの後ろに立ち、俺の肩を押さえてきた。
「こら、なに考えてるのか大体分かるけど、駄目よ」
こそこそ囁かれて、俺はぐっと我慢した。
我慢したのを褒めてほしくてトゥイーディアを見たら、トゥイーディアはなんだかショックを受けた様子で俺とディセントラを見ている。なんでだ。
再び俺がソファに崩れ落ちると、ディセントラは心配と呆れたのが半々のような目でトゥイーディアを見て、慎重に言った。
「――で、えーっと、イーディ。
なんか最近のことをごっそり忘れちゃったって聞いたんだけど?」
トゥイーディアは首を傾げる。
なおもカルディオスにくっ付いたまま。
俺の短い導火線には新たな火が点いた。
「最近のこと?」
「そーそー、マジでごっそり忘れちゃってるみたいだぜ」
カルディオスが横から言って、俺を指差した。
「で、ルドが世界の終わりみたいな顔してんの」
だってそうだろ……トゥイーディアが忘れてしまったなら、今の俺と彼女の関係を、既成事実として告げるわけにはいかないじゃん……。
ぶっちゃけ、その誘惑がないでもなかったが、もしも彼女の気持ちが今は俺にはなくて、俺との関係を告げることで衝撃を与えてしまったらどうしようと思うと、とてもではないが言い出せなかった。
それに、俺のことを好きでいてくれているとしても、「もう結婚してて」と言ってしまえば衝撃は大きいだろう。
だってその……付随していろいろ考えちゃうことがあるじゃん……。
「あんたのことを忘れられたわけじゃないでしょ」
ディセントラが手厳しく言って、典雅な仕草で蟀谷を押さえた。
「まあ、最近のことを忘れちゃったのは不便ね。――思い出してくれるかしら」
「だいじょーぶだって」
と、カルディオスがお気楽に言い、アナベルもぼそっと、「なんとかなるでしょう」と。
俺はいらっとしたが、カルディオスは邪気のない顔で笑っていた。
「アンスが言ってたもん。『この世界はルドを幸福にするためにある』って。
悪いことは起こらねーって」
親友(何度も自分を惨殺している)に対する信頼がでか過ぎないか。
俺がどんどん殺気立っていると、まずは状況を整理しようと思ったのか、ディセントラが軽く指を鳴らした。
「ええっと、イーディが頭を打ったのは昨日なのよね?」
ディセントラがそう言って、旅行鞄と外套を当然の顔でコリウスに突きつける。
コリウスは嫌そうにしつつもそれを受け取って、居間の隅に自分の分と合わせて置いた。
「それでどうして、今日になってイーディの異変が判明するのよ。昨日はイーディ、まともだったの?」
カルディオスが、はたとそれに気付いたようにトゥイーディアを見た。
「確かに。全然気付かなかったわ。頭打って混乱してるだけかなと思ってたんだけど――イーディ、昨日から実はなんも分かってなかったの? それとも、昨日はなんともなかったの?」
トゥイーディアは気まずそうに顔を伏せた。
「ごめんなさい……。昨日は……てっきり夢だと思ってて……」
「なんでまた?」
カルディオスが素っ頓狂な声を上げ、みんなも怪訝そうにする。
トゥイーディアは真っ赤な顔で俺を見た。
「だって……ルドベキアが優しいから……」
俺は項垂れた。
カルディオスはまた笑った。
「なるほどね。ルドが優しいなんてあるわけねーと思ったのか。
――で、イーディ」
稀代の美男子は、きらきらした笑顔でトゥイーディアを覗き込んだ。
「それっていい夢だったの、悪い夢だったの?」
トゥイーディアはますます赤くなった。
俺の表情はもはや無くなった。
「いい夢……覚めたら嫌だと思ってて……でも起きてもルドベキアがいるから、びっくりしちゃって……」
カルディオスが、いい笑顔で俺を見た。
「良かったな、ルド。覚めたくないくらいにはいい夢だったらしーぜ。
――って、うわ」
慌てたように言って、カルディオスがずい、とトゥイーディアを押し遣った。
「ちょ、離れて離れて、イーディ。俺、このままじゃルドに殺されちゃうよ」
「えっ?」
混乱したようなトゥイーディアに、俺は「そんなわけねぇだろ」と、辛うじて呟いた。
カルディオスを殺そうとしたのは事実だが、その狭い心をトゥイーディアには知られたくない。
「にしても、イーディ、やたらルドを警戒するね? どしたの、まさか手ぇ出された?」
カルディオスが朗らかに言って、トゥイーディアがますます真っ赤になって身を縮めた。
それを見て、カルディオスががらっと語調を変えて、「マジ!?」と俺を振り返る。
「ルドおまえ――」
「出してねぇよ!」
俺も名誉のために立ち上がって叫ぶ。
「出してない! これはマジで!」
叫んだあとで、「口づけはしたな」と思い当たった。
俺は固まった。
トゥイーディアと目が合ったが、彼女は唇を噛んでふいと目を逸らしてしまった。
俺はよろよろとソファに座り込み、頭を抱えた。
「ねえ、最近のことって、いつまでのことなら覚えてるのよ」
アナベルが言って、カルディオスの命を守ってやろうとしたのか、カルディオスとトゥイーディアの間に腰かけた。
カルディオスは感動の面持ちでそれを見て、俺に向かって、「姉ちゃんみたいなもんだから、下心はねーから」と、何度目とも知れない念押しをしてくる。
分かってるよ、分かってるけど、カルディオスはなんだかんだ言っても格好良すぎるんだよ。
「イーディ、シオンのことは覚えてるんでしょうね?」
アナベルが尋ねて、トゥイーディアが打たれたように怯んだ。
一拍置いて、「アナベル」と、カルディオスが窘める。
――このごろでは気軽に触れられるようになったが、この一生の記憶がないならば、トゥイーディアにとってはシオンさんのことは傷になったままであるはずだ。
とはいえ、トゥイーディアの反応からシオンさんのことを覚えていると確信したのか、アナベルは満足そうだった。
――最近知ったが、こいつは結構、シオンさんのことを忘れられることを恐れていたのだ。
シオンさんを覚えている人数が減るのは嫌なんだろう。
「へえ。じゃあ、リチャード――僕の恋人のことは?」
コリウスがさっくりと尋ねて、これには普通の表情で、むしろ顔を顰めて、トゥイーディアが頷いた。
まあ、俺たちは、コリウスがどれだけこいつの恋人のことを愛しているか、そのままであるのか、最近まで知らなかったからね。
カルディオスの方が動揺して、何も言えない様子で顔を伏せた。
コリウスはトゥイーディアの反応を見て、顔を顰めるディセントラに向かって頷いた。
「――ひとつ前の人生のことも忘れているな」
――あ、なるほど。
ひとつ前の人生の最期に、トゥイーディアはヘリアンサスから、コリウスに俺が掛けた呪いのことを聞いた。
つまり、それを聞いた記憶があれば、コリウスを裏切ったあの人こそが、コリウスが最も信頼した人だと分かるはずで、つまり今のような淡白な反応は有り得ない、ということだろうが――こいつ。
あのとき、俺たちの間に深い亀裂を入れて、完膚なきまでに信頼関係をぶっ壊した事実を、こういう場所で気軽に言うなよ。
――俺だけではなく、アナベルもドン引いた目でコリウスを見たが、まあ、こいつがあっさりとこんなことを言うということは、それだけあの人のことも乗り越えつつあるのかも知れない。
アナベルが肘でカルディオスをつついて、言外に彼を慰めた。
「イーディ、今の救世主は誰だって思ってるの?」
アナベルが尋ねて、トゥイーディアが曖昧に首を捻った。
「誰だろう……ええっと、多分私だと思うんだけど、これは――」
「――そうだ」
コリウスが、はっとしたように口走った。
「おまえたち、何を暢気にしているんだ。いちばん重要なことを忘れてどうする」
は? いちばん重要なこと?
「トゥイーディアに俺のことを思い出してもらうこと?」
俺が剣呑に呟くと、「違う」とコリウスに一刀両断された。
俺は奴を殴りそうになったが、コリウスは真顔で続けた。
「思い出すも何も、今も惚れられているだろう。落ち着け」
「わーっ!」
トゥイーディアが叫んだ。
アナベルが、彼女の頭を叩きそうな顔で隣を見た。
コリウスは、トゥイーディアの反応は華麗に無視して言葉を続ける。
その内容に、さしものトゥイーディアも真顔になった。
「――トゥイーディア、たぶん魔力量から、自分が救世主だと分かったんだろうけど、魔法を使うのは駄目だからね。些細な魔法でも駄目だ。いいね?」
「え? なんで?」
トゥイーディアがぽかんとして尋ねている。
俺はそれを聞きながらも、コリウスのたった今の言葉を思い返していた。
――今も惚れられている? マジ?
俺に対して妙に顔を赤らめたりするのは、じゃあ、そういう意味にとっていいの?
気持ちの上で前のめりになりながらも、俺はきっぱりと呟いた。
「でも、やっぱりさっさと思い出してもらわないと――」
「落ち着いたら?」
ディセントラが呆れたように言ってきたが、俺は断固として続けた。
「いいや、駄目だ。こいつ、自分のお父さんとお母さんのことも忘れてるんだぞ。ジョーのこともオーディーのこともメリアさんのことも――ティシアハウスのこともだ。駄目だろ」
みんなが一斉にトゥイーディアを見た。
彼女はぽかんとしている。
ややあって、コリウスが頷いた。
「ああ――駄目だな」
「駄目ね」
「駄目だな」
「思い出してもらいましょう」
それからしばらく、みんなでトゥイーディアの記憶の琴線に触れようと、あれこれと話してみたものの、全て空振った。
途中で食事にして、そのあともあれこれと話してみたが、駄目だった。
俺は相当へこんだ。
そのうちにカルディオスが俺を脇に呼んで、こそこそと俺にトゥイーディアの髪飾りを返してくれた。
「ごめん、昨日はけっこうおまえも俺も動揺してたから、返しそびれてたわ。傷もないよ、そこはだいじょーぶ」
俺は、受け取った蝶と藤花の髪飾りを矯めつ眇めつした。
黄金の煌めきに曇りはない。トゥイーディアはよくこれを磨いてくれている。
「ああ――ありがと」
そうしている間に夕方になり、「頑張れよ」と言い置いて、みんなが自分の宿に引き揚げていった。
カルディオスはふらふら遊びに行こうとしたのを、「僕の父の領地で勝手をするな」と、コリウスに耳を掴んで引っ張っていかれている。
俺はしんみりしてしまった。
今日だけは泊まっていってくれ、と思わなくもなかったが、トゥイーディアが連中を引き留める様子がない。
むしろ所在無げにしていて、俺はみんなが引き揚げたあとで、慌てて彼女に駆け寄った。
「トゥイーディ、大丈夫? なんか気になることある……」
そこまで言って、はっとした。
どうしよう、俺と一緒にいるのが嫌だと言われたら。
俺が出て行くしかないが。
だが、案に相違して、トゥイーディアがそう言う様子はなかった。
彼女は頻りに周囲を見渡しながら、もじもじと呟く。
「いえ、あの……みんなが当然みたいに、私ときみだけを置いていくから、なんでだろうと思って……」
「――――」
「それに……」
トゥイーディアがはにかむように言って、おずおずと俺を見上げた。
飴色の瞳が、淡い金色の睫毛の下から俺を見上げている。
――俺の恋情が、どっと溢れて心臓の鼓動が狂った。
俺は唇を噛んで、それを吐き出すのを堪えねばならなかった。
トゥイーディアが、俺のいちばん好きな角度で首を傾げた。
そして、本当に遠慮がちに呟いた。
「……きみ、私のこと嫌いじゃないの?」
「――――」
俺は息を吸い込んだ。
その息を少しのあいだ止めてから、俺はゆっくりと息を吐き、トゥイーディアの手を握った。
「心の底から……」
囁いて、俯き、俺はそのままその場で膝を突いた。
トゥイーディアがびっくりしたように後退ろうとしたが、俺は手を離さなかった。
「ルドベキア?」
俺はもういちど深呼吸して、先ほどカルディオスから返してもらった髪飾りを懐から取り出した。
そして顔を上げ、目を瞠るトゥイーディアを真っ直ぐに見上げた。
「トゥイーディ、イーディ、ディア。心の底から愛してる。
今も、これまでも、これから先もずっと、俺の唯一最愛のひと。
――前は頷いてくれただろ、もう一回頷いてくれ。何回でも幸せにするよ。
――もう一回、俺と結婚してくれる?」
「――――」
トゥイーディアが、雷に打たれたようにその場で固まった。
茫然とした様子で髪飾りを見下ろし、微動だにしない。
俺は泣きそうになった。
「トゥイーディ……」
「……――待って……」
トゥイーディアがうわ言のように呟き、片手で蟀谷を押さえる。
俺は思わず、もういちどトゥイーディアの手を握った。
たぶんみっともなかったと思うが、どうでもいい。
「待てない、頼む、いいって言って。なんでもする、この世界で俺がいちばんおまえを愛してる。信じてくれるならなんでもするよ」
詰め寄る勢いの俺に、トゥイーディアが一歩下がろうとした。
そして、俺がぎょっとしたことに、その場にへなへなと座り込む。
「トゥイーディ!」
慌てて彼女を支えると、トゥイーディアはもはや消え入りそうな声で呟いた。
「……待って、ほんとに――同じことを言うのはずるい……」
「――――」
俺は瞬きした。
「え?」
“同じこと”?
「え、おまえ――」
慌てて確認しようとすると、トゥイーディアはとうとうその場に座り込んだ。
「もう、結婚したことはちゃんと言ってよ……髪、下ろしちゃってたじゃない……」
確かに、誰一人として、俺とトゥイーディアの今の関係に言及はしなかった。
だからトゥイーディアは――この人生のことを忘れているのであればそれを知らないはずで――
「――――」
――思い出してる。
「マジか……」
――しかも、これはどう考えても、俺の二度目の求婚をきっかけにして。
目が回りそうになった。
すげぇ嬉しい。これは嬉しい。
トゥイーディアが、おずおずと俺の頬に指を沿わせてくれた。
「お父さまとお母さまのことを気にしてくれてありがとう……」
「いや、ああ……」
俺は安堵のあまりにその場に膝を折ったが、直後に、とん、とトゥイーディアに頭突きをされた。
「――私が何をきっかけにして全部思い出したのかをみんなに言ったら、一箇月は口利いてあげないから」
俺はトゥイーディアを抱き締めた。
トゥイーディアも俺の身体に腕を回した。
ほっとして息を吐いて、俺は腕の分だけ距離を置いて、トゥイーディアの顔を見た。
彼女の顔は真っ赤だった。
思わず、俺はにっこりした。
「んー、なんで?」
トゥイーディアは顔を背けた。
その耳までが赤かった。
「もう、――分かるでしょ、ばかもの」