次がきみの番だと知っていたら
その小さな屋敷は、花の中に埋もれんばかりだった。
大きくはないながらも、何世代にも亘って丹精込めて世話をされてきたことが窺える花たちが、今を盛りと咲き誇っている。
山間部の小さなその町の中で、これより立派な庭は他にはなかった。
庭の出入口を成す門には凌霄花のアーチがかかり、その花が咲くにはまだ一月ほどの間があったが、春を歌うように咲き誇る花々が、その香りが目に見えればどれほど美しい色になるかと思えるような芳しさで、幾重にもその石造りの小さな屋敷を取り囲んでいた。
その屋敷の中では、今しも一人の人間が、これはもう何十回目のことかと考えながら死にゆこうとしており、そして今際の際には会えるはずの、五人のうちの誰かが扉を開けるのを、開け放した窓から滑り込んでくる花の香りを頬に受けながら、じっと待っているところだった。
その町は小さな町だったので、見掛けない顔を見付けた人は、必ずその顔を二度は見詰める。
例に漏れず、その少年は一人当たり二度以上の視線を受けながら、小さな荷物を背負って店の前に立っていた。
彼は草臥れた顔をしていたが、旅路を思えばそれも仕様のないことではあった。
汽車を使ってはるばる二箇月、ようやくこの町に辿り着いたときには、懐かしさと安堵で涙が出たほどであった。
とはいえその涙は、今はもう綺麗に拭われている。
「……万が一、死に掛けてるのがカルだったら、臨終間際に爆笑の種を撒くことになっちまう……」
少年は呟いた。
珍しいほどの漆黒の髪を持っており、白い肌に整った容貌――年齢はまだ十ほどか、それにしても大人びた表情をしていた。
見れば黒い瞳のようだったが、日光に当たるとその瞳は、はっとするほど空にそっくりの色に透けて見えた。
少年の背後で、駅から出る汽車が汽笛の音と黒煙を噴き上げた。
少年は覚えず苦笑する。
――遥か昔、もう何百年も前には、汽車は今と全く違う原理で動いていた。
その時代を知るものは、今この世界にただ三人しかいない。
彼と、南の孤島で退屈を持て余している彼の「父さん」と、
「――誰にしろ、俺たちの家で死に掛けてる誰か」
少年はぼそっと呟き、伸びをする。
今はもう、汽車は燃える石を燃料に走るようになっている。
燃える石ってなんだよ、と彼が絶句したのはさておいて。
「まあ、家まで行けば、みんなが手紙でも残してくれてるだろうし……」
ぼそぼそと独り言ちながら(何しろ、一人旅は独り言が増える)、少年はふらりと足を踏み出した。
別段急ぎはしなかった。
彼が、誰にしろ今死に掛けているだろう誰かと会って、言葉を交わすことが出来る時間は決まっている。
走って行ったからといって多くの時間が共有できるわけでもなく、ぐずぐず先延ばしにしていいものでもない。
彼はゆっくりと道を下って、やがて店の軒先から溢れんばかりに花を並べている、花屋の前に辿り着いた。
こんな町で生花を売って、買い手があるものなのか。
それを懐疑的に思いつつ、彼はその隣にある、パン屋の方へ目を移す。
だがちょうどそのとき、花屋の奥から若い娘が出てきた。
いや、まだ十歳の少年から見て、本来であれば若いも何もないはずなのだが。
「あら、坊や、お遣い?」
花屋の娘が言った。
少年は妙に達観した笑みを浮かべると、花屋の娘を見上げて肩を竦める。
「まあ、そんなとこ。ねえきみ……じゃないや、お姉さん。
町の外れに、結構綺麗な庭のある、小さい屋敷があるだろ? 凌霄花とか、金木犀とかが植わってる」
そう言いつつも、少年は口の中で、「誰かが枯らしてなければ」と付け加えた。
その最後の一言は花屋の娘には聞こえなかったらしく、彼女は「ああ!」と、大声で肯う。
「あそこね! なになに、きみ、あそこのおばあさんの親戚?」
「おばあさん」
少年は真顔で復唱し、また口の中で呟いた――「ってことは、アナベルか、ディセントラか……」。
「親戚――じゃないけど、そんなとこ。
訪ねてきたんだけど。あそこに住んでる人ってさ」
「あの老嬢でしょ?」
笑い含みにそう言われ、少年は眉を上げた。
「老嬢?
――ってことは、アナベルじゃねぇな……」
呟いて、唐突に何かに急かされたかのごとく、少年は勢い込んで尋ねた。
「その人――あの、なんつうか、笑うとめっちゃ可愛い、じゃなくて笑わなくても可愛いんだけど、頭が良くて優しくて、――ああもう、分かんないか、とにかく綺麗な飴色の目をしてる人?」
花屋の娘はやや茫然として少年の言葉を聞いていたが、ぷっ、と噴き出した。
「なになに、ちょっと、坊や、昔あの人に惚れてたおじいさんか誰かに言われてきたの?
――えーっと、そうね、あんまり知らないけれど、品のいいおばあさんよ。
目の色ねえ、どうだったかしら」
少年は苛立たしげに足踏みした。
「赤っぽい感じではなかった?」
「赤くはなかったかな、確かに」
少年は息を止めたようだった。
彼が束の間俯いて、両手で顔を覆った。
呻くように彼は呟いた。
「……――何百年ぶりだ……?」
その声は花屋の娘には聞こえなかったようだった。
彼女は面喰らっている。
「ちょっと、どうしたの?」
「――なんでもない」
顔を上げて、少年はちょっと額髪を直した。
そして眉を寄せたが、綺麗に拭ったはずの涙が、また目尻に光っていることには気付いていないようだった。
「……なあ、お姉さん。俺、子供っぽく見える?」
花屋の娘はますます面喰らったらしい。
きょとんと瞬きして、首を傾げる。
「え? ――さあねえ、どうかしら。この辺の悪ガキに比べれば、ずっと大人びてるわよ、坊や」
「……それじゃ駄目なんだけどな」
呟いて、少年はちょっと鼻を啜る。
「なあ、その老嬢って、未亡人なの? それともずーっと独り身だったの?」
「さあねえ、詳しくは知らないけど、結婚してたのは知らないな。独り身だったんじゃない?」
花屋の娘がそう呟いて、少年は複雑そうに笑った。
喜ばしいものを感じたようだが、同時に寂しそうだった。
眉を寄せて、少年はしばらく動かなかった。
花屋の娘が、案じるように彼の顔を覗き込む。
「……どうしたの、坊や? 大丈夫?」
「――大丈夫」
呟いた少年は、背負っていた荷物を下ろし、中から財布を取り出した。
そして花屋の店頭を見渡し、そのうち一画の花を指差す。
「お姉さん、あれちょうだい」
花屋の娘は振り返って、その花を確認する。
「瑠璃唐綿ね、毎度あり。おまけしとくわよ、小さな紳士さん」
「それじゃ駄目なの」
苦笑して呟いて、少年は手を伸ばして花屋の娘に紙幣を握らせた。
そしてその代わりに手渡された一輪の青い花を、眩しげに目の前に翳してみせた。
しばらく目を閉じていたことに気付いて、彼女はふと目を開けた。
花の香りはいっそう芳しく、色濃く、目に見えないことが不思議なほどに漂っていた。
息を吸い込んで、彼女は安楽椅子の上で居心地のいい姿勢をとった。
もうそろそろ……もうそろそろ……
扉を押すと、案の定、鍵は掛けられていなかった。
最初に魔王として彼が死に掛けたとき、鍵を掛けていたばっかりに、その後に家に入ってくるはずだった赤毛の女王さまを手間取らせ、その結果として、人生最後に見た女王さまの美貌が壮絶な不機嫌顔となったことをふと思い出して、彼は苦笑した。
扉が微かに軋みながら開き、彼は足音を忍ばせて、懐かしい玄関を踏んだ。
――懐かしい――だが少し変わっている。
模様替えがされた。
かつては玄関の左端に置いてあった靴箱が、右の方へ寄せられている。
ぶら下がっているシャンデリアは見覚えがない――恐らく、あれが古くなって、交換したのか。
限界を迎えて落っこちる前に、誰かが気付いて修繕したのであればいいが。
この玄関を、肝を冷やすような陽気さと無鉄砲さで駆け回っていた娘のことを思い出して、彼はふと微笑んだ。
その幻影は速やかに去った。
彼は後ろ手に扉を閉めると、足音を忍ばせたまま、勝手知ったる居間へと向かった。
――かつては毎日通っていた玄関……廊下……帰ると彼女がいて――あるいは先に帰って彼女を待っていて……あるいは手をつないで一緒に帰って来て……
飴色の瞳の、彼にとっての朝のいちばん眩しいところの、あの笑顔。
微笑むときの目の細め方。
唇の曲線。
笑窪。
頬に紅が差す瞬間。
髪を耳に掛ける仕草。
手をつなぐときの指の温かさ、掌の柔らかさ。
夜に寄り添って眠るときの、彼女の髪の香り――
彼は居間へ入った。
居間はきちんと片付けられていて、中央の円卓の上に、見覚えのある木箱が置かれていた。
みんなが、好き勝手に手紙を入れている箱だ。
そしてその傍の安楽椅子――
彼は足早に安楽椅子に歩み寄った。
その上に、温かそうな膝掛をかぶって、まどろむように目を閉じる老嬢の姿があった。
彼が傍に立って息を止めると同時に、不意に彼女が瞼を上げた。
彼は目を拭わなくてはならなかった。
きちんと彼女の顔を見るために。
彼女の方は、びっくりして目を見開いていた。
――変わらない、本当に変わらない、彼女のこの表情。
彼女の辿った人生を示す皺が幾重にあろうと変わらない、愛らしい表情――その目の見開き方。
あの目。
あの飴色の双眸。
今、数百万回目に彼を恋に落とした瞳。
「――まあ」
彼女が呟いた。
か細い声だったが、彼の記憶にある通りの響きのままだった。
「次がきみの番だと知っていたら、もっとお洒落をして待っていたのに、ルドベキア」
ルドベキアは微笑んだ。
十歳の顔貌に、齢千を重ねた愛情が透けていた。
「今でもじゅうぶん可愛いのに?
――トゥイーディ、イーディ、ディア。久し振り」
トゥイーディアは首を傾げた。
ルドベキアの一番好きな角度で。
恐らくこの角度はこの世で最も愛らしい角度に違いないと、ルドベキアが常々思っている角度で。
「本当に」
彼女は囁いた。
薄らと飴色の瞳に涙が溜まりつつあった。
「――何百年ぶりかしら。私、アナベルの次なのよ」
「俺は前回、コリウスに継いだ。
――なあ、トゥイーディ、おまえが独り身だって聞いたんだけど」
トゥイーディアがちらりと微笑んだ。
悪戯っぽい――十六のときと変わらない表情で。
「噂話を拾ってからきたのね、嫌な人。
――そうよ、残念ながら。
きみよりいい人がいなかったの」
ルドベキアは低く笑った。
「世の男は意気地がないな。こんなに可愛い人を口説き落とせもしないとは」
トゥイーディアは笑ったが、途中でそれは喘ぎ声になった。
ルドベキアは息を吸い込んで、首を傾げた。
「トゥイーディ、イーディ、ディア。俺はどうだろう」
トゥイーディアは咳き込むほどに笑い出した。
「なんですって?」
「おまえが独り身で、未亡人でもないって聞いたから」
ルドベキアは呟いて、すっと目の前に瑠璃唐綿の花を出した。
可憐な花が青い星のように咲いていた。
その花を死にゆく老嬢に差し出して、十歳の少年が頭を下げた。
「――トゥイーディ、イーディ、ディア。
あと十秒でもいいんだ、俺と結婚してくれないか」
トゥイーディアが微笑んだ。
彼女の目尻から涙が転がり落ちた。
それが最後の涙になると二人とも分かっていた。
「……ばかもの」
彼女が囁いた。
声が震えて、揺らいで、今にも溶けていきそうだった。
「私がお断りすることはないって、分かってるでしょう?」
ルドベキアはにやっと笑った。
それが精一杯だった。
「何を言ってんだ。めちゃくちゃ緊張したよ」
軽やかにそう返して、ルドベキアが手を伸ばし、トゥイーディアの白い髪に瑠璃唐綿の花を挿す。
花は髪飾りのように彼女の耳許を飾った。
トゥイーディアが手を伸ばして、ルドベキアの手を握った。
本当に軽い力がルドベキアの指に掛かった。
ルドベキアは息を止めたが、目を逸らすことはしなかった。
トゥイーディアが微笑んで、呟いた。
「――可愛い人ね。……ちゃんと、いい人を見付けて……」
「――――」
ルドベキアは微笑んだ。
彼が軽く背伸びをして、安楽椅子に腰掛けるトゥイーディアの頬に口づけする。
「――おまえより、いい人がいれば」
ルドベキアはそう応じて、目を閉じて動かなくなったトゥイーディアの頭を撫でる。
――春の日が落ちる。




