04◆ 初恋ふたたび
本編6章68話(https://ncode.syosetu.com/n5237gj/364/)読了後に読むことをお勧めします。
突然だが聞いてくれ。
俺は救世主だ。
――何言ってんだ、と思われるかも知れないが、どうやらマジらしい。
論より証拠、俺の魔法は絶対法すら超えることがあるからね。
なんとなく、そんな魔法が使える気がしてこっそり使ってみて、実際にその魔法が使えたときは腰を抜かしたものである。
絶対法を超えることが出来るのは救世主か魔王、そんなの常識だ。
実際に自分が救世主っぽいという証左を発見してしまったものの、周囲には言うに言えずに悶々とした日々。
とはいえ、まあ、あるときまでは、「俺が救世主か? 本当か?」と我ながら疑っていた自覚がある。
だが一方で、生まれたその瞬間から、なんとなく自分が特別だということは認識していた記憶がある――俺はどうやら不気味なくらい落ち着いた子供だったらしい。「あんたは本当に手が掛からないね」と母親に呆れ半分に言われたことは数知れず。
母親。
母親ねえ……。
俺は窓際に頬杖を突き、狭い庭でささやかな香草畑の世話をする女性を眺める。
痩せた長身、結い上げられた淡い金色の髪。
すっかり傷んだ金髪の後れ毛を、吹く風が緩やかに揺らしていく。
あれが、俺の母親、らしい。
らしいというのは感想だ。
俺は間違いなくあの人の腹から生まれたようだが、いまいち「母親」と言われてもピンとこない。そもそも全然似てないし。
女性が立ち上がり、腰を伸ばし、うーん、と伸びをした。
色褪せた前掛けに土の汚れが付いている。
しんどそうに自分の腰をぽんぽんと叩く彼女に、俺はそっと嘆息を零す。――だから俺がやると言ったのに。
女性が、窓際で頬杖を突いて庭を眺める俺に気付いた。
ぱっと笑顔になり、こちらに向かって小さく手を振る彼女に会釈。
女性が呆れた顔をして何か呟く。
窓の板戸は開けられて(だからこそ外を眺めることが出来ているわけだが)、俺と外との間には何の隔てもないが、女性との間には少しばかりの距離があり、彼女が何を呟いたのかは聞こえない。
だが、予想は出来る――「まーた他人行儀な」と呟いたのだろう。
もう何回も言われている。
でも仕方ないだろう。
だって彼女は他人だ。
俺が、自分は救世主だ、と、改めて認識したときの話をしよう。
あれは多分、俺が八歳くらいのときだ。
俺の生家は、いや生家という言い回しにすら俺はどことなく違和感を覚えるが、低い石垣に囲まれた小さな小屋だ。
この石垣の内側が庭という扱いであるわけだが、この石垣は積み上げられて造られたというよりもむしろ、ずっと昔にもっと大きな建物があって、その建物が崩れ落ちた後に残った一部、といった感が強い。
俺が生まれた家だけではなくて、どこの建物にも多かれ少なかれそんな感はある。
まるで崩れた大きな町の上にもういちど、ささやかな町を建てたかのような、そういう感じ。
俺がぼろっとそういう感想を零したときに、近所に住んでいた、腰の曲がって歯の抜けた老人が、「おぅよおぅよ」と、ふがふがした声を出したのだった。
「そうともさ、坊主、ずーっと昔にはな、ここにはでっかい都があったんじゃ」
へえ、と俺は呟き、想像する。
でかい都――ってどんなのだ?
俺の貧相な想像力では、自分が住む小屋をそのまま数倍のでかさにしたような家が立ち並んでいる、そういう景色しか想像できない。
が、ここで疑問。
「そんなでかい都がどこに消え失せたの?」
俺の頭の中では、でかい小屋が次々にばったんばったんと倒れていっている。
だがその原因は如何に?
老人が困った顔をしたので、俺は膨れた。
「嘘じゃないか」
膨れっ面の小声でそう呟く。
一緒にいた女性、ああいや母親というのだったか、彼女が「こら」と俺の肩を揺らして窘めた。
「ルドベキア、御伽噺よ」
俺はむっとした。
とはいえ年長者に怒られるのには相応の恐怖心を覚えていたので、素早く一歩下がって「ごめんなさい」と心にもないことを言って頭を下げる。
物心ついたときから俺は、頭の上から強い口調で何かを言われるのが苦手だった。
早く背が伸びないかな、などと、俺は自分の頭の上に掌を載せて一考する。
がはは、と、咳き込んでいるのか笑っているのか、よく分からないような声を上げて身体を揺らして、腰の曲がった老人が言う。
「構わん構わん。――きっと魔王が都を沈めたんじゃ」
魔王、と言われて、俺は眉を寄せた。
「魔王」の響きには、人の心をざわめかせるものがあるのだ。
俺の隣の女性も、一気に憂い顔になった。
そして今度は、「そういう縁起の悪いことは言わないで」と、老人の方を窘め始める。
老人はがりがりと痩せた頬を掻いて、「大丈夫さぁ」と請け負う。
「直に救世主さまが魔王を斃してくださるから」
――で、このときである。
救世主、という言葉を他人の口から聞くのはそれが初めてではなかったが、このとき初めて、俺は何の疑いも違和感もなく、「あ、俺のことじゃん」と思ったのだ。
このとき俺は間違いなくそれを、自分に向けた呼び掛けであると認識した。
――俺はどうやら、間違いなく、救世主であるらしい。
とはいえ、でも、どうしたらいいんだ。
救世主であるからには魔王を斃しに行くべきだろう。
魔王は魔界、即ち南の島にいる。
そんなことは常識で、教えられなくとも分かっている。
どうやって海を渡って魔界に行けばいい?
俺が途方に暮れたのも理の当然、自分の周りのどこを見渡しても、海に行ったことがありますという人はおらず。
誰か船を持っている人を当たるべきだよなあと思いつつも、そんな人間に心当たりはなく。
更に言えば、自分一人で魔王を討伐しに行くと考えると、どうにも違和感がある。
何か――何かとても重大な、欠けているものがあるような。
そんな風に悶々と過ごしているうちに、気付けば俺は十六歳になっていた。
毎日毎日、やっていることは町の男衆と一緒になっての狩りや日常で必要になる土木作業、ささやかな畑仕事である。
俺の狩りの成果が他と比べてだんとつにいいと褒められるがそりゃそうだろう。
何しろ誰も見ていないときを見計らえば、獲物の時間を停めた上で、余裕綽々で仕留めることが出来る。
――いや、こんなんでいいのか、自分。曲がりなりにも俺は救世主……。
と、他人にはいえない悩みを抱えていたある日だが、俺は遠出をすることになった。
なんでも、国主の息子の成人のお祝いがあるので、近隣の人間は全員その祝いの行列に駆り出されるんだそうな。
「国主ってなに?」
と俺は面食らったものの、周りの人間も総じて首を捻っていた。
だが、まあ、どうやら、この辺り一帯で最も裕福な暮らしをしていて、秋になったらこの町を訪れて(というか居丈高に乗り込んできて)、偉そうに振る舞いながら俺たちの冬の蓄えを「年貢である」と言ってかっぱらっていく連中の、元締めのような奴が国主と呼ばれているらしい。
なんだそれ。祝いたくないんだけど。
ああやって蓄えを持って行かれるお蔭で、どれだけ冬にひもじい思いをすることになるか。
ていうかあれの所為で死んだ奴もいるし。
――などと思いつつも、まあ、逆らう選択肢はない。
何しろ、冬の蓄えをかっぱらっていく連中は鞭を持っていて、逆らう人を手酷く痛め付ける。
つまりは国主の息子の成人祝いをすっぽかせば、同等程度の罰があるということだ。
それは困る。
痛いのは嫌いなのだ。
というわけで俺は、不平不満をだらだらと並べる町のみんなと一緒になって、不平不満を言いながら荷物を纏め、不平不満を言いながら町を出た。
生まれてから十五回目の春を迎えると成人として扱われる以上、十六歳にもなればみんなそれぞれ独立しているものだ。
その中でも、妻を娶って所帯を構える奴もいたので、俺は売れ残りの独身連中と一緒にいた。
とはいえ、俺が独り身であることを案じているらしき俺の母親らしい女性は、わざわざそんな俺のところに来て、くどくどと所帯を持つことの大切さを説いてくるわけだが。
俺と一緒にいた連中のうち数人が同じ目に遭っていたものの、俺は他の奴のようには女性を無碍にあしらえず、従順に頷いて話を聞いていたりする。
俺の父親に当たる男性は、俺が六つだか七つだかのときに、近くの川が氾濫したのに巻き込まれて行方知れずになっていて――つまりはもう生存は絶望視されていて――伴侶を失った女性の不安も理解できなくはない、ということもある。
母親たちが去っていった後になって、「おまえは大人だな」と声を掛けられるも、俺は微妙な顔で唸ってしまった。
いや、そうじゃなくて、俺は救世主なんだよ。
あと、いまいち恋という感情がよく分からない。
同年代の連中が、「あの子が可愛い」だの「あの子と寝たい」だのと言っている場にいても、俺はぽかーんとしていることばっかりで、よくそれを揶揄われていた。
いやだって、誰のこともそんな風に可愛いとは思えねーんだもん。
――と、そうして町を出た俺たちは、町の誰かが「国主の息子のお祝い」を偉そうな連中から知らされた際に手渡されていた地図を頼りに、草原を越え川を越え、でかい町に入った。
でかかった。
腰を抜かすほどでかかった。
なんだこれ、建物ってこんなにでかく建てられるものなのか。
道もなんだか平らにきっちり均されてるし、なんだこれ。
建物の窓が、なんかきらきらしている。
あれはなんだ、と、俺は同年代の連中と一緒に大いに騒ぎ、広い道を歩いていた女性たちから軽蔑の目を向けられた。
小さい町から来たと即行で露見したゆえだろうが、驚いたものは仕方ないだろう。
道行く女性たちはゆったりとした色付きの衣裳を着ていて、頭の上に布を広げて掲げ、日除けとしていた。そのせいか、彼女らの肌は透き通るほどに白かった。
仲間内でも人懐こい連中が、あちこちを走り回って情報収集してきて、「あれ、あの窓な、あそこに嵌まってるやつは硝子っていうらしいぞ」と報告してくれた。
俺は他の連中と並んで、阿呆面でほうほうと頷く。
――だが、まあ、居心地が悪いのなんの。
何しろ格好が違うもんな。
その辺を歩いている人は、色の付いた布で仕立てられたゆったりした服を着ているが、俺たちは全員、生成りの服を被っている状態である。
俺は人生で初めて、「場違い」という言葉を理解して俯くことになった。
けれども一方、俺たちと同様に、他の小さな町から来ていると一目で分かる人たちもいた。
そんな人たちは俺たち同様きょろきょろと辺りを見渡していて、俺たちを見るとはっとした顔をしたあとで、こちらを指差して深く頷き掛けてきた。
俺たちも同じ仕草をしていた。
言葉に出来ぬ仲間意識がそこにあった。
季節は春で、また朝晩には肌寒さが残る。
とはいえ、「国主の息子の成人祝い」に来てやったからといって、俺たちにここでの家が用意されているかといえばそうでもなかった。
小さな町から来た者どうし、寄り集まって頭を悩ませ、かつ何人かがあちこちへ情報収集のために走った結果、どうやらこのでかい町には、家から離れてここを訪れた人たちへ屋根を貸す、「宿」というものがあるらしい、ということは突き止められたものの、どうやらその宿へ泊まるには、それなりの見返りを相手に与えなくてはならないらしい。
何か持ってる? と訊かれ、俺は何も入っていないポケットを引っ繰り返しつつ、
「何もない」
と。
みんながみんなそんな状況だったので、その場には陰鬱な溜息が満ちた。
――どうやら今夜は野晒しで過ごすことになるらしい。
野晒しで過ごすことへの憂鬱はあれど、俺みたいな血気盛んな若い奴にとっては、見ず知らずの土地ほど面白いものはなかった。
俺は日頃からよく一緒にいる、同年代の奴の中でも割合に親しい部類に入る連中と一緒に、「日暮れまでには戻って来いよ」という言葉を背中で聞き流しつつ、だだっ広い町の中を走り回ることにした。
町の建物はでかく、形も様々だった。
白っぽい砂が踏み固められた道は平らに均されて幅が広く、山羊の糞がその辺に落ちていることもない。
道と道が交差する場所には、その中心に必ずといっていいほど石像が聳えていた。
六角柱の台座の上に、見たことがないような厳めしい動物を象った石像が彫られ、安置されているのである。
俺はもちろん、一緒にいた連中も大いにそれにはしゃぎ、石像に手を掛け足を掛け、その上に攀じ登ってみたりする。
攀じ登ってみると石像の上は結構高く、道の先までが見通せた。
そうして俺が行く手に川を発見したところで、「何してる!」と怒声。
「やべっ、これ、登ったら駄目なんだ」
と、一緒にいた連中の一人が口走り、俺は慌てて石像の上から滑り降りて、「逃げるぞ」と。
俺たちは身を屈めるようにして人混みを縫い、通りを走って、先ほど俺が発見した川の傍まで、息せき切って駆け抜けた。
川は幅広で、川縁には驚いたことに、木で造られた柵が設けられていた。
柵の高さは腰よりやや高い程度で、乗り越えることは造作もなさそうだったが、先ほど石像の上に昇って怒声を浴びたことから察するに、これも乗り越えてはいけないものなのだろう。
川には石橋が架けられていて、石橋の欄干には、目を疑うような凝った透かし彫りが施されていた。
橋の上を歩く人たちは、しゃなりしゃなりと気取った足取りをしていて、川縁の木の柵をなんとなく掴みつつそちらを見て、俺たちはぽかん。
橋の向こうには、町の建物に輪を掛けてでかい建物が聳え立っており、俺たちはますますぽかん。
たくさんの石像を従えた、灰色の巨大な建物だ。
橋を渡ってずーっと歩いていった正面には、壁一面に階段が刻まれたようなでかい――建物というか壁というか、そういうのが聳えていて、階段の上にはちょこんと、三つばかりでかい椅子が据え置かれている様子。
椅子の後ろからが高い位置に備えられた通路のようになっていて、その通路の両脇は、やっぱりずらりと並ぶ石像が守っていた。
その向こうになるともう見えないが、どうやら更にでかい建物に通じているらしい。
「――すっげぇ……」
俺は思わずそう呟き、隣にいた奴がぼろっと、
「コクシュの息子ってのは、あそこに居んのかな」
と。
「他のどこに居るんだよ……」
別の奴がそう言ったが、自信がなさそうだった。
そのうちにもう一人が、「なんだか、自分が蟻になった気分だ」と。
その気持ちはよく分かったので、俺は深々と頷く。
目の前の川の流れは穏やかだった。
木の柵の向こうはほぼ垂直に切り立った小さな崖になっていて、透き通った川の流れはすぐそこにある。
川には中州があって、中洲には、淡い色の花が零れんばかりに咲き誇っていた。
花から落ちた花弁が川面を漂って、日の光を受けて白く光ったり、あるいは影の中を滑ったりしながら、軽やかに下流に流れていく。
俺たちがぽかんとしている間にも、人通りは絶えていなかった。
目が回るような人の多さである。
――そのとき、ふと俺は視線を横にずらした。
俺たちから少し離れた位置で、俺たちと同じように木の柵に手を突いて、川の向こうのでかい建物を眺めている少女がいた。
そちらが不意に気になったのだ。
少女はめちゃくちゃつまらなさそうな顔をしていた。
ぱっと見たところ、年齢はまだ十二か十三か。
不貞腐れたような不満そうな顔で、じーっと建物を眺める瞳は花びらのような薄紫。
長い髪をそよ風に揺らしていて、その髪は川面に溶けそうな薄青色。
俺たちと大体同じような恰好をしていたから、恐らくは小さな町から、「国主の息子の成人祝い」のために駆り出された、俺たちと似た立場の人なんだろうが――
「おい、どうした、ルド」
肘で突かれて、俺ははっと我に返った。
あ、いや、と俺が吃る間に、他の連中もその少女に気付いた。
ひゅう、と口笛が吹かれて、俺は若干うんざりする。
「おう、可愛い子じゃん、一目惚れか」
「違ぇわ。ってか一目惚れってなんだよ」
「ちょっと年下っぽいけどいいんじゃね」
「良くねーわ……」
思わず頭を抱えてしまう。
まあ、女の子で十二や十三になれば、嫁入りの話が出始める頃合いではある。
とはいえ違う。断じてそういう意図で見ていたのではない。
単純に気になって――さながら、随分以前にどこかで会ったことがある人に出会った、そういう気分になったがためで――
俺の周りが騒いだがために、少女の方もこちらに気付いたらしい。
瞬きして、少女が薄紫の瞳をこちらに向けた。
眉間に皺を寄せ、胡乱そうにこちらを見た少女はしかし一瞬後、その眉間の皺を綺麗に伸ばして、ぽかんとした様子で俺たちを見た。
いや、正確には、俺を。
目が合った。
もやもやとしたものが俺の喉元に込み上げてきて、俺は眉を顰めた。
少女の方はびっくりした顔で、ぱっと木の柵から離れて、俺を指差してこっちに近付いて来ようとしている。
――そのとき、全く馬鹿げた――天啓のような考えが降ってきた。
この子――この子はもしかして、俺が救世主だと気付いたんじゃないか?
そう考えてしまった俺は、思わず探るような目で少女を見る。
少女は言葉を探すような顔をしていて、俺を指差したまま、口をぱくぱくさせている。
「おいルド、ちょっと声掛けてやれよ」
横から肘で脇腹を押されて、俺は思わずびくっとした。
――声? 声? なんて掛ければ?
「俺が救世主だって気付いた?」ってか? 頭おかしいと思われるわ。
そんなことを考えて俺が躊躇した一瞬に、離れたところから声が上がった。
「――アナベルーっ、アナベル、どこなの?」
少女が、はっとした様子で俺から視線を外し、声が聞こえた方を振り返った。
アナベル、というのが、どうやらこの少女の名前であるらしい。
数秒の躊躇を置いて、俺をちらっと見てから、アナベル――というらしき少女は小さく首を振り、「はーい」と高い声を上げた。
薄青い髪を靡かせて、声が聞こえた方へたっと軽やかに駆け出していく。
少女の姿が雑踏に呑まれるのを見守って、俺は釈然としない思いを抱えたまま息を吐いた。
そんな俺に、四方から「おいおい」と呆れたような声が掛けられる。
「さっさと声掛けねーから行っちゃったじゃん」
「度胸ねーなー」
俺はがりがりと頭を掻いた。
「あー、いや、――どっかで会ったことがあるような気がしたんだけど」
なんだそれ、と周囲からの声が揃って、俺も苦笑いする。
――生まれてこの方、生まれた町を出たのはこれが初めてである俺に、こいつらの知らない知人はいない。
その夜は町の隅っこで過ごし、翌日。
諸々話を聞くに、国主の息子の成人祝いは、三日先のことであるらしい。
なんだよ、今日じゃないのかよ、と俺たちは誰に向けるでもない非難を囂々と上げたが、他の町から来たという、朴訥な顔をしたおじさんは笑って、
「運がいい方だよ、俺たちゃ十日前からずーっと野宿さ」
と。
食べるものにも苦労しているのがこの町に来た余所者の実態であって、どうやらこの町では、食べ物を手に入れるのにさえそれなりの見返りが必要で、とてもではないがそんなものは用意できず、已む無く市場で盗みを働いてなんとか食い繋いでいるのだとか。
一秒も躊躇わず、というか躊躇えず、俺たちも同じようにして食い繋ぐことを余儀なくされた。
そうして市場から食べ物をかっぱらいつつ、俺は何度か、例の「アナベル」という女の子を目で捜してみたが、この広い町の中にあっては、そうそう出会えるものではなかった。
そうして三日目には、俺もすっかり彼女のことは忘れてしまった。
――さて、そうして、国主の息子の成人祝いの当日である。
その日にはどうやら、例の川の方へみんなで詰め掛けることになるらしい。
橋の上から向こうまでが、立錐の余地なき大混雑。
祝いのためにどこからか花びらを毟ってきたらしく、籠に詰められた色とりどりの花びらを、空へ向かって盛大に撒き散らす人もいる。
快晴の空に泳ぐ花びらは綺麗ではあるが、花びらを毟られた花には気の毒の一言に尽きる。
撒き散らされた花びらのいくらかは川面に着地し、川面は間もなくして、色とりどりの花びらが浮かんで滞留する有様になった。
綺麗ではあるが、これちゃんと流れていくのかな。
国主の息子はどうやら、壁のような階段の果てにある椅子に登場する予定であるらしい。
よく分からないが、その椅子の周りで数名の人が、大きな笛を鳴らしていたりする。
俺はひたすら人混みに揉まれるばかりで、ややもすれば自分が今どっちの方向を向いているのかすら見失いそうになっていたが、そうしていることしばし、大きく人波が動いた。
前にいた人が、更にその前にいた人に押されるようにして後退ってきたので、俺は足を踏まれた挙句に人混みに溺れ掛けた。
「な、なに。なんだ」
あっぷあっぷしながらそう言えば、俺の隣にいた奴が、こっちもやっぱり息も絶え絶えではあったが、言った。
「なんか、いきなり、真ん中を空けろとか言われたっぽい」
「なんでだ」
俺は思わずそう言っていたが、周り中が同じ感想であるらしかった。
どこかで、足を踏まれたか親と逸れたか、大声で泣き喚く子供の声が聞こえてくる。
「す――すげぇ有様だな……」
俺は思わず、慄いてそう呟いた。
国主の息子は果たして、こうして成人を祝われて嬉しいのか。
そのうちに、人波の前のほう、つまりは例の壁のような階段に近い側から、わらわらと喝采が上がり始めた。
半ば同調圧力で手を叩き始めつつ、俺は背伸び。
同年代に比べて俺の身長は恵まれたもので、かつ階段が高いからこそ、なんとか様子が見て取られた。
――国主の息子が現れたらしい。
四十そこそこと見える男の人(多分これが国主)に連れられて、成人したばかり――ということは十五歳であるはずの、少年が階段の上に現れていた。
さすがというべきか、国主とその息子の衣裳は派手だ。
濃い灰色のたっぷりとした輪郭の衣裳のあちこちに、陽光を弾く水晶が縫い付けられている。
国主の首許には、太い黄金の首飾りが見えた。
それを見て俺が漠然とした怒りを覚えたのは、そんな贅沢な暮らしをしてるならわざわざうちの町から年貢を取っていくなよ、と思ったからに他ならない。
国主の息子は、どうやら椅子に座る前に、眼下を見渡したらしかった。
遠くて姿形はよく分からなかったが、暗い髪色をしていることは見て取ることが出来た。
――目が合った、気がした。
気のせいかも知れないが、国主の息子がこちらを見た気がした。
同時に俺は、またもあのもやもやとした――どこかで会ったことがある気がする――そんな気持ちを覚えて顔を顰めた。
国主の息子が椅子に座った。
直後、今度は後ろの方から甲高い笛の音が鳴り、俺たちはどよめく。
なんだ、なにが起こった。
が、笛の音の正体はすぐに明らかになった。
地響きがしたかと思うとすぐに、どでかい化け物のような生き物が、橋を渡って現れたのである。
――俺、硬直。
周りも軒並み硬直。
手を叩くことも忘れ、唖然として、人波の向こうに見えるそのでかい生き物を眺める。
灰色の、やたらと大きな生き物だった。
ずんぐりとした体形、頭部からは大きな耳が垂れ、あれはなんだ――鼻か? 口の上にあるから鼻か――が異様に長い。
その鼻がくねくねと動いている。
背中には絢爛豪華な布が掛けられて、その上に四角い豪華な座席が設えられ、座席の上には巨大な、玉飾りの下がる傘。
座席の上には誰かが座っていて、俺から見えるのは、その人物が長く伸ばしているらしき赤金色の髪の煌めきだけだった。
座席の上の人物は、顔の下半分を刺繍の施された布で隠していたのだ。
地響きを立て、地面を揺らし、その生き物が通り過ぎていく。
その後ろに、笛を鳴らしたり鼓を叩いたりする一団がいて、それも通り過ぎていく。
その後ろには別の一団がいて、その一団は肩の上にごく小さな小屋を担いでいた。
小屋の四方には御簾が下ろされて中が見えない。
「――なんだあれ……」
俺は思わず、魂の抜け掛けた声でそう呟いた。
同様の声がざわざわと周囲に広がっていき、やがてそのざわめきが博識な誰かに行き当たったらしく折り返してきて、あちこちで人が囁き始めた。
「象、象っていうんだって、あのでかい生き物」
「南の方にいるらしい――だからあれ、南の方からお祝いに来た人なんじゃないかって」
「その後ろにいた人らが担いでたやつ、ありゃ輿だな」
「輿。輿って?」
「なんか、あの中に偉い人が乗って移動すんだよ」
俺は目が回るような思いでそれを聞き、そして呟いた。
「な――なんかすげぇな……」
やがて、例の壁のような階段の下に行き着いたらしき象が足を止め、――そのときだった。
国主の息子がすっくと立ち上がった。
どうやらそれは予定にない動きだったらしい――国主が、びっくりした様子で息子を振り返って、何か言った。
だがそれを気に留めない様子で、国主の息子が、しっかりした足取りで前に出て、長い長い階段を下り始めた。
――国主の息子の周りで吹き鳴らされていた音楽が、ぴたっと止まった。
象の後ろで鳴らされていた音楽も、釣られた様子でぴたっと止まった。
戸惑ったようなざわめきが起こり、広がり、音楽を吹き鳴らしていた人たちがおろおろしているのが遠目にも窺える。
そのざわめきを歯牙にも掛けず、国主の息子はすたすたと階段を下りていた。
衣裳の長い裾が階段を引き摺られているのが見える。
戸惑った注目を一身に浴びながら、国主の息子は階段の長さに相応の時間を掛けて、地面の上に降り立った。
輿の方に動きがあった。
中にいた人が、御簾を押し上げて顔を出し、国主の息子の様子を見たのだ。
俺からは、中から顔を出した人の、長く伸ばされた銀色の髪だけが見えた。
国主の息子は、階段を下り切って、しかしそこで足を止めず、なおも前へ歩き始めた。
彼が余りにも当然の様子で足を進めるので、行く手の人たちがみんな、押し合いへし合いして道を開け始めた。
中には、そうして道を開けようとして、後ろに引っ繰り返って転ぶ人もいた。
国主の息子は、象の前を素通りし、輿の横を素通りし、真っ直ぐに歩き続ける。
彼の前の前の人がどんどん道を開けていくので、その進路の把握は容易かった。
――偶然だろうが、こっちに来ている。
俺もなんだかあわあわしてきて、周りの連中と一緒に、国主の息子の行進を妨げてはなるまじと後退り、周りもそんな感じで一緒になってどんどん下がり、橋の上にて立ち往生することになった。
後ろのどこかがつっかえて、それ以上後ろに進めなくなったのである。
国主の息子は足を止めない。
戸惑いのどよめきは今や静まり返りつつあった。
こんなとき、大声を出していいものかどうか、みんな判断がつかないらしい。
どこかで、人が密集する状況に耐えかねたのか、高い赤ん坊の泣き声がする。
だがそれも、たちまちのうちに黙らせられた。
風が吹いて、誰かが空気を読まずに放り投げてしまった花弁を浚い、空へ泳がせていく。
そして、いよいよ俺にも国主の息子の顔が見える場所にまで、国主の息子が姿を見せた。
なんと彼は、当然のような表情で橋に足を掛けたのである。
暗褐色の髪が肩よりやや下まで伸ばされ、その毛先がじゃっかん跳ねている。
頭の上には小さな金色の冠があったが、別に目立つものではなかった。
殆ど無表情に近い、当然のことをしているまでだと言わんばかりの表情。
周りの人間が食い入るように彼を見詰めていて、それも当然のことだった――彼の姿形は抜きん出て整っていた。ただ目鼻立ちが整っているというわけではなくて、所作や髪の靡き方すら整って、どこをとっても壮絶なまでに美しかった。
特にその双眸。
翡翠の目。
これほど綺麗な色があるのかと驚くほどに綺麗な目を、
――彼は俺に向けていた。
たっぷりとした衣裳の裾を堂々と引き摺りながら、彼は間違いなく、俺に向かって歩を進めていた。
「――んっ?」
俺が喉の奥で、そんな変な声を出してしまったのも道理、すたすたと国主の息子が歩み寄って来るものだから、周囲から俺にまで視線が向けられてしまっている。
そっ、と横腹を肘で押され、俺はそっちを見た。
目を向けた先で、恐怖の表情を浮かべる幼馴染たち。
「……お――俺ら、実はここに居ちゃいけなかった……?」
「そっ――そんなことあるかよ……」
「でもこっちに来てるぜ……」
ひそひそとした声が交わされる一方、俺は足許がふわふわするような妙な感覚を覚えていた。
――俺はこいつを知ってる気がする……どこかで会った気がする、あるいは、会うべきだった気がする。
立ち竦む俺に向かって真っすぐに歩み寄り、国主の息子は俺をまじまじと見た。
こいつも、年齢の割には身長のある方だった。
だがさすがに俺の方がやや背は高い。
少しばかり目線の上にある俺の顔を、鼻をくっつけんばかりにしてじっと熱心に覗き込み、俺がたじたじと一歩下がったところで、国主の息子はこくりとひとつ頷いた。
そして、手を伸ばして、俺の手を取った。
昔からの顔馴染みに対してするような、迷いのない仕草だった。
「――へ?」
俺、ぽかん。
握られた手をまじまじと見下ろし、それから説明を求めて国主の息子の整った顔を見る。
周りも軒並み唖然としている。
特に俺の隣にいた連中は、絶句した様子で、国主の息子に握られた俺の手、俺の顔、国主の息子の顔、と、忙しなく視線を行き来させているくらいだ。
全員が全員、寸分違わぬ視線の動きをしているので、こんな場合でなければ大爆笑していたところだ。
そして、国主の息子は真顔のまま、すっとその場に膝を突いた。
俺の手を握ったまま。
ドン引く俺の手をがっちりと握るその右手の人差し指に、黒くてごつい指輪が嵌まっている。
俺の手に触れたその指輪が、その瞬間、微かに黝く煌めいた。
腰を抜かす寸前の俺の手を、逃がして堪るかといった様子でぎゅうっと握ったまま、国主の息子はその場で深々を頭を下げて俺の手を押し戴き、
「――お会いできる日を心待ちにしておりました、――救世主さま」
と、よく透る声で、はっきりと、きっぱりと、宣言した。
――俺はその瞬間、自分の頭が空中に放り投げられたかと思うほどの衝撃を受けて固まったが、直後にどっと上がった歓声――悲鳴じみた歓声と、伝説の救世主が本当に現れたのか半信半疑ではあったのだろうが、それでも名指しされた人間を一目見ようとして背伸びをし、あるいは勢い余ってこちらに向かって怒濤のように押し寄せてくる人波――そういうのを全身で感じ取りながら、悟った。
――国主の息子はしれっと俺の手を離し、ささっとその場を離脱して橋の欄干に凭れ掛かり、衣裳の膝の辺りを払うなどしている。
その表情がその瞬間、確かに、にやっと笑ったのを俺は見た。
それを見た直後、辺りから押し寄せてきた人波――「救世主さまだって!?」「おまえマジかよ!」「肖れ! 肖れ!」――に呑まれつつ、俺は思わず拳を握り締めていた。
国主の息子のやろう、目立つのか嫌なのか何なのか知らねぇけど、絶対自分より俺を目立たせたかっただけじゃん。
あいつ絶対性格悪いぞ。
――だが、とにもかくにも周囲は大混乱。
伝説の救世主が現れたらしいということで、もはや国主の息子のお祝いどころではない。
上を下への大騒ぎに、もみくちゃにされる俺の目は回る。
「ちょっ、ちょっと待って――」
「救世主さまなの? ほんとに!?」
「どうしてこんなところに!」
「肖れ! 肖れ!」
「あの、待って……」
「凄い魔法使えるの!? 見せて見せて!」
「こら、失礼なこと言っちゃ駄目でしょ!」
なんだこの混沌。
どうやって収拾つけるんだ。
四方八方から押し寄せる人たちに、俺はおろおろ。
助けを求めて幼馴染を見るも、駄目だ、群衆の一部と化してやがる。
おまえマジかよ! と連呼している幼馴染連中は、どうにも助けになりそうにない。
続いて国主の息子を見るも、国主の息子は押し寄せる人波の影響から逃れるべくか、欄干の上に攀じ登って器用にその上を歩き、安全圏に身軽に離脱しようとしていた。
絶対許さねえ。
更に、突然巻き起こった大騒動に、どうやら象がびっくりしてしまったらしい。
足踏みする象の動きに地面が揺れ、聞いたことがないような大音声で不機嫌を訴える象に、俺は離れていながらも肝を潰した。
やばいやばいやばい、絶対やばいことになってる。
いつの間にか俺は欄干まで追い詰められ、背中を欄干にぶつけつつ、「待って待って待って」を連呼するだけの人間と化していた。
押し寄せてくる人波が怖い。
じゃっかん涙目だ。
なんだこれ。
橋の上だけではなくて、川の両岸からも、俺を見ようとする人たちが身を乗り出そうとしていた。
危ない危ない危ない。
それ、落ちたら俺のせいじゃん――
――そう思った直後、ぼきっ、と、聞こえてはならない音がした。
背筋を凍らせながら振り返る。
そして俺はそこに、圧し掛かる人の重みに耐えかねてぼきっと折れた木の柵と、支えを失ってものの見事に川面へと落下しようとする一団の人を見た。
「――やばっ」
思わず口の中で呟き、俺はくるっと欄干に向き直り、その上に攀じ登りつつ、人生で初めて、人に向かって魔法を使った。
――これは、俺の感覚論だが、救世主として絶対法を超えられる方向性は限られている。
なぜだかは分からないが、人を守ったりあるいは人を治療したりといった、そういう方向のために絶対法を超えることは出来ないのだ。
だからこのとき、俺は咄嗟に、落ちる人たちから川面までに存在する空間に、ぎゅっと空気を圧縮するイメージで世界の法を書き換えた。
俺の魔力によって書き換えられた世界の法則が、俺が想像した通りに現実を書き換える。
ぼすんぼすん、と間抜けな音を立てて、落ちる人たちの落下速度が低下する。
とはいえ、このまま放っておいたら、あの人たちのうちの何人かは溺れてしまうかも知れない。
――と、嫌な想像力を働かせた結果、俺は寸分の躊躇いもなく息を大きく吸い込み、欄干を乗り越え眼下の川に向かって飛び込んでいた。
「救世主さまっ!」
「救世主が身投げしたっ!」
ものすごい騒ぎが背後で勃発した気がするが、無視だ。
腹の中が引っ繰り返るような浮遊感は一瞬、すぐにぼしゃんと盛大な音と飛沫を上げ、俺の身体は川の中に落下した。
周囲から冷たさが押し寄せてきて、心臓がぎゅっと縮まる。
着水の瞬間こそ目を閉じたものの、すぐに目を開ける。
ぼこぼこと目の前を無数の泡が昇っていく。
足で水を蹴り、手で水を掻いて、俺は水面に向かって浮上。
がばっ、と水を割って頭を出して、大きく口を開けて息を吸う。
その拍子に浮かぶ花びらが口に入ってきたので、ぺっとそれを吐き出す。
立ち泳ぎの状態で、俺は落下してくる人たち――俺が落下速度を緩めたために、彼らの着水は俺よりやや遅い――を待ち構えたが、よく考えるまでもなく、全員を間違いなく受け止められるかと言えば答えは否であって――
と思った直後、ぴしっ、と甲高い音を立てて、川面の一部が凍り付いた。
花びらを内包する青白い氷が、現実離れした速度で生成されてうっすらと白く冷気をたなびかせる。
わあ、と上がる歓声。
さすが救世主さま、と聞こえてきたが、いや違う俺じゃない。
思わず顔を上げ、濡れた髪を掻き上げて、両岸を見渡す。
――すると、いた。
木の柵が崩れたのとは反対側の岸で、群衆に紛れてこっちを見ている薄青い髪の女の子。
えーっと、誰だっけ。
見たことあるな、そうだ、この町に来た日に見掛けたのだ。
どうやら、この氷はあの女の子の魔法の産物だ。
確証はないが、勘がそう言っている。
俺と目が合って、女の子がすうっと目を逸らした。
あからさまに、面倒事は嫌だと思っている顔だった。
それを見て、俺もぶちっときた。
――まったく、どいつもこいつもなんなんだ。
いらっときた勢いに任せ、俺はざばっと水の中から腕を出し、真っ直ぐにその女の子を指差して、奇跡的に思い出したその子の名前を叫んでいた。
「きみっ――アナベル! 絶対そこにいろよ! 後で話があるからなっ!」
薄青い髪の女の子の顔が、さああっと凄い勢いで蒼褪めた。
直後に周りから、「救世主と知り合いなのか」と問い詰められている様子のその子に、俺は思わずざまぁみろと鼻を鳴らす。
直後、落ちてきた人たちの一団が、凍り付いた川面の上に着氷した。
通常ならば、落下してきたうえに硬い氷に叩き付けられたのだから痛みがありそうなものだが、俺が落下の勢いを抑えたためにそうでもなかったらしい。
「つめたっ!」という声が複数上がり、つるりとした氷の上で踏み留まり損ねた数名だけが、氷の上を滑ってぼちゃんと水の中に落ちる。
水を掻いてそっちに泳ぎ、俺が落っこちた人の襟首を掴んだり腕を掴んだりして手を貸して水面に顔を出させ、魔法の介助も使いつつ、彼らを氷の上に押し遣っていく。
とにかく「すみません」を連呼。
どう考えてもこの騒動、俺のせいだもんな……いや、国主の息子の責任も大きいと思うけどさ。
ぶん殴れそうだったら、後であいつのことはぶん殴ろう。
だがともかくも、責任をひしひしと感じるためにひたすら謝る。
ものすごい歓声が聞こえるんだけどどうしよう。
ここから出たくないんだけどどうしよう。
そんなことを思いつつ、助け逃した人がいないか気にしつつ、俺は零れんばかりに花が咲く中洲の方へ泳ぎ、その上に攀じ登って、ほう、と息を吐き出した。
春とはいえまだそれほど気温は高くなく、濡れそぼった服が冷たい。寒い。
俺から滴る水滴が当たって、花がぽたぽたと頷くように項垂れる。
がくがくと震え始めながらも、俺はざっと周囲を見渡す。
助けられていない人は――いない……?
と、そのとき、あの青髪の女の子――ええっと、さっき叫んだ名前はなんだったっけ――とは反対方向、つまりは今現在氷の上で凍えている風情の一団が落下してきたのと同じ方向の岸から、まだ壊れていない木の柵を乗り越えて、誰かが勢いよく川面に飛び込んだ。
ぼしゃん、と威勢よく上がった水音と水飛沫に、俺はびくっとしてその場で膝立ちになる。
なに? なに? 何が起こったの?
が、そこで俺は気付いた。
川岸で、半狂乱になって泣き喚いている若い女の人がいる。――え、どういうこと?
目が回りそうになっている俺は、直後、ぼちゃん、と川面に顔を出した人がいるのに気付いて、咄嗟にそちらに手を伸ばした。
その人はその人で、俺が手を伸ばしたのに気付いたのか、不自由そうな姿勢ながらも、こっちに向かってばしゃばしゃと泳いできてくれる。
不自由そうな姿勢の理由は明らかで、その人はどうやら、ばたばたと暴れる小さな子供を、なんとか確保しながらこちらに向かおうとしているらしかった。
――あ、やばい。このままだと二人とも溺れそう。
そう思った俺は、生まれて初めて、人に向かって――俺が、自分が救世主であるかも知れないと気付くきっかけになった――〈時間を支配下に置く〉魔法を使っていた。
唐突にぴたりと動きを止めた要救助者に、救助者が何を思ったのかは分からないが、それでもこれ幸いと、ばしゃばしゃとこちらに向かって泳いできてくれるその人。
川面から顔を出すその人はどうやら女性で――俺とそう歳も変わらないだろう少女で――、蜂蜜色の長い髪を、水面にふわふわと浮かべる格好になっていた。
どうやら彼女は、それほど泳ぎが得意ではないらしい。
それでもばしゃばしゃと中洲に辿り着いた彼女から、俺はまず、彼女が抱きかかえるようにしている小さな子供を引き取った。
引き取ると同時に魔法を解いたので、子供からすれば、唐突に自分が中洲の上に引き上げられたように感じたはずだ。
びっくりし過ぎて泣くことも忘れたのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、それからげほげほと咳き込む少年。
少年を中洲の上に放り出して、俺は続いて、ここまで泳いできてくれた少女に手を伸ばした。
少女は心配そうに少年を見てから、立ち泳ぎの姿勢でぱしゃぱしゃと水を掻き回しつつ振り返り、「だいじょーぶー!」と叫ぶ。
ややハスキーだが、よく透る声だった。
「そこの人ー! 大丈夫ですー! 息子さん、大丈夫ですー!」
あ、なるほど。あっちで泣いてたのはこの少年のお母さんか。
そう納得しつつ、俺は少女の肩を叩いた。
「――ごめん、俺のせいの騒動だったのに、ありがとう。きみは大丈夫?」
少女がこちらを振り返り、中洲につかまるように手を突いて、俺を見上げた。
濡れて艶やかに光る蜂蜜色の髪に、水面に浮かんでいた花びらが付いていた。
中洲に零れんばかりに淡い色合いの花が咲いていたこともあって、俺はその瞬間、全く馬鹿げたことに、「花の妖精みたいだな」と考えた。
少女が鬱陶しそうに掻き上げた髪から覗いた額に、つうっと水滴が伝う。
長い睫毛に囲われた大きな飴色の瞳が俺を見て、俺の影を映して、直後、彼女がぱあっと笑顔になった。
輝くような笑顔だった。
「ううん、大丈夫! それに、きみのせいでもないと思うよ」
元気よく、苦笑混じりにそう言われて、俺はほっと息を漏らす。
「――ならいいけど。大丈夫? 上がれる?」
そう尋ねつつ、少女に手を貸して中洲の上に引っ張り上げる。
少女はどうやら、この町の人であるようだった。
薄い緑色の服を着ていて、その服が今は濡れてぴったりと彼女の身体に張り付いている。
それを見るとなんとなくどぎまぎしてしまったので、俺はそっと視線を外した。
少女は「ありがと」と俺に言おうとして、「ありが」の辺りで小さくくしゃみをした。
それで俺が慌ててしまって、「大丈夫?」と尋ねると、ふわふわと笑いながら手を振ってくれる。
「大丈夫、大丈夫。いきなり冷たい水に飛び込んじゃったら仕方ないわ」
そう言いつつ、少女は俺が放り出した少年に膝で寄って行って、「大丈夫?」と声を掛ける。
それで俺がまごまごしていると振り返って、
「あのね」
と。
その、秘め事を打ち明けるかのような親密な口調に、俺は思わず少女の方へ身を乗り出していた。
「お、おう?」
「私、この上にいたから。落っこちた人はよく見えてたんだけど、この子が上がって来なくて、お母さんは泣いてるし、きみになんとか伝えようにも、この騒ぎでしょう」
この騒ぎ、と言いつつ周囲を指差し、少女は苦笑する。
「きみに私の声が聞こえるかも分からないなと思って、それで飛び込んじゃった――というのは建前で」
「建前」
意味もなくそう繰り返しつつ、俺は少女から目を逸らした。
今まで一度も感じたことがなかったような落ち着きのなさを感じていた。
が、俺が目を逸らしたのが、少女のお気に召さなかったらしい。
片手でぎゅうっと髪を絞りつつ、つい、と手を伸ばした少女が俺の袖を摘まんで引っ張ったので、俺はもういちど、少女の大きな飴色の瞳に自分の視線を重ねた。
「もう、ちゃんと聞いてよ、救世主さま」
少女が苦笑いしながらそう言った。
俺は思わずそれを遮って、「ルドベキア」と。
「え?」
少女が瞬きして、首を傾げる。
それに、何とはない気恥ずかしさを覚えつつ、俺は呟いた。
「――ルドベキア。俺の名前。
確かに俺は救世主みたいだけど……救世主って名前じゃない」
少女はしばし、ぱちぱちと瞬きして俺を見ていた。
それから不意に、ふわっと――それこそ花のように微笑むと、頷いた。
「はい。――私はトゥイーディア。
ちょっと恥ずかしいことを言っちゃうと、」
照れたように微笑んで、トゥイーディアは肩を竦めた。
「私たち、ずっと前から出会うはずだった感じがしたの。それできみの近くに行きたくて、思わず飛び込んじゃったのよ。
――この子を助けられたのは、まあ僥倖だったというところが本当でして」
お道化た様子で最後の一言を付け加えて、トゥイーディアは笑窪を浮かべて付け加えてくれた。
「きみ、とってもかっこいいのね」
「――――」
俺は碌な返事も出来ず、ぽかんとしてトゥイーディアを眺めていた。
それが恥ずかしかったのか、トゥイーディアはふいっと俺から視線を外し、「変なこと言っちゃった」と両手で頬を押さえつつ呟いていたが、俺は別に変なことを言われたとは思っていなくて――
――単純に、こんなに可愛い人がいるんだな、と、そう考えていたのだ。
◆◆◆
「いいから謝れ」
と、俺は言った。
対する国主の息子は平然と、
「やだ」
と。
こいつ、やっぱりマジで一発くらいはぶん殴るべきだろう。
――そう思い、俺が固く拳を握り締めたのはその日の夜、あのでかい壁みたいな階段の更に奥に位置する建物の一室、この国主の息子の自室らしき、俺の家がまるごと一軒ぽーんと放り込めるような広さのある部屋の中でのことだった。
あれから大変だった。
まず、川からなんとかして岸に上がらなくてはならなくて、トゥイーディアは割とのんびりと、「どうしよっかー」と言っているだけだったし、俺もなんだかトゥイーディアともっと話していたくて、別にこのまま夜になってもいいか、と、普段よりだいぶ頭が悪くなったようなことを考えていたので、「どうすっかなー」と言っているだけだったが、まあ冷静に考えて、そんなのんびりと構えている場合ではなかった。
何しろ寒い。
俺は何らの躊躇いもなく自分を乾かし、トゥイーディアにも同じようにしてやろうとしたのだが、トゥイーディアは慄いた様子で、「熱くないの……?」と尋ねてきた。
どうやら俺がやった方法は、結構な荒療治の部類に入るらしかった。
トゥイーディアはトゥイーディアで、「普段あんまり魔法は使わないの」ということで、上手いこと自分を乾かす自信はなかったらしい。
そんなわけで彼女の顔色がどんどん悪くなっていって、俺は大いに狼狽えたが、なんだかんだで心配は無用だった。
しばらくすると人混みが割れて、銀色の髪の――めちゃくちゃ不機嫌そうな――青年が現れて、俺たちがぽかんとしている間に、上手いこと俺たちを岸に上げてくれたのだった。
で、その青年もこの場にいる。
川から回収された俺は、そのまましれっと逃走しようかなとも考えたのだが、土台無理な話だった。
何しろ見たことがないような数の人たちから大注目を浴びていた。
唯一の救いは、トゥイーディアがしれっと逃げていかなかったことだ。
当然のように傍にいてくれて、俺にとっては結構ありがたかった。
そのあと、なんやかんやでこの部屋に通されたわけだが、俺は建物のでかさに目が回りそうだった。
だってこの建物、外にある通りより幅の広い通路が普通にあるんだもん。
灰色の石を積み上げて造られた建物は隙間風がびょうびょうと入り込んで寒かったが、高い天井付近に篝火がずらっと並べられている様は壮観だった。
で、ここ。
繰り返すが国主の息子の部屋。
灰色の石造りである点は通路と同じだが、だだっ広い上に入口から見て左側の部屋の半分は他より三段くらい高い造りになっていて、そちら側が見えないように薄い布の帳が幾重にも垂らされていた。
その向こうがちらっと見えたときに察するに、山ほどのクッションが積まれたあっちが、どうやら馬鹿でかいこいつの寝台らしい。
阿呆なのか。
なんであんなにでかいスペースが要るんだ。
俺たちは無論のこと、今は部屋の右半分にいて、こっちもこっちで無骨な石の円卓と丸椅子を中心に配置されていたものの、少し離れた場所に置かれている長椅子の上をはじめ、あちこちにクッションが放り出されていたりきらきら光る宝飾品が投げ出されていたりと、俺が住んでいる世界と地続きとは思えないような光景が展開されている。
今ここには、俺の他に国主の息子と、あの薄青い髪の女の子と、俺たちを川から拾ってくれた銀髪の青年と、もう全く見覚えのない赤金色の髪の高飛車そうな(かつ、矢鱈と綺麗な顔をした)女の子がいる。
トゥイーディアはどこかと言って、湯浴みである。
「湯浴みが必要では」という話題になったときに、俺と薄青い髪の女の子は揃って、「ゆあみ……?」という反応だったが、他の人には通じていた。
かくしてトゥイーディアは、よく分からないが白くて質素な服を着た女の人たちに連れられて、ここから連れ出されていた。
彼女がちゃんと戻って来るのか、俺は何気に心配である。
心配といえば、幼馴染連中もさすがにそれ以上に心配だ。
あいつら変なことに巻き込まれたりしてないかな。
――そして冒頭に戻る。
いきなりあのやり方で俺が救世主だと宣言する必要はないだろ、と俺は思っていたし、まあかなりの確率で俺が正しいな、とも思ったので、国主の息子に謝罪を迫った。
そして国主の息子がしれっとした顔で、「やだ」と言い放って、今である。
「このやろう」
と、俺ががたんっと立ち上がったところで、「それは拙いそれは拙い」と、青髪の女の子が俺にしがみつかんばかりにして止めてくる。
それからじとっとした目で俺を見て、
「そもそも、あたしを巻き込んだのはあなたでしょうに……」
と。
それを言われては否定できないので、俺はぐっと言葉に詰まった。
俺が名指しで、「そこにいろ」と言ってしまったがために注目を浴び、この子はここに連れて来られることになっているのである。
「ごめん……」
言って、もういちど席に座りつつ、俺はぼそっと。
「で、きみ、名前なんだっけ……」
ばこんっ、と、結構な勢いで頭を叩かれた。
俺の頭を叩いた青髪の子は、瞬間的に顔を真っ赤にしつつ、「信っじられない……!」と。
「信っじられない……馬ッ鹿じゃないの……なんであのときだけあたしの名前知ってたのよ……!」
わなわな震える青髪の子が怖くて、俺はそっと目を逸らした。
ここで、「で、きみの名前は?」と重ねて訊いてはいけないことくらいは分かる。
国主の息子は翡翠の目で俺を眺めて、何ら悪びれることなく、何ならちょっとご機嫌斜めでさえある調子で、「ぜってー謝らねーからな」と。
偉そうに脚を組み、ずびっと無遠慮な手付きで赤金色の髪の女の子を指差す。
「おまえにゃ分かんねーだろーけど、こっちは今日の成人祝いが済んだら、こいつと結婚させられる手筈だったの。んなのぜってーお断りだから、なんとかして有耶無耶にしなきゃなんなかったの」
女の子を示した指先を俺に向ける。
人差し指と親指をぴんと立てて、その人差し指でぴしっと俺を指して、国主の息子は不機嫌極まりない口調で。
「救世主だって分かる奴が来たんだから、騒ぎにするには渡りに船だろ。分かんねーかなあ」
俺は再度拳を握り固めたが、そのとき赤金色の髪の女の子が、徹底的に冷ややかで侮蔑的な声を出していた。
「――こちらも、あなたみたいなのと添い遂げよなど、命じられてもお断りですけど」
赤金色の髪の女の子は、見たところまだ九歳か十歳といったところ。
その年齢とは思えないような冷ややかな口調だった。
ぴしりと背筋を正して座り、女の子は軽蔑そのものの目で国主の息子を見ていた。
「なんて馬鹿丸出しの人なの。あんなに人のいるところで騒ぎを起こすなんて、本当に馬鹿。馬鹿ばかばか」
馬鹿馬鹿言われて、国主の息子もかちんときたらしい。
威嚇する猫みたいな顔になって、赤金色の髪の女の子を睨んだ。
「馬鹿馬鹿うっせー、ちび」
「ちびではなくディセントラです」
つん、と女の子――もといディセントラはそう言って、顎を上げた。
「だいいち、お父さまから、わたしの相手はあなたではないかも知れないと聞いているわ」
「えっ?」
これは本当に予想外だったのか、国主の息子は椅子から落っこち掛けた。
「おっとっと」と石造りの円卓に手を突いて身体を支えつつ、「マジ?」と。
と、ここで疑問が限界に達したのが俺と青髪の子。
思わず顔を見合わせ、お互いに同じことを考えているのを言外に読み取って、「あのさあ」と。
「――結婚だのなんだのって、……餓鬼過ぎね?」
途端、三人分の軽蔑の視線が俺に突き刺さった。
俺はたじろぐ。
「な――なんだよ」
「救世主さまにお教え申し上げると」
と、銀髪の青年。
これは俺よりやや年上、十八か十九か、そのくらいの齢とみえた。
「我々の中では、女性の婚姻は十にもなれば十分に有り得ます」
「こっわ……」
思わずそう呟いて、俺は国主の息子に目を戻した。
「――で、おまえはそれが嫌で大騒ぎを起こしたって?」
国主の息子は完全に不貞腐れた顔をしていた。
つん、と俺から顔を背けて、「おまえって名前じゃねーし」と。
とはいえ俺はこいつの名前を知らないので、「国主の息子さん」と呼んでみる。
途端に重い溜息を零して、銀髪の青年が呟いた。
「国主の息子というなら、僕もそうなんですが」
「えっ」
と声を上げたのは俺と青髪の子が同時。
二人して国主の息子二人を見比べて、「兄弟?」と首を傾げる。
「んなわけあるかっ!」
国主の息子(翡翠色の目の方)が、総毛立った様子で叫び、国主の息子(銀髪の方)が、軽蔑露わに溜息を吐いた。
「――その思慮の浅さには敬服の念すら覚えますよ」
俺はいらっとしたものの、青髪の子はもっといらっとしたらしい。
「はあ?」と言って、銀髪の青年を睨んだ。
青年の方はそれを気にした様子もなく、「いいですか」と、無駄に辛抱強さを感じさせる声音で言う。
「国はここだけではなく他にもあります」
「そうなの!?」
俺が叫び、銀髪の青年はさすがに固まった。
驚愕の顔で俺を見る銀髪の青年をちらっと見てから、ディセントラと名乗った女の子が、さらりと言葉を並べていく。
「他所に行ったことがないなら知らなくて当たり前だわ。――国は他にもあるの。わたしもこの人も、その他所の国から来たのよ。この国の国主さまの息子がこの馬鹿で、」
馬鹿、と指された国主の息子(翡翠色の目の方)が、「誰が馬鹿だっ」と叫ぶ。
「他の、とある国の国主の息子がこのかた。それで、わたしもまた別の国の国主の娘なの」
「なんでこんなとこに居んの?」
思わず俺はぼろっと尋ね、ディセントラは不満そうに膨れっ面をした。
「さっき、この馬鹿が言った通りだわ。わたしが将来添い遂げるかもしれないのが、この馬鹿なの。だから成人のお祝いで、わざわざ来てあげたのよ。象に乗っていたのがわたしよ。分からない?」
思わず俺は、年下の女の子相手だということも忘れて、素直にこくんと頷いていた。
「分かる。そっか、あの象に乗ってたのがきみか」
「本当なら、丁寧な口を利かないと駄目よ」
ディセントラはにこりともせずに言った。
「でも救世主さまだから、ゆるしてあげる。――こちらのかたは、やっぱりわたしが将来添い遂げるかも知れないかたの候補の一人よ。
あのね、あなたには分からないでしょうけど、国どうしにも色々あるの。このかたのお父さまは、わたしがこの国に嫁ぐと困るから、わざわざこの時期に合わせてこの方をこの国に遣わして、わたしとこの馬鹿の婚姻のお話が進むのを止めようとなさっているのよ」
でしょう? と、完璧に作られた人形のような仕草で首を傾げ、銀髪の青年を見上げるディセントラ。
銀髪の青年は、若干驚いているように見えた。
「――その通りです。そのお歳で、大したご慧眼だ」
「このくらい簡単にわかるわ」
そう言い放って、ディセントラは顰め面で円卓の上を見渡した。
「たくさん話して喉が渇いたわ。お茶のひとつも出ないのかしら」
「ぜ、ぜってー出さねー……」
国主の息子が呟いた。
「人のこと馬鹿馬鹿言いやがって……」
「あら、お馬鹿さんのことを馬鹿と言って何が悪いの」
国主の息子が立ち上がった。
「ぶっ殺す!」
ディセントラは顔色も変えなかった。眉一つ動かさなかった。
「戦争よ」
そのとき、遠慮がちに扉が開いて、そうっとこちらを覗き込む人がいたので、俺はがばっと振り返った。
トゥイーディアだった。
俺と目が合って、トゥイーディアがほっとしたように微笑む。
そそくさと部屋の中に滑り込んできて扉を閉めて、「良かった」と述懐。
「お部屋を間違えちゃったかと思ったわ」
彼女は着替えていて、それは元着ていた服が濡れてしまったのだから当然ではあったが、今はゆったりした白い衣裳を、腰をぎゅっと締めて着ているような具合になっていた。
髪は纏めずに流していて、まだ濡れた髪を手で梳いている。
彼女の顔色が良くなっていて、俺はほっとした。
とたとたと俺の傍まで駆け寄ってきた彼女が、んっ? と首を傾げる。
「えーっと……なんだか、空気が重いね?」
「こいつが謝らない」
俺は即座に翡翠色の目の国主の息子を指差し、あっちはあっちで憤然と、
「こっちだって事情は説明した!」
と。
トゥイーディアは困惑した様子で瞬きし、それから取り成すように両の掌を合わせ、首を傾げた。
そういう仕草に、彼女の温厚さが透けていた。
「あの、ええっと、そうですか。――あの、初めましての人もいるので、もう済んでいたら申し訳ないんですけれど、皆さまお名前を教えていただいても?」
「――――」
俺は少しの間沈黙し、同じく沈黙した全員を見てから、そっと告げた。
「いや実は、全然自己紹介とかまだで」
トゥイーディアはびっくりした様子だったが、すぐに気を取り直したらしく、おずおずとその場の全員を見渡して、
「あの、――私はトゥイーディアといいます」
それから俺を見た。
なんとなく、「お願い……」と言わんばかりの眼差しだった。
俺は溜息を吐いて、
「――ルドベキア」
それから青髪の子を見た。
青髪の子は、出来るものなら俺を殺したい、といった目で俺を見てから息を吐いて、
「アナベル」
と。
どうも、と頷いて、銀髪の青年がさらりと名乗る。
「――コリウス」
ディセントラがトゥイーディアを見て、つんとした態度で名乗った。
「他の人はもう知っているのよ。――わたしはディセントラ」
「あ、なんか、あの、すみません……」
トゥイーディアがたじたじと頭を下げる。
――やっぱり、温厚。
気が弱いわけではなさそうなのに、いや、いきなり川に飛び込む時点で、結構この子も破天荒なところがあるのは確実なのに、根が優しいのかなんなのか。
トゥイーディアが、最後に残った国主の息子に目を向けた。
国主の息子はしばし、ぎゅうっと唇を引き結んで、梃子でも何も言わないと表明するような態度だったが、しばらくトゥイーディアと目を合わせたあとに諦めたように目を瞑って、
「――カルディオス」
と、名乗った。
それから大きく息を吐いて、人差し指から無骨な黒い指輪を抜き取り、軽い仕草でそれを俺の方に放り投げてくる。
「わ」と声を上げつつそれを受け取った俺の手の上で、黒い指輪がぱっと黝く煌めいた。
カルディオスは円卓に頬杖を突きつつ、
「それさー」
と。
「だいぶ前に宝物庫で見付けたんだけど、ころころ形変わって便利なんだよね。――おまえのじゃない?」
「俺の?」
呟きつつ、俺はころ、と掌の上で指輪を転がす。
それから、言った。
「――というより、これ、救世主のものじゃない?」
「きみが救世主なんでしょ?」
隣から、トゥイーディアが俺の手許を覗き込んできてそう言った。
俺はどきっとした。
「お――おう」
「じゃあ、きみのなんでしょ?」
トゥイーディアがそう言って、俺の目を見て、にこっと笑った。
――俺の頭は真っ白になった。
――花の妖精みたいに可愛くて、人のためにあっさり川に飛び込む度胸もあって、仕草のひとつひとつが特別に愛らしい。
こんな人がいるのか。
同時に、焦った。
これ――俺は救世主だから、これから魔王討伐に行かないといけない。
なんとなくではあるけれど、今目の前にいる五人も無関係ではない気がする。
いやむしろ、暗黙のうちに全員がそういう共通の認識を持っていたからこそ、ここに六人が座っているのだ。
だが、駄目だ、と強く思った。
トゥイーディアは駄目だ。
トゥイーディアは同行させてはいけない。
彼女を死ぬような目に遭わせてはいけない。
――恋というものがよく分からない、好きな人というものがよく分からない、と思ってきたけれど。
これだ。
間違いなくこれだ。
今、俺が覚えているこの感情こそが恋情だ。
一目惚れってなんだよ、と言っていた数日前の自分を笑えない。
これか。これが一目惚れか。
俺はそう確信して、とにかくトゥイーディアの言葉に返答しようと口を開き、
「――ああ。ってか、馴れ馴れしいな」
自分の口から飛び出した暴言に、その場の誰より唖然とした。
――なんでこんなことを言ってしまったんだ、と唖然としたのは一瞬だった。
すぐに、天啓のように閃くものがあった。
代償だ。
――代償とは何か、その肝心なことは分からないが、救世主に特有のものなのかも知れない――ともかくも、それだ。
〈最も大切な人に想いを伝えることが出来ない〉という代償。
――俺の初恋は、始まる前に終わってしまった。
俺の暴言の一瞬後、トゥイーディアはびっくりしたように目を瞠って、それからすっと俺から離れて、「ごめんなさい」と言った。
俺はその場で吐きそうになった。
だが、代償だと気付いたからには簡単だ。
俺の〈最も大切な人〉をトゥイーディアではない他の誰かにすればいいわけで、出会ったばかりのトゥイーディアより大切な人なんて、ごまんと出来るに決まっている――
――だが、無理だった。
トゥイーディアはいつ見ても、どこを見ても可愛かったし、振る舞いには清潔感があってますます好感が募ったし、仕草は何をどう取っても素敵だった。
言動は誠実だったし、たまに過激なことを言いはしたものの、それすら俺にとっては好ましかった。
だから俺は、初対面の態度から一転、トゥイーディアにだけは徹底的に冷ややかに接しながら、魔界への出立までの時間を過ごした。
カルディオスの傲慢さに業を煮やして何度か殴り合いはしたし、カルディオスが正面切ってコリウスに対し、「気持ち悪い」と言い放った結果に勃発した大喧嘩に巻き込まれて二人と殴り合ったり、ディセントラの高飛車な態度にいらっとした結果に口喧嘩になり、六つも年下の彼女に見事に言い負かされたこともあったが――トゥイーディアとは、親愛が深まる何の出来事もなかった。
その出来事が許容されなかったというべきか。
一縷の望みがあったとすればそれは、魔王討伐後だった。
この代償がなんのために課されたものかは知らないが、魔王を討伐して消えていくものならば、魔王討伐後に彼女にちゃんと全部を話すことが出来る――
――俺はそう算段していて、そして、甘かった。
とうとう踏み込んだ魔王の城、その大広間の玉座の前に立っていた白髪金眼の魔王。
想像していたよりも人間らしく、幼いほどの風貌だった。
事実彼は、俺たちを見たその瞬間、何かを堪えるような顔をしたのだ。
だが、規格外だった。
魔王は本当に、ものの数分で俺たちを殺してのけた。
俺たちのことを全く、歯牙にも掛けていなかった。
倒れた床の冷たさ、失血の危機感――それら全てが遠のいていく。
薄れていく意識の中で、魔王が人を呼び、「これ、あんまり見ていたくないから、片付けておいて」と言うのを聞いて――
――駄目だった、敵わなかった、何も出来なかった。
その無力感に苛まれながら、俺は虚無の暗闇に落ちていき――
――轟くような自分の泣き声で、はっと我に返った。
……え?
目がよく見えない。
誰かが盛んに俺に声を掛けている。
「男の子だよ!」という声も聞こえてくる。
――え? 何が、どういう……?
困惑している意識とは裏腹に、俺の身体は力いっぱい泣き喚き続けている。
こんなの――これじゃあまるで、赤ん坊みたいな……
――そこまで考えて、気付いた。
誰かが俺の後ろに密やかに立って、囁き掛けてくるかのようだった――『おまえたちは魔王を殺さなくてはならない』。
――俺はまた生まれ落ちたのだ。
生まれてそして、魔王を殺すための人生が始まる。
――終わりがないことに気付いて、俺はいっそう大きな声で、ひたすらに泣き喚き続ける。
この世のどんな母親も、この絶望が分かるものか。
分かるとすれば、それは――
――今度はもう少し仲良くしよう。
もう少し歩み寄ろう。
気に喰わないところがあるとしても、もう少しだけ手を伸ばしてみよう。
二度目の生に泣きじゃくりつつ、俺はそんなことを考えていた。




