01* 星に願いを
既に本編にも掲載済み。
道を歩いている途中で貴族の馬車に衝突しそうになったとあれば、通常であればそれが人生終了の合図だ。
一般市民に非が無かろうと、貴族が黒だと言えば白も黒となるのがこの世の中だ。
私はそれが好きではないが、そういうものを変えていくのは難しい。
――が、殊このときに限っては、そうではなかった。
私はとある子爵家の子息の噂を聞き付けて、わざわざその馬車が通る場所を狙って飛び出したのだし、当然馬車を牽いていた馬たちは混乱し(本当にごめんなさい)、御者さんは目を剥いた上、そのまま私を絞め殺しそうな勢いで怒鳴り声を上げた(本当にごめんなさい)が、直後に馬車の扉を自ら押し開け、子爵家の子息本人が飛び出して来た。
その顔を見て、思わず私は笑み崩れてしまったし、子爵家の子息もものすごい笑顔になって、何かを叫び掛けた様子でぐっと堪え、片目を瞑って私をびしっと指差したあと、素早く御者さんに、「だいじょーぶ、落ち着いて」と声を掛けた。
その一言で、御者さんはぴたっと押し黙り、御者台に腰を落ち着けた。
よく見るとまだ若い青年で、子爵家の子息を見る目にはきらきらした憧れが滲んでいた。
なんだか、こういう言い方は失礼なのだろうけれど、よく訓練された大型犬を思わせる顔だった。
子爵家の子息は、続いて混乱する馬たちのうち、手の届くところにいた子たちの首をぽんぽんと叩き、嬉しさ余って爪先立つ私に駆け寄って来ると、勢いよく抱き締めてくれた。
今回の人生では、いつにも増して身長差がある。
私の目の前は物理的に真っ暗になったが、すぐに彼が私を抱き上げてくれたので、唖然とした様子の御者さんがよく見えるようになった。
御者さんはぽかんと口を開け、子爵子息を見て、私を見て、それからまた子息の方を見た。
そうして立ち上がり、また御者台に座り直し、片手でぽりぽりと蟀谷を掻く。
「――へっ?」
御者さんがそんな声を出してしまったので、私を抱え上げた子爵子息――カルディオスがふっと小さく笑った。
そして満面の笑顔で彼を見て、軽やかに。
「細かいこと気にしないで。このまま予定通りに頼むね」
えっ、だとか、はい? だとかと声を出す御者さんを無視して、カルディオスは私を抱えたまま、開けっ放しになっている馬車の扉に戻り、丁寧に私を座席に乗せてくれた。
そのまま隣に滑り込んで来てばたんと扉を閉めるや、さっき抑え込んだらしき歓声を爆発させる。
「――イーディ! どこいたの! 会えて良かった! どうやって俺のこと見っけてくれたの!? っていうか轢かれそうなことしちゃ駄目だよ!」
「カル!」
こちらも大歓声。
がたん、と馬車が揺れて動き出し、御者の彼は困惑しながらも立ち往生を避けてくれたのだと分かった。
「子爵のご令息の噂を聞いて、絶対カルだと思って!」
「マジで! 良かった、会えた!!」
二人でひしと抱き合って喜びを分かち合ったところで、はたと首を傾げてカルディオスが私を離す。
「イーディ、小さいね? いま何歳?」
私は無意味に頭の上に手を乗せて、カルディオスを見上げて、これもやっぱり無意味に胸を張る。
「このあいだ十四になったわ!」
「俺は十八だよ」
カルディオスは真面目に言って、「四歳下の姉ちゃんだ」と破顔する。
私は嬉しくなってカルディオスに擦り寄りつつ、「ねえねえ」と。
「もう他の誰かに再会できた? 今回の貧乏くじは誰?」
あの人じゃないといいな、とちょっと思う。
あの人は――ルドベキアは、ただでさえ、「この人死にたがっているのか?」と疑うくらいに前に飛び出して行って序盤で死にがちで、その度に私の心臓を潰さんばかりの衝撃を与えてくれる。
そして、あの人が正当な救世主に当たると、その死にたがりに拍車が掛かる。
「イーディ、喜んで」
カルディオスは勿体ぶるようにそう言って、私の頭を撫でた。
「これからコリウスに会いに行くところだよ。で、アナベルもそっちにいる。
俺が会ってないのはルドとトリーだけだな。貧乏くじは――アナベル」
私はきゅっと唇を結んで、勝ち誇って笑うのを堪える。
アナベルは正当な救世主に当たると、その一生を通して機嫌が悪くなりがちだ。
そして正当な救世主の地位にある彼女は、機嫌ひとつで雷を落とすことさえ可能にする。
「――コリウスは、ええと?」
私が首を傾げると、それで意図を察してくれたらしい。
カルディオスはゆったりと、絵になる雰囲気で脚を組み、さらりと説明してくれた。
「俺は今回、ここの子爵家の生まれね。ま、成金だけど。金で爵位を買ったらしいけど、お蔭さまで豪勢な暮らしだよ」
爵位は土地に連動するのが普通だ。
膨大なお金を積めば、確かに買えないこともない。
そう納得しつつも、思わず私は肘でカルディオスを押す。
「きみはいつもでしょ」
「まあそーだね。――で、コリウスは伯爵の生まれだね。俺と逆で、貧乏貴族っつーか。
今の自分の父親がさ、次に買収する領地に目ぇ付けて、そこの領主に会いに行くじゃん? で、俺もそこに引っ張って行かれるじゃん? で、交渉の場に向こうの領主と一緒になって、後継ぎとしてコリウスが出て来たんだぜ?」
想像して、私は笑ってしまった。
「そ――それはそれは」
「そんとき俺が、えっと、十五くらいだったかな? 向こうは十三くらいで、ガキのくせにすっげぇ冷めた目してやがんの。俺がびっくりして思わず叫んじゃったら、あいつ必死に堪えてたけど苦笑いしてたぜ」
「あら」
と、私は意外に目を瞠った。
「彼のことだから、真顔で通しそうなものなのに」
「イーディ、それはあれだ」
カルディオスは苦笑した。
「前回あいつ、俺らの前で大号泣したじゃん。それで吹っ切れたんじゃないの?」
ああ、と、私は思わず声を漏らした。
前回拝見したコリウスの泣きっぷりは確かに凄まじかったし、「生まれ方を間違えたかと思った」と言うくらいには不安な思いをしていたらしい。
今回は十三でカルディオスの顔を見られて、それはそれは安堵したことだろう。
「で、あいつ、ナリはガキだけど、俺の今の父親が頭で敵うわけねーじゃん。金勘定なら俺だって人並みよりは経験してるけど、別に手伝ってやる義理ないしね。
で、今はなんやかんやで買収に手間取ってて、いや、手間取らせてるのがコリウスなんだけど」
「きみと会うために?」
「そ、俺と会うために。――で、今日もその話し合いの予定があって、俺がこうしてあいつのとこに向かってんの。
アナベルの方は、イーディと同じ感じかな? コリウスの噂を聞き付けて潜り込んで行ったみたい。こっそり教えてくれたけど、コリウスあいつ、人目がないとこではアナベルを大歓迎したらしいね」
苦笑いを噛み潰しながらそう言って、カルディオスは気の毒そうに、「まあ、アナベルは自分が貧乏くじ引いたってのでご機嫌斜めで、すっげー冷たい対応したらしいけど」と付け加える。
私は頭の中でコリウスの今の年齢が十六であると数えたあとで、「アナベルはいま何歳なの?」と尋ねた。
カルディオスは首を傾げて、「んん」と曖昧に唸る。
「あいつ、今回はあんまり恵まれてない生まれっぽいんだよね。だから正確なとこの年齢は分かってねーみたいなんだけど、多分、今は十五くらいかな?」
私はがっくりしつつ、「じゃ、私がいちばん年下なんだ」と。
カルディオスはふふっと笑って、私の肩を叩いてくれた。
「分かんねーぞ? ルドとかトリーはもっと年下かも」
私は小さく唸った。
ディセントラは、年齢が幾つであろうとも揺るがぬ美貌をいつも備えているので、全く羨ましいことに、小さければ天使のよう、成年していれば奇跡のような傾国の美しさを湛えている。
そしてルドベキアに関して言えば、成年していれば恰好いいし、少年であれば可愛らしいし、私はどっちにしろ彼が好きなのだけど、どっちにしろ彼からは嫌われているので、矢のような眼差しで睨まれることに疑いはない。
私が唸ったのをどう捉えたものか、カルディオスは殊更に明るい声で、
「ルドとトリーが一緒にいりゃいいけど、そうじゃなかったら二人して、前回のコリウス並みの大号泣を見せてくれるかもな」
と、薄情なまでに朗らかに言い放った。
――噂のコリウスに関しては、確かに前回の人生で色々と吹っ切れたらしい。
まるっきり平民の格好の私が、当然のように重大な議題の話し合いの場に現れた(私は遠慮したのだけど、カルディオスが私から離れないと言って聞かなかったのだ)のを見て、驚きこそ見せたもののちらっと微笑んで私を抱擁し、唖然とする周囲を後目に、あちらは平然とアナベルを呼んで来てくれた。
なお、その間にカルディオスが、「な、変わっただろ?」というように私に目配せをしてきたので、私は笑ってしまった。
私が前回の人生で最後に見たみんなの姿は結構酷いものだったので、私は思わず嬉しさの余り涙ぐんでしまったのだけれど、アナベルは小さく微笑んだのみで、それほど大きな感情の波は見せなかった。
ちなみに前回、私は最後から数えて三番目に死んだ記憶がある。
そのときにまだ生きていたのは、前回の正当な救世主だったディセントラと、割とまだ傷の浅かったカルディオスだった。
白髪金眼の魔王は心底嫌そうにディセントラを見ていて、私のことは片手間程度に殺してくれたわけだ。
人目がなくなった後で、アナベルは一頻り自分の貧乏くじを嘆いたが、「ここ最近やってなかっただろ」というカルディオスの正論を喰らっていた。
ちなみにその後、急速に天候が悪化したのは、もしかしたらアナベルの仕業かも知れなかった。
私については、カルディオスの方へ身を寄せるか、アナベルと一緒にコリウスの方へ身を寄せるかが議論になり、コリウスも快く私の身元を引き受けてくれそうだったのだけれど、カルディオスが「イーディは俺のところに来るの」と言って譲らなかった。
「コリウス、そっちにはアナベルがいるだろ。イーディは俺にちょうだい。俺が寂しいでしょ」
と、結構な真顔で言い切るカルディオスに、さしものコリウスも苦笑していた。
斯くして私はカルディオスのところに身を寄せて、ルドベキアとディセントラの行方を案じることとなったのだけれど、これが結構、衝撃的な身元の割れ方をした。
招待されたのである。
二人とも実は、それほど離れていない近所にいたらしい。
国境を跨いで私たちが生まれるのはよくあることなので、全員揃って同じ国に生を享けたというのは、まあ幸運といえば幸運だったわけだけれど。
何に招待されたのか?
笑いながらその話を教えてくれたカルディオスに、私は三回くらい訊き返してしまったのだけど、どうやらとんでもないことになっていた。
――ルドベキアとディセントラの婚約披露の舞踏会に、カルディオスは、そしてコリウスも、招待されているのだという。
あいつ孤児に生まれることが多いのに今回は貴族か、しかもトリーの婚約者か、とカルディオスは暢気に大爆笑していたが、こっちは笑うどころではない。
なんともまあ。
あの二人が今さらどうこうなるわけもないという方に賭けたいけれど、下手をすれば旧知の友人が恋敵である。
――なんともまあ。
***
――と、大混乱の私を乗せて、馬車ががらがらと道を進んでいる。
どこに向かって? 決まっている、件の舞踏会の会場に向かって。
カルディオスはものすごく乗り気で、私を貴族令嬢めいた格好に扮装させた。
コリウスにも、アナベルを同じように扮装させることを提案していて、コリウスならそれを「馬鹿なことを」と言って一蹴するに違いない――という私とアナベルの予想を裏切って、コリウスはあっさりと頷いていた。
あの瞬間のアナベルの、「は?」と言わんばかりの顔は面白かった。
正直、おなかが痛い。
コルセットのせいではなく、めちゃくちゃおなかと胸が痛い。
カルディオスは何というか、根が素直な子なので、嘘を吐くのに向いていない。
ゆえにカルディオスに私の気持ちがばれると、そのままあの人本人に私の気持ちが知られかねない。
それはちょっと耐えられない。
あの人に、蛇蝎を見るような目で見られるのだけはごめんだ。
だからこそ私は、隣でにこにこしているカルディオスに不調を気取られるわけにはいかず、取り敢えず笑顔の仮面を被っているわけだけど、その下ではものすごくおなかが痛いし胸が痛い。
夜陰に輝く邸宅が見えてきた。
蝋燭程度の明かりであそこまで煌々と窓から光を溢れさせるのが凄い。
事と次第によっては、私はこの眩しさに目をやられてしまいそうだ。
――どうかルドベキアとディセントラが、友人の距離感を保っていますよう。
こっそりとそう願って、私は邸宅の前で停まった馬車から、カルディオスに手を取られて地面に降りる。
ぴしりと正装を着こなすカルディオスは、男女問わず周り中の視線を浚うくらいには格好いいが、生憎と本人はそれを気にしていないし、何なら再会できるはずの旧知の友人のことしか考えていなさそうだった。
ごく自然に差し出された手を取って、私は邸宅の中に足を踏み入れた。
――が、その実、今すぐ回れ右をして帰りたい気持ちでいっぱいだった。
さすがに足が鈍くなった私に気付いて、カルディオスが瞬きして私を振り返る。
「……どしたの、イーディ?」
首を傾げて尋ねられ、その瞬間に私の後ろの方で抑えた悲鳴が上がったことを確認してから、私は笑顔で応じた。
「きみがあんまり恰好いいから、周りからの嫉妬の視線で死んじゃいそう。
――馬車の中に戻っててもいい?」
渾身の上目遣いで首を傾げてみせたものの、カルディオスはそれを察知した様子もなく、極めて様になる笑顔を浮かべただけだった。
「大丈夫、俺が責任持って守ってあげるから」
会場には既に音楽が流れていて、楽団の皆さまが落ち着いた笑顔で演奏している姿も見える。
立食のスペースの向こうにダンスフロアが設けられていて、さすがにまだ誰もダンスを披露してはいないが、立食スペースは笑いさざめく貴族でいっぱいだった。
私とカルディオスはコリウスとアナベルを捜して周囲を見渡したが、私たちがあちらを発見するよりも早く、向こうがこちらを発見して寄って来てくれた。
「おー、よく俺らがどこにいるか分かったね」
と、カルディオスは感心したように言ったが、元より無愛想な二人組はにべもなく、「そんなもの」と一蹴する。
「ここにいる連中がちらちら見ている方向におまえがいる、それ以外の何がある」
外見はまだ十代半ばのはずなのに、既に老成した雰囲気を纏うコリウスが言い放った。
カルディオスはにっこりと花のような笑顔を浮かべてみせた上で、「ま、そっか」と、謙遜皆無の首肯を披露してくれた。
「普通に考えるとそーだね。なに、コリウスおまえ、俺が羨ましいの?」
コリウスのことだから、軽蔑のありったけを籠めて、「は?」と言いそうだな、と思って私が彼を見ると、彼は意外なことに、何かを言おうとして、それを思い留まって口を噤んだような様子を見せていた。
私が怪訝に思ったのと同様に、カルディオスも眉を寄せる。
「――なに?」
カルディオスが首を傾げると、コリウスは数瞬の躊躇のあとで、「いや」と呟いた。
「いや、また今度言うよ」
カルディオスはきょとんとした様子だったが、別段喰い下がりはせずに、「そう」と頷いた。
そのとき、会場から潮騒のように拍手が湧き上がり始めた。
私はもはやこの場から消え去りたいと思いつつ、儀礼的に手を叩いて、貴族の皆さんの目が向いている方を見遣った。
――本日の主役である二人が、仲睦まじげに入場してきたところだった。
会場のあちこちからは感嘆の声が上がり、私は思わず、そうですよね、格好いいですよね、綺麗ですよね、と、うんうんと頷いてしまっていた。
ディセントラはいつだって美しく生まれつくので、このときも例外ではなかった。
赤金色の豊かな髪の半ばを丁寧に結い上げていて、その髪はシャンデリアの明かりに光輪を弾くほどに艶やかだった。髪飾りは着けていない――ように見える。
婚約のときには髪飾りを女性に贈るのが習慣であるはずだけど、まだなのだろうか。今日贈るということだろうか。
ディセントラは、白い頬を私たちに見せていて、というのも隣で彼女の手を引く男性に親しげに身を寄せて話し掛けているからだったが、その顔立ちも、距離があってなお目を惹くほどに華やかに整っている。
品のいい深紅色のドレスを身に着けていて、身分の高さを表すように、そのドレスの裾を長く引き摺っていた。
そして、そのディセントラが白魚の手を預け、親しく身を寄せている男性こそが、私の長過ぎる程に長い片想いの相手であるルドベキアだった。
前回の人生では、享年は十代だった。
だが今回は既に、二十歳を超えているように見える。
いつものように背が高く、細身でいながらがっしりとしていて、華奢なディセントラの手を優しく引いている手が逞しい。
漆黒の髪は短く整えられていて、深青色の眼差しがディセントラに配られている。
黒に近い群青色の正装に身を包んでいて、私は思わずその姿を凝視してしまった。
かっこいい。めちゃくちゃかっこいい。
ただ立っているだけでもかっこいいけれど、仕草がかっこいい。
ディセントラが何か言い、ルドベキアが笑った。
小さく、本当に小さく笑って肩を震わせ、目を細めたのが、結構な距離があるのに私には見えた。
――ディセントラ、お願いだからそこを代わって。
思わず私は、旧知の親友に切実すぎるお願い事をしに行ってしまうところだったが、それよりも早くルドベキアとディセントラが所定の位置に辿り着いてしまった。
二人が並んで頭を下げて、ディセントラが口を開く。
普通、こういう場では男性があれこれ口を開くものだが、ルドベキアは口下手だし人前に立つのが苦手であるようだし、ディセントラにお願いしたに違いない。
ディセントラが、集まってくれてありがとう、だの、楽しんで行ってね、だのということを、美辞麗句で飾り立てて並べている間に、ルドベキアの視線は招待客の群れをなぞるように動いていた。
間違いなく、私たちが中に紛れていないかどうかを確認してくれているのだろうし、遅かれ早かれ彼は私たちを見付けてくれるだろうが――
はあ、と私は溜息を吐いて、ちょうど傍にあった立食のテーブルから、銀の盃を手に取って、まじまじとその湾曲した表面を見詰めてしまった。
カルディオスは、今にもルドベキアとディセントラに向かって走って行きそうなほどに全身を張り詰めさせていたし、アナベルは若干、自分が救世主であると宣言しなければならない近い未来を悲観した様子で目を閉じていたので、私のその挙動に気付いたのは、唯一コリウスだけだった。
「――トゥイーディア? どうした?」
怪訝そうにそう尋ねられて、私は物憂く呟く。
銀の盃に映る私の顔は歪んでいる。
「……綺麗になりたい」
私がディセントラほどに綺麗な見目に恵まれていれば、さしもの彼も私を見てくれて、目が合うこともあるだろうに。
そういう、結構切実な思いの詰まった述懐だったのだけれど、コリウスは眉間に深い皺を刻んだ。
「何を馬鹿なことを言っているんだ」
「――はい、すみません」
私は盃を円卓に戻して、挨拶を終えて最初のダンスを披露する二人を眺める。
二人とも、結構面倒そうに踊ってはいたが、さすがというべきか上手だった。
危なげなく踊り切った二人に向かって、とうとう我慢の限界を迎えたらしいカルディオスが軽く手を挙げ、近付いていく。
そのカルディオスに気付いた二人の顔が、全く同様に輝いた。
二人が足早に、周りを振り切るようにして、カルディオスに歩み寄って行く。
そしてルドベキアが、勢いよくカルディオスを抱き締めた。
周囲は訳が分からなかったことだろうと思うが、感激余ったのかその場で拍手を始めたディセントラに釣られたように、周りの人たちも拍手を始めてしまった。
困惑したのは拍手を受けた当人たちで、お互い離れたあと、「何の集まりだよこれは」とルドベキアが低く呟いたのを、私の耳は捉えてしまった。
そしてほぼ同時に、泣き虫のディセントラが泣き出してしまったために、ルドベキアが慌てた様子でディセントラの肩を抱き寄せ、周囲に向かってあることないこと言いつつ、「こいつをどこかに匿おう」と言い出した。
確かに、主役の一人であるディセントラが泣きじゃくっているとなれば、その彼女をどこかに匿わなければならないが――
――えっと、まだ二人は友達だってことでいいのかな? と、私は思わず、ディセントラの肩を抱くルドベキアの手をじっと見詰めて考え込んでしまった。
***
舞踏会の主役ともなれば、控室くらいは用意されている。
私たちはそこに逃げ込んで、またそこで一頻り再会を喜び合った。
ディセントラは嬉しさ余ったのかしくしくと泣き続け、いきおい私がその隣で、彼女の手を握ったり背中を擦ったり、あれこれと彼女を泣き止ませるために尽力したが、ルドベキアは控室の扉が閉まるや否や目を輝かせて(そういう表情も、私は大好きだ)、「誰が貧乏くじを引いた?」と尋ねた。
アナベルが無言で手を挙げたが、その表情が如実に、「笑ったら殺す」と語っていた。
ルドベキアは諸々をぐっと堪えた顔をして、「気の毒に」と言ったものの、語尾が微妙に震えていた。
アナベルはぐっと拳を握り締め、同瞬、窓の外では雷鳴が轟いた。
ルドベキアは、私たちの再会の順番であるとかそのときの様子だとかを聞きたがって、カルディオスが面倒そうに、口早にそれらに答えていった。
私も時々口を出して、ルドベキアが一回でもこちらを見てくれないかと期待したものの、どうやら彼の頭の中では、私はいないものとして処理されているらしかった。
いつものこととはいえ、私は結構落ち込んだ。
こちらの話が終わったあとで、カルディオスがルドベキアを小突いて、
「おまえ、いつもは孤児か浮浪児か奴隷の生まれなのに、今回は貴族か」
と言い始めた。
ルドベキアは鬱陶しそうな顔をして、
「うるせぇ、貧困の経験のないやつに分かるか」
などと言い返す。
確かに私たちのうち、身分の高い生まれを引き当てがちなのはカルディオスとディセントラ、そしてコリウスで、ディセントラとコリウスが、所謂貧乏貴族の経験もあるのに対して、カルディオスは豪商の生まれを引いたりだとか、今回みたいな成金貴族の生まれを引いたりだとか、由緒正しい大貴族の生まれを引いたりだとかで、とにかく裕福な生まればかりを引き当てている。
「まあ俺は、日頃の行いがいいからね」
カルディオスはしれっとそう言って、ようやく泣き止みつつあるディセントラとルドベキアを見比べ、唇を歪めた。
「しかも――婚約……」
ここで、ぶっと噴き出すカルディオス。
私は真面目にはらはらしていたが、ディセントラはすんすんと可愛らしく鼻を啜って私にしがみ付いており、私の状態には気が付いていない様子だった。
アナベルは露骨に苛々していたが、これはまず間違いなく、ルドベキアとディセントラから彼女への労いの言葉が足りなかったせいだ。
コリウスに至っては、無関心そうに控室を見渡しているような有様だった。
ルドベキアはちらっとディセントラを見て(かつ、その傍にいる私には一瞥もくれず)、肩を竦めた。
私はその表情に、恋情を仄めかすものがないかどうかを真剣に探ったが、自分の願望が強過ぎるが余りに目が曇る。駄目だ。
「ああ、運が良かったんだ。――毎日毎日、婚約者候補の絵姿を見せられて参ってたんだけど」
運が良かった、というその一言に、私の心臓は引っ繰り返りそうになった。
――え、どういうこと。運が良かったって何が。
ディセントラのことが前々から好きだったとか、そういうお話ですか、と、問い詰める権利もないくせに問い詰めたくなる。
いやでも、以前にディセントラが結婚していたとき、ルドベキアは特段ショックを受けた様子もなく、普通にお祝いを言っていたような……。
頭が沸騰しそうになっている私は、表情を繕うのにいっぱいいっぱい。
「中に、どう見てもこいつだろってのがあって、それで会いに行ったんだよ」
「――私の方も」
ディセントラが顔を上げてそう言ったので、私は一瞬、ディセントラの肩を掴んで揺さぶって、「あの人のこと好きなの!?」と叫びそうになった。
とはいえ私がそんな醜態を晒す前に、ディセントラの言葉が続けられたわけだけど。
「ルドベキアにしか見えない絵姿を見せられたから、ルドベキアもたまにはいい生まれを引くのねって思って待ってて、合流して」
「で、そろそろ二人で何とかして抜け出そうかって話し合ってたところで」
ルドベキアが、ディセントラの言葉を引き取るようにしてそう言った。
仲が良さそうで、私としてはディセントラが大いに羨ましい。
「おまえらを捜しに行かなきゃなって、さっきもちょうど話してたんだ。
――来てくれてて助かった。正直招待客名簿なんて、俺らの今回の親が見るばっかりで見せてもらえてなかったし」
ふ、と表情を緩めるルドベキアに、私はこっそり見蕩れた。
こんな目で見てもらえる日がきたら、私は嬉しさ余ってその場で死んでしまうかも知れない。
「――あのさ、俺らが来てなかったらさ」
カルディオスが、必死に笑いを堪えようとしつつ、口許を手で覆って尋ねた。
「髪飾り贈って婚約してたの?」
そう言って、カルディオスはディセントラの方を手で示す。
ディセントラの見事な赤金色の髪には、まだ髪飾りはない。
私は息を詰めたが、ルドベキアはうんざりした様子で溜息を吐いて、片手で髪を掻き上げた。
気怠そうな仕草で、色気すらあって、私は心臓が止まりそうになった。
「勘弁しろよ」
ルドベキアはそう言って、ふっと笑った。
その笑顔で私は瞬きを忘れた。
「なんで、好きでもない女にそんなことしなきゃならないんだ」
私はゆっくりと、慎重に、詰めていた息を吐き出した。
私の隣ではディセントラが、涙の痕の残る顔ではあったものの、のんびりと美しく笑っている。
「ほんとにそうよ。――大体、この人、」
おふざけで弾劾するような手付きでルドベキアを指差して、ディセントラは言った。
「婚約なんて真っ平だって言って聞かなくて、こういう舞踏会を開けば、みんなが来てくれるかも知れないでしょって説得するの、ほんとに大変だったんだから」
ルドベキアは大仰に目を瞠る。
カルディオスが爆笑する。
「いやだって、身内と婚約披露だぞ。気持ち悪いだろ」
「分かる、分かるけどルド、今おまえ何歳だよ」
「今? この身体? 二十一」
「その年齢になったら焦ろうぜ。形振り構わず仲間を捜そうぜ。気持ち悪いからって、おまえ……」
「うるせえな、俺は誰かさんと違って、二十三になっても誰とも会えなかったからって号泣したりしねえんだよ」
「――ルドベキア?」
コリウスが不機嫌そうにルドベキアを振り返り、アナベルが呆れたように目を閉じる一方、ディセントラとカルディオスが声を合わせて笑う。
私も気付けばそこに声を合わせて笑っていて、安堵の余りに滲んだ涙を、笑みに紛らわせてこっそりと指先で拭っていた。
――私の恋路は厳しいが、それでも親友が恋敵になるような、そんな残酷過ぎる未来はなかった。
本当に良かった。
ルドベキア、きみにとってはこの気持ちは、本当に迷惑極まりない、まさに「気持ち悪い」ものなのだろうけれど、私はきみが好き。
報われることを望んでいるわけではなくて、ただひたすらに、きみが幸いであれ、きみが笑顔であれと思える恋だと、自分ではそう思っていた。
けれどもどうやら、私は諦め悪くも、きみの恋路だけは応援することが出来ないらしい。
だからどうか、しばらく、きみのその沢山の魅力に気付く人がいたとしても、今までと同じようにあしらっていてほしい。
これから先千年か、二千年か、あるいはもう少し時間が掛かるかも知れないけれど、そのくらいに時が過ぎて、私がこの気持ちを諦めてどこかに埋めてしまえるようになるまでの間、――どうかどうか、きみの心が誰にも奪われませんよう。
我ながら、人として最低なことを星に願いつつ、私は笑い疲れて、そっと目を伏せた。




