プロローグ
(ああ……だめだあこれ……死んだわ絶対……)
俺は煙にかすむ空をぼんやりと眺めながら他人事のようにそう思った。
俺は富士美壮輔。ふじみ、という名は不死身に通じるという事で、俺はその体の頑丈もあって小さいころから「不死身の壮輔」と呼ばれていた。壮輔という字がぱっと見牡蠣に見えることからミスターアンデッド☆オイスターとか呼ばれていた気もするがまあそれはどうでもいい話だ。今言いたいことはそこじゃあない。
何が言いたいのかというと、まあそんな風に呼ばれていた俺も、こうしてビルの倒壊に巻き込まれればあっさりと死にかけてしまうのだなという話だ。
駅裏のビル群は、小ぎれいな駅前のビルたちとは違い、再開発が微妙に遅れているからボロいよねーとはよく駅に遊びに行っているクラスの女子たちが話しているのを聞いたことがあった。俺大勢でウェイウェイ言いながら駅に遊びに行くほど駅に興奮はしない性質だったのが祟ったのだろうか。学校の用事で地域の文化祭のビラを貼りに初めて駅裏のビルに足を踏み入れた俺はその杜撰な工事形態と管理体制にトドメの一撃として放たれた先ほどの地震で起こったビルの倒壊に巻き込まれてしまったというわけである。
なんだか下半身があるべき場所に赤い染みのあるコンクリートの壁が見えるので俺のムスコの安否が不明なのが悔やまれるが、俺は驚くほどクリアな思考で着実に近づいてくる死に向き合っていた。
(アドレナリンって奴が出てんのかな……痛いっちゃ痛いけど思ってたほどではないな……いや前言撤回するわ痛いわ助けて死にそう)
俺は泣きそうな顔で痛みをこらえる。痛い。痛いというか熱い。何がこんなんい熱いのだろうか。おなかからこぼれちゃった血かな? それともちらっと見えてるモツからこぼれちゃった胃液かな?
なんてことを考えてみるが痛みは治まる気配がない。つらい。とてもつらい。
(死にたくねえなぁ……)
何となく生まれて何となく生きてきた生涯だったとは思うが、こんな処で終わってしまうのは辛い。だってまだ十七歳なのだ。俺のムスコはまだ神秘のベールから解き放たれその真の役割を果たしたことが無いのである。不憫だ。俺はいいとしても俺のムスコが不憫だ。こいつの力は誰も信じちゃいないが十七年間共に生きてきた俺はその実力をよく知っているつもりだ。こいつはやる時はやる男だと。……まあやる時ってのが来なかったのが問題なわけではあるが。
(……なんとかなんねえかなぁ……死にたくねえなぁ……)
馬鹿なことを考え続けてみたが、やはりだめだ。死の恐怖って奴はちっとも和らいでくれないし、体中のあちこちの痛みがどんどん激しくなってきた。生きたい。死にたくない。縋るように天に手を伸ばそうとして、俺はもう腕が動いてくれないのに気が付いた。
(ああ、いやだ。いやだ。死にたくない。生きていたい。誰か。誰かいないのかよ……誰か……)
祈るように目を瞑り、縋るように助けを請うた。これが特撮やアニメみたいなフィクションの世界なら、きっとこんな時には何か凄い力を持ったヒーローが助けに来てくれるはずだ。でもそうはならない。ヒーローなんていないし、いたとしてもきっと俺なんかを助けるよりもやる事があるんだろう。それこそ世界平和とかきっとそういう事のために力を使うんだ。俺を一人助けるより、そっちの方がいっぱい助けられるんだろうし。
「だれ、かぁ」
誰も助けに来てくれない、そんな考えで頭がいっぱいになって、なんだか自暴自棄になってきた俺の耳に、蚊の鳴くような声が聞こえてきた。そうだ。何も俺は無人のビルにいたわけじゃない。古びたビルとはいえ、ここにはいくつかの店が入っていた筈だ。やった。もしかすると助けてくれるかもしれない。
「……ぉい」
そんな淡い期待と共に何とか視線を動かした俺は、その店の一つが、託児所であったことを不意に思い出した。
(こど、も……?)
視線の先にいたのは、まだ五歳にもなっていないような小さな子供だ。幾重にも重なったガレキの隙間からだが、確かに子供の姿が見える。
ここには確かに託児所があったはずだが、今日は日曜日だ。子供はいない筈。そう考えるが、もしかすると日曜日に預けられた子供がいたのかもしれないし、更に間の悪いことにたまたま面倒を見ている保育士さんが離れた時にこの地震が起きたのかもしれないし、目の前の子供が、ひとりぼっちで泣いている理由はいくらでも考えられる。今大事なのは、その子供の足がガレキに挟まれていることと、ここに救助がそうそうきそうにないという事だけだった。
だが、助けに行こうにも俺だってもう体が動かないのだ。命の灯が消える寸前なのだ。だから、あの子はきっと、きっと誰かが、手遅れになる前に救助が来るはずだ。きっとそうだ。あんな小さい子が死んでしまうなんておかしいだろう。だからきっと誰かが、誰かがあの子を助けて……。
(……誰かって、誰だよ)
ぎり、と歯を噛み締める。誰かなんていないのだ。ここには俺しかいないのだ。カッコいいスーパーヒーローなんていないし、そいつは俺を救ってはくれなかったが、あの子は救われるべきだ。あの子のヒーローになってやれるのは、今ここに居る俺だけなんだ。
「ぐ、う、おおお……!」
体を捩る。動かない手を動かし、立たない足腰を気合で立たせる。仰向けの姿勢から、全身の力を振り絞ってうつぶせになり、根性だけで体をガレキの中から引っ張り出す。全身を、先ほどまでとは比べ物にならないほどの痛みが襲う。そりゃあそうだ。もうそのお勤めを終えて永い眠りに付こうとしていた物を、無理矢理に動かしているのだから、痛みもするだろう。だがこれくらいで止まってどうする。どうせもうすぐ死ぬんだ。死ぬんなら、せめて最後にいいことをして死にたい。誰かのヒーローになれるのなら、俺はどんな苦しみにだって耐えてやろうと思った。
「ぉい……! 聞ごえ゛、る、かぁ……!」
ごぼごぼと血の泡がはじける音と共に、必死で声を絞り出す。
「……だれ? だれか、いるの……?」
「あ、あ゛……いるぞ……今、いく、からな」
腹が破けて臓物がまろび出てしまっている気がするが。そんなものは見ない。ガレキから引っ張り出した左腕は、関節がいくつか増えているような気もしたが、これも見ない。
見れば知ってしまう。知れば臆してしまう。臆してしまえば、耐えられなくなる。耐えられなければ、俺はあの子を救えない。だから見ない。知らない。臆さない。耐えてみせる。救ってみせる。
「……みぃ、つけ、た……ハハ、」
ガレキを押しのけ、ナメクジみたいにのたうちながら、俺はようやく子供の近くまでたどり着いた。子供は、足が潰れてしまっている。出血がひどい。急がないと、間に合わないかもしれない。
「ヒッ……おにいちゃん、それ……」
「ああ……これ、か? うん、きに、するな……大した、きずじゃ、ねえって」
心配そうにこちらを見る子供に、精いっぱいの笑顔を向けて、俺は子供の足を挟んだガレキに手をかけた。ブチブチブチと嫌な音がしたが、これはきっと服が破けた音だろう。そう言うことにしておこう。
「たて、るか? ……たて、ないなら……俺の背中に、つかま、れるか?」
「う、うん」
その子供は、泣くのをやめてぐしぐしと目元を袖で拭い、俺の背中によじのぼった。
「うし、良い、子だ……」
その子の体重が俺の背中に覆いかぶさると、胸の辺りがひどく痛んで息ができなくなったが、息ができないからなんだと言うのだ。俺はガレキに縋りつく様にして歩みを進める。ビルが倒壊したとはいっても完全に崩れたわけじゃない。もう少し行けば広い廊下に出られる。ここは一階の奥だから、そこから人の声がする方に歩いて行けばこの子を助けられるだろう。
「な、あ、おまえ、名前は、なんて、いう、んだ?」
こういう時は意識の有無が生死を分けると聞いたことのあった俺は、子供が意識を失わないよう、朦朧とする頭で話しかけた。
「あきら。ふたば、あきら」
「アキラって、いうのか。いい、なまえだな」
「お兄ちゃんは?」
「おれか? お、れは、ふじみ、そうすけって……いうんだ。ふじみの、そうすけ、だぜ……」
「ふじみ?」
「あ、あ……しなないって、ことさ。つええんだ。おにい、ちゃんは、な……」
「しなないって?」
「いかねえって、ことさ……とおい、とおいところに、な」
「じゃあ、いなくなったり、しない? おとうさんや、おかあさんみたいに、いなくなったり、しない?」
「…………………ああ、そう、だ。おまえを、たすけ、る、までは……ぜったい……いなく、なったり、しねえ、よ」
「やくそく、だよ?」
「ああ、やく、そく、だ……」
俺は、いつしか地面に突っ伏していた。
「ああ、くそ、うごけよ……あと、ちょっとなのに…………」
這ってでも、前に進もうとしたが、もう、体が動いてくれなかった。ああ、こんなことなら馬鹿な現実逃避なんてしてないで、とっととこの子に気づいて動いていればよかった。そうすれば、もう少し遠くまで運んであげられたかもしれない。そしたら誰かが、気づいてくれたかもしれない。
「なさ、けねえ……」
不死身がなんだよ。不死身ならもっとしっかりしろよ。名前だけかよ。掠れていく意識の中で、そうぼやくが、体はもうピクリとも動かなくなっていた。体から急速に熱が引いていくのが分かる。命が、体から遠のいていくのが分かる。
そして、背中から感じていた小さな鼓動も……。
「ちくしょぉ……」
もしも、もしも本当に死なない体だったら、この子を軽々とかついで連れ出せていただろうか。もしも本当に死なない体だったら、喉もつぶれず、大きな声でみんなを探して、この子をもっと早く見つけられていただろうか。もしも、もしも本当に。死なない体があったなら、俺はこの小さな子供の、ヒーローになれていただろうか。
ああ、かみさま。ほとけさま。死なない体が無くてもいい、おれは助からなくたって良い。だからどうかこの子だけは。その手でどうか、この子だけは。
「ああ、了承した」