◇深まる絆
◇深まる絆
今日は、なんだかとっても疲れた。家に帰り、とりあえずベッドにダイブする。吉田さんのお洋服、しっかり染みが落ちて良かった。それにしても、仕事仲間にコーヒーぶっかけるなんてありえない。そのあとは、吉田さんの洋服が綺麗になっているし売り上げ伸びていないしで勝手に怒って帰っちゃうし。本当、相当、どうかしてる。あ、なんか韻踏んだみたいになっちゃった。
店長は、どうしていじわるするんだろう。お店の売り上げが良くないと機嫌が悪くなる。わたしがもし店長で、売り上げが悪かったら、どうする。うーん、ひとまずもっと積極的になってみるとか、商品の配置を変えてみるとか、他の仲間とどうすればもっとお客さんが来るようになるか一緒に考えるとか。やれることはたくさんあるのになぁ。前働いていた浜松店の店長は、売り上げなんてむしろ気にしてなかったのに。浜松店の店長は、しっかり者だけどけっこうマイペースで、売り上げが少ない日はやばいよやばいよーって言いながら、一人でやばい状況も楽しんじゃう人だった。やばい状況に陥ってこそ、見えてくるものもあるって言ってた。本当にそうだと思う。売り上げなんて気にしすぎてもしょうがない。売れる日は売れるし、売れない日はとことん売れない、ただそれだけのこと。いつかのマイナスはいつかのプラスで補えるんだし、今こうして店がやっていけているのは全体的にプラスだからだ。目の前のマイナスなんて本当に一瞬でしかない。まぁ、気にしなさすぎても良くないけど。でも一ノ瀬店長は目の前のマイナスに執着しすぎな気がする。それって、もしかして何か理由があるのかな。
おっと、やばい。急激にヘビーな眠気が。やっぱりベッドにダイブは良くなかった。早くシャワー浴びないと、明日がつらくなっちゃう。いち、にの、さんで勢いをつけて起き上がり、浴室に向かいながら服を脱ぐ。脱衣所兼洗面所にある大きな鏡にうつる自分の半裸姿をちらりと見て嫌悪する。このときばかりは現実から目をそらすことが出来ない、本当のわたし。
雑にシャワーを浴びながらふと思う、浜松店の店長、金原さん。東京へ来てから知って驚いたのだけれど、金原ってみんな「かねはら」もしくは「きんばら」って言うんだね。「きんぱら」って静岡県民のそれまた西部地域の人しか言わないみたい。かなりカルチャーショックだったなぁ。双葉に笑われたっけ、「きんぱらって、どういう漢字? え、それ、かねはらだし。ウケるー」って。わたしは一切ウケなかったけどね。
他にも浜松市民特有の遠州弁がついつい出ちゃって、双葉やゆーちゃんに笑われるんだよね。「~でしょ」って言うところを、気を抜くと「~ら」って言っちゃうの恥ずかしすぎる。東京の人はなかなか方言に敏感だから気をつけなきゃ。
ドライヤーで髪を乾かしながら、一人脳内方言矯正大会を行う。「半袖」とか「前髪」、「あくび」の発音がおかしいらしいので、頭の中で何度か繰り返して矯正を試みる。そうしていると、何が正解なのかよくわからなくなって逆に混乱してくるのでやめた。早く寝ようと思った。という所で双葉のハンカチの存在を思い出す。借りたものは早めに返さなきゃだよね。急いでハンカチを取り出すと、コーヒーの染みをハンカチに移したので、時間が経ったせいもあり正真正銘の染みとなっていた。これを落とすのはなかなか根気のいる作業と悟り、無言で引き出しの中から同じハンカチを取り出した。店のノベルティなので、もちろん余り物をわたしももらっている。見た目は同じだから、わたしのと入れ替えてもいいよね。洗濯済みのわたしのハンカチをカバンに入れ、よし、寝よう。労力を使うことを諦め、眠りにつくことに専念した。
目覚まし時計と、スマホのアラームの二重装備によって難なく起床。
今日は誰と一緒のシフトだっけ、と小ぶりの冷蔵庫にマグネットでくっつけたシフト表を寝ぼけ眼で確認する。
毎朝のことなんだけど、視界がかすむのですかさず常備している目薬をさす。恥ずかしい話、わたしは寝ている間若干目が開いているらしい。だから起きた時の目の乾燥が半端ない。
月 早、一ノ瀬 遅、佐伯 中、吉田16~20 休み、近衛、佐倉
火 早、近衛 遅、一ノ瀬 中、佐倉16~20 休み、佐伯、吉田
水 早、近衛 遅、佐伯 中、佐倉16~20 休み、一ノ瀬、吉田
木 早、佐伯 遅、一ノ瀬 中、佐倉16~20 休み、近衛、吉田
金 早、近衛 遅、佐伯 中、吉田11~20 一ノ瀬16~20 休み、佐倉
土 早、一ノ瀬 遅、近衛 中、佐倉、吉田11~20 休み、佐伯
日 早、一ノ瀬 遅、近衛、佐伯 中、佐倉、吉田11~20
平日は基本三人で回している。シフト制で、早番は開店時間の十時から十九時までの九時間、その内四十五分の長い休憩が一回、十五分の短い休憩が二回。遅番は十三時から閉店時間の二十一時まで、休憩時間は同じ。早番と遅番の間に中番があり、アルバイトのスタッフが平日は十六時から二十時までの四時間、金曜日と土日は十一時から二十時までの八時間働いている。四時間の場合は休憩無しで、十一時から二十時までフルで働く場合は早番遅番と同様の休憩時間がある。早番遅番は基本的には正社員が担当し、中番はアルバイト。
わたしと双葉が渋谷店へ移動する前の人手が極端に少なかった数日間、ゆーちゃんは専門学校の春休み期間であるのをいいことにフルで働かされるというブラックシフトをこなしていたみたいだけど、基本そんなことはありえないのでご安心を。今のゆーちゃんは、学校が始まっているため平日十六時から二十時までの四時間働いている。土日は用事がない限り中番の八時間勤務。吉田さんも同じくらい働いている。二人とも積極的で働き者だ。わたしも二人に負けないくらい頑張らなきゃ。今住んでいるマンションの家賃の半分は会社が払ってくれてるんだし、その分ちゃんと働かなくちゃね。
時刻は午前十一時。遅番なので十三時出勤だから遅めのお目覚めなんです。顔を洗ってから、昨日用意しておいた今日着る服に手早く着替える。もう五月の後半、だいぶ暑くなってきた。薄手のトップスがさらりと肌をすり抜けてなんだか気持ちがいい。
それにしても、アパレルってある意味自分も商品の一部だったりするから日々のコーディネートが重要。スタッフが着ている服やコーデを見てお客さんが買ってくれるかもしれないからね。部屋の隅を見やると、服の山が。えーっと、やっぱり店のトレンドの服を買わなきゃいけないから、服が溜まる一方なのは仕方ないよね。今度の休みの日にでも片付けよう、と自分に言い聞かせておく。東京へ来てから二か月以上が過ぎて、最近双葉に都会に染まってきたって言われたし、うんうんデキる女って感じ?
ひとまず鏡に向かって眠たそうな顔にカツを入れてからメイクをし始める。化粧水、乳液、美容液、下地、パウダー、アイライナー、アイシャドウ、マスカラ、リップ。あ、ビューラーでまつげ上げるの忘れた。うーん、女って本当に面倒くさい生き物だと思うけど、お店ではわたし自身も商品の一部なのだと再び自分に言い聞かせる。そう思えばわりと悪い気はしない。ちょっとにやけた瞬間に、ビューラーで瞼を挟んでしまった。思わず、うおっと低いうなり声が出てしまう。久しぶりにやっちゃったよ。これはすっごく、すっごく痛い。瞼って皮薄すぎ。じんわりと涙。ここで涙なんか流したらさっき引いたばかりのアイライナーもろもろが台無しになってしまうから、上を向いてひたすら涙がこぼれないようにこらえた。瞼を挟む危険性のあるビューラーなんてやめてやる、双葉さんにまつエクの良いお店を紹介してもらおうと心に決めたところでスマホが鳴り、びっくりして思わず肩が震える。手の届くところに置いておいてよかった。光る画面を確認すると。双葉と表示されていた。
「も、もしもーし、どうしたの双葉」
まだ涙目なので、スマホを取ってからもやや上向き姿勢をキープ。ちょっと喉が苦しい。
「何、寝起き? なんか声低いなーゆづき。双葉さんのモーニングコールですよー。おはよーおはよー」
ちょっとだけドキリとする。双葉の威勢の良い声が耳に響く。やたらテンションが高い。うう、わたしは寝起きだから双葉さんのテンションにはさすがについていけないよ。確か今日、双葉は休みのはずだけど、どうしたんだろう。
「おはよう、ってかめっちゃびっくりしたんだけど」
とりあえず驚いたんだということだけは言っておきたい。
「出勤前にごめーん。今日の夜さぁ、ゆづきの家行ってもいいかききたくてー」
「え、うち?」
「そぉ。昨日アタシ、親とケンカして家帰りたくないんだよね。今アヅくんちなんだけど、これから撮影で一週間ロシア行っちゃうから」
「ロシア! すごいな、次元が違いすぎる……。わたしの家かぁ、うーん、いい、けど……」
引っ越しの手伝いをしてくれた両親と、会社で提供する部屋の確認に来た篠ヶ瀬部長しか来たことのない部屋だから、友達に見られるの緊張するなぁ。しかもセンスの良い東京育ちの友達。おっと、なんか急にハードル高くなったぞ。まだ二か月ちょっとしか住んでいない部屋なのに、すでに洋服が散乱しているの恥ずかしすぎる。とは言え。
「部屋、散らかってるけど笑わないでね」
双葉さんの頼みなので断れるはずもなく。
「だーいじょーぶだって。アタシが気にするわけないっしょ。ありがとね、ゆづき」
「うん。今日遅番だから早くても帰ってくるの二十一時半過ぎになっちゃうけど大丈夫?」
「問題ナッシング。ネカフェかスタバで時間つぶす。とりま終わったらラインか電話して」
「了解だよ」
「ゆづき様様、ありがとね」
「いえいえ。じゃあ、そろそろ支度しないと」
「あー、申しわけ。じゃ、また後で」
「うん。行ってきます」
通話を終えて、乱雑にスマホをカバンに突っ込んでから手早く残りの身支度を済ませ家を出る。
今日もまた、一日がはじまるんだ。少し気が重いけど、仕事が終わったら双葉に会えるんだと思うとちょっとだけテンションが上がる気がした。なにかいやなことがあっても、話をきいてもらえるしね。
双葉みたいにがっつり高さのあるヒールじゃないけど、カツンと鳴らして颯爽と歩く。これでわたしも都会の女って感じ? とまぁご機嫌で出勤したんだけど、店に着いた瞬間そのご機嫌は打ち砕かれたけどね。
「ねぇ、きいてよ近衛さぁん。昨日佐伯さんが店のカギ持ってちゃったからぁ、超大変だったのぉ」
挨拶の前に飛び出す一ノ瀬店長の甘ったるい声。えーっと、これだけ聞くと双葉がうっかりミスしたように思うかもしれないからわたしがここで説明するね。
渋谷店は店のシャッターを開けるカギが全部で三つある。早番のスタッフが出勤時に警備室に行ってカギを借りて、遅番のスタッフが退勤時に警備室にカギを返すということになっているんだけど、うちの店は店長がアレだから管理が緩くて、一本は完全に店長が私用で持って帰っている。しかもそれはなぜか家に置きっぱなしらしい。そのくらい管理がずさんなので、帰りに警備室に寄るほど時間がなく急いでいるときはわたしや双葉も返さなかったりすることもある。めったにないけど、遅くまで店作りをしていて終電に遅れそうになったときわたしは一回持ち帰ったことがある。でも、一日持ち帰っただけならもう一本予備が警備室にあるので次の日早番のスタッフに迷惑はかからない。たぶん、昨日双葉は遅番で仕事終わりにアヅサくんに会えるのが楽しみで一刻も早く帰りたかったんだろうなぁ。だからカギを持ち帰ったんだなと推測する。しかし、今日カギが無かったとすると、残る一本はどこに?
情報量が足りないので、とりあえず話を合わせる。
「でも、無事に開店できて良かったですね」
店長の怒りに触れない程度にね。
「警備員さんにお願いして、最終手段の警備員さん用のカギで開けてもらったの。注意されちゃったぁ。これ、始末書。明日佐伯さんに書いてもらわなきゃ」
わら半紙に印刷された簡易的な始末書をヒラヒラさせながら言う。
「はぁ、朝から肩凝ったわぁ。休憩行くねぇ」
気だるそうに踵を返してバックヤードへ消えていった。
その様子を店内の少し遠くから見ていたゆーちゃんがそそくさと近づいてくる。そして、小さい声でわたしにこう告げた。
「近衛さん、おはようございましゅ。カギのことなんですけど、店長が自分で二つ持ち帰ってるだけです」
なんですと……。
「そっか。ついに二つも独り占めするようになったか。そこへたまたま双葉が気づかず持ち帰っちゃったのね」
原因はよく分かった。うんうん、店長が二つ持っているのね。……って、なんで持ち帰るくせに持って来ないんだよっ! と思わず心の中で盛大にツッコミを入れる。おかしすぎるでしょ。一ノ瀬店長が持って帰ったとしても仕事用のカバンに入れておけば何も問題起きないでしょ。店長の脳内は嫌がらせの宝庫か。
「はぁ……。これ、双葉に言ったらキレそうだなぁ。なぜか始末書を書かされる双葉さん」
「ですよね。理不尽しゅぎ、すぎます。ノートに記録しておきますね」
「ありがとね、ゆーちゃん」
出勤したばかりなのに、トホホな気分で始まる一日。でも、最近は大分慣れてきた気がする。いやいや、慣れちゃだめでしょ。これじゃ一ノ瀬店長の思うツボだよ。みんなで仲良く出来る方法はないのかなぁ。何かきっかけさえあれば変わると思うんだけどなぁ。このままノートに日々の記録を書き込むだけじゃだめだ。何か、何かあれば。
わたしには、ゆーちゃんみたいに何事にも耐える強さはないし、双葉みたいな器用さもない。吉田さんのように優しくもない。仕事も特別出来るってわけでもないし。でも、まずは売上を立てれば一時的かもしれないけど店長の機嫌が良くなるはず。そこから頑張ってみよう。
「こんにちはー、どうぞご覧下さいませー」
接客の基本はあいさつ、声出し。これはアパレル店の基本中の基本。笑顔で、聞き取りやすく丁寧に。思わず立ち止まって見てもらえるような雰囲気で。最初は声出しってなんだか恥ずかしくて、蚊の鳴くような声でしかできなかったことを思い出した。今じゃ堂々と言えるけどね。なんて、いろいろ思い出していたら、ふと気が付く。ゆーちゃん、声出しあんまりできてないかも。もともと大人しい子だし、身体も小さいからあまり声が大きい方ではない。でも、改善の余地はある。言ってみよう。
「ね、ゆーちゃんさ、もうちょっと大きい声で声出し出来ない?」
一応先輩だしね、社員だからたまにはらしいことをしてみようじゃないかと、服をたたんでいるゆーちゃんに話しかけてみる。
「声出し……恥ずかしくてあんまりできないです」
いきなりどうしたんだろういう表情で、ピタリと手を止め目をぱちくりさせている。
「だよねー、最初はほんとに恥ずかしさが勝っちゃって声出ないよね。でも、声出していけば、お客さんも気付いてくれるし、自分も楽しくなってくるよ。試しに、わたしがこんにちはっていったら、同じようにこんにちはって続いてみてくれないかな」
「ふぁ、ふぁい! やってみます」
やまびこ方式。一人があいさつをして、それに他の人が続く。名前の通りまさしくやまびこ。そうすると店に活気が出るし、前にあいさつした人と同じくらいの大きさの声が出やすい。一人で単独で声出しをするよりも、店全体で声出しをすれば一体感も出る。わたしは浜松店の店長にそう教わった。とは言え浜松店はこの渋谷店に比べると館内にいる人の量が全然違って、平日なんて全く人が通らないときがあるから、あんまり声出ししても意味がないっていうこともあったけど。土日ともなれば人が増えるから、声出しの効果はバッチリあるけどね。渋谷店は平日でも客足が多いから声出しをするにはうってつけ。なぜ今まで積極的にやっていなかったのか不思議だけど、たぶん、一ノ瀬店長が指導してなかったからなんだろうなぁ。ちなみに、他のアパレル店経験者の吉田さんは声出しがバッチリ出来ている。ハキハキと丁寧に、それはもう聞き取りやすいトーンで。さすがと言わざるを得ない。逆に双葉はそんなに積極的ではない。たぶん、丸の内店はそんなに声を出さずともよく売れる店だったんだろう。だからあまり習慣がないのかもしれない。声出しに力を入れすぎて店内がお客様で溢れて対応が追い付かなくなるときだってあるから、空気を読んで慎重にやっていかなくてはならないしね。
「こんにちはー!」
「こ、こんにちはぁ」
まだ恥ずかしさが抜けないなぁ。
「どうぞご覧くださいませー!」
「ご覧、くださいませー」
回数を重ねれば自然と出てくるようになる。このまま反復練習!
「しっかり声を出していれば、活気付いて見えるし、お客様も店内に入ってきてくれて売り上げアップだよ。吉田さんは声出し上手だから、吉田さんの後にも続いてみてね。間の取り方とかは吉田さんが調整してくれると思うから、一緒にやってみよう」
「がんがり、じゃなくて頑張ります」
今日はいつもにまして変な所でかんでしまうゆーちゃん。緊張しているんだなぁ、可愛い。
そうして、三十分もすればだいぶ慣れてきて、ノートパソコンで在庫チェックしていた吉田さんも売り場で即戦力になり、店内に活気が出てきた。土曜日だから比較的客足が多い。一人が店内に入ると、つられて一人、また一グループ、さらに増えていく。そうしていつの間にか店内にはたくさんの人。だんだんと忙しくなってきた頃にはやまびこ声出しは一旦終了、レジでのお会計や接客に専念する。
一人のスタッフは売り場に配置、接客担当。一人は服をたたみながら店内整理と軽く声出し。最後にレジ担当がテキパキとさばいていく。そうすれば、声出しも途切れず、接客にも力を入れられる。要はお客さんが少ないときはみんなで活気付け、忙しいときは余計な活気付けは必要ない。本来の接客をしていく。そうしたら自然と売り上げもあがるんじゃないかな。
「近衛さん、すごいね、この三十分ちょっとで十万円くらい売れてるよ」
このフィーバーもそう長く続くわけではない。多少の混雑は一時間弱がいいところだ。一旦客足が途切れて手が空いたので、吉田さんが先ほどまでの売り上げをチェックした。良い結果で思わずテンションが上がってしまう。
「やったぁ。二人が声出し上手なので、いい感じの波が出来ましたね」
「声出し、楽しいよね。私が前に働いてたお店は、声出しに一番力入れてたよ」
グっと、小さく両こぶしを握って気合を入れるポーズの吉田さんに瞬間的に癒される。
「そうなんですか! 吉田さん上手ですもんね」
「けっこうビシバシしごかれたからね、声出しで。ここのお店はあんまり声出ししていくスタイルじゃないから最初はちょっとジェネレーションギャップが」
「吉田さんそれ、カルチャーショックの間違いですよね?」
「え? あれれ、いつもどっちだったっけってなっちゃう」
あわあわしている。うん、吉田さんは天然だ。
「ゆーちゃんも声出しめっちゃ良くなってるよ。この調子で頑張ろうね」
「はいっ。今まで見たことないくらい、活気がありましたね。なんか、私の好きだった前の店長がいた頃み」
前の店長がいた頃みたい、と言いかけたところでゆーちゃんの口をふさぐ。
「もひゃ、こにょえひゃん、くるひぃ」
「店長がそろそろ戻ってくるよ」
声を潜めて言う。これは双葉に教えてもらった観察眼、かどうかは微妙なところだけれど今役に立つとき。店長の休憩が終わる三十秒前のあの行動の音がうっすらと聞こえたからだ。三人ともそれぞれも持ち場についた。その途端にバックヤードの扉が開く。
「はぁ、肩凝るぅ。戻りまーす」
売り場には出ようともせずに、カウンターのパソコンをいじり始めた。そして次の瞬間、目を見開いて驚きの表情に変わる。
「え、さっきまでの売り上げすごくなぁい? どぉしたの、これ」
素直に驚いてくれる。文句を言わない平和店長だ。
「はい。ゆーちゃんと吉田さんが声出し頑張ったら、客足が増えて一気にたくさん売れたんですよ」
ここですかさず、二人が救世主なんですアピールをさりげなく入れておく。
「えぇー、佐倉さん吉田さんすごぉい」
「あ、ありがとうございましゅ」
素直に店長が二人のことを褒めた。嫌味な感じはなくて、やんわりとした笑顔を見せ、心の底から喜んでいるみたいだ。へぇ、一ノ瀬店長ってそんな表情もできるんだ、と少し意外に思う。現にゆーちゃんも目を泳がせながら今の店長の変わりように驚いているみたい。あと、安定の噛みね。
「よぉーし、私もみんなに負けてられないわね。今日はこの調子でたっくさん売るわよぉ」
両手でガッツポーズをしながら接客へとシフトチェンジする一ノ瀬店長。なんだか、今までになく生き生きとしていた。
そこからはまた再び波が来て、店内にお客さんが溢れた。みんなで手際よく接客、売り場の整理、商品の補充をし、レジをこなし忙しさに慌てながらも充実していたとわたしは思う。
やっぱり、店長は店長になるだけあって本当は接客が人一倍上手。それこそ慣れている吉田さんよりもお客さんが購入するまでの運びがスムーズだ。それから、今回のようにちゃんとしているときは店長の風格がしっかり出ている。どういうことかと言うと、わたしやゆーちゃんのようないかにも若い店員は自分より年上を相手に接客し辛いことがある。双葉は年齢よりも大人っぽくて落ち着いているからあんまり問題はなさそうだけど。店長のような、お客さんから見ても年上だとわかる人に接客されたら、素直に頷けることが多い。例えるなら五十代の寿司職人と二十代の寿司職人、見た目だけならどっちの方がお客さんに信頼されやすいか。雰囲気的に年上の方がベテラン感が出て安心する。もしかしたら見た目は五十代でも寿司職人になったのはつい最近で二十代の方がキャリアは上かもしれないけど、見た目の先入観の話。自分より年上の方が接客に安心がつくってこと。
実際に新人の頃浜松店で、わたしが接客した年上のお客さんに「あんたに何が分かるっていうの」というような言い方をされたことがある。そのあと店長が代わって対応をしてくれたんだけど、お客さんは穏やかになって店長のアドバイスを参考に楽しそうに服を選んでた。わたしの言い回しがよくなかったのかもしれないけど、そもそも年下に接客をされると嫌な気分になるお客さんもいる。とくに、悩んだときに店員のアドバイスを頼らなくてはならない店では。
今日の店長は、そういう部分を積極的にアシストしてくれて、わたしたちに店長らしい一面を見せてくれた。とっても意外。いや、店長なんだから当たり前のことなんだけどね。
「ふぅー、とっても忙しかったわねぇ。びっくりもうこんな時間」
少し乱れた前髪を整えながら、にこやかに一ノ瀬店長が言う。
気付けば店長のお勤め時間が終わる十九時を二十分も過ぎていた。いつもどんな状況であっても退勤時間ピッタリにタイムカードを押して帰ってしまうのに。
この時間になると一気に館内のお客さんが減ってくる。忙しさのピークは終わったみたい。このあとはもう波は来ない雰囲気。
「ふふ、今日の売り上げすごいわよぉ。なぁんと七十万越え。ゴールデンウィークのときよりすごいじゃない」
「わぁ、それ浜松店のお正月のときと同じくらいの売り上げですよ。それが普通の土曜日でって、すごいです」
素直に感嘆の声が出てしまう。ゆーちゃんも吉田さんも一緒に驚いて、喜んでいる。
「し、か、も、さっき確認したら今日の売り上げは渋谷店が堂々の一位よ。久しぶりだわぁ」
人差し指をピンと立てて、にっこりと良い笑顔で。こうして見ると、スタッフの服にわざとコーヒーをこぼすような人には到底見えない。無邪気な笑顔もできる人、なんだ。少し可愛い。
フレアスカートを翻しながら、テキパキと動いている。
「さてと、売れた分のお洋服補充しなきゃねっ」
たくさん動いたためかいつもより少し薄れているけど、はっきりとわかる香水の匂いを振りまき鼻歌交じりにバックヤードへ在庫を取りに向かって行った。
え、まだ帰らないんですかよく働きますね! 思わず心の中でツッコミを入れる。
ゆーちゃんたちと顔を見合わせ、ちょっとだけニヤニヤしてしまう。何この一ノ瀬店長、新鮮!
「よくわからないけど、私たちも頑張ろっか」
吉田さんがさらに景気づけてくれて、わたしとゆーちゃんもテキパキと業務をこなしていく。
たくさんお客さんが来たから、床の汚れが気になった。客足が少なくなった今のうちに床も軽く磨いておこう。吉田さんが丁寧に服をたたみ、ゆーちゃんが店の鏡を磨いていく。店長は的確に商品の補充。三十分もしないうちに店内のコンディションは完璧になった。
「うん、最高に良い感じ。ってもう二十時なのねぇ。帰らなきゃ。今日はみんなお疲れ様。みんなのお陰で良く売れて嬉しかったわぁ。お先に失礼しちゃってごめんね。あ、佐伯さんの代わりに始末書も提出しておくわね。それじゃ、明日も頑張ろうねぇ」
両てのひらを胸の前で合わせ、申し訳なさそうにごめんねのポーズで退勤していった。わたしが出勤したときに、散々言っていた双葉のカギ持ち帰り事件(元はと言えば一ノ瀬店長のせい!)の始末書も店長が代わりに書いてくれたみたい。じ、自主的にっ!
っていうか、わたしたちを労うような本当に申し訳なさそうな顔初めて見たわ! 本物の店長っぽいな。いや、店長なんだけど。
「近衛ひゃん、店長どうひたんでしゅかにぇ」
あぁ、ゆーちゃんも驚きのあまりいつもより多くかんでらっしゃる。
「う、ん。わたしも驚いてる。びっくり仰天サプライズパーティー」
思わず柄にもないことを言ってしまった。ゆーちゃんは無反応。ちょっとは笑って! 吉田さんだけは比較的冷静で、穏やかに言う。
「きっと、あれが本当の一ノ瀬店長なんだよ。いつもは、何かにとりつかれているだけ」
「とりつかれているって、そんなオカルティックな……」
「ふふっ」
「え、何で吉田さんそこで不敵に笑うんですか! それなんの伏線ですかっ」
「ふふふっ。近衛さんって、案外男前よね」
「しょ、正真正銘のオトメティックオブ乙女ですよドヤ顔」
しばらく吉田さんとの不毛なやりとりが続く。隣でゆーちゃんが愉快そうに笑ってる。なんだか一ノ瀬店長とも吉田さんとも一歩近付けた気がする一日となりました。
「ってな感じで、なんか意外だったんだよ」
「アタシの代わりに始末書書いてくれるなんてびっくり仰天サプライズパーティーなんですけど」
双葉がポッキーをかじりながらわたしのベッドに寝転がっている。ベッドの主は床上にて体育座り。おしり痛い。相づちを打ちながら、わたしもポッキーをかじる。
「だよね。始末書書かされて店長のいない所でキレてる双葉さんが目に浮かんでたけど消えたわ」
「まぁ間違いなくキレてただろうね」
ただ今絶賛二人だけのお菓子パーティ中。
先ほど仕事が終わり、さっそく双葉に電話をした所、わたしの家の近くのインターネットカフェで時間をつぶしていたらしく、上機嫌ですぐにやってきた。「うぃーっす」とか言いながら。
最寄駅から徒歩七分、セキュリティ管理の行き届いた築三年の比較的新しい十五階建てマンション。その三階に手書きの近衛の表札を携えたわたしの部屋がある。マンションの前で双葉と待ち合わせて、一緒にエントランスを通り、エレベーターを使い部屋まで向かう。
「ゆづき、けっこう良いとこ住んでんじゃん。高くない?」
エレベーター内の壁を小さくコツンと叩いて、双葉はニヤリとした表情をする。なので、こちらもつられてニヤリ顔で答えてしまう。
「ま、半分は会社で出してもらってるし」
あ、そんな顔でこんな話なんて、なんかゲスい感じに見られたかな。
「マジ? 初耳なんだけど」
勝気そうな、綺麗で大きな目をさらに大きくさせて、とても驚いた表情だった。
「え、地方から移動の人ってみんなそうなんじゃないの」
「……いーや、今までそんなの聞いたことないっつーか、そもそもこの会社、移動って話も聞かないな。アタシみたいに都内で近場の店舗同士の移動やヘルプはしょっちゅうあるけど」
少し考え込むような態度で双葉は口ごもった。というタイミングでわたしの部屋に着いたので、ドキドキしながら双葉さんを招き入れる。「服、散乱してるけど絶対笑わないでよ」と念を押してから。
見慣れた高いピンヒールを丁寧に揃える双葉を横目に数歩廊下を歩く。パチリと部屋の照明を着け、一瞬の眩しさに目を細めてしまう。
そして双葉が部屋を見渡した。
「おー、服、散らかってんな」
念を押してこれかよっ!
「だぁかぁら、そこは触れないでって言ったでしょ」
「服屋の宿命だーよな。アタシの部屋も服だらけ」
わたしと同じじゃん!
「じゃあ、なおさら触れないでよね」
「ゆづきの反応が面白いからさぁ」
そう言ってニヤニヤしながら荷物を部屋の隅に置き、わたしのベッドにダイブした。もー、最初から遠慮ってものがないな双葉さんは。
「良い部屋住んでますなぁ。1LDKじゃん。お風呂トイレ別々! ゆづき一人だけなのに贅沢すぎか! アタシも住んでいー?」
何か一人で言っている双葉さんを横目に、わたしもドサッと荷物を置き、部屋のカーテンを閉めていく。その様子を見ていた双葉が急に笑い出した。次は一体何ですかっ!
「ねぇーゆづき、ベランダに干してあんのトランクス?」
ぎゃーーー! 見られた。ちくしょう、目良いな。恥ずかしいものがバレてしまった。取り込むのを忘れて出勤した自分を心底呪う。仕方がない、ここは比較的平常心を保ちながら堂々と答えて差し上げる。
「そ、そうだけどっ」
「親が心配して、お父さんの持たされたんでしょ? 男物の洗濯物があるとストーカー被害とかのトラブル避けられるって言うもんな」
「あぁもう、その通りですよ。過保護な親ですよ双葉さんさすが、名推理ですね」
「だからって三枚も干しとくのはやりすぎでしょ。ウケる」
「……多い方が良いのかなって」
はい、三枚も干してました。恥ずかしいからもうこれ以上触れないでいただきたい。
「用心深いなぁゆづきは。なんかあったらアタシが助けてあげるのに」
とても自信満々に言っている。
「ふーん。例えばどういう風に助けてくれるの?」
「えー、場合にもよる。そうだなぁ、アタシ護身術習ってたからたぶんそこらへんの男よりは強いよ?」
な、なんだって、双葉さんがそこらへんの男より強い! うすうすそんな気はしてたよ!
「護身術かぁ。かっこいいね、中二病っぽい響き」
「中二病言うな。小さい頃からアヅくんと一緒に習ってたんだよね」
「で、双葉の方が強いと」
「よく分かったな! ゆづきエスパー?」
うん、なんとなく想像つく! 色んな意味で双葉の方が強そう。たぶん、アヅサくんの前でも双葉は双葉らしいままだろうから、尻に敷かれてるアヅサくんの様子が目に浮かぶね。聞いたところによると、アヅサくんは超絶彼女にメロメロだから、自由奔放な双葉はのびのびと彼のそばにいられるんだろうなぁ。
「アタシ、ポッキーとかお菓子持ってきたんだよねぇ。今日は夜だけど特別にお菓子解禁日。菓子パしよ菓子パ。ちなみにポッキーは極細派」
「ありがとう。極細良いよねー、食べやすさ」
二十一時以降は極力何も食べない主義の双葉さん。今日は特別、ね。持ってきた荷物の中からお菓子を取り出し、箱から小分けになっている二袋のうち一つをこちらに差し出してくれた。ベッドを大々的に占領する彼女はとても楽しそうにしゃべっている。こうして、わたしたちの長い夜が始まった。他愛もない話から、だんだんと今日あったことの話、仕事の話。
「店長って、売り上げが良いと機嫌もすごく良くなるの。今日は今までに見たことないくらい上機嫌になっちゃって、スムーズに店を回して、積極的に残業してわたしたちを労う言葉を残して帰っていったんだよ」
「売り上げの鬼、上機嫌になるの巻」
「わたしたちが来てからあんまり売り上げ良くなかったし、これからもっとみんなで色々頑張って売り上げあげていけば、店長も機嫌良くなるんじゃないかなぁ」
個人的に今日の声出し作戦はなかなか良い案だったと自負している。そこへキャリア三年以上の双葉も一緒に頑張ってくれたら、もっと良い波が出来るはず。なのに。
「アタシは反対」
パキリ、と口でポッキーを折る小さな音がした。
「アタシは頑張らないヤツのために頑張りたくない」
一瞬、返す言葉が見つからなくてうろたえてしまう。確かに、正論だけど、でも頑張れば変わるかもしれないことに挑戦しないのはもったいないと思うんだけどなぁ。双葉は効率重視だから無駄なことしたくないって言うのもよくわかるけど。
「で、でも、今日は少し頑張ったら良い結果で終われたよ。だから、ちょっとくらい頑張るのはアリなんじゃないかなーって」
パキリ、ポキリ、無表情。う、双葉の顔が怖いよ。絶対、何コイツって思ってる顔だ。
パキ、パキ、ポキ。あぁ、無言やめて、双葉さんの威圧感やばい。金髪が眩しい。
「あ、あのね、わたしは、店はみんなで協力して作り上げていくものだと思ってるの。浜松店の店長はチームワークを第一に考えてた。面接のときにね、ここの店はみんな仲が良いって何度も言ってた。そこに魅力を感じて入社したの。実際は、ちょっとドロドロした部分もあったよ。でも店長がとにかく明るい人で、常に気を配っていたし、意見のぶつかり合いがあればすぐさま首を突っ込んで解決しようと一生懸命で、それを見た周りのスタッフも自然と相手を思いやるようになってた。穏やかな人間関係の店だったよ。でも、みんなのまとめ役がいなければ成り立たないことは明白だった。わたしは、自分がちょっと大変でも、良い雰囲気のお店にしたいよ」
ついついアツく長くしゃべりすぎた。都会っ子の双葉さんは、ふわりとあくびをしてる! え、そんなに退屈だったかな……。
そして一言。
「うん」
って、それだけかーい。
と思わせておいて丁寧に語りだしてくれる双葉。
「アタシさ、そういうお人よし主義みたいなの好きじゃないし、頑張らないヤツのために頑張るっていう無駄なことも嫌い。でも、ゆづきはガンガン突き進んでいくタイプだよね。ゆづきと初めて会ったとき、綺麗なヤツだって言ったの、覚えてる?」
コクリとうなずいてみせる。あれは印象的だったなぁ。
「アタシの想像通り、ホントに綺麗なヤツだよ、ゆづきは。……うん、一緒に、頑張ろっか」
キラキラにデコられた指先をピンと伸ばして、自信満々のいつも通りのにんまり顔でわたしにピースサインを向けた。
「やったぁ。双葉がいれば百人力だよ」
あまりの嬉しさに、双葉にお構いなくベッドへダイブする。シングルベッドと双葉が小さな悲鳴を上げた。
「ちょ、ゆづき思いっきり乗ってきやがって。アタシ華奢なんだからデリケートに扱ってよ」
「なーに言ってんの、そこらへんの男より強い双葉さん」
返す言葉がない双葉さんは急に大人しくなって、わたしの耳元で小さく囁く。
「アタシ、頑張ってるヤツのために頑張るのは、好きだから」
どきーん! こ、これがデレってやつですかね! 思わず変な笑いが。
「……ぃえへっへ」
「気持ちわる、笑い方」
「ふへへ、嬉しくて。……ありがとね、双葉。これからも、よろしくね」
「当たり前な」
「それな」
狭いベッドの上でぎゅうぎゅうに押し合いながら、ぴったり密着している所からお互いの体温を感じる。相変わらずせっけんの良い香りのする彼女の横顔は美しい。わたしたちはいつの間にかまどろんで、このまま眠りそうに……。
「ならない! 双葉、お風呂入んなきゃ、明日仕事!」
「あっぶね、メイクしたまま寝るところだった」
慌ててお風呂の支度をするのでした。
ちなみにメイクを落としたすっぴんの双葉さん。メイクの意味ある? ってくらい、べらぼうに美しかったです。
「人のすっぴん見てニヤニヤするなんていい度胸だな」
わざとらしく視線をそらして、お風呂の支度で忙しいでーすアピールをしておこう。いつもより多くタオルを用意しながら。
「ねぇ、シャワーだけでもいい? あんまり時間もないし」
「ダメ。美容を気にする女子は半身浴って太古の昔から決まってんの」
太古の昔に半身浴を重要視する女子はいない……。
しかし彼女の言うことは絶対なので、しぶしぶお湯を張りますとも。
「双葉、先入ってね。お客様なんだし」
「いーの? ラッキー! ってか一緒に入ろうよ」
そんなに目を輝かせないで!
「いやいや、そ、それはその、あの……」
「えー、一緒の方が楽しいじゃん」
露骨にくちびるを尖らせている。不服そう。
「あのー、えっと、わたし狭い空間って苦手なんだよねぇ。田舎育ちだから、実家のお風呂とか広くて。窓も大きいし。そのせいでマンションの窓小さいお風呂って閉鎖的な空間すぎて怖くて。軽い閉所恐怖症ってやつ? だから二人で入ったらもっと狭く感じるし、ね! ね! 」
こればかりはわたしの気迫に負けたのか、双葉の方が折れた。
「確かになー、アタシんちも風呂広いから狭いの怖いって感覚ちょっとわかるかも。じゃあ、お先に借りるわ」
着替えを持って、ゆったりと脱衣所に向かう彼女の後ろ姿を見ながら、わたしも今の内にメイクを落としたりといろいろ済ませていく。
ここへ引っ越してきてから二か月ちょっと。こんなに賑やかな夜は初めて。友達って良いなぁと思う。今度はゆーちゃんも招待したいなぁ。来てくれるかな。いろんな想像に期待を膨らませながら。
そして、双葉がお風呂から出てくる前に、本棚に並べられていた高校の卒業アルバムを、そっとクローゼットの奥深くに移動する。実家から全く必要のない物まで持ってきてしまったと後悔した。好奇心旺盛な双葉のことだから、目についた瞬間「なになに、卒アル? 見せてみ」とか言いかねないしね。
わたしにとって高校生活は人生が百八十度変わった思い入れの深い場所。灰色だった世界が、急に色づいて見えるようになったのも高校生になってから。
双葉が鼻歌交じりに浴びているシャワーの繊細な音をききながら、なんとなく過去のことを思い出していた。