これは彼女と相談教室を始めるまでの話。 4
秋月はサッカー部。入学して、毎日練習に明け暮れていた。
俺と秋月の付き合いは、中学から。の筈だが、高校生活が続く中で少しずつ疎遠になっていった。帰宅部と運動部じゃ、当然の流れだろう。
十月のある日。
俺の一つ下の妹、沙耶が秋月と付き合っていることを知った。それ自体は別にどうということも無かった。
「いやー、お義兄様が怖そうな人じゃなくて、良かったすわー」
「へっ。気持ち悪いわ。お義兄様とか言うな」
「すいやせん」
それがきっかけで、そんな軽口を叩ける程度には、仲が良くなった。
十一月。
二人はデートの帰り。
事故に遭った。
突っ込んできた車、沙耶は秋月を突きとばして、一人、被害者となった。
それから、目覚めていない。
十二月。
秋月に、新しい彼女ができたことを知った。
俺は、それを、許した。目覚めない妹にいつまでも構う理由なんて、無い。
否。許す、許さないを判断する権利も、俺にある筈がない。
だけど、俺は……。
目覚めない妹を眺めながら。
少しずつ、元の生活に、申し訳そうにしながらも戻っていく、友人を眺めながら。
上手く行っているようだ、秋月は、新しい彼女と。
沙耶は、目覚めない。処置は上手くいっている、それはお医者様に何度も確認した。
日常に戻れてないのは、沙耶だけ。
沙耶だけ、戻れていない。
俺には、どうにもできない。
誰も、悪くない。誰も、悪くないんだ。
だから、許すも、何も、無いんだ。
俺は間違えていない。俺が選んだ答えは、間違えていない。
誰も責めず。許す。
「そうですね。間違えて、いません」
声が聞こえた。
「でも、あなたが感じてる怒りと悲しみ。それとあなたの選択は、決して、矛盾していません」
現実に、引き戻される。
「……うわっ」
グラっとした感覚。床に倒れると思った所を、支えられた。
「あ、ありがとう」
支えてくれたのは、心音さんだった。
「大丈夫? 気分が悪くなったとかは?」
「いや、なんかこう、溜まっていた物を全部出せた、みたいなスッキリした感じがする」
「そう。良かった。ごめん、何も言わずに、心繋げて。でも、もう少し、付き合って」
手が握られた。
そして、逆の手で、沙耶の手と繋ぎ。目を閉じた。
意識が、優しく引き込まれる感覚。
一瞬。沙耶が目の前にいる感じ。いや、目の前にいるのはわかっている。けれど、さっきよりも強く、そこにいることが認識できた。
沙耶は、生きている。こんなにも強く、感じることが、できる。
言葉をかけようにも、声が出ない。
手を伸ばそうにも、身体が動かない。
沙耶をひっぱりあげたい。戻って来て欲しい。
「うぐっ」
身体から、力が抜けた。立っていられなくなって、しゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
「あぁ。うん」
沙耶が、目覚めようとしているのは、わかった。
それは。わかった。
「あなたの妹さんは、心を消耗していた」
「どういうことだ? 何があったんだ?」
「何があったかはわからないけど。でも、優しい人なのね。沙耶さんは」
じっと、心音さんは俺の目を覗き込んでいた。
「……決めたんだ。どうするか」
「あぁ。ありがとう。確実に、知っている奴が、いるから」
秋月は、言い訳をしなかった。
その日、秋月と沙耶はその日、喧嘩した。些細なことだったけど、その日、秋月と沙耶は別れることになった。
別れることになった彼女に、秋月は助けられた。
この時の秋月は、沙耶が目覚めたらやり直そう。ちゃんと謝ろうと思っていた。
けれど、その気持ちを持っていても、心の消耗は誤魔化せなかった。そして、同じ部のマネージャーがそのことに気づかないわけがなく。
寄りかかるように、交際が始まった。
目の前で頭を下げる秋月に、俺はかける言葉が思いつかなかった。
「逃げてすまなかった。楽になろうとして、すまなかった」
そう頭を下げる彼に、俺は何て言葉をかけられただろう。
逃げるのも、楽になろうとするのも、間違えて、いないのだ。
「心音さんって、よくこんなことしてるの?」
「えぇ。まぁ。掃除は毎日」
神社に行くと、いわゆる巫女服姿で心音さん境内を掃き掃除していた。
「あぁごめん。そっちじゃなくて、俺の悩みを解決したみたいな」
「……実は、初めて」
「はい?」
「初めて。今回は特別。男の子は」
「なんで?」
「見てしまったから。君は、私が見た中で、一番心が崩壊しそうだった。今でも、それは変わらない」
「……そっか」
箒と地面が擦れる心地の良い音。
夕焼けが、鳥居の向こうに見えた。
改めて、心音さんを眺める。
黒髪の美人の巫女服……。うん、素晴らしい。
「……視線がいやらしい」
「……そんなことはない」
「私の前で誤魔化せると思う?」
「すいません」
「まぁ、良いけど」
掃除道具の片づけを始めたので、俺は手を差しだす。
「何?」
「持つよ」
「良い。いつものことだから」
「たまたま目の前にいる男手だよ。使いなよ」
じっと目を見つめて来る。
ぱちりと瞬きを一つ。
「下心何て無いよ。ここで評価を稼ごうとか」
「うん。わかってる。じゃあ、お願い」
上履きの中に手紙が入っているという体験をする日が来るとは思わなかった。
昼休み、登校中に買ったコンビニのおにぎりとペットボトルのお茶を片手に、文芸部室に来た。
「いらっしゃい」
「あぁ、どうも」
心音さんは弁当をテーブルに置いて、開けずに待っていた。
「来てくれてありがとう」
そして、自然な動きで顔を近づけると、目を覗き込んでくる。蒼く染まる目が、よく見えた。「……あなた、どれだけ今まで心を酷使してきたのよ」
「さぁ」
「結構な古傷を抱えている。引き裂かれそうだった頃よりは、まだマシだけど」
「傷ついてない人間の方が少ないだろ」
「それはそうだけど、相変わらず、ギリギリのところで踏みとどまっている。それに常に諦めの感情がどこかに見える」
「そうか」
息すらかかる距離で、よくもまぁ、俺は平然を装って話せているものだ。
「緊張しているのはお互い様よ。私だって、男の子にここまで近づいたのは、初めて」
「……見透かされてるなぁ」
「私の前で誤魔化しは効かないの、わかるでしょ。ある程度感情がわかる程度でも、そこから考えられるこ
とは多いのだから」
向かい側に座ると、心音さんは弁当を空ける。俺もおにぎりのビニールを向いて、齧る。
「いつも、コンビニ?」
「まぁ、沙耶がああなってからは」
「ご両親は?」
「今海外。沙耶が作ってくれてたんだけどな、おかげで生活力の低い俺はこうなった」
沙耶のことを知らせても、あの二人は帰って来なかった。
目を伏せる心音さんに笑いかける。
「君のおかげで、少しは前向きになれたからさ。沙耶が頑張ってるの、わかったから」
「私は心を繋いだだけ」
真っ直ぐに目を見られる。温かい感情が流れ込んできた。
「こうやって、少し癒すことくらいしか、私にはできない。出しゃばって首突っ込んで、大したことできな
くて、ごめん。君が感じてる温もりだって、根本解決にはならない。ただ、心を保つだけ」
「いや、十分だよ」
本当に、十分だ。
これ以上期待するのは、高望みというものだ。
「でもまぁ、心音さんのそれって、やっぱこう、神主の血筋由来的な?」
「その認識で良い。心音家の長女に力の強弱はあれど、心繋ぎの力が与えられる。その力を以て、訪れた、弱っている人の心を救う。それが、心繋ぎの巫女の役割」
端的な答え。
「んで、俺が一番ヤバかったと」
「そう。人の心覗いても、嫌な気分になること、ばかりだったから。下心丸出しの男の子とか、特に」
「まぁ、そうだよな」
また、心音さんは目を伏せた。
「だから、あまり使わなかった。けど、君は何となく、見た方が良いと思った」
「そ、そっか」
息を吐く。ようやく室内を見渡すくらいに、緊張に慣れた。
「あっ……えっと、そういえば、ここって文芸部室だよね。文芸部なの?」
「半分正解」
「半分?」
「今は文芸部だけど、来年からはそれを隠れ蓑に、ここで昼休みと放課後、相談教室開きたいなって。男の
子には、内緒で。男の子、実は少し、苦手だから」
「そんなの、俺に話して良かったのか? というか、今この状況、大丈夫なのか?」
「君は信頼できると判断した。下心がある人だけじゃないのもわかるけど、君みたいな人ばかりでも、無いし。でね、その相談教室について、頼みたいことがあって呼んだの。経過観察は口実」
「聞こうか」
「簡単なこと。不慣れなことだから。男の子の目線が欲しい場合もあると思うし」
「あぁ。なるほど」
納得と共に手を打った。
「うん。そういうことなら。恩を返す、ということで。よろしく」
「そういうことは気にしなくて良い。でも、よろしく」