これは彼女と相談教室を始めるまでの話。
その日は、一月一日が終わり、正月空気が抜け始める二日。とはいえど、三が日の間は世間の休暇ムード自体は抜けない。
夜の道を自転車で走る。今年は不思議と、雪がほとんど降らない。降っても空を舞って、溶けて消えていく。
地球温暖化とか、懐疑的だったけど、流石におかしいかなと実感として感じる材料の、一つくらいには数えて良さそうだ。
長めの坂が目に入る。
止まることなく駆け上がる。段々と息が上がっていく。身体に熱がこもっていく。
冷たい風を浴びても、冷ますのには足りない。
「はぁ、はぁ」
ギアを切り替える、カチカチッという音。
もう少しで、着くはずだ。
頭の中の地図では、そうなっている。
今頃、例えばクラスメイトは集まって、高校生の癖に飲酒とか、しているかもしれない。
例えば、恋人同士は家で寄り添っているかもしれない。
クリスマスにそこまで間を明けずに、世間に盛り上がる理由を与えて。
自転車を停めて、息を整える。
暗闇の中に、鳥居が浮かび上がる。神聖なものも、闇の中では、別の印象を与える。
心臓が、キュッと縮み上がる。けれど、足は自然と、鳥居の方に向かった。
山の中を削って、そのままそこに神社を建てた、そんな印象を与える道。土の香りとか、生き物の香りとか、全然しない、冬の夜。
昼なら見えるはずの連なる鳥居も、木々に光を遮られ、闇に沈んでいる。
聞こえるのは、自分の足音だけ。
石畳の階段を、登っていく。
本能的恐怖が、身体を固くする。
差し込む光に、安堵する。
参道の真ん中を歩いてはいけないと思い出したのは、本殿の目の前に来た時。
慌ててわきに避けたけど、もう遅いのだろうか。
財布を出してお賽銭としてよく用いられる五円玉を出す。けれど、神社で財布、出してはいけないんだっけ? まともに思考が働かない。
本殿の扉が閉まり、お賽銭箱も、中に仕舞われているのか、無かった。
どうなのかなと思いながら、床において、神前だからフードも外して、二礼二拍一礼。
お寺なら、パンパン手を叩いて、そのまま祈りを捧げるのだろう。
お祈りするなら、お寺の方が良かったのかな。初詣は神社だと思ったけど。でも、祈るという意味では、俺は場所を間違えたのだろうか。
そもそも、初詣って、去年の感謝と、今年の挨拶をするためのイベントだったかな。
だとすれば、ますます、俺の目的とは違うのか。
否。ここで祈って解決するようなことなら、俺はここまで苦労しない。
やっぱ、気の迷いから生まれた衝動で動くべきではないな。そう一人で笑いながら、踵を返す。
今度は下り。降りていく。暗闇に目を凝らしながら、階段を一段一段、降りていく。
「あれっ」
グラっとした感覚。背筋が凍る。滑った、と気づいた時には、鈍い痛みを感じた。
「……眩しっ」
目を開けて、景色が白く染まって慌てて腕で庇う。
「ん? あっ、起きた。大丈夫?」
「えっ……?」
ゆっくり体を起こして、声のした方を向いた。
「救急車、必要?」
「いや。大丈夫です。えっと、ありがとう、ございます?」
「? どうして疑問形?」
その人を認識した瞬間、俺は周りを見回す。
畳敷きで、和風の家の、普通の居間という印象。テレビも置かれ、固定電話もあって。
すぐに、あまりじろじろ見るのは失礼だよなと思い直したけど、時すでに遅し、な気もした。
「えっ、ここって」
「私の家よ」
端的な答えに納得する。
気を失っていた所を、運ばれた、という感じか。
「あの、ありがとう、ございます。心音さん」
「……? 私の名前を、知っている……? どこかで、会ったけ?」
「……クラスメイトです。牧野一樹です」
「……あー」
絶対覚えてない。この人。そこそこへこむ。
心音涼音。……やっぱり美人だ……。
長い黒髪は腰まで伸びている。家だからか、特に髪留めもせず、そのまま流している。
クールな印象を与える、鼻筋の通った顔立ち、切れ長い目。
わかりやすい美人だ。
「心音さんが運んでくれたのか?」
「お父さんが。一応、見回りしてから寝るようにしてるから。そこで見つけた感じ。具合悪いとか、痛い所、無い?」
「大丈夫。ありがとう」
「そう。なら良いけど」
「うん、ありがとう」
「……そう」
会話が途切れる。さっさと帰るべきだろうけど、いや、帰るべきだろう。でも、聞いておきたいこともある。
「家、神社なんだ」
「そう」
こくりと、頷いた。
「だとしたら、手伝いとか、忙しいんだろうなぁ」
「この時期は、忙しい」
薄く、自嘲気に微笑んで、心音さんは頷いた。
「やっぱ巫女服?」
「うわぁ……何故それをわざわざ聞く?」
「いや、似合うんだろうなぁって」
なんか、冷たい視線を感じる。
「はぁ。まぁ良いや。そうだよ。神主の娘だから、そういうのを着て手伝うのも、当然のこと」
視線を何となく下に向ける。
ちゃんと向き合って、目を見て話すべきなんだろうけど、どう見ても部屋着で、隙だらけな印象で、目のやり場に困る。
ピンク色の、冬らしく長袖だけど、ゆったりした印象の、可愛らしいパジャマだ。
「すぐに帰るよ。お礼を言いたいんだけど、今、どこにいるかな?」
「ん、呼んでくる」
引き戸を開けて、部屋を出ていく後ろ姿を見送った。
「お父さーん」という声が聞こえ、すぐに足音が戻ってくる。
引き戸を開けたのは何とも優し気な顔立ちをした、随分と若く見える男性だった。
「あぁ、起きたのかな。体調は? 驚いたよ、見回りしてたら、人が倒れているんだもん。救急車を呼ぶか迷ったけど、息もあったし、心音も安定してたから。必要かな?」
「いえ、大丈夫です」
「そうか。なら良かった」
しっかりと頭を下げて、心音家を出る。
もう、時刻は日付が変わりそうなところまで来ていた。
あぁ、本当。
もしかしたら、本当に、神様はいるのかもしれない。
ざわめく心を落ち着かせようと、胸に手を当てた。
もう一度、お参りに行っても良いかな、と思う程度には、気分が良かった。
乾いた地面で滑った自分も、今なら笑って許せる。