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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
参、涙は生別の為に滋し
97/130

裏切り、それは終わりの始まり

    挿絵(By みてみん)


「……何が起きた」


 文叔が辛うじて声を絞り出す。体温がすうっと下がっていき、周りの音が消える。隣にいた、朱仲先も息を飲んでいる。鄧仲華が静かな声で続ける。


「新野に、陰次伯の使いが来た。河北の文叔に、書簡(てがみ)を渡すにはどうしたらいいか、緊急の、そして内密の書簡だと。書簡は見ていないが、陰次伯が僕に伝言した。――陰麗華が、洛陽の南宮に囚われた、と。……それで、僕は取る物もとりあえず、河北に渡ってきた」

「書簡は――」

「その使いの者が、直接渡す。だがその前に、僕が自身で言わなければならないと思ったから、僕が自分で河を渡ったんだ」


 鄧仲華の、色素のやや薄い、茶色い瞳がまっすぐに文叔を見つめる。

 七歳も年下のこの男は、まだまだ孺子(ガキ)みたいな外見の頃から、すでに文叔よりもずっと落ち着き払って、そして遠く、先を読んでいた。その早熟の天才が、文叔にはっきりと言った。


「書簡に何が書いてあったとしても、戻ったら死ぬぞ」

「書簡が、嘘だと?」


 文叔の問いに、鄧仲華が首を振る。


「たぶん、嘘ならいいな、と思うような内容だろうと思う。でも、たとえどんな内容であっても、戻ったら死ぬ。それだけは間違いない」

「でも、陰麗華が――」

「すべては文叔を殺すためだ。ここで戻れば、叛乱の兆しありとして、正々堂々と討伐できる。劉聖公は、目の上のたんこぶを排除できる。……そうだろう?」


 文叔が、息を吸う。ひうっ……と気管が嫌な音を立てた。


「でも僕は、聖公の……いや、皇帝のために、河北の平定を――」

「そんなの、それを名目にした島流しだって、自分でもわかってたじゃないか。さっき、僕にそう、言った」


 それはその通りで、わかっているつもりだった。

 河北の平定。そんな漠然とした名目で、全く未知の土地に派遣される。いったい、どうなったら洛陽に戻れるのか、それすらわからない、そんな命令。

 要するに、自分は邪魔者なのだ。劉聖公はおそらくこの後は関中に向かい、長安をはじめとする首都圏を掌握する。河北は、その後でもいい。文叔が頑張っても、その上前を刎ねるだけ――。


「だからって! 陰麗華はなぜ!」


 ふいに思い出す。そんなことはあり得ないはずだ。なぜなら陰麗華は――。


「不可能だ! いくら劉聖公でも! だって彼女は李季文の――」


 そう言いさした文叔を遮り、鄧仲華が溜息交じりに言う。


「そいつが裏切ったに決まってるじゃないか。僕でも予想がつく。伯升を讒言した男だよ? 何でそんな奴に、大事な女房を預けるんだよ。馬鹿じゃないの? アホなの? 死ぬの?」

「李季文は友達だ! 昆陽でも一緒に包囲を突破した! 十三騎で、百万を!」

 

 文叔の叫びに、鄧仲華が目を見開く。


「そんな理由で? そんな理由で兄貴を売った男を信じたのか? 兄貴を売った男が、女房を売らないとなぜ、思える?」


 今度は文叔が、鄧仲華をまじまじと見た。


「兄貴と季文はもともと反りが合わなかった。でも、僕とはうまくやってた。そんな――僕を裏切る理由がない!」

「友人を裏切る理由なんて、いくらでもあるよ。もし、文叔が伯升の仇討ちを企てたら? あるいは、劉聖公に取り入るためとか、もともと陰麗華に興味があった、昆陽の件で、文叔の名声が高くなるのをやっかんでる……ちょっと考えただけで、こんだけ出てくる。文叔、君は戦略ってものが無さすぎるんだよ!」

「戦略……」


 鄧仲華がふう、とため息をつく。


「たしかに、昆陽の文叔はすごかった。一万足らずで百万を破った。……まあ、数字は公称だからいかがわしいけれど、圧倒的な数的不利をひっくり返し、敵を潰滅に追い込んだ。先陣に立つ将軍としては、本当にすごい。でもさ――このままだと君は韓信みたいに、いいように利用されて終わるよ」

「韓信……」


 前漢高祖の三傑の一人、韓信。極めて高い軍事的才能を持ちながら、結局、時代を読み違え、非業の最期を遂げた男。


「もし、韓信が蒯通(かいとう)の言うとおり、天下三分の計を用いていたら、歴史は変わっていた。あるいは楚漢の漁夫の利を得、天下を手中に収めていたかもしれない。もちろん、天下泰平を早くに実現するためには、韓信が高祖皇帝に従順であったのは、喜ぶべきことだ。でも韓信自身はどうか? 僕が思うに、当時、戦術的な才能では韓信は高祖はもちろん、項羽すら凌いでいた。にもかかわらず、いや、だからこそ、韓信は用のなくなった狗のように冷遇され、追い詰められて叛乱を起こし、殺された。このまま劉聖公が天下を取れば、君は同じ(てつ)を踏むことになるぞ?」


 鄧仲華の言葉に、文叔はしばし考えこみ、そして言った。


「……納得いかない。僕は劉聖公の損になるようなことは、何もしていないのに」

「韓信だってそうじゃないか。存在がそもそも邪魔なやつってのが、この世にはいるんだよ」


 文叔は鄧仲華を見て、躊躇(ためら)いがちに言う。


「それなのに、君は僕に付きにきた。僕が殺されれば、君も――」

「僕だけじゃないさ。朱仲先も、君の周囲の潁川の人も、さっきの賈君文(かくんぶん)も、全部道連れだね。でも、今、河南に引き返したら、それどころじゃ済まない。陰家はもちろん、僕たち鄧家だって、巻き込まれるかもしれない」

「なっ……そんな、馬鹿なっ……」


 文叔はまったく理解がついていかなかった。自分が河を渡って戻ったら、陰家も鄧家も?

 

「今、君は(せつ)を与えられて、軍隊を率いているんだよ。……たいした数じゃなくっても。その状態で、皇帝の命令を無視して戻ったら、叛意ありと認定されても、文句言えない。……いや、むしろ、それを期待しているんだよ、劉聖公は」

「じゃ、……じゃあ、どうしたら……」


 鄧仲華は、その場に広げたままになっている、(きぬ)の地図を広げ、指差しながら説明する。


「いいかい、劉聖公がいる洛陽はここ、彼はいずれ長安に行って関中を制圧しようとするだろう。でも、現在、山東(太行山脈の東側、河北を指す)は不安定で、赤眉(せきび)青犢(せいとく)の賊が万単位でうろついている。劉聖公もその配下も、ゴロツキあがりの、財宝に目のない輩ばっかり。天下の経略を考えられる、まともな脳みそを持つ奴なんて、いやしない。これから先、天下はますますバラバラになっていく一方だろう。アンタが頑張って劉聖公のために河北を平定したところで、全く無駄骨だろうね。民衆は英雄を求めてる。今望まれる才能は、韓信じゃなくて、高祖だ。河北を平定し、そこで自立する。それが天下万民を救う道だ」

「ちょっと待ってくれよ、僕は別に……」

「それ以外に、陰麗華を取り戻す道はないね」


 鄧仲華に断言され、文叔は息を飲む。


「今、河南に戻れば、謀反の疑いありとされて、間違いなく殺される。当然、陰麗華も取り戻せない。河北を平定し、その軍事力を背景に改めて劉聖公に立ち向かう。方法はそれしかない」


 文叔がただただ、鄧仲華を見つめ、横にいた朱仲先も、一言も口を挟むことができなかった。


「でも――」

「陰麗華を取り戻せずに死ぬか、死ぬ気で頑張っていつの日か取り戻すか。どっちを選ぶ」

「そんなのは決まってる! でも――」


 文叔は両手で頭を抑え、大きく息を吸ってから、言った。


「……せめて、陰次伯の書簡を見せてくれ。何があったのか、知りたい」

「知ったところで、選ぶ道は一つだ。わかっているだろうね?」


 鄧仲華が冷たい表情で言い、文叔は頷いた。





 呼び出されて入ってきたのは、左武と名乗った農民風の男。まだ若い、南郡あたりの訛りが残る男が差し出す竹簡を、文叔は震える手で広げる。そして――。


 バン!


 竹簡を投げ捨てると、朱仲先に向かって叫ぶ。


「洛陽に戻る! 今すぐ! そうじゃないと、陰麗華が――」

「文叔!」


 すぐに鄧仲華が文叔の肩を押さえつける。


「さっきの話をもう、忘れたの! もう一回、一から説明させる気か?」

「でも――」

 

 鄧仲華がまっすぐに、文叔の目を見る。


「僕が、初めから左武を呼びよせなかったのは、君を押さえ込む自信がなかったからだ。最初に長々と話をしたのは、君を少しでも冷静にさせるためだ。文叔。一時の激情で、何百人巻き込むつもりだ?」

「仲華! そんなのは……でも、陰麗華は身重なんだよ! だから、河北に連れてくるのは無理だと思ったんだ! なのにこんな――」

「連れてきても死んだかもしれないね、そんな未来のことは誰にもわからない。ただ君は、最愛の人を託す相手を間違えた。それだけは間違いない」


 文叔がその場に頽れ、両手で頭を抱える。


「……文叔、仲華の言う通りだ。今戻れば、間違いなく殺される。もしかしたら陰麗華だって」

「戻らなかったら?」


 文叔が顔を上げ、朱仲先を睨みつける。


「戻らなかったら、彼女はどうなる?」

「それは――」


 言い淀む朱仲先に代わり、鄧仲華が冷静に言った。


「少なくとも、殺されることはないだろう。何が最悪かなんて僕にもわからないさ。でも、君が洛陽に戻れば、おそらく(みなと)に着いた時点で報せが行き、君は包囲され、陰麗華も殺される。君が戻らなければ、命は助かるだろう」


 その様子を見ていた左武がオロオロと言う。


「だども、陰次伯の旦那は、一刻も早く戻ってきて、お嬢様を救って欲しいと……」

「無理だね」


 鄧仲華がにべもなく吐き捨てる。


「さっきも言ったように、陰麗華を取り戻したければ、取るべき道は一つだけ。河北を平定し、力を蓄えて劉聖公に立ち向かう以外にない。今は無理」

「んだば、おらはどう、お答えしたらいいだか? きっと陰次伯の旦那はがっかりなさるべ?」


 鄧仲華はしばらく腕を組んで考える。


「今は、文叔も取り乱している。こんな状態で返事を書いても、かえって次伯を混乱させるだけだろう。……次伯にも頭を冷やす時間が必要だ。返事は、邯鄲(かんたん)で渡す。左武も邯鄲までは来い。次の便りをやり取りするにも、邯鄲までの道を知っておいた方がいいから」

 

 茫然としたままの文叔に、鄧仲華がそう言った。 






 陰麗華が劉聖公に囚われた。

 そんな可能性を、文叔は全く予測していなかった。


 甘い――のかもしれない。でも、文叔にとって劉聖公は、腐っても同族だった。文叔の妻である以上、陰麗華もまた、劉氏の妻の一人。それを人質同然に後宮に囚えるなんて。


 最悪の事態はない、仲華は言う。

 しかし、最悪とは何か。命を奪われることか? だが、そんな馬鹿な。陰麗華がいったい、何をしたと?


 冷静に冷静に。……洛陽南宮の状況を考える。後宮なんて言うとゾッとするが、あそこには聖公の妻の趙夫人もいるはずだ。仮にも一族の男の妻を……なんてこと、いくら何でも止めてくれるはず。

 

 ――聖公に殺された劉伯升の妻子だって害されていない。一族の者として保護されている。

 

 これだけが、文叔の頼みの綱だった。


 しかしそれにしても、なんで、なんで李季文が。なんで。

 あの十月の挙兵から、曲がりなりにも仲間として、問題なくやってこれたと思っていたのに。


 危険を顧みずに河を渡り、苦労を共にすると言う鄧仲華、そして兄の死を乗り越え、どこまでも一蓮托生の朱仲先。潁川で文叔の配下に加わった、王元伯、馮公孫(ふうこうそん)傅子衛(ふしえい)銚次況(ちょうじきょう)祭弟孫(さいていそん)。新たに河を渡ってきた、賈君文。


 変わらない友情と忠誠を捧げてくれる友と――そして、裏切る友と。


 何を信じ、何を疑うべきなのか。


『ただ君は、最愛の人を託す相手を間違えた。それだけは間違いない』


 鄧仲華の言葉が、文叔を打ちのめした。




 


 邯鄲(かんたん)

 戦国趙国の都として栄えたその(まち)は、漢でも諸侯王が治める趙国の都であった。河北において最大の都市のひとつであった。


 文叔はその街で、元の趙王の子、劉林、と名乗る男に面会を求められる。


「趙王……」

 

 どうも、舂陵(しょうりょう)劉氏と同じく、漢の景帝の子孫であると言う。景帝には十五人もの皇子がいた。世の中の劉氏の、半分以上は景帝の子孫ではないのか、そんな気がする。


 その男は色の白い、こすっからい風貌の男で、とても諸侯王の子には見えなかったが、文叔は話だけは聞いた。


「あたしはね、赤眉を破る方策を、アンタに伝授してやろうと思ってさ」

「ほう。してお策とは、どんな?」


 文叔とその左右には鄧仲華と朱仲先。朱仲先が如才なく、話を促す。


「今、赤眉の連中は河東(黄河のすぐ北側)にいるでしょ? 列人の街から黄河は北に流れるの。河の堤防をそこで決壊させたら、あら素敵! 巨大な遊水地ができて、そこの赤眉はお魚になっちゃう、ってわけ」


 文叔はしばらく目を瞬く。河を決壊させるって……赤眉が魚になるだけでは済まない、大変な被害が起る。


 文叔は南陽では坡地(ため池)(すいろ)の管理や浚渫(しゅんせつ)を行っていたから、水の制御がいかに難しいか知っている。それも近所のどぶ川ならいざ知らず、あんな暴れ龍を! もし、制御ができたとしても、畑も流されるし、巻き込まれる民衆もすさまじい数になるだろう。水害の後には疫病が発生するかもしれないし、甚大な被害を産んだ場合、責任が取り切れない。


 文叔が横目でちらりと鄧仲華を見れば、仲華が蒼白な顔で首をぶんぶんと振った。


 ――そうだよな、無理だよ。普通に考えて、黄河決壊させるなんて、無理だ。


「あー、素晴らしい案だが、我が軍は土木工事に自信がなく……」


 適当なことを言って追い払い、文叔は溜息をついた。






 (ぎょう)(まち)で、陰麗華のことを知らされて、数日。頭では、河北にとどまるべきだとわかっているのに、気持ちの整理がつかなかった。


 ――今、こうしているうちも、陰麗華が悲惨な目に遭っていたら……


 たとえ殺されるとわかっていても、彼女を救いに行くべきではないのか。だって、彼女は、自分の妻だ。ただ一人の、かけがえのない。


 でも、河南に着いた瞬間に、叛意ありとして追ってがかかるのは、間違いない。洛陽の南宮にいる陰麗華を救うアテなんてない。


「ああああ、いったいどうすれば……!」


 頭を掻きむしって――髪を洗わないという願掛けは、朱仲先と鄧仲華の二人がかりで無理矢理、やめさせられてしまった――悶えていると、鄧仲華が来客を告げた。


鉅鹿(きょろく)宋子(そうし)耿伯山(こうはくざん)。聞いたことあるだろ?」

「耿伯山?」

「太学で、耿伯山も『尚書』専攻だっただろ。僕でも噂を聞いたことがあるんだから」


 鄧仲華に言われ、思い出す。あの、優等生が――?


 耿伯山は鉅鹿の名門の出で、父親もそこそこの高官で、母親は河北の王族の出だとか。教師の覚えもめでたく、在学中から「納言士(のうげんし)」に抜擢された秀才だ。――資金稼ぎのアルバイトに明け暮れて、成績はギリギリの低空飛行で乗り切った文叔とは、大違い。


(でも、わざわざ、僕に気づいてやってきてくれたのかな?)


 鉅鹿郡の名族である、彼がついてくれるなら、少しは楽になりそうだけれど――。

 そんなことを思いながら面会してみれば。


「初めてお目にかかります、劉文叔将軍。昆陽の武名は常々――」


 面長で、やや吊り目気味の表情を改めて挨拶する耿伯山の口上に、文叔は苦笑した。


「いや、会ったことあるよ。……太学で。同じ授業も出た」

「え……?」


 ぽかんとした表情で見つめてくる姿に、文叔は思わず吹き出してしまう。


「ああ、申し訳ない、君は優等生だったから、僕も覚えているけど、一方の僕は平々凡々だったから、たぶん、記憶にないんじゃないかな」


 しばらく考えていた耿伯山が、「あッ」と目を瞠る。


「もしかして、杜林先生の?」

「そうそう、それも出た」


 耿伯山がいたたまれなさそうにするのを、文叔が笑う。


「気にしないでくれ。憶えていないのはしょうがない。僕……じゃなくて、私はそれほど、学問には熱心じゃなかった」

「いえ……劉氏は世に溢れておりますし、まさか、昆陽の英雄が同期生とは」


 文叔は話を変えた。


「それで、わざわざ邯鄲まで? 宋子と邯鄲がどのくらい遠いのか、私は知らないのだが」

(それがし)は今、鉅鹿郡を出て、河に近い魏郡・東郡まで南下し、軍を組織しています。赤眉や青犢といった賊の活動が盛んで、黄河の向こうの李季文将軍に助けを求めたのですが――」


 文叔の眉が一瞬、歪む。 

 

「それで?」

「黄河の北まで、面倒は見られないと」

「そうだろうね。だから私が派遣された」


 文叔が答えれば、耿伯山が頭を下げた。


(それがし)の母は、ここからさらに北、真定王の妹になります。やはり天下の主は劉氏であるべき。劉氏の『漢』の再興こそ、我らが悲願にございます。皇帝陛下の意を受けた大司馬・劉文叔将軍の指示のもと、天下の安寧に力を尽くしたいと思い、はせ参じました」


 文叔は無言で、耿伯山の整った顔をじっと見る。


 敵か。味方か。信じるべきか、疑うべきか。


「……つまり貴卿は、真定王の甥っ子ってことか」

「ええ。そうです」


 文叔は顎に手を当てて考える。


「私が河南の……洛陽よりもさらに南の、南陽の出だから、河北の情勢には疎い。真定王以外にも、かつての諸侯王はわんさといるはずだ」

「ええ、真定のさらに北には、中山国、広陽国……」


 耿伯山は素直に指を折って数える。


「その辺りの王様を、皇帝に擁立しようという、動きがあっても不思議はない。何故、私のところへ?」


 ズバリと問えば、耿伯山はハッと居住まいを正す。文叔が、何を懸念しているのか気づいたのだろう。


「私も、そして洛陽の皇帝陛下も、田舎の列侯である舂陵(しょうりょう)侯家の、それも分家だ。もっと由緒正しい生まれの劉氏を、担ぎあげる者が出てくるのでは?」


 文叔の隣では、鄧仲華が涼しい顔で聞いている。耿伯山は座りなおすと、まっすぐに文叔を見た。


「劉氏であればいい、というものではありません。我らの土地や民の安寧を預けるべき、()()の到来をこそ、待つべきです」

「……なるほどね」


 ……つまり、耿伯山は劉聖公にそれを賭けると。

 文叔は質問を変える。


「貴卿は太学時代から秀才で通っていた。……そこの、鄧仲華も『詩』ではそこそこ有名だったけれど、まだ若く、経験も足りない。何より、河北のことはやはり、河北の人間に聞きたい。貴卿は、私はこれからどうすべきだと思う?」


 耿伯山はホッとしたように表情を緩める。当然、その質問への答えは準備してきたのだろう。


「北に向かうべきです」

「北?」

「先ほどの、劉将軍の質問は、某もいい点を突いていると思います。かつての諸侯王の一族が、劉氏の中核になるのは間違いない。それを味方につけるのです。まずは、某の伯父である、真定王からいかがでしょう?」

「味方になってくれるかな?」

「我らとて、漢の再興には期待をかけております。洛陽の皇帝の大司馬が来るとなれば、皆こぞって歓迎するでしょう。河北を抑えるには、それが得策かと」

「……なるほど」


 文叔はちらりと、鄧仲華を見る。……鄧仲華に言われるまでもなく、戦略の不足は自覚している。鄧仲華が頷くのを確認して、文叔は言った。


「そうだね、貴卿の策に従おう」


 耿伯山と、鄧仲華。太学の秀才二人の策に従う。――それで、過ちはないはずだった。


 もう二度と、間違ったりしない――。

 文叔は固い決意のもと、左武に書簡を託す。


 ――必ず戻る。元気で過してくれ。

 

 そんなありきたりの言葉を記した書簡。どれだけ、陰麗華や次伯を落胆させるだろうか。でも、陰麗華の手に渡る場合、劉聖公の目に触れることになる。迂闊なことは書けなかった。





 更始元年(西暦二十三年)十一月。 

 南に帰る左武を見送り、文叔ら一行は邯鄲を出て北に馬を向ける。

 途中、常山太守の鄧偉卿に会い、さらに北の真定国、中山国の盧奴(ろど)に至ったとき。


 十二月。邯鄲で、成帝の落胤、劉子輿(りゅうしよ)が挙兵し、漢の天子を自称した。真実、成帝の子であれば、それこそ漢の正統である。


 河北は瞬く間に、草木が靡くように劉子輿の支配下に入った。

 つまりそれは、文叔とその一行が、河北では逆賊に転落したということ――。




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