死生契濶
死生契濶 與子成説
執子之手 與子偕老
于嗟濶兮 不我活兮
于嗟洵兮 不我信兮
――詩経・国風・邶風・撃鼓
宛に着いた劉文叔ら一行は、まっすぐ皇帝・劉聖公のいる皇宮に向かった。
宛はかつての南陽郡の郡治。郡府がそのまま、宮殿に転用されている。皇帝の居宮としては規模も何もかもお粗末ではあるが、差し当たって、宛にはこれ以上大きな建物がない。宛の城自体は、王莽時代、長安の東市、西市、そして洛陽、邯鄲、臨淄、成都と並んで市に五均官が置かれた、全国でも五指に入る大都市ではある。ただ、半年に及ぶ包囲戦の末に、叛乱軍に陥落してまだ、一月にもならない。郡府の指示で宛の城郭を守り、あくまで叛乱軍に対抗したもとの郡吏、政府側についた市民などは、〈漢〉軍に捕らえられ、殺されるのではないかと、戦戦兢兢としていた。
宛陥落から一月も経たないうちに起きた、更始帝・劉聖公による大司徒・劉伯升の粛清は、政権内部の対立とひずみの結果である。政権の中枢部は緑林軍出身のならず者に占められ、一触即発の危険な空気に満ち満ちていた。その殺伐とした宛の政権に、劉文叔は帰還したのである。
「皇帝陛下より太常偏将軍を拝し奉る、南陽舂陵の劉文叔! 昆陽より宛城に帰還した! 陛下への取次を請う!」
名ばかりといえ九卿の一人、太常官と偏将軍号を持っている文叔は、皇帝の至近である「禁中」に入る資格がある。だが、文叔の周囲の者たち、大司徒護軍の朱仲先や潁川郡出身の傅子衛、王元伯などは、本来、禁中に入ることは許されていない。
しかしながら、政権中枢部を占める緑林出身の諸将は、そういう細かい規則を理解できないし、理解したとしても行儀よく守ったりはしない。文叔は朱仲先と目で合図すると、そのまま配下を率いて劉聖公のいる内殿に殿上した。
――もし、ここで斬られるならば、その時は一矢でも報いるのみ。
戦時色の強い殺伐とした宮殿を、武装のまま文叔は進んだ。
「文叔じゃないか!」
回廊の途中でいきなり声をかけられ、文叔の足が止まる。朱塗りの柱の陰に立つのは――。
「李季文――」
劉伯升を讒言して死に追いやったのは、李季文と朱長舒だと聞いていた文叔は、形のよい眉を顰める。
李季文は宛の出身で、文叔兄弟に挙兵を勧めた李次元の従弟、つまり挙兵以来の仲間であり、昆陽では百万の包囲を突破した十三騎の一人。――もっとも信頼すべき戦友のはずだが。
だが、朱仲先が言う通り、李季文が伯升を讒言したというなら――。
「久しぶりじゃねえか」
「ああ――」
文叔の背後の朱仲先が露骨に緊張しているのがわかる。朱仲先は意外と直情的なところがある。彼は劉伯升とは幼馴染、一緒に長安にも遊学して、文叔よりもむしろ伯升と仲がよかった。伯升が最側近とも言うべき、護軍に任ずるほどに。
「文叔、気を付けろ、李季文が伯升を売ったんだ! お前も売るかもしれんぞ!」
朱仲先の言葉に、文叔が黒い瞳でじっと李季文を見た。
「兄貴が、死んだと聞いたが――」
李季文が眉を顰め、言った。
「俺にとってもあいつは昔馴染みだ。でも、聖公――じゃなくて、皇帝陛下にああもはっきり対立したら、無理だ。伯升は皇帝の権力ってのがわかってなかったんだ」
「同じ一族内で誅殺されるなんて、一族の者はなんと――」
文叔が問いかけたところに、回廊の奥から来た一人が、文叔に気づいて駆けよってきた。
「文叔ではないか!」
「子琴にいさん!」
恰幅のいい腹をゆすりながら、息を切らしてやってきたのは文叔の族兄(同族で世代が同じだが年上の者)の劉子琴だ。劉聖公の従兄にあたる。李季文が文叔の耳元で囁く。
「子琴は聖公とことに仲がいい。伯升の後任の大司徒だ。――無能だがな」
劉子琴は中年を過ぎた今でこそ、そこそこ穏やかそうな田舎の親父然としているが、若い頃はかなり苛烈な性格だっと聞いている。そして従兄弟である劉聖公とは、極めて強い絆で結ばれている。
それは復讐も辞さない血の絆だ。
子琴の父親は早くに亡くなり、子琴兄弟は伯父の劉子張、つまり劉聖公の父親に引き取られ、聖公とは兄弟同然に育った。天命が王氏に移り、劉氏の列侯は爵封を奪われ、舂陵国は蔡陽県の一部となる。蔡陽県のとある亭長に侮蔑された劉子張は、亭長を刺し殺してしまった。この時は地縁に勝る劉氏が郡府に賄賂を贈って事なきを得たが、十数年の時を経て、殺された亭長の息子が父の仇を報じて、劉子張の息子・劉騫(劉聖公の弟)を殺害した。今度は、子琴の兄・劉顕がその仇を報じようとして殺人事件を起こし、官吏に捕らえられて獄中に死んだ。子琴は兄の子・劉信とともに私財を投じて賓客を集め、おおもとの、劉子張を侮辱した亭長の家に殴り込みをかけて、その妻子四人を焼き殺したのである。
当時の南陽豪族も、一皮剥けば任侠とほとんど変わらない。いや、そもそも任侠とは、非血縁者同士が擬制的な血族として「義」やら「侠」やらを紐帯に結びついた集団に他ならない。まず血族集団が存在して、それの擬制的なものとしての任侠が生まれたのである。親族が殺されれば一族挙げて報復に走り、相手を殲滅するまで報復の連鎖に陥る、その血なまぐささがヤクザの抗争さながらなのも、そもそもこちらが大元だからだ。同じ舂陵劉氏の中でも、劉聖公や劉子琴を出した分家は特に無頼との親和性が高い。劉子琴はそんな、一族に対する忠誠と愛情が強い男であった。
「……文叔、伯升のことはすまん。たまたまわしが席を外していて……話を聞いて、聖公を止めようと駆けつけたが、間に合わなんだ」
子琴は素直に、文叔に頭を下げた。
「兄の仇を討ちたいという気持ちはわかる。わし自身も兄の仇を討ったことがある。だがここは、わしの顔を立てて堪えてくれんか」
文叔はどう返答すべきか迷い、黙っていた。――そうだった、子琴は兄の仇討ちで、ほぼ無関係な亭長の妻子四人を殺しているんだった……。
実のところ、兄・劉伯升の仇を討ちたいという気持ちはあまりない。死んでくれとまでは思わなかったが、特に哀しくもない。思っていたよりもはるかに、自分は兄のことが嫌いだったらしい。
しかし兄を殺したのは同族の皇帝・劉聖公で、逆らえばこれ幸いと自分も殺すだろうと思われた。兄の仇を討とうとしないことも、批判を浴びるかもしれない。
「僕には事情がよくわからないし――兄は、何か聖公……いえ、皇帝陛下の意に逆らうことを言ったのですか?」
文叔の問いに対する劉子琴の答えは、数日前に朱仲先から聞いたものと大差なかった。
「……兄に大過があったならば、むしろ僕の方から、陛下に詫びねばなりますまい。それを、子琴にいさんと李季文が取りなしてくれるなら」
文叔の言葉に、劉子琴は初めて、李季文がその場にいることに気づいた。
「や! 李家の! だいたい、おぬしと朱長舒が、聖公をそそのかしたのではないか! 同族同士で殺し合いなど、わしがいたらやめさせたものを!」
「俺のせいにする?! だいたい伯升の野郎が、誰彼構わず威張り散らしてたんが悪い!」
伯升にも落ち度があっただろうことは、劉文叔も確信するところであった。だがここで劉子琴に出会えたのは幸運だと、文叔は心から思う。
弟の仇を討ってくれた恩もあり、劉聖公は劉子琴には頭が上がらない。
劉子琴は戦争については全く無能で、負けてばかりだが、少なくとも今は文叔の命綱であった。
劉文叔の登場に、玉座の間は張りつめたような緊張に包まれる。
皇帝・劉聖公が殺した劉伯升の、弟。昆陽で百万の敵を潰滅させた立役者であり、〈漢〉軍中、随一の戦巧者。
二十九歳になる劉文叔は、高祖劉邦以来、劉氏の男に受け継がれた面長で彫りの深い顔だち――つまり龍顔――をしている。兄・劉伯升も、そして更始帝・劉聖公とも共通したそれは、太く立派な眉、通った鼻筋、やや大きな口と、一つ一つの顔のパーツがはっきりしていて、一歩間違えるとやたら濃くて暑苦しく、野性味の勝ちすぎた「くどい」容姿に陥りがちなのだが、劉文叔は奇跡とも言うべき絶妙なバランスでパーツが配置されて、絶世の美男子とも言える美貌であった。
夏の野戦に鍛えられ、日に焼けた肌。形のよい眉。やや大きいが下品にはならない口元。黒く輝く瞳でまっすぐに壇上の皇帝・劉聖公を見上げる。
壇上に設えれた天子の座から、劉聖公は劉文叔を見下ろす。三十の半ば、中年に差し掛かりつつある劉聖公より、劉文叔は数歳若い。常に兄・伯升の陰に隠れ、挙兵の前にはただ大人しくて働き者という評判であった。若い時分から無頼の世界に身を投じていた聖公からすると、泥臭い畑仕事に勤しみ、しみったれた暮らしを厭わない弱い負け犬。無頼を気取って舂陵を闊歩していた劉伯升も十分、生意気だと思っていたが、粛々と働いて郷里の爺さん、婆さんの評判を稼いでいたらしい、劉文叔みたいな奴は一番、嫌いだった。
(なんだか知らんが、ムカつく)
劉伯升に対しては、単純に皇帝の座を巡って争ったライバルであり、目の上のたん瘤だった。一方の劉文叔は、これまで兄の陰に隠れ、ほとんど表に出なかった。たまに見ると、えらく顔のいい男だなという程度。南陽一の富豪・陰氏の娘で美女と評判の女と婚約したと聞き、さては顔で誑かしたかとさらにムカついていたが、郡大夫に奪われそうだと聞いて、内心、ザマアミロと思っていた。その程度の認識だった。
それが、大きく変わったのが、この六月初めの昆陽の戦い。
未曾有の大軍は、昆陽の野に未曾有の屍を曝し、潰滅した。
残ったのは、作戦を立案し、実行に移して百倍の敵を破った武神の如き男の名、劉秀と、讖文。
――劉秀 兵を発して不道を捕らえ、四夷雲のごとく集い、龍は野に闘う。四七の際、火 主と為る。
自分が天下の主になる、その前に立ち塞がるのはこの男じゃないのか?
劉伯升に気を取られ、その背後に潜む、もっと危険な男に気づかなかかったのでは。
後顧の憂いを無くすためにも、今のうちに殺してしまうべきなのかも――。
〈先んずれば人を制す〉。劉聖公は劉文叔を殺す命令を出そうと、目を細め下唇を舐めた。
だが――。
「聖公、いや、皇帝陛下。伯升の件はどうにもならんかった。だが、これ以上、一族内で殺し合うべきじゃない。わしの顔を立てて、ここは丸く収めてくれんか」
義理人情に篤いだけが取り柄の、従兄の劉子琴に言われて、聖公は眉を顰めた。聖公の父の敵討ちで、弟の劉騫が殺され、その仇討ちのために、劉子琴の兄が官憲に殺され、結局、子琴と甥の劉信で弟の仇を討ってくれたのだ。従兄ではあるが、兄弟同様に育ち、兄弟よりも強い絆と恩義がある。――子琴の頼みは断れない。
「そうは言ってもな、子琴。俺はこいつの兄貴を殺したわけだし――」
劉聖公が目を眇めて文叔を見れば、文叔はその場に両膝をついて叩頭した。
「兄が、無礼を働いて申し訳ございません」
兄を殺された男が、兄を殺した男に向かい、額を擦りつけて詫びる。その姿に、周囲にざわめきが広がる。ヒソヒソ……兄を殺されたのに……腰抜け……いや、皇帝だから……。
ふいに、妙な高揚感が襲ってきて、劉聖公はガハハハッと大笑した。
「そうか、兄の非を認めるか。だが俺を恨まなのか?」
「兄は至尊である陛下の御意に逆らい、誅された。それに対し、一臣下である私が恨むなどと。兄の葬儀も行う予定もなく、喪にも服しません」
はっきり言い切った文叔に、その場はさらに驚愕した。
肉親の死にあいながら、葬儀も服喪も行わない。あくまで劉聖公の一臣下として兄の死を受け入れる意向を示した文叔に、劉聖公は彫りの深い顔に蕩けるような笑みを浮かべる。
(なんだよ、やっぱり顔だけの腰抜けかよ――)
脇に立っていた李季文も、友人のために取りなした。
「文叔は昆陽の立役者。兄貴の無礼を埋め合わせるだけの功績があります」
「そうだな。……まあせいぜ、兄貴の分まで忠義に励んでくれ」
劉聖公は今回は、劉文叔の粛清を見送った。
「本当に葬儀もしないのか?」
回廊を出口に向かいながら朱仲先に尋ねられ、文叔は淡々と答える。
「罪人の葬儀なんて出せるわけないだろ」
「文叔、しかしだな――」
回廊の柱の陰で待っていた、兄・伯升の下僚だった男が駆け寄ってくる。
「文叔殿、わかっておりますぞ? 表向きあのように言っても、兄上のご無念、さぞや――」
文叔はしたり顔で寄ってくる男の、顔の前に掌を突き出し、それ以上の口を封じた。
「失礼する。陛下の前で口にした通りのこと。弔問も不要です」
すげなく通り過ぎる文叔を、男は茫然と見送る。
「文叔、お前、本気で――」
「葬式で兄貴の息のかかった奴らなど集めてみろ。謀反を疑われるぞ?――聖公は子琴の意見を飲んで僕を許したが、たぶん、内心では殺すつもりだった。その方が、後顧の憂いがない。おそらく今頃、朱長舒あたりが僕を殺せと聖公に説いてるだろう」
最近、劉聖公に接近している朱長舒は、どういうわけか兄・伯升を目の敵にしていた。文叔もついでに始末したいと思っているだろう。
(だが、李季文もいたのに――)
すっかり劉聖公の寵臣に成り下がった李季文に、文叔は複雑な気分になる。
不良の李季文は、たしかに伯升と馬が合わなかった。でも、文叔とは意気投合して、昆陽ではともに死線をかいくぐったのに――。
せかせかと速足で回廊を横切り、なんとか皇宮の外に出た時は、ホッと溜息をついた。
「これから、どうしますか?」
王元伯に尋ねられ、文叔が言う。
「潁川から戻ったら、陰麗華と婚礼を挙げる予定にしている。予定を通り、今夜にも婚礼を挙げたいと、陰家に伝えてくれないか」
さすがに、王元伯も朱仲先も、そしてずっと黙っていた傅子衛までが息を呑んだ。
「正気か?! 伯升の死は、陰家だって当然、知っている。そんな時に婚礼だなんて! 非常識だ!」
朱仲先が叫ぶが、文叔は決然と言う。
「さっき、聖公にも言った。服喪も行わないと。ならば予定通り娶らなければ」
「しかしだな!」
兄・伯升の護軍だった朱仲先には到底、許しがたいのだろう、断固反対する朱仲先の説得を諦め、文叔は王元伯に言った。
「あそこの兄貴も許容しないかもしれないが、説得してくれ。この機会を逃すと――」
この機会を逃すと、結婚できないかもしれない――。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
なぜ、そう思うのか。
自分が死ぬのか、あるいは陰麗華が他に心を移すのか。
もし、自分に死が近いのなら、婚礼は挙げない方がいいのかもしれない。いや、ダメだ。陰麗華のお腹には文叔の子がいる。今、婚礼を挙げなければ、子の生まれ月を誤魔化すのも難しくなる。それに――。
陰麗華は、自分のものだ。兄の死の直後に、非常識だろうがなんだろうが、名実ともに夫婦になっておかなければ、彼女を永遠に失うような気がしてならない。絶対に、それだけは――。
文叔は陰家に向かう王元伯の背中に祈った。
この非常識な婚礼を、陰家と陰麗華が受け入れてくれますように――。
突然の申し入れに、陰次伯も陰麗華も躊躇ったらしいが、王元伯の説得に応じて宛の当成里にある、劉家へとやってきた。
陰次伯は苦虫を噛み潰したような表情している。陰家は南陽でもダントツの大富豪。その令嬢が、まともな準備もなく婚礼を挙げるなんて、異母妹を溺愛している次伯には耐えがたいに違いない。だが、事は逼迫していた。劉聖公に対し二心がないことを示すためにも、敢えて兄の喪に服さず婚礼を挙げなければならない。呼び出されてやってきた、媒酌人の鄧偉卿も、ほんの数人だけの式に眉を顰めた。
劉伯升の護軍であった朱仲先は出席を遠慮し、劉家に住む妹の伯姫もまた、兄の死の直後の婚礼なんてとんでもないと、怒り心頭だった。長姉の劉君黄は夫の胡珍が体調を崩したため、湖陽の家に戻っている。他の出席者は、文叔の配下である、馮公孫、王元伯、そして傅子衛だけだ。
ただし、伯姫は「陰麗華が可哀想すぎるから」と言って、裏方の差配だけは引き受けてくれた。
「兄さんのためにやるわけじゃないわ。婚礼は女にとって、人生で一番大事な儀礼なのよ? それをこんな風に済ますなんて、彼女が可哀想過ぎるわ!」
伯姫の言うことはもっともだと、文叔だってわかっている。だが――。
文叔は不安だった。玉座に座る劉聖公のあの目。間違いなく、あの男は劉文叔を殺してしまうつもりでいた。劉子琴が止めなければきっと――。
(あいつの気がいつ、変わるかわからない。兄の喪中だからと先送りにしたら、陰麗華を永遠に失うかもしれない。それだけは――)
突然のことに、まだ心の準備ができないのか俯いていた陰麗華が顔をあげ、言った。
「婚礼を挙げることが、文叔さまにとって、必要なのですね?」
まっすぐに見つめてくる黒い瞳が潤んで、揺れる。文叔はその儚げな様子に胸が痛くなり、思わず彼女の手を取った。
「ありがとう。済まない……」
そうして、まだ婚礼の準備も整わないことに気づいて、文叔は思いつく。婚礼の六礼も全部、すっとばしてしまった。でも、最後の〈親迎〉礼だけでも――。
そう告げると、陰麗華も周囲の者も聞き返す。文叔は礼の文言を口走った。
「『一たび之と斉しくなれば、終身改めず。故に夫死すとも嫁がず、男子は親迎す』。〈郊特牲〉の言葉だよ。……僕は、生涯、陰麗華一人を妻とすることを誓って、〈親迎〉の儀式だけはしたい」
〈一たび之と斉しくなれば、終身改めず〉――この言葉を、後に文叔は幾度、苦々しく思い出しただろうか。彼が恋い焦がれ、生涯を捧げようと決めた女性は、その後の生涯にわたって陰麗華ただ一人だけだった。長い初恋と孤独な日々を終わらせ、陰麗華と結ばれる。生涯ただ一人だけとの誓いを、自身が破ることになる未来なんて、その日の文叔には想像もできなかった。
陰麗華を車に乗せ、新郎自ら手綱を執り、宛の街を一回りする。再び帰り着いた当成里の劉家の門。陰麗華を抱き上げ、足を地につけることなく、家の中に運び入れる。
わずかな列席者の前で、腕を絡めて杯を煽り、終生の契りと為す。
夫婦になれば、引き裂かれることはないと、どこかで思っていた。
妻にしてしまえば、奪われることなどないと思っていた。
夫である自分が、彼女を裏切ることなど、あり得ないと思っていた。
大地を別つ大きな河が、二人をかくも長く、かくも遥かに引き裂くことになろうとは。
幾度も繰り返した誓いを自ら無残に踏みにじり、ただ一人の愛する女をかくも傷つけることになろうとは。神ならぬ身の文叔には、知り得ぬことだった。
死生契濶
子と説りを成しぬ
子の手を執り
子と偕に老いんと
于嗟 濶かなり
我と活きず
于嗟 洵かなり
我と信さず
生涯を共に生きると約束し
君と契りなした
君の手を取り
君とともに老いていこうと
ああ こんなにも離れ離れになり
君と生きることもできそうもない
ああ こんなにも遠くにあって
君と死ぬこともできそうもない
李季文:李軼
朱長舒:朱鮪 *朱鮪の字、一説では伯然だが、墓誌から朱長舒を採る。
劉子琴:劉賜。劉聖公の従兄。第五章「忘憂草」で文叔の結婚の噂を大声で話した空気の読めない親父。間章五「目には目を」で関中から命からがら南陽に帰りついた劉聖公の妻・趙夫人と子供たちを保護し、翌年、洛陽に連れてきた。肉親愛には溢れているが軍事的才能には欠け、劉聖公が長安に行ったあと、宛を任されていたが維持できなかった。




